戦国†恋姫X 犬子と九十郎   作:シベリア!

99 / 128
次の更新日は8月30日(金)の午後9時~午後10時頃になると思います。
次回タイトルは『第二次これからどうしようか会議』になります。

第134話にはR-18描写があるため、犬子と九十郎(エロ回)に投稿しました。
第134話URL『https://syosetu.org/novel/107215/44.html



犬子と柘榴と一二三と九十郎第135話『巨星が墜ちた日』

 

「な……何だ……?

 

「お、御屋形様……?」

 

九十郎と心の目が大きく見開かれる。

美空が振り下ろした刃が、光璃を貫けていない

 

「……流石は私の好敵手、こんな簡単にくたばってはくれない訳ね」

 

一方美空は自分自身でも驚く程の冷静だった。

心のどこかで、あの武田晴信がこの程度で死ぬ筈が無いと信じたかったのかもしれない。

 

「グルルゥ……アアァァッ!!」

 

ゴキリッ! メキリッ! と奇怪な音を立てながら、光璃の肉が割れ、骨が砕かれ、人ならざる者へと変貌していく。

美空や九十郎にとっては過去何回か見た光景……新戸のように、人の形をした者が、鬼へと変貌していく光景だ。

 

「ひ、光璃……お前、何でこんな……?」

 

「まず間違い無くアンタが原因よっ! 後でお説教だから覚えときなさいっ!!」

 

分かり易く狼狽える九十郎を尻目に、鬼に変わりきる前にトドメを刺すべく刃を振り上げる。

 

「シネナィ……」

 

光璃の眼球がギラリと輝く。

鬼の瘴気を多量に体内に取り込みながらも、光璃の意思は未だ折れず、光璃の意識は未だ途絶えない。

 

「グォ……アアァァッ!!」

 

「……ちいぃ!!」

 

身の毛がよだつような奇声と共に、腕の一振りで美空を弾き飛ばす。

 

美空と九十郎が同時に目を大きく見開く。

後にかたつむりの観光客レベルと九十郎に揶揄される光璃の腕力では、人間1人吹っ飛ばすなんて到底不可能だ。

 

「帝釈っ! 掴んでっ!」

 

瞬間、美空は反射的に三昧耶曼荼羅を……帝釈天の腕だけを具現化させ、吹っ飛ぶ勢いを逆に利用して九十郎を引っ張る。

 

「んがっ!?」

 

突然の出来事に目を白黒させながら、美女とマッチョが木の葉のように吹き飛んでいく。

当面の脅威を一時的にではあるが排除した事を確かめると、光璃は自らの身体を血流の如く駆けまわる強大な瘴気を……

 

「フゥ……リィン……カザアアァァンンッ!!」

 

……寒気がするような殺気を籠めた雄叫びと共に、凄まじい勢いで噴出させた。

まるで幕霧の如く、周囲の視界を一気に覆いつくす。

 

「御大将! ありゃヤバいっすよ!!」

 

「全員今すぐ黒い靄から離れなさい! それに触れると鬼にされるわよっ!!」

 

柘榴と美空の悲鳴のような叫びと同時に、晴信を討ち取らんと殺到していた越軍が一斉に逃げ出した。

彼ら、彼女らは身をもって知っている、美空が逃げろと言った時に逃げなかった者は例外無くと死ぬのだと。

 

黒いドームのように展開された瘴気の膜から次々と越軍第七騎兵団が飛び出してくる。

 

「ぜぇ、ぜぇ……柘榴無事!? 鬼に変えられてない!?」

 

「無事っすよ! 九十郎は!?」

 

「大丈夫! しっかり回収してるわ!」

 

「御大将、さっき帝釈天の腕だけ出してなかったっすか?

