昼も過ぎ、夕方へ差し掛かろうという中途半端な時分。誰も居ないエントランスを抜き足、差し足、忍び足。なるべく音を立てぬよう警戒しながら、見るからに怪しさ爆発なスニーキングに勤しむのは金星の主、イシュタル──こっそりと、誰も居ないエントランスを横切っていく彼女の顔は真剣そのものである。
(
見るからに怪しさ爆発、むしろ失笑すら誘いかねないイシュタルのスニーキング。その奇行の理由は、"英霊エミヤについて調べる"という目的のため──というのも、彼女が心の中だけで吐いた悪態の通り、サーヴァント化した時に聖杯から与えられた知識には、"英霊エミヤ"という項目が存在しなかったのである。
それは文字通り、"エミヤ"という英雄は存在しないということ。では、いま現在、カルデアに現界するエミヤというサーヴァントは何者なのか、という疑問が出てくる──ただ、それは問題ではない。何故ならサーヴァントとして召喚される英霊は"伝えられたモノ"と"可能性の具現"。二つの可能性を秘めているからだ。
(聖杯の知識は史実であり記録、つまり過去から現在に至るまでの情報、逸話の具現。それに
ここ数日、イシュタルは聖杯から与えられた知識を隅々まで調べ尽くした。紀元前から現代まで、エミヤという名の英雄の痕跡を探し抜いた。果ては神代、原初の時代から直近の戦乱までも紐解いてみた、しかし収穫はゼロ。"英霊エミヤ"という逸話は、存在しなかったのだ──その結果から、彼女は"英霊エミヤ"は"可能性の具現"であると断定した。
その予想は正しいはずだ、むしろ、そうでないと理屈が合わない。だから、その点について不安はない。それは間違いない、その仮定が間違っていることなど有り得ないことなのだから。では、何が問題なのかというと──"英霊エミヤ"という"可能性"に至る
数十億を越える人間の群れから、その原型となる人物を見つけ出すことなど不可能に近い。いつの時代、どの国に居たのか、ある程度までは絞り込めたとしても──見付け切るには莫大な時間を要するだろう、まさに砂漠へ落ちた針を見つけ出すほどの不毛、もはや絶望しかない。
だが、イシュタルの瞳に曇りはない。
(ふんっ、だから何だってのよ。こちとら幸運ステータスAよ、あと女神補正とかあるもの、きっと見付かる──ううん、絶対、見付けてやるんだから……ッ!!)
と、イシュタルが決意を新たにした頃、どうやら目的地へ到着したらしい。彼女は素早く遮蔽物の影を伝い、身を隠しながら目的地の安全を確かめ、周囲に誰も居ないことを確認すると一気に、目的地へと飛び込んだ──特に遮蔽物もない、ただ机が一つだけ置かれたエントランスの一角へ。
イシュタルの目的、目指していたもの、それは──
丸みを帯びた楕円形の板のようなモノ、真っ黒な大きめのディスプレイ、もはや電子機器の代表格とも言える"タブレット端末"。主に職員が使用する共用端末だが、サーヴァントの娯楽用として置かれている備品だ。
彼女は知っている、これが人間の科学技術の粋を極めた装置であることを。これを使えば、膨大な情報を検索できることも──そう、彼女は聖杯から与えられた知識ではなく、もっと小さな視点を求めたのだ。聖杯が記録するほどの逸話や常識ではなく、いつかの時代で起きた些細な事象を、どこかの国で起きた小さな事件を、時の流れに忘れ去られたはずの"些事"を。
(…………………くっ……ッ!!)
人類の叡知の結晶とも言えるタブレット端末を目の前にして、イシュタルは顔をしかめる。科学という魔術の対極に位置する物、その存在に気圧されていた。重ねて言うが、彼女は"真剣"である──モノ言わぬ電子機器、落下の衝撃で壊れるほどに脆い精密機械の集合体を、まるで親の仇のように睨む彼女。
(大丈夫、知識はあるもの。ええ、タブレットだろうがハムレットだろうが関係あるもんですか……ッ……ええ、っとぉ……そう、まずは電源、電源を入れなきゃね……ッ!!)
