ここのところ、我が息子の様子がおかしい。
夕飯の肉じゃがをつつきながら、加賀美 隼人は放心状態の涼を見て首を傾げる。
そもそも、昔から涼は素っ気ないところが多く見られた。親子仲が悪いわけではないのだが、高校に入ってからそれは顕著になっていった。刑事という職業柄あまり家にいられなかったせいもあるだろうし、構ってやれなかったことを隼人は度々悔んでいた。
しかしここ最近の涼ときたら、まるで別人のような振る舞いを見せるようになっていた。滅多にしないような笑みを浮かべ、昨日まではやたらと上機嫌で接したのを覚えている。今ではすっかり見せなくなった絵を見せてくれた時は、仕事の疲れも吹っ飛ぶ程嬉しかった。
それが一体どうしたことか。昨日と打って変わって、まるで魂が抜けたように呆けている。右手に持った白米にも手を付けず、ポケーと虚空を見つめている。今まではあんなに楽しげにしていたというのに、全くもって意味不明である。
「……なぁ、一体全体どうしたってんだ涼のやつ」
「さぁ」
「さぁ、ってお前な……なんか知らないのか?」
「だって私兄貴とあんまり喋んないし。それに最近ニヤニヤしてて正直キモかったから」
「……お前、それ絶対涼に言うなよ」
ひそひそと声を潜め、前に座る我が娘、加賀美 カツミに問い掛ける。そんなカツミの返答はかなり辛辣なものだったが、彼女も原因は分からないのだから仕方ないことである。
彼女は一歳年下の妹だ。涼とは別の高校に通っており、兄が学校でなにをしているかなど知る由もない。仲は悪くないが、家にいてもそこまで会話することもないので事情を聴き出すことも特にしなかった。カツミも涼が放心している理由がさっぱりである。
「恵はどう思う?」
「どう思う、って言われてもねぇ」
今度は隣に座る愛しき妻、加賀美 恵に話してみるも、やはり娘と同様の漠然とした答えだった。
専業主婦である恵は基本家に居る。最初に涼の帰宅を迎えるのは大体彼女であり、最近の変化も気が付いていた。当然今日の状態も目の当たりにはしていたが、息子がどうなってしまったのかは他の二人と同じように分からずじまいだ。
本当にどうしたと言うのだろうか………。訝しげな視線を涼に注ぐ三人。当の本人は依然として空を見つめるばかりである。
「……ごちそうさま」
「おいおい涼、全然食べてないじゃないか」
「……食欲ない」
「そ、そうか……」
三人が小声での家族会議をしていると、突然涼は茶碗を置いて立ち上がり、そのまま自室へと行ってしまった。去り際に見せたその虚ろな眼差しは普段の涼とは考えられない程で、先の様子といい、明らかに異常事態であった。
「……やはりあれは……恋ってやつか?」
「ブフッ!!」
涼の後ろ姿を追いながら、隼人は何気なく呟く。それを聞いてしまったカツミは口に含んでいたお茶を盛大に噴き出した。恵はというと信じられないという目つきで隼人を睨んでいる。
「ゲホッ! ゲホッ! あ、兄貴が恋ぃ? ないない! だってあの兄貴だよ? もしホントならマジで笑える」
「ナチュラルにひどいこと言うなよ……。そんなの分かんないだろ? 恋をするのは悪いことじゃないって思うけどな」
「まぁそれも一理あるんだけどねぇ。でも涼よ?正直私も想像出来ないのよね、あの子に色恋沙汰なんて」
「お前らなぁ……」
家族だというのになんとも酷い言葉である。確かに昔から女子に対しては奥手だった涼だ。苦手意識こそあれ、恋とかいう感情を抱くことは殆ど有り得ない。無論本人にしか知り得ないことではあるが、これまでにそういう面を見たことがない隼人達にとって前代未聞の事態なのだ。もしこれが本当に事実であるならば家族会議ものだろう。それ程の重要案件である。
「ていうかそこまで気になるんならさ、色々聞いてきてよ。誰が好きなのかとかさ」
「はぁ? なんで俺が」
「アナタ、最近忙しくてまともに会話もしてなかったでしょ? やっとお仕事が片付いたんだからいい機会じゃない。親子水入らずで話してきたら?」
「うーむ……確かにそうだけどな……………」
隼人が勤めるのは警視庁捜査一課、刑事にとっての花形とも言える部署だ。ここのところ捜査が立て込んでおり、辛い激務から解放されたのはつい一昨日のこと。愛する子どもたちとの会話を満足に出来るのは本当に久々であった。カツミと恵の言う通り、ここは男同士で語り合うのもまた一手かもしれない。それに正直、色恋沙汰とは程遠い涼が恋をしたとなれば黙っているわけにもいくまい。
よし、ならば父として出来ることがあれば喜んでやってやろうではないか!
