昼休み。
大粒の雨が降りしきる外を見て、涼は溜め息をつく。窓に叩きつけられる雨粒でその強い勢いは見てとれた。この様子だと当分弱まることはなく、今日屋上に行くのは厳しい。
購買のパンを頬張りながら、視線を前に向ける。涼の席からはやや遠い、前の列にあるのが朱乃の席だ。今、彼女の姿はない。大方旧校舎で部員同士、仲好く昼食でもとっているのだろうか。確かに、高嶺の花である彼女がこんな騒がしい教室で食事をするというのはあまりにミスマッチだ。どうせなら見知った部員達といた方が気も安らぐだろう。
だが、姫島 朱乃という人間がいないだけで、なんとなく寂しい感覚を覚える。この教室に彼女がいない。たったそれだけなのに、全てがつまらなく感じ、モノクロの世界に映るようだった。
(………)
全く、どうかしている。そう思わずにはいられない。
本来、涼にとってこの学園生活ほど無意味なものはなかった。
ただ通い、ただ授業を受け、ただ帰るだけの毎日。大した友人もいない自分がすることと言えば屋上で絵を描くこと、それだけだ。限りなく退屈な毎日の連続は決して涼の心を満たすことはなかった。
そんな時だった。朱乃と出会ったのは。
ある日邂逅した麗しき美女。それを機に、涼の毎日は一変した。憂鬱な朝の目覚めも、気怠い登校も、退屈な授業も、なにもかもが楽しくて仕方ない。なにより、彼女と過ごす屋上は、生きてきた中でもっとも心躍る時間だった。
朱乃がそばにいると心は安まり、逆に朱乃がいないとどうしようもなく不安になる瞬間がある。そんな自分に気付いた時、顔から火柱が立ちそうになった。これではまるで朱乃に執着しているようではないか。ストーカーじみた気持ち悪さに涼は一種の嫌悪感を抱いてしまう。
しかし、その気持ちを頭から否定出来ないのも確かな事実であった。確実に朱乃に対し、なんらかの気持ちを抱き始めている。
(………ハァ、ダメだなこれは)
居ても立ってもいられず、教室を出る。向かうは図書室だ。あそこは基本的に静かで、屋上の次に気に入っている場所でもある。このざわつく気持ちもあそこに行けば少しは収まるだろう。というか、そうであって欲しいと願うばかりである。
いつも以上に頭をかきむしりながら、涼は図書室へ歩き始めた。
◇◇◇◇◇
「はぁ………」
校舎の廊下を歩きながら、朱乃は物憂げな溜め息を吐いた。いつもの聖母のような笑みはなりを潜め、暗い色をその美貌に刻んでいる。
リアスに言われた言葉の意味。今の今まで、そのことをずっと考えていた。確かに自分は悪魔だ。人間とはかけ離れた超自然的な存在であり、原則表舞台に出てはならない。自分と涼の関係が長続きしないことなど、分かりきっていることだ。
しかしそれでも………そうであったとしても、涼のことが頭から離れてくれない。彼のことを想うだけで心が締めつけられ、張り裂けそうな程に苦しくなる。いつかは絶たなければならない繋がりの筈なのに、是が非でもそれをしたくない。そんな気持ちが芽生えてることに朱乃は気付いていた。
この溢れ出る感情は、一体なんなんだろうか? そう自問したところで、答えが返ってくることはない。
ただ、涼との繋がりを確実にする方法は、あるにはある。悪魔としてのレベルを上げ、上級悪魔になればいいのだ。そうすれば涼を悪魔として転生させ、晴れて己の下僕に出来る。そして永久に近い年月を共に過ごせる。
そもそもリアスはあくまで「人間」としての彼との関係が悪影響を与えるのではないか、と懸念していただけである。そうであるならば、涼を「悪魔」にしてしまえば全てが丸く収まる。今朱乃にそうすることは出来ないが、もし彼に駒としての適性があるのなら…………。
その時点で朱乃は頭を振る。一体、なにを考えているのだろうか、私は。仮にそうすることが可能であっても、それは彼の人生そのものを一変させることを意味する。家族の他にも、様々な人との繋がりを彼は持っているだろう。悪魔に転生させるということは、それら全てと決別しなければならないのだ。そんなのはあまりにも………酷だ。今まで平和に暮らしてきた日常を引き剥がすようなマネは絶対に出来ない。
悪魔としての自分が恨めしい。もし普通の人間として出会えていたら、どれだけ幸せだったことだろう。悪魔などではなく、平凡に暮らし平凡な人生を送る人間に。これ程"普通"を切望した日が果たしてあっただろうか。
「はぁ………」
どうにもダメだ。口から出るのは溜め息ばかり、心は色んな感情でごちゃまぜになり、少しも落ち着かない。どこか気を休めるような場所は無いだろうか?
