早朝の澄んだ空気を胸一杯に吸い込み走り出す。
母マリアンヌからの一方的な暴力に屈し、この身を鍛えることを決意した俺は、まず基礎トレーニングを開始した。と言っても体力作りの為のジョギングと簡単な筋力トレーニングだが、どんな戦い方をするにも体力は必須だった。
特に今後KMFに関わり、騎乗する事を視野に入れた場合、身体能力はかなり重要となる。
長時間の操縦は肉体への負荷が極めて高いことは実体験として知っている為、早めに対処しておいて損はないと考えた。
一般兵であろうとラウンズであろうと資本は体だ。
だが実際に体を動かしてみた感想は複雑だった。
既に鍛えられていたリリーシャの身体能力は想像以上に高く、年齢を考えれば完成されていると言っても過言ではない。
認めたくはないが18歳当時の俺の身体能力を上回っている可能性がある。
無駄のない筋肉の付き方をした身体は軽くしなやかで、それでいてスタミナも十分に備わっているのか簡単に息が切れることもない。
過去を振り返り少しだけ憂鬱な気分になった事は内緒だ。
ただ、余計な手間が省けてありがたい、とは素直に喜べる話ではなかった。
戦う為、言い換えれば敵を殺す為に鍛え上げられた身体。
そこに至るまでの過程が容易なものでなかった事は想像に難くなく、ほんの僅かだが実体験として実感させられた。
改めてリリーシャの現実を突き付けられる。
閃光のマリアンヌによる強制的な能力開発。本来なら10歳にも満たない少女が耐えられる仕打ちではなかったはずだ。
本当に強いな、リリーシャは。
そんな彼女の強さがユフィに影響を齎したとすれば、もう責め続ける事は出来なかった。
「殿下、少しペースを落とした方がよろしいかと」
斜め後方を追走する護衛が──どこか緊張しているような声音で──恭しく声を掛けてくる。
きっとのその表情も強張っているに違いない。
いくら安全が確保された離宮の敷地内、それも城館の近くだとしても、皇女であるリリーシャが館外を一人で出歩くことは難しく、当然護衛を伴う必要がある。
もちろんその目をかい潜ることは可能だったが、騒ぎになり後々衛兵達が処分されるようなことになっては目覚めが悪い。
常に監視を受けることは不快に感じるが、この程度で問題を起こすわけにもいかず、目的を達する為にも立場上仕方のないことだと諦めた。
そこで妥協案として、専属の護衛にこの男を選んだ。
「私は大丈夫だよ、ジェレミア」
そう、後のオレンジことジェレミア・ゴットバルト。
ゴットバルト家を継ぎ辺境伯となる彼も、今現在は士官学校を出たばかりの新人軍人であり、このアリエス離宮の警備が彼の初任務となる。
皇族への忠誠心が高く、また閃光のマリアンヌの信奉者であった彼にとって、今回の任務に対する意気込みを推し量ることは容易い。
その結果、将来有望だった彼の人生もまた、第五后妃暗殺事件を機に大きく歪められてしまう。
ただアリエスの離宮勤務時代のジェレミアについて俺の記憶は曖昧だ。
あの男のギアスの影響なのか、それとも単に関わる機会が無かった為、印象に残っていないのかは定かではないが。
明確に初めて会話を交わした記憶は、やはり枢木スザク強奪事件の時だろう。
スザクを助ける為だったとは言え、オレンジ疑惑により再び彼の人生を歪めてしまい、以降周囲からオレンジの蔑称で呼ばれるようになってしまった。
その事実を、彼の想いを知った後に少なからず後悔した。
本人が最終的に忠義の名と言ってくれたことは救いだ。
しかしあの時、適当だったとしても、ストロベリーやチェリーとか言わなくて本当に良かったと改めて考える。
ストロベリー君だと語呂が悪く、後者だと意味が変わってしまう。
何故オレンジという単語を口にしたのか自分でも分からないが、名付けの神が降りてきたに違いない。
前の世界では紆余曲折の果て、スザクのナイトオブゼロに次ぐナイトオブワンとして、悪逆皇帝の騎士となり、ゼロレクイエムの瞬間まで俺に忠を尽くしてくれた。
ジェレミアが最後まで協力してくれた事には感謝している。
だからこそ新たに始めた身勝手な戦いに、再び彼を巻き込むべきでない事は理解している。
この世界の彼にはヴィ家の呪いに囚われることなく、自分の夢である帝国最強の称号=ナイトオブワンを目指してもらいたい。
けれどそんな感情論とは別に、アーニャの時と同様、味方に引き入れることが出来るなら、しておきたいという思いが首を擡げていた。
