同刻、東北東の雑居ビル内部。
暗闇の中、二人の魔術師は対峙する。
しかし、この時、相対したセイバーとルーラー、彼等互いのマスターの魔術戦、その趨勢は既に決していた。ぴちゃとルーラーのマスター、イル・バナードの腕を伝った血の雫が床に落ちた。
彼は今も腕を魔術に拠って編まれた銀糸にて締上げられている。腕に絡み付いた銀糸は容赦無く肉に食込み、骨を軋ませる。その右腕は血を滲ませドス黒く鬱血していた。
眼前の少女の胸先三寸で、彼の腕は挽肉に変わるだろう。
元より、セイバーのマスター、アルファと相対した時点で勝敗は決していたのである。
故に、苦しげにイルは繰り返す。
「い、如何です? 私達を買ってくれませんか?」
対するアルファは無表情のまま腕を横に振るった。すると、恐るべき勢いで銀糸が引かれ、イルは肩から壁に激突し、膝を付く。肺の空気と共に、苦しげな呻きを漏らしながら、イルは自らの腕を見る。
彼は笑みを浮かべた。
目の前の少女がその気なら、既に彼の右腕は潰されている筈だ。先程までは確かにそうだった。腕を絞め潰さんと恐るべき力が加わっていた銀糸が今は幾分緩くなっている。仮に、イルが相手の立場であったならば、やはり相手が口を開く前に腕を潰し、否、令呪を奪うべく切断している事だろう。尋問ならばそれからでも出来る。
暴を以って、交渉を有利に運ぶのは基本だが、そこに手心は厳禁だ。
もし加えるとするならば、次の鞭の為の飴で在るべし。
しかし、眼前の少女の選択は、どっち付かずな物だった。
腕を絞め潰すでもなく、解放でもない、幼稚な暴力。
それは躊躇等といった甘い考えに拠る物では決して無い。被造物であるホムンクルスがそんな人並の感覚は持ってはいまい。であれば、態度の意味は明白だ。
彼女は判断を保留した。迷っているのだ。
イルは悟られぬ様に顔を伏せる。そこにあるのは許しを乞う弱者の笑みではない。
「ハズレみたい。結界の主は貴方では無いようね。で、私達、とは?」
少女が言った。イルは顔を上げる。既に表情は毅然とした風を装った物に変わっている。
「く、クク、私とサーヴァントですよ。如何です? 貴方、ラドクリフの魔術師でしょう? ならば、私の令呪は咽から手が出るほど欲しい筈だ。貴方達の戦闘能力に、更に一騎の英霊が加われば正に磐石と――」
「何が目的? それとも今更命乞い? そんな事をして貴方に何のメリットがあるの? 時間稼ぎはいらない。心して、正直に答えなさい。でないと――」
イルの言葉を途中で遮り、アルファは怖気の奔る笑顔を見せる。
「その腕が無くなるわ」
「ぐ、くぅ、ぐが、ガアあァ――!!」
言葉と共に、銀糸の圧力が増した。イルは激痛に堪らず仰け反り、次の瞬間、その視界が反転する。アルファが腕を横に薙いだと同時に恐るべき力で腕に絡んだ銀糸が引かれ、彼の身体は宙を舞ったのだ。
踊り場から階下へ、イルは成す術も無く落下し、その勢いのまま背中から壁面へと叩き付けられる。衝撃と共に、肺の空気がくぐもった音を立てて吐き出され、イルは床へと転がった。懐の中身がぶち撒けられて床を転がる。
「……立場が分かったかしら? 心して答えなさい」
伏せたイルを見下ろし、アルファが言う。全く無機質な声だった。銀糸の圧迫が再び弛む。
「ガ、ゲホッ、ガはっ、く、はは。金ですよ。他意はありません」
暴の気配をチラつかせ、痛みで立場を理解させながらの交渉。
その殺気は本物だった。しかし、イルは眼前の少女がまだ直接的な、最終的な行動を取る気が無い事を確信していた。付近に人払いの結界の主、そしてそのサーヴァントがいる事を彼女は知っている。だから、先程速やかにここから離脱する、と彼女はセイバーに吐露している。にも関わらず、まだ交渉を続けようとしている。
腕を切り取らないのは、ルーラーとの契約を見越しての事だろう。