教室。あそこは他の生徒もおり、騒がしくていられない。
部室。今行ってもリアスがいる。ただでさえ気まずかったのに戻れる筈もない。
屋上。一番いいのはあそこだろうが、今はあいにくの天気でそれも見込めない。
ならば図書室はどうか。人はいるだろうが静かな場所だ。気分を鎮めるには最適といえるだろう。
高鳴る鼓動を抑えながら、朱乃は足早に図書室へ向かった。
◇◇◇◇◇
(……前言撤回だなぁ)
図書室の机に涼は突っ伏していた。
確かに図書室自体は静かだった。係の生徒しかいない上に、特有の雰囲気がなんとも落ち着いた雰囲気を醸しだしている。静かに心を休ませるにはこの上ない好条件だ。
が、しかし。ことはそう簡単に運ばないのが世の常というもの。ここへ足を運んだはいいが、一向にざわめきは収まらない。絵を描く気分でもなく、かといって本を読む気分にもなれない。一体なんの為にやってきたのか甚だ疑問だが、少なくとも居心地の悪い教室より幾分マシなのは確かである。
時間ギリギリまでこうしていよう。いや、いっそのことさぼってしまおうか。どうせなんの面白みもない授業なのだ、一回くらい欠席したところでバチは当たるまい。そんな下らないことを考えていた、その時。
「………加賀美、くん?」
「んあ? ………ひ、姫島さん……?」
自分を呼ぶ声に重たい頭を上げる。そしてその人物を見て、涼の心拍数は急上昇した。理由は単純明快、朱乃がすぐそばに立っていたからだ。
「……え、えーと……これまたどういったご用件で……」
「……大した用はないの。その……なんだか気分が落ち着かなくて」
「それでここに?」
「ええ、まぁそんなところね」
隣、いいかしら? そう言いながら朱乃は涼の隣にある椅子に腰掛ける。彼女との一気に縮んだことで、涼の心臓は一層鼓動を増していく。顔もだんだんと熱くなってくるのがはっきり分かった。悟られまいと必死に感情を抑えるのがとんでもなく辛く感じた。
「……またグレモリーさんになんか言われた?」
「………なんでそう思うの?」
「気分が落ち着かないって言ってたでしょ? だからかな」
「ふふ。お見通しってわけね」
「そんな大層なもんじゃないよ。なんとなくさ」
いつもと違い、朱乃の纏う空気がどんよりと重い。単なる直感だが、涼はそう思っていた。笑ってはいるものの、屋上で見せたような可憐な笑顔とは違い憂いの色が窺える。この雰囲気は、あの時リアスと話していた時そのものだ。
「……一つ、聞いてもいい?」
「ええ、どうぞ」
「姫島さんはなんで俺と友達になったの? ほら、姫島さんって男に興味ないみたいだし。ましてや俺なんてどこにでもいるようなフツーな奴でしょ? だからなんでかなー、って。別に深い意味はないんだけどさ」
その美貌ゆえか、とかく男子から朱乃へのアプローチは絶えない。なんといっても一週間に一回のペースで告白されているくらいなのだ、その人気ぶりは半端ではない。そしてその度に男子は華麗にノックアウトされている。誰がどう見ても手の届かない存在だと分かっていた。
しかし、そんな雲の上の存在と自分はこうして二人だけの時間を過ごしている。もちろんかなり、狂喜乱舞するほど嬉しいのだが、疑問も残る。それがこれだ。
この問いに対し、しばし考え込む朱乃。悩める顔もまた美しいなどと考えていた涼は全身全霊でそれを彼方へ追いやった。
「……加賀美くんの絵」
「俺の絵?」
「多分だけど、加賀美くんの絵が気に入ったからだと思うわ」
くすりと微笑みながら、朱乃は語り始めた。
「確かに加賀美くんの言う通り、私はあまり殿方が好きじゃない。それは今でも変わらないわ」
「……え、じゃあ……」
「あくまで初対面の話よ? 加賀美くんは立派な友人だから安心してね」
「そ、そっか。よかった……………嫌われてたらどうしようかと」
「あらあら、なにか言ったかしら?」
「い、いや別に。なんでもないよ、うん。なんでもない」
本人は小声で言ったつもりだろうが、悪魔の聴覚は伊達ではない。一字一句をしっかりと朱乃は捉えていた。ほっと一安心する涼の姿がどこか可愛らしいと思いながら、朱乃は続けた。
「最初に加賀美くんの絵を見た時、すごく綺麗な絵を描く人なんだなって思ったの。あまり絵には詳しくないけれど、素直にそう思ったわ」
「……そ、そう? なんか照れる」