ジェレミアの潜在能力が高いことは知っている。
純血派を結成し、まとめ上げるだけの統率力。
ラウンズクラスに匹敵すると言われたKMFの操縦技能。
そしてギアスキャンセラーを発現するギアス適性に、次期辺境伯という地位と権力。主君に対する高い忠誠心もプラスされる。
愚直な性格さえ上手くコントロールできれば間違いなく有能な人間だ。
だが、敬愛する閃光のマリアンヌが存命の現在、そして暗殺阻止に成功した場合、残念ながら彼が俺に絶対の忠誠を誓う可能性は限りなく低い。
前の世界で彼が俺に忠誠を誓った最大の理由は、警護対象であった彼女を護れなかった後悔であり、彼女の外見的特徴を色濃く受け継いでいる遺児だからという要因が大きいだろう。
「しかし殿下。先日も体調を崩し、一時床に臥せていたと侍女から聞いております。
無理をされてはお身体に障ります。どうかご自愛を」
もちろんその理由は言うに及ばず訓練という名の虐待だ。
努力の成果と呼ぶには日が浅いが、回を重ねる毎に戦闘時間は延びている。
リリーシャの身体に馴染み、スペックを完全に理解したからなのか。
それとも抗う覚悟、気の持ちようか。
結局最後は意識を失い、自室のベッドの上で目覚める事になるのは相も変わらずだが……。
最後まで意識を保ち、対等に戦えるようになるまでには、一体どれだけの歳月が必要となるのかを考えると気が遠くなる。
「心配性だね。でもありがとう、その心遣いは素直に受け取っておくよ」
ジェレミアが向けてくる視線は、どこか妹の身を案じる兄のような眼差しだった。
俺がナナリーに向ける視線と同様のものか。
ただ、逆に向けられると少しくすぐったい。向けることはあっても、向けられることには慣れていない。
兄弟姉妹や親族が争うことが当然という家庭環境のため、無意識の内に裏があるのではと考えてしまうのが最大の理由だろうか。
確かジェレミアには年の離れた妹が居たはずだ。
もしかしたら俺=リリーシャに彼女の姿を重ねたのかも知れない。
「勿体なきお言葉です」
「ところでジェレミア、貴男に兄弟は居るの?」
「はい、妹が一人。畏れ多くも殿下と同じ名を戴き、妹も大変光栄に思っております」
リリーシャ・ゴットバルト。
直接の面識はなかったが、前の世界でジェレミアから話は聞いていた。
兄妹仲は良好。
兄の背中を追って軍学校へ進み、優れた成績を残す。
だが兄であるジェレミアが──ブリタニア軍による日本解放戦線の本拠地に対する侵攻作戦こと──ナリタ攻防戦において、
それに関しては責任を感じないこともない。
貴族制度の廃止に際しては、ジェレミアを特使として派遣したことが功を奏し、ゴットバルト辺境伯領では大きな混乱は起きなかった。
自分の境遇と重ね合わせ、兄妹で殺し合うような事態に発展しなくて本当に良かったと思う。
また幸いな事に辺境伯領は帝都から離れている為、フレイヤ投下による直接の影響を受けることもなかったようだ。
「そう、だったら一度会ってみたいね」
それは本心だ。
現在同じ名前を名乗っている以前に、ジェレミアの妹というだけで興味がある。
兄に似て堅物なのだろうか?
この世界では是非一度会ってみたい。
「そのお言葉を妹が聞けば、どれほど喜ぶことでしょうか。妹は本当に果報者です」
そう言ってジェレミアは嬉しそうに笑みを浮かべる。
その顔を見ていると、何故か俺まで嬉しくなった。
少しでも罪滅ぼしが、いや恩返しが出来ればと思う。
「大げさだよ。それでどんな妹さんなのかな?」
「少々身内贔屓になりますが、私に似ず可愛い妹です。何でもこの前届いた手紙では、今期の最優秀生徒候補に選ばれたとか。兄として鼻が高い話です」
照れ臭そうに、それでも自慢げに妹を語るジェレミア。
本当に妹思いだと伝わってくる。
その姿に羨望を抱いている自分の存在を自覚して自嘲する。
「それは何よりだね。でも私から見て、貴男も十分に優秀で格好いいと思うよ、ジェレミア。自信を持つと良い」
「っ、お戯れを。そのような過分の評価、この身には恐れ多いと存じ上げております」
必死で否定するジェレミアの姿に、少しばかり悪戯心が沸き上がる。
彼自身、もう少し自分の価値を理解した方が良い。
「過ぎた謙遜は嫌みに聞こえるから気をつけた方が良いと思うのだけど。
ああ、それとも私が嘘を吐いていると言いたいのかな?」
悪戯っぽく笑みを浮かべ、ジェレミアの顔を下から覗き込む。