例え、腕ごと令呪を奪ったとしても、ルーラーが再契約に応じる保証は無い。令呪で言う事を聞かそうにも、腕の魔術回路と一体化した令呪を引き剥がすのには時間が掛かる。その間に、マスターの腕を取り戻そうとするルーラーと戦闘になる危険すらあるのだ。
強がっていても、内心は焦っている事だろう。
荒れ狂うその心中とは裏腹に、イルは脅えた目で媚びた笑顔を浮べる。
「私はしがない商人でしてね。情報、武器弾薬、護符に礼装何でもござれ。今日の目玉が令呪と英霊です。少々値は張りますが、後悔はさせませんよ」
しかし、焦っているのは彼もまた同じだった。
あのセイバーを相手にして、そう長くルーラーが持ち堪えられる筈が無い。彼らにはそれ程の差があった。それこそ一見しただけで解る程の絶望的な戦力差が。
「お金? 万能の願望器を前に、魔術師の宿願を前にして興味が無いと言うの?」
アルファの目が真っ直ぐにイルを覗き込み、互いの瞳がお互いを映し合う。凡そあらゆる感情を顕さぬ怜悧な瞳と、死んだ魚の目。互いの視線が交錯する。
試されている、とイルは察した。
問題は無い筈だった。このホムンクルスは敵手との戦力差が解らぬ程未熟では無い。完全にイルが恐れるに足らぬ、いつでも殺せる手合いである事は理解出来ただろう。そして、彼女の右手の令呪は確認済み。間違いなく透視能力でルーラーのステータスを視ている筈である。
彼女は彼我の戦力差を明確に理解している筈だ。
そして、イルは先程、彼が懐からぶち撒けた礼装や宝石を、少女が目で追った事を確認していた。無論、その際に生じた一拍の思考の間と、一瞬彼から目を切った事もだ。未使用の礼装や宝石は彼の話を裏付け、彼に利用価値がある事を示していた。彼から目を切ったのは恐れるに足らぬという強者の油断だ。
また、彼女は接触によって人払いの結界を張った魔術師がイルでは無いと悟った。姿の見えぬ第三の魔術師、しかもこれ程広範囲に強力な暗示の結界を瞬時に展開出来る程の手練の存在は、彼女に逃げの一手を取らせるに十二分な理由であった筈だ。
増して聖杯戦争序盤、まだ様子見がセオリーの段階だ。自由意思に乏しいホムンクルスであれば、それから逸脱した行動を取ろうとは思うまい。
早くこの場より離脱したい。だが、目の前に差し出された餌は抗い難いだろう。
ラドクリフは是が非でも令呪とサーヴァントが欲しい筈なのだ。
ラドクリフ家が此度の聖杯戦争の為に、複数のホムンクルスを製造すべくその材料を調達していた事は調査済みである。恐らくは彼女に万が一があった際の予備、そして諜報、防衛戦力として使い捨てる腹積もりなのだろう。
それは詰まり、単身で参加している他の魔術師と違い、彼等は他の参加者から令呪とサーヴァントを得る事が出来れば、家長であるノイマンや別のホムンクルスをマスターとして参戦させる事が出来るという事だ。多少危険を犯しても、令呪を欲しがる訳である。
だからこそ、イルは商談相手にラドクリフを選んでいたのだ。
イルは目を逸らさず、笑みを深くする。
「ええ、その通り。全く。元々僕は商人でね。貴方達ラドクリフに他の聖杯戦争参加者の情報を売ろうと訪れたこの街で、偶然令呪が宿りましてね。宿ったこの令呪をどう売ろうかと思案していた所なんですよ」
「では何故、サーヴァントを召喚しているの?」
アルファの問いにイルは間髪入れずに答える。
「先日襲撃を受けましてねェ。撃退の為に、急遽召喚させて頂きました。強力な英霊とは言い難いですが、使い様は幾らでもあります。ま、その分は割引かせて頂きますよ。と言っても、そちらにとっては金銭など聖杯を前には何の価値も無いでしょう? 私達は必ずご期待に沿えると思いますがね。先ずは当主であるノイマン殿と話をさせて頂きたい。それとも、令呪譲渡を持ちかけた相手を打ちのめすのも、ノイマン氏の指示ですか?」
「父様の、いえ、でも……」
ノイマンの名を出した途端、アルファの顔色が変わったのをイルは見逃さなかった。ホムンクルスの常ではあるが、彼等にとって造物主の命令は絶対だ。この少女も例外では無いらしい。
