『シロウの手、おっきいね』
イリヤの最後の姿が脳裏をよぎった。
自らの血にまみれた手を伸ばし、士郎の手を握る。
無垢で、残酷で。幾度と無く敵対して。
『あったかい……ずっと、こうしてみたかった』
けれども、どうしても憎むことのできなかった彼女は。
士郎の腕に抱かれたまま、その命を落とした。
最後に願うにしては、ささやかすぎる望み。
それが叶ったと、本当に嬉しそうな笑顔を浮かべながら。彼女は士郎を残して消えてしまった。
まだ何も、ろくに話し合う事すら出来ないままに。
あの時、彼女を救えていれば、士郎の道も変わったのだろうか。
今も彼女の隣で。
彼女のことを、もっと理解できたのだろうか。
思わず。
ふらふらと。夢遊病患者のように歩みを進め、ポッドに手を伸ばす。
いつぞやとは逆だ。
今度は士郎が血に塗れた手を彼女へ手を伸ばす。
彼女に触れたいと。彼女を取り戻したいと。そう願い。
ずっと後悔していた。彼女を救えなかったことを。
衛宮切嗣の娘。士郎が、彼女から父親を奪い取ってしまった。
士郎がいなければ、きっと切嗣は命を賭してでも彼女を浚いに行った事だろう。
そして、士郎の憧れた彼ならば。きっと、やり遂げていたに違いない。
士郎は、そう信じている。
けれども、それは実現しなかった。
彼女と切嗣は、二度と会うことなく。
二人は命を失った。
それは、士郎がいたからだ。
士郎が、二人から奪った。
あったかもしれない未来。
幸せな生活。二人の歩む、人生。
士郎は、望んでいたのだ。
イリヤスフィールの幸福を。衛宮切嗣の安寧を。
からっぽだった士郎の心を埋めてくれた、衛宮切嗣への憧れ。
それを塗りつぶす事のできる、唯一の願い。
決して叶わぬ渇望。それが、どうしようもなく士郎の心をかき乱す。
正義の味方に、なりたかったわけじゃない。
あの時。救われたような表情をした彼の事が、どうしても忘れられなかった。
彼の望みを、叶えたかった。
彼の意思を、継ぎたかった。
そして自分も、救われたかった。
それを叶える手段が、正義の味方を継ぐことだったというだけ。
もし士郎が救われるとしたら、あの日。あの時。あの瞬間。
何を置いてもイリヤスフィールを救いたいと願った、あの時をおいて他はなかった。
切嗣の願い。ただ一つ残された希望。
イリヤスフィールを助け出したいという、彼の想いを継ぐことができれば。
衛宮士郎も、きっと。何かを得ることが、出来たはずなのだ。
だがしかし、彼と彼女は救われることなく。
運命の歯車は狂ったまま回り続け、士郎の心を巻き込んだまま崩壊した。
士郎は、目の前に意識を戻す。
伸ばした手が、ガラスに遮られる。
赤い滴が、ガラスの表面を汚した。
瞬間。士郎の体が急激に熱を持つ。
魔力回路をフル回転させた時のように。
「……何だ?」
魔力が体から抜けていく。
だというのに、士郎の体に疲労感は感じられない。
まるで、士郎の中に士郎以外の魔力が存在していたかのようだ。
魔力に反応したのか、ガラスの向こうに満たされていた液体が淡く輝き始める。
輝きは一定ではなく、脈動するようにその光を変化させていた。
やがて、脈動に合わせて少女の体に赤い色が差す。
心臓の鼓動。血の脈動。生気のなかった肉体に、血が通いはじめた。
ズキリと、腕に痛みが走る。
千の針に刺されたかのような痛み。
ウィリアムに刺された傷が、痛む。
傷が開いたかと思った士郎だが、そこに目を向けると、いつもと変わらぬ自分の腕が存在した。
いつもの通り。ナイフで刺される前の、士郎の腕が。
「は、」
治った。治っている。
魔術の発動は感じられなかった。
ありえない。この一瞬で傷が治るなど。
いや、この感覚は。どこかで──
「馬鹿な、なぜもう動いているのです!? まだ、まだ動いてはいけない。まだ、魂を移し替える魔術は完成していない!」
士郎は、無意識のうちに懐の起爆装置に手を掛けた。
部屋の入口にいたウィリアムが破裂する。
が、すぐに背後から新たなウィリアムが現れた。
「離れなさい。それは私の物です。私が使うのです」
「断る」
考える前に、言葉が吐き出された。
いや、考えたところで口から出るものは変わらなかっただろう。
彼女を、この男に渡す選択肢は無い。
「奪う? 私から彼女を? いけません、それは私の物です。私の、私の、私のぉぉぉぉぉッッ!!」
口から泡を噴き出して、ウィリアムは激高する。
士郎は思案した。
張り巡らされた回路を見ればわかる。この装置を破壊すれば魔力供給が断たれ、ウィリアムの魔術は発動できなくなるだろう。
しかし、今すぐ破壊するわけにはいかなくなった。
少し、時間が欲しい。
ウィリアムは、邪魔だ。排除する。
たとえ、固有結界を使ってでも。
だが士郎の思考は、続いてウィリアムから放たれた言葉により、再び停止する。
「その母胎に我が妻の魂を定着させ、子を成す! そうすれば、最高の性能を持った子供が誕生するのです。そのために、愛する我が妻と子に手を掛けた。最高の、最高の肉体を用意するためにぃぃぃぃ!」
「──?」
なんと言ったのだ、この男は?