「い、いえ。滅相もありません。その……大変光栄です」
予想した通り、若干照れた様子で視線を逸らすジェレミア。
本当に弄り甲斐がある。
「ふふっ、それでよし」
たわいもない世間話を交えながらジョギングと筋力トレーニングを終え、最後にジェレミアから剣術の稽古をつけてもらう。教え方がとても上手く分かりやすい。軍人よりも教師に向いているのかも知れない。と、アッシュフォード学園で教鞭を執るジェレミアの姿を想像して苦笑する。結構似合っているじゃないか。
それに比べて母マリアンヌの訓練は常に実戦形式であり、手加減をしているとは言え、見て覚える暇もない。
彼女が古代ギリシアのスパルタ出身だとしても驚かない自信がある。ペルシア軍涙目だな。
自主トレーニングを終えて城館に戻ると、タオルとスポーツドリンクを手にしたアーニャが出迎えてくれる。差し出されたタオルで汗を拭い、遠慮なくスポーツドリンクで喉を潤した。
その後、ジェレミアに礼を言って別れ、アーニャと共に自室へと歩みを進める。さすがにこの格好のままダイニングルームに向かうわけにはいかないだろう。
自室に戻るとすぐにシャワーを浴びて汗を流す。火照った身体に冷ための水が心地良い。
ただシャワーの後に髪を乾かすのが面倒だ。アーニャに手伝ってもらっているとは言え、どうしても時間が掛かる。
思い切って短くしようとも思ったが、せっかく綺麗な長い髪なので勿体なくて憚られた。
髪は女の命という言葉もあるし、何よりリリーシャの魅力=武器の一つでもある。切れるカードは多いに越したことはない。
それにアーニャにも強く反対され、取り敢えずは現状維持だ。
髪を乾かし終えると、いつもの黒いドレスに袖を通してダイニングルームへと向かう。
ダイニングルームの前でアーニャと別れる際、彼女が「……またね」と言って小さく手を振る姿が愛らしいと常々思う。
ああ、癒される。
それでも今後の事を考えるとすぐに憂鬱な気分になった。
俺は意を決め、ダイニングルームの扉を開け、室内へと足を踏み入れる。
ダイニングルームには母マリアンヌの姿しかなかった。既にルルーシュとナナリーは朝食を終えているらしい。
ナナリーと触れ合う時間が減ったことを残念に思う一方、顔を合わせても気まずい空気にしかならない為、会わなくて良かったとも思ってしまう。ナナリーの怯えた目は未だに俺のハートを抉ってくる。
母マリアンヌの視線を受けながら俺は少し遅めの朝食に手を伸ばす。
自主トレに関して彼女が知らないはずないが、それについて特に何かを言ってくることはなかった。
容認していると考えて間違いない。
だったらその視線の理由は何だ?
朝食時間に遅れたことを責めているわけではないだろう。
今日が初めてという訳でもなく、初回ですら注意らしい注意は受けなかった。
「私の顔に何か付いてるのかな、母様?」
「ううん、そうじゃないわ」
「だったらどうしたのかな?
そんな熱い視線を向けられていては食事に集中できないよ。まさか閃光のマリアンヌ様は私に惚れてしまったとでも?」
母マリアンヌは俺の皮肉混じりの問い掛けに、よくぞ聞いてくれたと言いたげに笑う。
「実の娘との禁断の愛か……悪くないわね。でも残念ながら違うわ。そもそも貴女が生まれた瞬間から、私は貴女に惚れているもの。もう愛しまくりね」
戯れ言を口にしながら、同性が羨む豊満な胸を張る母マリアンヌの姿に、遺伝子的にこの身体もあれぐらい成長するのだろうか、また肩が凝るというのは本当なのか等と考えつつ軽く受け流す。
「ねえ、リリーシャ。今日お母さんとお出かけしない?」
本題は突然の外出の誘いだった。
リリーシャとして目覚めてから初めての事であり、俺は困惑する。
というか嫌な予感しかしない。
だが断るという選択肢を俺は持ち合わせていなかった。
何より断ったところで意味はないだろう。問い掛けては来ているが、既に母マリアンヌの中では今日の予定は決定事項となっているに違いない。
ここで逆らってもメリットは一つもない。
しかし、相手は閃光のマリアンヌ。単純に親子で買い物という展開にならないことは容易に想像が付く。
「それでどこへ?」
若干の恐れを抱きながら問い掛ける。
果たしてどこへ連れて行こうというのか?
「うふふ、それはひ・み・つ♪」
まるで悪戯に成功した子供のような表情を浮かべる──良くも悪くも三児の母親とは思えない──母マリアンヌの姿に、俺は本日最初の溜息を吐くしかなかった。