どやぁ、と誰も居ないエントランスで誇らしげなイシュタル。とりあえず立て掛けられたタブレットを持ち上げる、ようなことはせず──左から、右から、目を細めて何かを探している様子。おそらく電源ボタンを探しているのだろうが、あいにくと、タブレットのランプを見る限りソレは"待機中"だ。
ブラックアウトしているだけのディスプレイに、「むむむっ」と眉根を寄せる
「……っ……に"ゃ……ッ!!」
瞬間、ディスプレイに光が点る。待機状態から復帰したタブレット端末の挙動にイシュタルは、びくっ、と大きく体を強張らせ、彼女らしからぬ可愛らしい悲鳴を上げた──思わず後ずさる彼女だが、撤退はない。恐る恐る、といった様子でディスプレイへ視線を走らせていく。
(ま、まぁ、画面が出たなら良しよ、良しっ。え、っと……ど、どれを押せばいいのよぉ……なんか小さいのがいっぱいで、何が何だか……ッ……あぁ、もうっ……い、いんたーねっと……ふぁて、ご……よう、つべ……?)
オロオロとした様子でタブレットの画面を睨み付け、とりあえずデスクトップへ表示されたアイコンを読んでいくイシュタル。そうこうしているうちにタッチパネルに反応がない状態が続いたせいで、タブレットのバックライトが落ちた──突如として暗くなったディスプレイ、かなり見辛くなった画面を見て彼女の焦燥感に拍車が掛かる。
(ち、ちょっと、なんで暗くなるのッ!? 電池ッ!? 電池切れッ!!)
タブレット端末の挙動を見て絶句するイシュタル、彼女は電池切れだと思っているようだが端末はドックに載せられたまま。もちろん、画面上部の電池残量アイコンも100%だ──ただタブレット端末が待機モードへ移行しようとする挙動なのだが、そんなこと思いもよらない彼女は、とうとう頭を抱えてしまう。
もはや、軽いパニック状態である。
だから、気付かなかった。
いつの間にやら、"誰か"がエントランスを訪れていたことに──
◆ ◆ ◆
昼食の後片付けを終えたエミヤは、小休止がてらエントランスを訪れた。幸いにも午前、午後、共にマスターから同行の要請がなかったおかげで今日は丸一日がオフ──降って湧いた余暇、特にやることもない彼がサーヴァント達の憩いの場であるエントランスを訪れるのは必然だった。
おかげさまで、というべきか、タイミング悪くというべきか、エントランスへ足を踏み入れたエミヤは先客の姿を見付けた──布地の少ない刺激的な衣装を纏う、艶やかな黒髪を二つに束ねた女性、イシュタルの背中を。
(む、う……あれは……イシュタル、か……)
むうっ、と唸りを上げるエミヤの表情は重い。
その理由は、ここ最近のイシュタルの行動のせい。先日、共に厨房で料理を作ってからというもの、やたら彼女の視線が突き刺さる、と彼は感じていた。廊下を歩いている時も、厨房に立っている時も、マスターと立ち話をしている時まで、だ。
もちろん、それが嫌というワケではない、嫌悪もない。ただ、身に覚えがないのだ。睨まれるようなことをイシュタルにした、という自覚がない──自分が何をしたのか、と彼女を問い詰めるのは簡単だ。しかし、エミヤは理由を聞かない。それでは、根本的な解決にならないと思ったからだ。
とはいえ、身に覚えがない以上、どれだけ考えても彼女の機嫌を損ねた理由は闇の中。いつまでも"こんな状態"を続けるのは非合理的だ、早急に解決すべきなのも分かっている。
しかし──
(ああ、分かっている、分かっているさ。話さないと何も解決しない、分かっているとも──だが、行動に移せない。彼女と話すことを、彼女のことを知ってしまうのを、躊躇ってしまう。何故なんだ?)