 いつからそんな器用な真似を……」

 

「断酒してたら何かできたわ」

 

「御大将ってたまぁ~に雑に強くなるっすよね」

 

「ほっときなさい! それより皆無事? さっきの瘴気で鬼にされたのはいない?」

 

幸いと言うべきか、美空の元へ戻って来た第七騎兵団の面々は、誰も鬼へと変貌していない様子であった。

 

だがしかし、すぐさま瘴気の奥から異様な声と音が聞こえ始める。

 

「ひ……あ……ああぁぁっ!?」

 

「うおぉ!? な、何が……ああっ!!」

 

ゴキリ、メキリと、人の血肉が音を立てて変形し、鬼に変わっていく音がした。

それと同時に、まるで青姦でもしているかのような、艶めかしい喘ぎ声がし始めた。

 

「え……何……ナカでナニやってんの?」

 

「み、美空様、いくら何でもこんな状況下でおっぱじめるような事は流石に……」

 

「ありえなくはねーっすよ、瘴気で頭がおかしくなってるなら」

 

ちょっと前に瘴気で頭がおかしくなっていた柘榴が言うと説得力抜群である。

 

「どうする、撃つか? 撃てるが」

 

「待て信虎! んな事したら光璃が死ぬだろ!」

 

「我は晴信を殺すためにここまで来たのだがな……」

 

「いい加減に諦めなさい! 目の前で晴信が鬼に変化したのが分からなかったの!?」

 

「そ、それは……」

 

「九十郎、気持ちは分からなくもないけど……

 前言撤回、今回ばっかりは擁護できないし気持ちもサッパリ分からないけど、

 とにかく諦めて戦おう。 ここまで来たらもうそれしか無いよ」

 

「他人の幼馴染だと思っていい加減な!」

 

「そんな大事な幼馴染だったらもっと早く確認しといてよ!」

 

「んな事言われても、俺の幼馴染が武田信玄だったなんて予想つく訳ねぇだろ!!

 て……良く考えたら、さっき光璃が出した印籠、信虎のだったよな。

 何であいつが持ってるんだ?」

 

「……この前紛失した(第127話)。 まさかあいつの手に渡ろうとはな」

 

「信虎、帰ったら始末書と減給ね」

 

「んな殺生な……ええい!

 今はそんな事よりもどうやってアレを討つかを考えるべきだろう!!」

 

「アレに突入するのは無いとして……撃つか、しばらく様子見か」

 

「いや、そうでもないかもしれんぞ」

 

「そうでもないって、どういう意味よ?」

 

「さっき晴信から出た黒い靄……瘴気だったか? あれには前にも触れた事がある。

 たぶんだが、あれはヤツの御家流・風林火山の亜種だろう。

 武田の御旗に集いし武者達に力を与える能力だ。

 その証拠に……見ろ、越軍の者は1人残らずあの瘴気らしき霧の影響を受けておらん」

 

信虎が指差す先で、瘴気のドームから次々と越軍が抜け出て来る。

確かに、越軍の将兵に対しては、視界を遮る以外は何ら影響を与えていないようだ。

 

「光璃の超能力は他人を強化する能力。

 ただしその能力を使うには、力を受け取る側の『同意』が必要だ」

 

「犬子の御家流みたいに、無理矢理犬に変える訳じゃないって事?」

 

「ああ、そうだ」

 

「何でそんな事知ってるのよアンタ?」

 

「ああ、昔光璃に教えてもらったから……

 って事はやっぱあの光璃と俺が知ってる光璃は同一人物って事じゃねえか!」

 

「しかし拙いな、今になって思えば一旦引いたのは悪手だった。

 もしあの瘴気の渦が風林火山とすれば……時を置けば置く程厄介になるぞ」

 

信虎がそう呟いた時……渦巻く瘴気がふっと消えた。

そして信虎達がぎょっとする。

 

疲弊し、傷だらけの武田の武者達は1人として残っていない。

いるのは瘴気を纏い、悍ましくも頑強な肉体を誇る、鬼の一団……光璃の近くにいた武田の兵達が残らず鬼へと変貌していたのだ。

 

「オヤカタ……サマァ……サイゴマデ……サイゴマデ、オソバニィ……」

 

それは武田四天王の最後の1人、内藤心昌秀も例外ではない。

愛くるしいその瞳は濁り、白絹のような美しい素肌は岩の如く堅牢に変わり、鳥のさえずりのような声は、思わず怖気を感じるようなものへと変貌していた。

 

およそ30もの鬼を前にして、第七騎兵団が思わずたじろぐ。

 

「おい信虎! こっちの光璃も……」

 

「ああ! 本気を出せば優に千人は同時に能力を行使できる!