最強の性能に不熟な精神。ホムンクルス特有の歪さだ。
であれば、これを利用しない手は無かった。
「チャンスを逃すのは愚者の行いですよ。ラドクリフ家がどれ程の思いでこの聖杯戦争に挑んでいるかは貴方の方が良く知っているでしょう? 浅慮で令呪とサーヴァントを得る機会を失ったとあれば、ノイマン氏もどれ程落胆する事か」
「そ、それは……」
口篭るアルファ。その機械の様だった少女の瞳に、人間を見た。イルは確信する。彼女は恐るべき怪物であると同時に、父親の顔色を窺うただの小娘に過ぎない。サーカスの猛獣と同じ、恐れるには値しない。彼は畳み掛ける様に続ける。
「いや、貴方は知っている筈だ。彼は、ノイマン氏は聖杯を欲している。彼等は聖杯を欲している。ラドクリフの悲願たる根源の渦に至る道が開いているのだから」
イルは言いながら、精神を外の使い魔に集中させる。まだルーラーは存命している筈だが、それもいつまで持つかは定かでない。絶対に、ルーラーの脱落だけは阻止しなければならなかった。使い魔と視界を同調させる。
しかし、先のルーラーの激情。魔力のパスを逆流し、マスターであるイルにも伝わる程の歓喜の情。あれは一体何だったのか? 否、それよりもセイバーの光を操る聖剣。
その威容は人の鍛えしソレでは無い。正に物質化した奇跡そのもの。宝具として最上級に位置する物と見て間違いない。そして、そんなランクにある光の聖剣、イルは一つの解に思い至る。
否、即座に連想したというのが正しいか。
最強の聖剣、エクスカリバー。
あのセイバーがブリタニアの騎士王であるならば、あの頭抜けたステータスにも納得だ。であれば、残りの宝具は鞘だろう。恐らくは全サーヴァント中最高の戦闘能力と対魔力を持つであろうあのセイバーを相手に、伝承通りなら所有者に不死の再生能力を与える鞘を奪った上で、一振りで千人を薙ぎ払う極光の剣を掻い潜って首を獲らねばならんわけだ。
成る程、あれに挑むは愚か者のする事だとしか言い様が無い。
彼は考えながら舌を動かす。しかし、
「この令呪があれば彼は参戦出来る。否、彼でなくとも、貴方達は優秀なホムンクルスを用意出来る。そちらの陣営は魔術師に不自由しない筈だ。貴方達は誰よりも優位に立てる。僕は金を手に入れて通常営業に戻る。誰も損をしない。勝利は――」
「それはダメ」
突如として、眼前の少女の顔色が変わった。その目に危険な色が浮かぶ。
「父様を危険には晒さない。私の代わりも必要無い」
確固たる口振だった。アルファは続ける。
「要はサーヴァントと令呪が手に入れば良いんでしょう? 貴方は要らない」
「何を馬鹿な――」
イルが失敗を悟り、咄嗟に口を開くも、全ては既に遅かった。
「その腕だけ持ち帰れば良い話」
言葉と共に、アルファが腕を振る。同時にイルの右手に巻き付いた銀糸が圧迫感を増す。最早問答無用でイルの腕を絞め潰す、否、切断するつもりなのだ。
願いに魅せられ呼ばれた英霊ならば、敵であろうと再契約可能と高を括ったか。そうイルは考え、即座に自らの考えを否定する。眼前の少女の目にそんな思考は存在しない。彼女は湧き上がる子供染みた単色の激情に任せ、全てを台無しにするつもりなのだ。
「残念――だ」
イルの腕が撓り、銀糸の拘束を抜けた。見よ、その腕の関節が外れ、軟体動物の様に蠢く様を。拘束を抜けると同時にその腕が跳ね上がり、即座に間接を戻すとその指が銀糸に触れる。
「KEN」
言葉と同時に血文字が宙に浮かび上がり、アルファの銀糸が燃え上がった。火のルーン魔術である。その炎は銀糸を辿って、繰手であるアルファへと迫る。
アルファは即座に銀糸を切り、炎から逃れるべく背後に跳ぶ。
同時に、彼女の上半身が膨れ上がった。大きく吸い込んだ空気が肺内部で圧縮され、咆哮によって飛ぶ。肺機能操作による指向性を持った音の砲弾である。