エミヤの胸中は、複雑だった。
頭ではイシュタルと話をして、円滑な関係を築くべきだと分かっている。だが心が、魂が、"彼女"との関わりを拒否していた。いや、違う、"あえて遠ざけようとしている"。本当に大事なモノを宝石箱へ入れ、厳重に鍵を掛けるように──
失いたくない、傷付けたくないと──
心が、魂が、イシュタルとの接触を拒む──
(あの時、彼女の指示で料理を作っていた時に感じた既視感も妙だ。初めて会ったはずの彼女に"懐かしさ"を感じるなど、どうかしている──初見の相手を"失いたくない"、"傷付けたくない"、"懐かしい"などと……ッ……これでは、まるで……)
エントランスの入口で棒立ちのまま、思考の迷路に入り込んだエミヤ。ぐるぐる、ぐるぐる、自分自身でも理解できない"想い"は彼を困惑させる──そのまま一秒が過ぎ、一分が過ぎた頃。
「……っ……に"ゃ……ッ!!」
「…………っ…………ッ!?」
遠くから聞こえた、可愛らしい悲鳴によって現実へ引き戻される。ふと声のした方を見れば、オロオロと狼狽えた様子で両手を振り乱すイシュタルの姿──その瞬間、エミヤは、彼女が涙目になっているのに気付く。普通ならば気付くことなどできない、それは彼が持つ"鷹の目"、弓兵に必要不可欠な並外れた視力の賜物。
何が起こったのかは、分からない。
だが、エミヤの体は勝手に動いていた。
寸前まで考えていた思考は、もう頭から抜け落ちている。
跳び、駆け、エミヤはイシュタルへと距離を詰めていく。
心に、魂に、導かれるままに──
◆ ◆ ◆
「どうしたッ!? 何があったッ!?」
「……ッ……んにゃあぁぁぁ……ッ!!」
いきなり背後から聞こえた声に、イシュタルは心底から驚いた。跳び上がらんばかりに大きく、びくんっ、と肩を震わせた彼女は盛大な悲鳴を上げてしまっていた──少しばかりパニックになっていたのも理由の一端だが、それより何より、聞こえた声に驚いた。
「……な……っ……な、なあぁぁぁ……ッ!?!?」
イシュタルの呂律は回らない、心臓が飛び出るほどに驚いたせいだ。誰かがエントランスに居たことに気付いておらず、よりにもよって背後に立っていたのは赤い外套の弓兵──ある意味、今の彼女が最も会いたくない人物である。
「あ、その、すまない。驚かすつもりはなかった、信じてほしい──まぁ、なんだ……そう、悲鳴が聞こえたのでな。何かあったのかと思って、慌てて駆け付けた次第だ」
どうどう、とジェスチャー混じりに落ち着くようエミヤはイシュタルへ言葉を選び話しかけた。しかし彼女には、まったくもって効果がない。「あぅあぅ」と、口から言葉にならない声を漏らすだけ。
そんなイシュタルの様子を見てエミヤは、さしあたり大事ないと察した。身の危険などない、そう判断して──ふと、彼の視界に入ってきたモノがある。おそらく彼女が体を強張らせた時に、机が揺れたせいだろう。再び待機モードから復帰したタブレット端末のディスプレイが、淡い光を漏らしていた。
(ふむ、なるほど……)
エミヤはイシュタルへと駆け寄った要因、可愛らしい悲鳴を上げた理由は分からない。ただ、彼女が立っていたのはタブレット端末の前であったことから、"彼女がタブレット端末の挙動に驚いた"のだろう、と推察した──奇しくも、その推察に間違いはない。
だから、というワケではないが、エミヤはひょいっ、とタブレット端末を持ち上げ、ディスプレイをイシュタルの方へと向けた──さらに彼は指を画面へ滑らし、いくつもの画面を切り替えながら、努めて優しく、問い掛けてきた。
「何か調べモノかね? それとも、暇潰しでも?」
「……ぁ……っ……え、っと……そう、調べたいことがあって……ッ……ッ!!」
目まぐるしく変化していく状況についていけないイシュタルは、なかば反射的にエミヤの問い掛けに答えてしまっていた。調べたいことがある、と。その失言に彼女が気付いたところで、後の祭り。
「ふむっ」と納得顔を浮かべたエミヤは手にしていたタブレット端末を操作し、検索エンジンを起動した。もっともネットワークを用いたものではなく、カルデアのデータベースへ繋げただけだが──どうやら彼は、イシュタルの代わりに端末を操作する腹積もりのようだ。
「で、何を知りたいのだね? 教えてくれたら、私が調べよう」
ああ、やはり。
その言葉を聞いたイシュタルの体温が、一気に上がる。羞恥に顔は赤く染まり、今にも湯気がでそうなほど。だが、それも仕方のないことだろう。なにせ、
もちろん、正直に言えるはずがない。
(お、教えられるワケないでしょうがぁぁぁぁッ!!)
