ここに足を運ぶのはいつぶりだろうか。姫島朱乃は風にそよぐ髪を掻き分けながらそう思う。
現在の時刻は午後四時あたり。授業はすべて終わり、無駄に長く感じる退屈な時間から解放された生徒たちの姿が目に入る。校庭には部活動にいそしむ者もいれば、友達と楽しく会話しながら帰路につく者もいる。こんな時間に、ましてや屋上に来る生徒は皆無だった。
『学園の二大お姉さま』と呼ばれる彼女は、オカルト研究部というその美しい容姿にはとても似合わない部活動をしている。普段なら既に部室がある旧校舎に赴いているのだが、どうにも今日はそんな気分にはなれずにいた。
無論、真面目な彼女は学園の用事を除き、ただの一度も部活に遅れたことはない。時間的にもまだ余裕はあるので、少し風に当たろうと屋上へとやってきたのだ。
なぜそう思ったのかは彼女自身にもよく分からない。ただなんとなく、一人でいたい気分だった。
「………あら?」
徐々に街へ消えていく夕日を眺めていると、ふと朱乃は先客がいることに気付いた。この学園では女子より圧倒的に比率が少ない男子生徒だ。入口の壁にもたれながら、腕を組んで安らかな寝息を立てている。入口のすぐ陰にいた為か、はたまた彼があまり目立たないような風貌をしている為か。悪魔である朱乃でもその目で見るまで気が付かなかった。
朱乃は男子生徒に近寄り、その顔をじっと見る。髪の色は自分と同じで深い黒。やや長めに伸びたそれは目の辺りまでかかり、丁度彼の目を隠していた。一誠や学園一のイケメン、木場よりは地味な顔付きだが、身長はその二人よりも大きい。180cm、いやそれ以上だ。壁にもたれかかっているので正確には分からないが、細身でありながらしっかりした体格をしている。首からは深緑が美しいリングがネックレスとして光っていた。
しばし彼を観察していたが、その右側にある一冊のスケッチブックがあった。近くにはさっきまで使っていたであろう鉛筆も転がっている。この体格からしてなにかのスポーツでもやっているのかとばかり考えていたが、人は見かけによらないとはこのことだろう。
興味が湧いたのか、彼が寝ていることに託つけて朱乃はスケッチブックに手を伸ばす。
「……綺麗……」
ぱらりと一ページ目を捲ると、そこには鮮やかな夕日が駒王の街と共に描かれていた。色は鉛筆の黒のみ、それ以外一切の色を使用していないのにも関わらず、見事に夕日の色彩をモノクロで表現している。夕日をバックに立ち並ぶ建物の数々も、細かい部分までびっしりと書き込まれていた。絵にはとんと疎い朱乃でも思わず感嘆の声をもらしてしまう程、この一枚は美しかった。
「………えぇと、人のもの勝手に見ないでくれないかな」
「ひゃっ」
突然声が聞こえ、朱乃は柄にもないような声を出してしまう。とうとう彼が目を覚ましてしまったらしい。身体の節々を鳴らしながら、気怠そうに彼は起き上った。やはり大きい。女子では身長が高い朱乃が見上げてしまう程だ。
「あの………申し訳ないですわ。勝手に見てしまって」
「いや、まぁ別にいいんだけど。でもあんまり人には見られたくないっていうか、さ」
とにかく返してくれる? そう言われるがまま朱乃はスケッチブックを本来の持ち主へ手渡す。ぽりぽりと頭をかきながら受け取る彼だが、それを最後に二人の会話は途切れやや気まずい雰囲気が流れる。もっとも、元々殆ど話してもいないので、会話というには程遠いが。
「…………その絵はあなたが?」
「ん。適当に描いたからあんま上手くないけど」
「そんなことないですわ。とても上手だと思います」
「………そう?」
この居たたまれない空気に耐えきれなかったのか、朱乃はそう彼の絵に対し率直な感想を口にした。嘘偽りのない、正真正銘の賛美である。かなりシンプルな感想だったが、少し耳を紅潮させているところを見ると満更でもないようだ。すると今度は気恥ずかしそうに彼がこう切り出してきた。人と話すのがあまり得意ではないのだろうか、言葉に詰まる彼の様子は見ていて少し微笑ましくも思える。
「あー……俺、この時間になると大体ここに来てるんだ。んで、その……絵、描いてるから。えーとまぁ………あれだ。ヒマだった見に来なよ」
「いいんですの? でしたら、是非」
「……ん」
涼は目を合わせようとしなかった。単純に恥ずかしいのだろう。だが提案を受け入れてもらった彼が浮かべた笑みを、朱乃はここで初めて目にした。かなり控えめな笑みであっても、そこには隠しきれない喜びが垣間見える。悪魔である朱乃が見逃す筈はなかった。
「…………じゃあ、その、また」
「ええ、また」
極めて簡潔に別れを、そして再会を二人は約束する。しばらくお互いの瞳を見つめ合っていたが、先に折れたのは彼の方だった。クセなのか、右手で頭をかきながら扉に向かい、ドアノブに手をかけ……る直前、思い立ったように振り向いた。
「涼」
「え?」
「加賀美 涼。俺の名前。君は? ……まぁ、ここで姫島 朱乃を知らないやつはモグリかな」
駒王学園で一、二を争う美貌の持ち主、姫島朱乃。かのリアス・グレモリーと並び羨望の眼差しを受ける彼女の名は他校にも知れ渡っている。いかなる生徒や教師であろうとも、この学園にいるからには彼女の存在を知らない者はいない。朱乃が名乗らずとも彼が名を知っているのは当然と言えた。
対する彼はあくまで一生徒。いかに男子が少なかろうと朱乃にとっては"その他"の存在でしかない。名を明かすのは彼だけで十分だった。
「加賀美……くん、ね。覚えましたわ。そういえば何年生なんですの?」
「三年。言っとくけど同じクラスだよ」
「………本当に?」
「ここでウソ言ってどうすんのさ。まぁでも、俺って地味だしね。それに学園のアイドルが二人も同じクラスにいるんだ、俺みたいなやつが霞むのも無理ないって」
信じられない。初めて見る男子だとは思ったが、まさか同じクラスだったとは。確かにクラスで交流があるのは主であり親友であるリアスや他の女子たちであり、男子とは会釈程度の会話しか交わさない。ひどい話だが、女子ならともかく男子の名前などはあまり覚えていなかった。故に彼の存在を知ることは、こうやって出会うまで知る由もなかったのだ。
「なら、今からあなたと私は友人、ですわね」
「あー……そういうことになる………のかな?」
友人。その響きが彼────涼の中に広がり、反響していく。教室の片隅、常に一人で日々を過ごしていた彼にとって、友人という言葉はこの高校生活の中では縁のないものだと思っていた。それも自分とは真逆の、学園のマドンナたる彼女の口から発せられている。その口調では平静を装うものの、内心では未だ味わったことのない妙な充足感に涼は包まれていた。
「これからよろしくお願いしますわ。加賀美くん」
「敬語はしなくていいよ。なんというかムズ痒くて。ほら、その……友達、なんだし?」
「……ええ、そうね。ならお言葉に甘えて。改めてよろしくね?」
「……よろしく、姫島さん」
最後にお互い笑みを交わし、涼は背中を向ける。
その姿を見つめる朱乃の両頬は、なぜだかほんのりと紅潮していた。