母胎? 子供を作るための? この男が?
士郎は手を震わせた。
真っ白な雪を汚されたような気がして。
士郎の憧れを、踏みにじられたような気がして。
激高したウィリアムが襲い掛かってくる。
今までの攻撃とは違う。まるで子供のように、がむしゃらに向かってくる。
だが士郎は、それを冷静に。覚めたような視線で射抜いた。
「
思考の乱れはない。
何千、何万繰り返そうとも、やると決めたならば、士郎の思考は乱れる事なく。
弓を構えた瞬間、士郎の意識は隔絶される。
誰も士郎を、止められない。
無言のままに、矢を放つ。
空気を切り裂いた矢は、狙い違わずウィリアムの頭を切り裂き、彼の思考を切り裂き、魂を切り裂いた。
「なんという一撃! でも、届きません。どんな強力な攻撃も、我が妻へへへへの愛ににににわわ?」
即座に古い体を捨て、再び現れたウィリアム。
だが。彼は血を吐き、倒れこむ。
体を痙攣させ、まるで窒息し空気を求めるかのように空を手で掻き回す。
が、それでどうにかなるはずもなかった。
彼の魂に刻まれたのは、致命的なまでの損傷。
「ああああ? なに……一体なにを……あなたは、何を。したのですか!?」
何のことはない。
士郎は、ただ。力技で、ウィリアムの魂を傷つけただけだ。
どんな魔術を使おうと、たとえ空間を捻じ曲げようと。土俵を移し替えただけで、結局の所はただの力比べでしかない。より強い概念をぶつければ打ち砕く事ができる。
士郎の投影したものは、宝具だ。人の魂など容易に塗り潰せるほどの、概念武装。
一撃では即死と行かなかったが、時間の問題だろう。
むろん、宝具の連続投影は体への負担が大きい。
だがどういうわけか、体の奥底から力が沸きあがってくる。
今なら、何度でも投影ができそうだ。
「慎重になりすぎるのも、考え物か」
士郎は呟く。
事前の情報との食い違いがあった事で、情報収集に力を入れ過ぎた。
「いや、結果論だな。常に万全は、ありえない」
自身の魔術は、ウィリアムのそれを上回る。
銃弾を跳ね返された時の感覚で、おそらくはそうだろうという思いはあった。
だが、もし宝具が跳ね返された場合、それは自身の死に直結する。
それに一撃で致命傷を与えられなかった場合、逃走される恐れもあった。
こうして勝利を得た以上、間違った選択肢ではない。
倒れこんだウィリアムに対し、士郎は次の攻撃をどうするか考える。
先ほどの宝具は、毒を流し込むもの。
このまま放置すればいずれ死ぬだろうが、それを待つのは少々面倒だ。
ならば次に試すべきは、魔を祓う聖剣の類か。
例えば、
イメージを固めると、風向きが変わった。
実際に風が流れているわけではない。
ただ、そちらに引っ張られるような感覚が、錯覚を引き起こしただけだ。
士郎の中に流れる魔力。それが、少女の方へと流れていく。
異常なまでの魔力量。士郎にこれほどの魔力が貯蔵されていたとは思えない。
あきらかに、異常事態だ。
士郎は、思わず振り返る。
彼女と、目が合った。
赤い瞳。彼女と同じ瞳。
士郎を見つめる目は、血のように赤い。
その目を見た瞬間、士郎の呼吸が止まった。
魅入られたように、視線が外せない。
思わず、手を伸ばす。
ガラスに触れた手のひらに、ひんやりとした感触が伝わってくる。
彼女も士郎と同じように、士郎へと手を伸ばす。
そして二人は、ガラス越しに手を合わせた。
と。
士郎は、足首を掴まれた。
「それは、私の……私が、使う……」
ウィリアム・エインズワース。
彼は血反吐を吐きながら這いずり、士郎の脚を掴んだのだ。
士郎は拳銃を取り出そうとする。
が。士郎が動くより前に、彼女が動いた。
「……邪魔しないで」
少女の声と共に、部屋が白く塗り潰される。
光の奔流。高密度な魔力。圧倒的な圧力に、士郎は身構えた。
しかし、その魔力は士郎の体をすり抜ける。
部屋を蹂躙する魔力は、彼女と士郎。その二人だけをすり抜け、それ以外の全てを蒸発させていく。
当然、ウィリアムも消し飛んだ。肉の一片も、魂すら残す事なく。
その光景を、士郎はただ茫然と眺める。
この光は、覚えがある。いつか見た光景。
規模が違う。扱う者が違う。
だがこれは、まぎれもなく。
「──
その呟きは、吹き荒れる暴風の中に溶けて、消えた。