「……分かった! 涼と話してくる!」
ふんすと鼻息荒く隼人は残っていた飯をかっ込み、涼の部屋へと向かう。
「…………どう考えてもお節介よねぇ」
「だよねー」
息巻く本人からすれば恋に悩む息子に助言するいい父親像が出来上がっているのだろうが、そんな想いやりが余計なお世話だということに隼人は気付かない。気の早い父に母と娘は苦笑するのだった。
◇◇◇◇◇
「涼、入るぞ」
形式上そうは言ってみるが、案の定答えは返ってこない。ノックをしても同様で、隼人は許可を求めることなくドアノブを引き、部屋へ入っていった。
涼の部屋はよく言えば質素、悪く言えば少し味気ない。そんな内装をしていた。目に付くのは机とベッド、本棚程度で今時の高校生らしさはあまり見受けられない。もし見知らぬ十人が来たら全員が間違いなく地味だと口にするだろう。
そんな部屋の主だが、なにをするでもなくただベッドに転がっていた。眠ってはいないようだが、なにもない天井をじっと見つめている。
この様子だといよいよもって末期ではないだろうか。なにか声を掛けてやらねば、とあれこれ思考を駆け巡らせる父、隼人。しかしお世辞にもその頭はいいとは言えず、どちらかといえば"バカ"の部類に入る父親だ。浮かんでくるのは月並みな言葉ばかりであり、そんなありきたりなことを言ったところで今の涼だとまともな反応は期待出来ない。
一体どうすれば……。必死に頭を捻っていた隼人だが、ぽつりと涼が口を開いた。
「………母さんと出会った時って、どんな感じだった?」
その質問の意外さに、隼人はやや目を見開いた。
隼人の最愛の妻であり、涼とカツミの母である加賀美 恵。彼女とは様々な縁が巡り、生涯を共にすることを誓い合った。結果、二人の子供に恵まれ今に至っている。
涼もそうだが、カツミも今まで二人の馴れ初めを聞くことなどなかった。特に興味もないだろうし、大っぴらにする程のものでもない。隼人からも言うことはなかったのだが、しかし今こんな形で話すことになろうとは。それ自体は構わないが、突然の質問にやや言葉が詰まる隼人。だがすぐに口を開き、二人の出会いを語り始めた。
「そうだなぁ……。俺がまだ警察官だった時、たまたま乗ってた満員電車で痴漢を見っけてな。被害者の女性も中々言うに言い出せない状況だったもんだから、すぐに俺が助けたんだ」
「………それが?」
「そう、その被害者が恵だったわけだ」
懐かしむように隼人は続ける。その表情は今までにないくらい穏やかだ。
「そしたらその次の日、駅でバッタリ遭遇しちゃってな。あの時はありがとうございます、って。それからかな、恵とちょくちょく会うようになったのは。んで気付いたら付き合うことになっちまってなぁ」
出会いが痴漢とは、警官である父からすれば数奇なものだ。正義感が強いを通り越し、まるで正義感の塊のような隼人ならば痴漢という行為は絶対に許せないのだろう。今では立派な刑事、若い時からその観察眼は優れていたと言える。
母も母で自己主張に乏しく、万が一そういう状況に立たされた場合では助けを求められない、そんなタイプだ。しかしそれはおっとりおおらかな人柄ということでもあり、猪突猛進で危なっかしい父をいつでも手助けしてくれる。二人がそこで出逢ったのにはなにかしらの運命を感じずにはいられなかった。
「驚いたのが料理がものすごく美味いってことだな。そん時は弁当暮らしだったし、ヒマさえあればいつも作ってくれてた恵には今でも頭が上がらないもんだ」
しみじみと頷く隼人の言葉に、涼は大いに同感だった。確かに彼の言う通り、母が作る料理は筆舌に尽くしがたい程美味しい。そこらの料理店はおろか、ミシュランでさえも凌駕すると本気で思ってしまうくらいだ。それ程までに母の料理は絶品なのだ。
ちなみにその遺伝子は兄妹にもしっかり受け継がれていたりする。母にはまだまだ及ばぬものの、大抵のものなら涼もカツミも作れてしまうのだ。それもこれも料理上手の母がいつも料理を教えてくれたからである。その点隼人は……自分でも弁当暮らしをしていたというように、期待は出来ない。