 今すぐ奴を止めねばどれだけの被害が出るか分からんぞ!」

 

「う……うぅ……」

 

九十郎が歯噛みする。

武田の武者達を鬼に変えたのが光璃の超能力によるものであれば、光璃を殺せば元に戻せるかもしれない。

だがしかし、だがそれでも……どれでも、九十郎には光璃を殺す決断ができない。

どうしてもどうしても光璃を殺すという選択肢を取れないのだ。

 

「九十郎! もう手伝えなんて言わないわ! せめて邪魔だけはしないで!

 それと剣丞! アンタらも協力しなさい!」

 

一方九十郎達と同じく、光璃達が鬼へと変貌したのを目の当たりにした剣丞は……

 

「仕方……ないか……」

 

……静かに決意し、以前姫野から譲り受けた小太刀を強く握りしめた。

 

今でも、できる事なら光璃を救いたい、光璃と美空が手を取り合い、共に鬼と戦う姿を見たいと願っているが……聡明な剣丞は理解したのだ、もう無理だと。

 

「剣丞、例のアレと電池、今持ってる?」

 

「持ってるけど……」

 

「今すぐ電池を入れなさい!」

 

「だ、だけど……」

 

突如予想外の事を言われ、剣丞が思わず唖然とした表情になる。

何せ美空が言っている例のアレとは、剣丞がこの時代に降り立った際に何故か持っていた一振りの剣……美空を洗脳しようとした剣を言うからだ(第119話)。

 

再び電池を入れ、起動させれば、確かに鬼に対する強力な武器になるかもしれない。

しかし一方、再びオーディンの施した細工によって、何か悪い事が起きるかもしれない……剣丞の脳裏にそんな迷いが生じる。

 

「何ぼけ~っとしてんのよ!?

 一番の被害者がやれって言ってるのよ! さっさとやりなさいよ!!」

 

美空がそう叫ぶ。

美空とて今の状況は分かっている。

今すぐ、この場で武田晴信を討たなければ、際限無く被害が広がるかもしれない。

最悪、甲斐も越後も鬼の巣窟にされるかもしれない。

 

だからこそ美空は……頭の中を書き換えられ、剣丞に身も心も捧げそうになった恐怖の記憶に震えながら、剣を使えと叫ぶのだ。

 

「……分かった」

 

そうやって美空が震えているのを見て、剣丞もまた決断した。

そして肌身離さず持っていた見た目単三電池の物体を、剣の柄へと挿入した。

 

剣丞の剣がぼうっ青白く輝く。

鬼が近づくと輝き、鬼を引きつけ、鬼の頑強な皮膚をバターのように切り裂く武器が再起動したのだ。

 

そして剣丞が、美空が、犬子と柘榴が……この場に集まった全員が武器を構え、駆けだした。

 

「や、やめろ……やめてくれ、剣丞、美空……犬子、柘榴……」

 

九十郎は動かない、九十郎は動けない。

何をどうすれば良いのか分からない。

 

頭では分かっている。

戦国時代の光璃は、大江戸学園の光璃の記憶が無い。

どんな理屈でああもそっくりになったのかは分からないが、自分が知る光璃と、たった今目の前で鬼へと変貌した光璃は厳密に言えば別人物だと。

 

だがそれでも九十郎には光璃を殺せない。

 

鬼に変わってしまった人間を助ける方法は無い。

鬼に変わってしまった光璃を人に戻す事はできない。

光璃を救うには、もうどうしようもない程に手遅れだと。

 

だがしかし、だがそれでも……九十郎には光璃を殺す決断ができない。

 

第七騎兵団が鬼となった武田の将兵達と切り結んでいた。

皆必死になって戦っていた。

血だらけになり、傷だらけになりながら戦っていた。

 

「……うぐっ!」

 

「柘榴! 大丈夫!?」

 

「アバラ何本か持ってかれたっすかねぇ……でも、この程度じゃ!」

 

柘榴が血反吐を吐いていた。

傷つきながらも何度も何度も立ち上がり、鬼達に刃を突き立てていた。

 

「硬ぁ!? かったぃっ!!