振動する空気の塊は燃え上がる炎を裂いて飛来し、即座に耳鼻より鼓膜、三半規管は愚か、肺までも蹂躙する。その威力を我が身で以って知っているアルファは勝利を確信する。
故に、彼女には何が起こったのか分からなかったに違いない。
咆哮を放ったと同時に、彼女の耳から一筋の血が流れ、アルファは片膝を着いた。彼女は見た。ゆっくりと世界が傾き、地面が競り上がってくる様を。
勿論、これは三半規管にダメージを受けた事で平衡感覚を失った彼女の錯覚である。
彼女を襲った物の正体、それは同じく音であった。正確には、先日イルと戦ったフォンダート兄妹の魔術、音の結界である。イルは音の結界によってアルファの咆哮を無力化すると同時に、その三半規管へ振動を直接叩き込んだのだ。
イルは笑みを深くする。
これぞ彼の混沌魔術。その骨子。敵の魔術を奪う『劣化複製(デッドコピー)』。
イルは足元の宝石をアルファに向って蹴り上げる。それは先程、イルが床にぶち撒けた魔術礼装の一つであった。と、同時に彼は片手で拳銃を抜き、片手で目を覆う。直後、閃光が周囲を包み込んだ。
二百万カンデラに及ぶ瞬間的な宝石の発光。強烈な閃光は瞼を貫き、直接視神経を蹂躙する。その威力は正にスタングレネードのそれだ。例え人に在らざるホムンクルスだとしても、否、人間以上の身体性能を有するホムンクルスだからこそ、視覚への直接的な攻撃は効いた筈だった。
それは先の三半規管への一撃で確認済みである。
価格は凡そスタングレネードの三十倍だが、魔術礼装ならでは利点があった。一つは小さく傍目にその機能が解らない利便性。もう一つは閃光と共に無防備な視神経へ直接、宝石に刻印した呪詛を叩き込めるという魔術性能である。直撃を受ければ短期的にだが失明、眩暈、吐き気、錯乱、失語症や意識混濁といった諸症状に襲われ昏倒する。
しかし、イルが拳銃を構えると同時に、アルファは階段の陰へと向って跳んだ。銃火と跳弾の火花のみが瞬き、一拍の静寂が訪れる。銃弾は空を切った。
「良く、やる。まだ粘るか……」
イルは素直に認めた。このホムンクルスの少女は彼の想像を超える怪物だ。昏倒する処か、あの一瞬で追撃から逃れるべく身を隠すとは。
しかし、視覚と聴覚は奪った。呪詛も全く効かなかった筈はあるまい。
イルは万全を期すべく壁を一度叩く。と、同時に階上から影が落ちた。何かが降ってきたのだ。小さいが一つ、二つではない。数十の影が、階段の陰に隠れたアルファ目掛けて降りかかる。
小さな悲鳴の後、階段の陰に隠れていたアルファが倒れ込む形でその姿を晒した。腕から血を流し、息も絶え絶えに彼女は呻く。
「こ、これは……」
アルファの視線の先に在った物。それは無数の蜘蛛だ。切り裂かれ体液を滴らせる蜘蛛の死骸。彼女の腕に付いた傷跡はこれの仕業と見て間違いあるまい。
「俺の使い魔だ。強力な神経毒を持ってる。さっき、ビルの中に大量に撒いておいた」
イルは階段を上りながら凄絶な笑みを浮かべる。彼の本心からの笑みであった。
「安心しろ、殺しはしねェよ。大事なセイバーのマスターだからなァ。交渉の大事な駒だ。残念ながら穏便には行かなかったが、アンタを操りゃァ儲けの方は増えそうだ」
イルは地金を晒し、アルファの髪を掴んで引き起こそうとする。彼は勝利を確信していた。
しかし――
「そう……残念ね。そうはならない」
その目がイルを捉え、アルファは確固とした口調で断じた。その言葉と共に、血風が舞う。
「な……え? 嘘、だ……」
イルが驚愕に目を剥いた。その手にはぬらり、とした感触があった。人肌の温かさだ。それは自らの血であった。アルファの指から噴出した血液、それが宛らウォーターカッターの如くイルの腹部を抉っていたのである。
膝を着くイルを尻目に、アルファは何事も無かったかの様に立ち上がる。その挙動に神経毒の影響など微塵も無い。
謀られたかッ!? 最初から毒蜘蛛に咬まれてなどいなかったのだッ!!
