気付けば、足を運んでいた。
風にそよぐ髪を掻き分け、屋上を見渡しながら朱乃は思う。
奇しくも今日は、かつてと同じように夕日と満月が同時に街を見下ろしている。ほんの少し、なにか運命めいたものを感じるようだ。
「加賀美くん」
「……ん」
いつものように、涼は扉の裏手に寄りかかっていた。すぐそこには座りやすそうなベンチがあるというのに、余程ここがお気に入りらしい。しかし朱乃もいつしかこの裏手が好きになっていた。それは間違いなく涼の影響だろう。もしかすると部室よりも居心地の良い空間とすら思える。
今となってはいちいち聞くこともなく、自然と涼の隣に座る。覗いてみると、彼の右側にはスケッチブックと鉛筆が転がっていた。朱乃が来るまで筆を走らせてたのか、開かれっぱなしの紙面には形容し難い筆跡が見て取れる。確か前に絵を描こうとする意思の表れだ、と言っていたが、改めて見ると小学生のラクガキのようで、思わず朱乃はくすりと微笑んだ。
「………なんで笑うのさ」
「あらあら、ごめんなさい。でもそれを見てるとおかしくって」
「あぁこれ……やっぱ変かな」
「でもそうしないとモチベーションが上がらないんでしょ?」
「まぁ上がらないっていうか……とりあえず手を動かしてたいだけだよ」
少しムスッとしながらも、自身のラクガキを見て納得する。確かにどこから見てもこのグニャグニャウネウネしたなにかは小学生どころか幼稚園児でも描かないような代物だ。朱乃が見て笑うのも当然と言えば当然である。ただやはりクセは簡単に取れないもので、こうしていないといい絵が描けないというか、インスピレーションが湧かないのだ。昔から、絵を書き始めた頃からずっと変わらない特有のクセ。変わっているとは思うものの、今更直す気もない。いい絵を書き、それを見た朱乃が喜んでくれるなら。
気恥ずかしそうに頭をかきながら、涼は気を取り直す。
「……あー……早速だけどリクエストある?」
「じゃあ……加賀美くんのお任せで」
「ん」
一概にお任せ、と言われてもこの屋上には題材になり得るものがあまりに乏しい。しかし涼が得意とするのは模写よりもイメージを細かく表現することだ。頭に浮かぶ無数の情景、物。それを紙面に表すのは難しい。それが出来るのは一種の才能なのかも知れない。イメージが思い付く限り、絵の題材には困らなかった
だがほんの少し引っ掛かることが一つ。涼は以前、朱乃をモデルにしたいと頼んだが、リアスの乱入もあって結局描けずにいた。ならば今が絶好の機会に違いないのだが、なぜか涼はそうしようとはしない。それは一体なぜか? 理由は単純明快である。
涼は認めたのだ。己にある想いを。
そしてそれを伝えようと決心していた。
今まで認めてしまうのが怖かった。だが朱乃は勇気を振り絞り、全てを打ち明けてくれた。恐らくは永遠に葬り去りたいであろう秘密を、ただの人である自分に。それは涼に対して心を許し、歩み寄ってくれた何よりの証。
だからこそ自分はそれに応えるべきなのだ。この両手で朱乃を包んだその瞬間、この気持ちを……彼女のように包み隠さず全て伝えようと、そう決めていた。
しかし、いざ朱乃と対面しその顔を見てしまうとその決意が揺さぶられ、まともに朱乃を見ることが出来ない。情けないことに、覚悟よりも恥ずかしさが瞬間的に上回ってしまうのだ。今は平静を保つのがやっとのことで、正直気が気ではない。大量の"どうしよう"で頭は埋め尽くされ、肝心の"どうするべきか"は微塵も浮かばず、鉛筆を持つ右手も小刻みに震えている。そしてなにより、紅く熟れているこの顔を気取られずにいることが非常に大変だった。
そんな今にも大爆発しそうな想いを気合いで抑えつつ、涼は筆を走らせる。
「なにを描いてるの?」
「……出来上がるまで秘密。まぁすぐに分かるよ」
「あら、意地悪ね」
「それ、人のこと言えないでしょ」
ぴたりと肩を寄せ、まつ毛の一本さえ鮮明に見える程の距離に朱乃の顔が近付く。それだけでもギリギリ保っている平常心を壊されそうなのに、女の子独特の柔らかな匂いや肌の感触がますます拍車を掛け容赦なく涼を襲う。口ではあたかも普通を演じているが、その声色は少し震えていた。
「……」
「……」
そこからしばらくは、紙面に刻まれる鉛筆の音、互いの息遣いのみが二人の耳に届いていた。もっと言えば、涼の心臓は十八年という人生の中でもっとも激しく脈動しており、暴発寸前の爆弾のような音を響かせていた。
「……ありがとう」
「……ん?」
さらさらと滑らかな音の中、朱乃はおもむろに感謝の言葉を口にする。そしてゆっくりと、涼の肩に頭を預けた。一体何事か、と涼の鼓動が一層跳ね上がる。ふわりとした芳香が鼻をくすぐった。
「……私は悪魔で、その上堕天使のハーフ。そんなの普通は拒絶してしかるべき存在だわ。でも、それでも加賀美くんは私を優しく受け入れてくれた。それだけで私は救われた」
「……姫島、さん」
静かだが、とても穏やかな語り口で朱乃は話し始めた。