では、どうするべきか?
もはや思考しようにも、イシュタルの頭はショートしてしまっていて上手く働かない。酸欠になった魚のように、口を開閉するだけだ。無論、言葉など出てこない。そんな彼女の様子を見かねてか、エミヤは不思議そうに小首を傾げ──
「大体のことは調べられるぞ、例えば料理のレシピだな。このようなモノが人理修復に必要だとは思えんが、和洋中すべての分野を網羅している──ほかには、そうだな……」
と、苦笑混じりに説明を始めた。さらには素早く指を画面へ滑らせ画面を切り替えていく。その画面も、彼の言葉も、今のイシュタルには見えない、入ってこない──今の彼女の思考は、いかにして"この状況"を切り抜けるか。それしか、考えることができなくなっていた。
もはや、なりふりかまってなどいられない。
そう判断したイシュタルは──
「そ、そうなのよ、ちょっと新しい料理とか、挑戦してみようかなぁ、なぁんて……」
と、苦し紛れの一言を、平静を装いながら絞り出す。
それが、致命傷になるとも知らずに──
そんな苦し紛れの嘘を聞いたエミヤは、「ふむっ」と顎に手を当て何やら思案。たっぷり数秒が経過した時、本当に嬉しそうに、楽しそうに、エミヤが微笑んでみせる。その表情を向けられたイシュタルは、一度だけ心臓を跳ねさせたが──
「では、せっかくだ、私が指南しよう。どうせ今日は丸々オフで、やることもなかったので気にしなくていい。君が納得するまで、付き合おう──そうと決まれば善は急げだ、食堂に行くぞ」
「…………………………………え"?」
一瞬で、血の気が失せた。
さらに一瞬後、エミヤの言葉が頭へ入ってくる。
エミヤは言った、今日は丸々オフだと。指南してくれる、と。イシュタルが新しい料理をマスターするまで付き合う、と──それは、つまり、少なくとも彼女が新しい料理を覚えるまでは"二人っきり"という意味であって。
それを理解したイシュタルの頬が、真っ赤に染まる。
(ち、ちょっと待って、まだ色々と心の準備が……ッ!!)
もはや、逃げる手立てはない。
エミヤはタブレットをドックへ戻すとイシュタルへ向き直り、「先に行って準備をしておく」とだけ言い残し踵を返した。その背中へ制止の言葉を吐こうとしたが、彼女の口から言葉は出ない──エントランスへ取り残されたイシュタルは、暫し放心。頭の中で、数秒前からの出来事を脳内で反芻しているのだろう。
そして、ようやく我に返ったイシュタルは羞恥に耐えかねたのか両の掌で顔を覆う。掌を通し、自分の顔がとんでもなく熱いのを自覚してしまった──だが、覆った掌、その指の隙間から、確かに見える。形の整った口元が、緩やかに弧を描いていたのが。
「……人の気も、知らないでっ……ッ……」
呟きは、今この場に居ない赤い外套の弓兵へ向けて。
望んでなかった、余計なお世話、ありがた迷惑。
なのにイシュタルは、それが嫌ではなかった。
ただ少し、いや、かなり、悔しいだけ。
だから、もう一度だけ──
彼が去っていった方へ視線を向け、一言だけ呟いた──
「…………ばぁか」
と──
ただ近代文明(タブレット)の操作方法が分からず、オロオロするイシュタ凛のメカオンチっぷりが書きたかっただけです(吐血)