「ふふっ……そうね、普通の男の人とは違う。そう感じたわ」
「……」
ぽりぽりと恥ずかしそうに涼は頭をかいた。その両頬は紅潮しており、耳も見事に真っ赤に染まっている。言葉にせずとも、嬉しさが滲み出ているのは一目瞭然だ。
そして、次の一言が涼の精神を大きく揺さぶることになる。
「だから……私、加賀美くんのこと、好きよ?」
好きよ
好 き よ
好 き よ
たった一言、たった一言である。朱乃の口から飛び出たその一言は涼の鼓膜を貫通し脳へ届けられ、超高速で頭の中を駆け巡っていく。身体の内側から泡が沸き立つような錯覚に見舞われ、目の前がチカチカと明滅するようだ。無論、その言葉の意味は友人としてというものであって、涼が想像するようなものでは決してない。しかしその威力はアトミックバズーカを遥かに上回り、限界まで張りつめていた涼の精神を木っ端微塵に吹っ飛ばしてしまった。それはもう塵一つ残らない程までに。落雷が直撃したかの如く、涼は動くことはおろかまともな思考さえままならなくなっていた。
「………か、加賀美くん?」
朱乃の問いかけにも完全に固まっている涼には届かない。先の衝撃がそれはもう強すぎたのである。もはや真っ白に燃え尽きたも同然の涼を前にして、流石の朱乃もどうしたらよいか困惑する。単なる友人としての好意を伝えただけで機能停止するのもどうかと思うが、少なからず好意を寄せている相手に言われたのだから到し方ないと言えよう。ヘタレここに極まれり、である。
「…………ハッッ!!?」
「だ、大丈夫?」
危うく魂を天まで持って行かれそうになったが、涼はなんとか寸前で戻ってきた。
………が。
────ボンッッッ!!!!
「!? ちょっ、加賀美くーん!?」
やはり先の記憶が色濃く脳裏に焼き付いているせいか、朱乃の言葉を思い出してはショートするという珍妙な芸を披露し始める涼。マンガのような擬音と共に湯気を上げながら顔を真っ赤にし、意識が向こう岸までブッ飛んでは程なくして戻ってくるという、なんとも間抜け極まりないことを数回繰り返したのち、涼はやっと回復した。と言っても、顔は熟れたトマトのように真っ赤なままだったが。
「…………なんかごめん」
「いいのよ。それより大丈夫?」
「……とりあえずは………ハァァァァ……俺って最低だ」
頭を抱え、涼は大きく溜め息を吐く。全くなんて野郎なのだ自分は。彼女が言ったのはあくまで友人としてのことだ。間違ってもそういう意味で言った訳ではない。だというのに自分は勝手な勘違いをした挙句、朱乃に迷惑をかけてしまった。
穴があったら入りたい。そういった思いで心がいっぱいだった。
そんな姿を見かねてか、朱乃はそっと涼の手を握る。その顔は涼に劣らず、赤かった。
「そんなこと言わないで。私も友人だからって簡単に……す、好きなんて、言わないわ」
「…………………え」
「……………」
沈黙。時間にして三十秒にも満たない短い間、涼と朱乃は一言も発さず、お互いの目を見つめ合うだけだった。二人だけの空間では時間の流れが何十倍にも引き延ばされたようで、たった三十秒程度が何時間にも錯覚してしまう程濃密だ。心臓は極限まで鼓動を高め、うるさいくらいに高鳴っている。次いで身を包むのは尋常ではない緊張、そしてかつてない程の……幸福感。
様々な感覚が溶け合い、しかし決して混ざることはない、限りなく複雑な感情がお互いの身体と心を支配していた。
────このまま時間が止まってくれたらいいのに────
そんな二人の想いと裏腹に、時計の針は動き続ける。時間というものは得てして不変のものなのだ。
────キーンコーン────………
予鈴が鳴り響き、二人だけの時間は終わりを告げる。一気に意識を現実に引き戻されると、朱乃はパッと手を話した。ほんの少し名残惜しそうな表情を浮かべたがそれも一瞬のこと、彼女はすぐに立ち上がった。
それを引き留めるかのように、涼も勢いよく立ち上がり、なんとか言葉をひり出す。
「…………今日、はムリ、だね……」
「……そ、そうね……」
気恥ずかしさが抜けない。涼も朱乃も、紡ぐ言葉は途切れ途切れだ。
「……教室、戻ろっか」
「…ええ」
短い会話、合わせられない視線、今となってはお互いの顔など直視出来る筈もなかった。
ただ、教室に戻る際の二人の距離は、心なしか近く感じた。