夜の八時にかかってきた電話に出た石黒はまず昼の礼を向けられた。レポートを作成する手を止めた石黒は眼鏡をはずしながらたいしたことではない旨を告げる。そうして目頭を指で押さえながら話を聞いていると網膜認証にまで話が及んだ。
無反応だった006が突然目覚めて003を取り戻す。それは感情プログラムの起動と言う可能性を考えれば理解できた。しかし網膜認証ができない理由まではわからない。
「網膜認証ができない理由……既に網膜認証されているということでしょうか。しかしだとしたら彼が魚住さんの元にいるはずがありませんし」
ヒューマノイドは網膜認証した人物を持ち主とする。そして常に持ち主のそばにいて指示に従うようプログラムされている。
もし魚住以外の人間の網膜を認証していたなら、電話先に006がいるのはおかしい。しかし電話の向こうで相変わらず彼はアルコールは無いのかと訴えている。その変わらない声は以前の彼そのものだった。
眼鏡をかけ直した石黒は、電話を続けたまま席を立つ。その足で部署を離れた彼は研究所内を歩いた。
大型装置を備えた作業室に入ると、モニターに大量の数列が流れている。その中央に置かれた座席には徳川がいて、眠そうに頭を揺らしていた。
そしてそのそばの椅子に座る緋田は端末の操作を中断して石黒に顔を向ける。
「僕に用事かい? もし真琴に用だというなら今は無理だよ」
今は充電とアップデート中だからと緋田は悠然とした口調で告げた。そんな緋田を前にして石黒は網膜認証ができない理由について聞いてみる。
「006が魚住さんの網膜認証を試みたところエラーが出てしまったそうです」
「それはそうだよ。彼の右目は003の物を使っているからね。片目は既にあの持ち主の網膜を認証してるんだよ。その認証をリセットしない限り新たな網膜認証はできないよ」
緋田は慌てることも悩むこともなく平然と答える。それを聞いた石黒は自然と眉をひそめていた。
「つまり006は開発中から既に持ち主が決まっていたということですね。ではここの研究員たちと一切言葉を交わさなかったのはそのせいなのでは?」
「持ち主の有無は関係ないよ。自分を否定する人間の言葉なんて聞きたくないだけだからね。もし感情プログラムが機能していたら、反論くらいしていただろうけど」
緋田の説明を聞いた石黒は電話先の魚住のためにわかりやすく噛み砕いて説明する。するとなぜ感情プログラムが突然動き出したのかと新たな質問を向けられた。そのため石黒も、同じ思いで緋田に問いかける。
すると緋田は黄緑色の瞳を細めて笑みをこぼした。
「簡単なことだよ。僕がそのようにプログラムした」
「なぜそんなことをしたんですか。そのせいで徳川がどれほど苦労した事か」
「そうだね。真琴はとても頑張っていた。だけど真琴もあれをナンバーでしか呼ばなかった。君たちは優秀なのかもしれないけど、ヒューマノイドも生きているのだという事を忘れてる。だからあれの名前を誰も呼ばなかった。それだけだよ」
端的だがわかりやすい説明に石黒は返す言葉を失った。
研究員である限り、当然だがヒューマノイドの内部構造を目にする。そして開発段階で失敗したそれを廃棄する事もある。
そうして研究員は次第にヒューマノイドを物としてとらえるようになる。そうしなければ廃棄のたびに心を痛めることになるためだ。
「僕はそういう考え方に嫌気が差してここを離れた。もちろん真琴がいなければ今もここにいることはなかったよ。兄弟を気遣うように必死な真琴の姿は僕の心の琴線に触れるからね」
「……そう、ですね。内部媒体が焼ける寸前まで演算処理を続ける徳川の姿は、焦った人間のそれにとても似ていました」
結局は自分たちが至らなかっただけなのか。そう認識した石黒はどう説明すべきかと考えながら電話口に耳を当てた。
すると電話の向こうから魚住の落ち着いた声が聞こえる。
『だが人として見ないからこそ、石黒はいつも冷静に対処できたんだろ。昼間の事もそうだが、俺はそういう石黒に助けられた。それに物として見てるからって、石黒に思いやりがないなんて思えねぇけどな』
光秀のことをいつも思いやってくれてるからと、言われた石黒の顔が真っ赤に染まる。さらに顔をしかめた石黒は挙動不審なほどに視線を彷徨わせた。
「あなたは少し黙っていてくれますか。俺は真面目に彼についてですね」
誰が見てもわかるほどに照れた石黒を眺めていた緋田は口許を緩めて視線を転じた。そばの座席では先程まで眠そうに頭を揺らしていた徳川が完全に眠り込んでいる。