「それで付き合い始めて半年位経った頃か、プロポーズしたのは」
「………随分早いプロポーズだね」
「ははは、まぁ自分でもそう思うさ」
俗にいうスピード婚、というやつだろうか。普通結婚は何年か付き合ってお互いのことを分かりあってからするもの、どちらかといえばこれは稀有な部類に含まれるのだろうが、まさかこの二人がそれだとは思いもよらなかった。
「でもな、涼。時間の長さなんて関係ないと思うんだ」
「え?」
突然真剣な面持ちになった隼人は涼の右肩に手を置いた。
「お前、好きな人いるんだろ?」
「はい!?」
いきなりとんでもない爆弾をブッ込まれ、涼は素っ頓狂な声を上げる。一体全体なにを言い出すのかこの人は。なにを根拠にそんな世迷言を……。しかし隼人の表情は極めて穏やかだ。全てお見通しと言わんばかりの笑顔である。
「隠さなくたっていいんだぞ。お前が上の空だったのもそのことばかり考えてたから、だろ?」
「う……で、でも別に好きとかじゃ……」
否定、出来ない。
涼の頭に浮かぶのは朱乃のことばかりだ。彼女の妖艶な容姿、直接脳を揺さぶられるかのような甘い声色、そしてなにより図書室での言葉が焼き付き、その全てがぐちゃぐちゃに頭の中を踏み荒らしていく。まともな思考はとうに機能を停止し、唯一働くのは朱乃のことについてのみだ。彼女に対する様々な感情が幾重にも反響し、涼のなにもかもを埋め尽くすのだ。
心の底でなにかが芽生え始めているのは漠然と分かる。ただ、それを"好き"と決めつけていいものなのか、涼にはその判断が出来ない。それを認めることが出来ないのだ。
そんな悩みを隼人はどことなく察していた。もちろん、涼の考えていること全てが分かる訳ではない。だが涼は自分の息子なのだ。接する機会が少なくとも、恋の悩みなど見抜くのは容易い。なぜなら自分も通った道だから。
「なぁ涼。認めるのが怖いってのはよく分かる。俺もそうだったからな。けどそれをいつまでも心の奥底に追いやってちゃダメだ。いつかはそれを自覚しなきゃいけない。そしてそれを自覚した時、真っ先に伝えるんだ。お前が想っているもの全てを」
「………」
胸の内に秘める感情が"好き"かどうかなんて正直分からないし、認めたくはない。けれども、朱乃を想う心は紛れもなく本物だ。退屈でモノクロな世界を色鮮やかに染め上げてくれたのは、他の誰でもない姫島 朱乃という一人の少女なのだ。彼女に対するこの感情は、確かに心に留めておくばかりにはいかないだろう。
しかし、その一歩を自分は父のように踏み出せるだろうか。自分は父のように勇敢でもなければ勇気もない。もし彼女に気持ちをぶつけた時、拒絶されてしまったら? ……おそらく自分はもう立ち直れないだろう。
怖い。この気持ちを、心に燻っている感情を認めてしまうのが。そうなれば自分は、もう朱乃をまともに見ることすら出来なくなってしまう。二人で過ごす屋上での幸福は二度と味わえないのだ。涼はなによりそれを恐れていた。
「ま、俺が言えんのはこれくらいだ。応援してるぞ涼。……ちなみに可愛いのか?」
「………教えない」
「んなっ、俺がこんなに親身になってアドバイスしたのにか!? そりゃないだろ! てかお前から話振ってきたんだろうが!」
「うるさいな余計なお世話だって。そもそも息子のプライベートに口出さないでよ」
一刀両断、涼の一言により父の心はスパッと真っ二つに切り裂かれた。カツミと恵の懸念通り、やはり余計なお世話だったようである。
「ぐぬ……カツミといい涼といい薄情な子供たちだ……お父さん悲しいぞ」
「どうぞ勝手に悲しんでてください」
「くそう! 今度紹介しろよな!」
そんな捨て台詞を最後に、隼人は部屋を後にした。残されたのは涼ただ一人。そもそもの主は自分なので当然だが、涼は父に言われたことを反芻していた。
「想い……か」
心にある想い────いずれ、内に秘める全てを伝える覚悟を決めなければならない時が来る。なんとなく、そんな気がしていた。それは遠い未来ではなく、ごく近いこの先起こるであろう出来事。ざわめく心の奥底で、涼は近いうちにそれが起こること知っている気がした。