イルは自らの迂闊さを呪う。
しかし、現実は違う。彼が迂闊だったのに間違いは無いが、彼女の腕の傷は本物だった。
恐るべき事に、先の攻撃自体が解毒法なのだ。彼女は血管に進入した蜘蛛の毒液を血液ごと恐るべき勢いで噴射する事で解毒と同時に、イルの腹に風穴を開けてのけたのである。血管操作を行った上で、心臓機能操作によって指先の血圧を三百メガパスカルまで加圧、指先に開けた一ミリに満たぬ傷口から噴射された血液は音速に迫る血の刃となってイルを襲った。
この技は通常戦闘では役に立たない。
加圧のせいで狙いを付けるのが難しく、溜めが長い。また直ぐに血が勢いを失ってしまう為、有効射程も短い。何より周囲の毛細血管群に多大な付加をかける上に、大量の血液を失う技だからだ。しかし、状況は逆転した。
彼のミスは確実を期する余りに、遅きに失した事。そして、彼女を生け捕りにしようとした事だ。
それが結局、アルファに回復を許し、不用意な接近をする事に繋がる。
詰まる所、彼は見誤ったのだ。
彼我の絶対的な戦力差を。
それでもイルは諦めなかった。崩れ落ちそうになる身体を、切れそうになる意識を、意思の力で繋ぎ止め、叫ぶ。
「やれッ!!」
イルの言葉と共に階上から数十の毒蜘蛛がアルファへと飛び掛った。自らの使い魔を総動員しての一斉攻撃。しかし、アルファはそちらを一瞥し、薙ぎ払った。
懐から取り出した銀糸が横薙ぎに蜘蛛の群を両断する。と、同時に空中にて寄り固まった銀糸が見る間に蜘蛛の巣状に編み上げられていき、その先が今猶燃え上がるルーンの火へと落ちた。
イルが魔術を解除しようとした時にはもう遅い。
「Sulphur――」
アルファの詠唱と同時に、ルーンの炎はイルの意思を無視して一瞬で蜘蛛の巣全体に燃え広がり、そこへと降りかかった毒蜘蛛の群を燃やし尽くす。正に一掃。降りかかった毒蜘蛛達は断末魔の叫びと共に燃え上がり、灰となって落ちていく。
「まだだッ!!」
イルはアルファを指差す。ガンド、指差した者を呪う北欧魔術だ。
空気が揺らぎ、不可視の魔弾が空を切る。しかし――
「無駄」
アルファは、くすりと笑った。
揺らぎが彼女を包んだ瞬間、割れて弾ける。正に着弾と同時の解呪であった。
「Recuva――これで終わり。貴方も私の血肉になりなさい」
言葉と共に、アルファの腕の傷が消えていく。魔術と身体操作による恐るべき速度の治癒能力。イルは全てを理解した。手傷を負っていた筈の彼女が一瞬の内に回復していた種がこれだ。呪詛に至っては先程同様、即座に解呪してのけたに違いない。
イルは顔を上げてアルファを見据える。憎悪に燃える目と、口元の媚びた笑み。眼前の死を前にも、彼の表情は変わらなかった。
一方で煌々と燃える炎を背に微笑む少女。その美しくも残酷な笑みの何と絶望的な事か。
その時である。
壁面を十メートル、横一文字に光の奔流が切り裂いた。
コンクリートの瓦礫が舞い、衝撃にイルは倒れ、踊り場から階段を転げ落ちる。
「ぐ、糞が、今度は何だ……」
痛みに呻きながら、イルは視線を上げた。
「待ったかい、マスター? 随分とピンチだった様だけれど、何とか間に合ったみたいだね」
「別に必要無かったけど、ありがとう。セイバー」
そこにはアルファとそのサーヴァント、白銀の騎士、セイバーが立っていた。
正義は勝つ。