 ごめん柘榴、御家流で操れないかって思ったけど、犬子じゃ歯が立たないみたい!」

 

犬子も額から血を流しながら、比喩表現でなく鬼達に喰らいついていた。

 

「私から離れるんじゃあないわよ剣丞!

 妙な動きしたらその剣ごと叩き潰してやるんだから!」

 

「分かってる! 俺が美空を守る!

 だから……もし俺が、俺の剣がおかしな事を始めたら止めてくれ!」

 

「言われなくてもそのつもりよ!!」

 

美空と剣丞が次々と立ちはだかる鬼達を切り伏せながら、光璃の元へと近づいていく。

剣丞を狙う鬼を美空が倒し、美空を狙う鬼を剣丞が倒す。

そうやって互いに互いを守りながら進んでいた。

 

「信虎さん! あっちの御家流を止められないんですか!? 風林火山っていうのを!」

 

「できなくも無いが……やめておいた方が良いな。

 他人に力を与える御家流を投げ返そうとすると、御家流を使う本人に力が逆流し、

 手が付けられなくなる程の力を発揮してしまう。

 昔我が晴信に敗れて、甲斐から追い出された時もそうやって負けた」

 

「回想してる暇あったら手を動かすっす! 武田の増援が来たらまた鬼が増えるっすよ!」

 

少しずつ、少しずつ、鬼が切り伏せられ、倒れていった。

無論、第七騎兵団もまた無傷の者は無く、少なくない人数が落命していたが、それでも少しずつ鬼が制圧されていった。

 

「さぁさぁ! どんどんかかって来るのですよ!!

 三河の本田忠勝はここにいるのですっ!!」

 

特に目覚ましい活躍をしていたのは、綾那だった。

殺到する鬼の剣を、弓矢を、槍を、牙を、爪を全て払い落し、次々と鬼の首を斬っていった。

穂先に蜻蛉が留まった際に、あまりの鋭さに蜻蛉が斬られたと噂される綾那の愛槍・蜻蛉切りは、既に10を越える鬼の血を吸っていた。

しかも、綾那の勢いはまるで衰える気配が無い。

 

そしてついに剣丞と美空が周囲を守る鬼を抜け、光璃の元へと辿り着いた。

 

それが見えた瞬間……九十郎は駆けだした。

 

「光璃いいいぃぃぃーーーっ!!」

 

光璃の名を叫びながら、目に大粒の涙を蓄えながら、九十郎は走る。

第七騎兵団を力任せに押しのけ、犬子や柘榴を追い抜かし、光璃の元へと一直線に走っていた。

 

「晴信! 今度という今度こそぉ!!」

 

「光璃……すまない!!」

 

美空と剣丞が同紙に光璃に斬りかかる。

九十郎がダイビングキャッチのように跳躍する。

 

 

 

 

 

そして……美空の姫鶴一文字が九十郎の右肩を貫き、光璃の心臓を同時に貫いた。

 

 

 

 

 

「なんで……なんでよ? なんでそこまでしてソイツを守るのよ!?」

 

美空がどこか悔しそうで、泣き出しそうな程に辛そうに奥歯を強く噛んでいた。

人によっては、単なる優柔不断の結末だとか、場当たり的な対応だとか言って非難するかもしれない。

しかしこの瞬間、九十郎もまた決断していたのだ。

美空や剣丞と同じく、己の魂に問いかけ、結論を出し、行動をしたのだ。

 

……それでも、光璃を殺す手伝いはできないと。

 

「すまねぇ美空、ごめんな剣丞。 俺自身分かってるんだよ。

 美空が正しい、剣丞が正しいってな。

 こうなっちまった以上、光璃はどうしても倒さなきゃならねえ事も分かってるんだ」

 

「だったらどうしてよ!」

 

「光璃だからだよ、俺の大事な幼馴染だからだ。

 難度考えても、それ以外の理由は思いつかねえ。 それと……」

 

激高する美空を尻目に、九十郎は自分と同時に刺し貫かれた光璃の頭をそっと撫でる。

血塗れの腕で、血塗れの頭をそっと撫でる。

 

「ごめんな、光璃。 俺はお前を守れなかった」

 

九十郎はそう言うと、傷の痛みに耐えながら優しく微笑んだ。

 