人間と悪魔────本来ならば、その関係は対極する陰と陽の存在である。ただの人間である涼が悪魔である朱乃を受け入れることなどあってはならない。待っているのは破滅ばかり、必ず幸せにはなれないのだ。かつて自身の家族がそうであったように。
それにも関わらず、涼は朱乃の全てを真っ直ぐに受け止めてくれた。この現実からかけ離れた自分に目を背けることなく受け入れてくれた。涼の優しさに朱乃の心は救われたのだ。
だからこそ、この想いは必然と言えるかも知れない。心に芽生えた小さな想いは次第に大きくなり、涼が抱き締めた瞬間に開花した。
自分の気持ちを伝えようと思ったのは、なにも涼だけではない。
その願いは、想いは。朱乃も強く抱いているもの。
「加賀美くんと出会って、こうして時を重ねていって……私の中に一つの想いが芽生えた。最初はそれがなんなのかは分からなかったけど、でも……今はよく分かるわ」
ふいに左の肩が軽くなる。振り向けば、そこには涼に負けじと顔を赤らめた一人の少女がいた。真剣な眼差し、しかし微かに震えが見て取れる。緊張という一言では表せられない昂る感情は、涼に向けての言霊へと姿を変える。
「……私……加賀美くんが……」
「ちょっと待って!」
声を荒げ、涼はその先に語られるであろう言葉を遮る。そして朱乃の両肩に手を置いた。
「か……加賀美……くん……?」
「……ッそれは……姫島さんが言うべきことじゃない。俺が……俺が言わなくちゃいけないんだ」
もはや絵を描くことなど頭から吹き飛んでいる。スケッチブックをかなぐり捨て、少年は少女の瞳を見つめた。その顔は今や耳まで赤く染まっており、心臓は尋常でない程速く高鳴る。身体中を高速で駆け巡る血潮は体温を火傷しそうなくらいにまで上昇させる。
それがどうした。
決意した筈だ。朱乃が涙を流したその瞬間から、この命尽きるまで彼女を守りたいと。彼女と共に生涯を歩んでいきたいと。だから伝えなければならないのだ。今にも決壊しそうなこの想いを。
「お……俺は………俺は……っ……!!」
言え。
「俺は……っ……姫島さんが……っ………!」
言うんだ。
「姫島さんが………す……す……!!」
言うんだッッ!!!
「……………ッッ!!」
決意の言葉を伝える寸前で、涼は朱乃に背を向けた。
言えない。
喉元まで出かかっているというのに、自分はなんて、本当になんてどうしようもないヤツなのだ。こんなにも自分が情けないと思ったことはない。不甲斐なさや自責の念でどうにかなってしまいそうだ。
なりふり構っていられないなんて、そんなことはとっくに分かっている。それでもこの気持ちを、"言葉"を伝えることが出来ない。
……"言葉"?
ふと、あることが頭を過ぎる。
「……加賀美……くん?」
そうだ。気持ちを伝えるのは、なにも口から紡がれる言葉だけではない。目で捉える"文字"でもその想いは伝えられる。
涼は投げ捨てたスケッチブックを取り、震える手でなにかを書き始めた。ゆっくりと、しかし確実に。たった"四文字"の言葉にあらゆる想いと願いを込め、朱乃へと渡す。それが今、涼に出来る精一杯だった。
彼女に手渡されたスケッチブックには、小さくこう記されていた。
『好きです』
朱乃の反応は、ない。束の間の静寂が、二人の間を漂う。ややあって、彼女も同じように文字を書いていった。そしてそれを、再び涼へ渡す。
『私は、悪魔なのよ?』
涼は、相も変わらず震える右手で文字へ書き、朱乃へ渡した。
『それでも俺は、アナタが大好きです』
あぁ、まったく。
本当にこのヒトは─────。
その言葉にどれ程の気持ちが込められているのか、痛い程に伝わってくる。涼が持ち得る全ての想いを目にし、朱乃は渡されたスケッチブックを置いた。そして閉ざしていた口を開く。その瞳からは大粒の涙が、真っ白な紙面にシミを作っていた。
「……バカな人ね。悪魔を好きになっちゃうなんて」
「………惚れた弱み、じゃないかな」
「ふふっ……そうね。私も加賀美くんに……いえ、涼くんにいつの間にか心奪われてたのかも」
「………俺も………朱乃、さんに魂取られてた、と思う」
二人の顔の赤みはまだ抜けない。抜ける筈もない。互いに伝えたその気持ちは、これまで歩んできた人生の中で最も強く激しいものなのだから。
しかし、その表情は咲き誇る満開の笑顔だった。もはや暗い感情など一欠片もなく、二人の心と想いは一つに繋がっている。味わったことのない多幸感に身を包まれ、かつてない程二人は穏やかな気持ちでこの瞬間を噛み締めていた。
「朱乃さん。俺……その………絶対、幸せにするから。だから……これからもずっと、一緒に居てください」
「………ええ。私も……不束者ですが、よろしくお願いします」
そう言うと、二人はそっと唇を重ねた。
それは限りなく、ほんの軽く触れるだけの優しいキス。それでも二人には、充分過ぎる程の幸せが広がっていく。離れた二人は互いの顔を見合い、クシャリと笑顔を綻ばせる。
これからもずっと、二人で。
煌々と夕日が街を染め上げる中、少年と少女は心を通わせた。