「ア……アァ……」

 

光璃の肩が震える。

光璃の腕が震える。

光璃の声が震える。

ぽろりと一筋の涙が伝う。

 

鬼となったこの身であっても、致命傷。

自分は間もなく死ぬ……にも関わらず、目の前の男は最後の瞬間まで光璃を守ろうとしていた。

せめて少しでも痛みが和らぐようにと、優しい笑みを浮かべていた。

自身も肩を刺し貫かれ、激痛があるのにだ。

 

「アリガトウ……」

 

自然と、光璃はそう告げていた。

九十郎に対して、光璃はそれ以外に伝えるべき言葉が思いつかなかった。

 

そしてそれが、光璃の最後の言葉になった。

光璃の身体が粒子のように細かく崩れ、煙のように消滅した。

 

「これで……これで良かったのか、俺は……」

 

最後のトドメは美空の剣によるものだった。

最後のトドメを刺す瞬間、美空が剣丞を押しのけた。

たぶん、剣丞が自分の妻を刺し殺すのは忍びないから……

 

そして心のどこかで、あの瞬間、美空に押しのけられて自分は安心していた。

自分の手で光璃を……愛する嫁の1人を刺さずに済んだと安心していた。

そんな一瞬の安堵が、コールタールのように剣丞の良心に纏わりつき、締め上げていた。

 

「信虎、貴女の気持ち、ちょっとだけ分かったわよ……」

 

そして美空は、心の奥底で泣いていた。

心の奥底で震えていた。

九十郎は最後の最後に、自分ではなく、柘榴や犬子でもなく、武田光璃晴信を選んだ……それがショックだった。

 

光璃の肉体が完全に消滅したと同時に、光璃を守っていた鬼達も一斉に倒れ伏し、纏っていた瘴気が消え……驚くべき事に、人間としての姿を取り戻していた。

 

「終わったんだな……やっと……」

 

「どうやら一件落着……と言いたいところだけど、そういう訳にはいかないようね」

 

九十郎をこれ以上傷つけないように、美空が肩に刺さった剣を抜き、止血の為に自分の陣羽織をきつくきつく巻き付ける。

 

剣丞は淡く輝く剣の柄から電池を取り出し、鞘へと納める。

 

「ち……ちくしょう……俺のせいだ……俺のせいで、光璃が……

 俺がもっと早く、光璃に気づいていれば……」

 

九十郎は慟哭し、号泣していた。

 

「九十郎……これからどうなっちゃうの……?」

 

「わかんねーっすよ、柘榴にも」

 

犬子も柘榴も、九十郎にどう声をかければ良いのかまるで分らなかった。

かつて犬子が剣丞に抱かれているのを目撃した時と同じか、あるいはその時以上に深い深い悲しみに包まれていた。

 

「やあやあ、どうやら無事終わったみたいだねえ」

 

そんな中、空気を読まずに今までずっと姿を現さなかった一二三が皆の前にひょっこりと顔を出した。

 

「いやあ、御大将……おっと、元御大将が鬼になった時はどうなるかと思ったし、

 九十郎が飛び込んでいった時はヒヤッとしたけど、どうにかなって良かった良かった」

 

一二三がそう言って笑った。

その笑みが……九十郎の心に強く、深く突き刺さった。

 

次の瞬間、ドカッ!! と、顎が変形するのではと思う程強く、九十郎は一二三を殴りつけていた。

 

「え……?」

 

一二三は信じられないといった表情で尻餅をつき、呆然と九十郎を見上げていた。

一二三が九十郎の前に顔を出したのは、褒めてもらうためだった。

大変な立場を見事完遂した事を褒めてほしかった。

九十郎に優しく笑いかけてほしかった。

 

だが現実には……九十郎の表情は深い絶望と、強い怒りに満ちていた。

 

「な、なんで……? あぐっ!!」

 

一二三が何故と問うのを無視して、九十郎がもう一度一二三をブン殴った。

頬の骨にヒビが入り、顔に大きな青あざができた。

 

「二度とそのツラ、俺に見せるな……」

 

酷く狼狽し、酷く困惑する一二三に、九十郎は強い強い憤りと共にそう告げていた。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。