恋のリート 作:グローイング
ミカさんはからかい上手
空気と光と友人の愛
これだけ残っていれば 気を落とすことはない
◇序曲──Ouverture──
その日も、森の中で独り過ごしていた。
手元には彫刻刀と木材。特別なにか作りたかったわけじゃない。ただ手を動かしていたかっただけだ。
頭で考えるのではなく、感覚に従うままに木を削っていく。そうすることで、木は何らかの姿へと形を変えていく。これがあるべき形とでも言うように。
それは
そんな木彫りがいくつも、傍らに転がっていた。
耳に届くのは、木を削る音。そして、風の音だけだった。
しかし、その日は別の音がまじった。
静かに葉を揺らす風にのって、弦の音色がひとつ。
「その行為に意味はあるのかい?」
そして、自分に語りかけてくる少女の声。
いつからそこにいたのか。
少女はまるで森の精のように、ふっとその場に現れ、弦楽器を奏でていた。
柄にもなく、その美しさに見惚れた。まるで違う世界の住人のように、その存在感は掴み所がなく、どこか神秘的ですらあった。
しかし現実味のないその美貌は、熱に浮かされるよりも先に「自分とは縁のない存在だ」という感情が湧きあがって、却って氷のように冷めていった。
「意味なんてないさ」
彼女の問いかけに冷ややかに答える。それは事実、意味のない行為だった。
「意味がないのに、なぜ続けるんだい?」
少女はまた問う。
木を削る手を止めることなく、「さあね」と答える。
誰かに見せるわけでもない。部屋に飾って優越に浸るためでもない。
ただ、こうして木を削っている間は、余計なことを考えなくて済む。
昔に起きた出来事も。これから先のことも。そして、いま目の前にある現実のことも。
何も、考えたくなかった。だから独りでいたかった。
そんな気持ちも露知らず(あるいはわかった上でなのか)、少女は親しい友人に向けるような笑みを浮かべて傍に寄って来た。
間近で見る少女の顔はやはり美しかったが、それでもその時は鬱陶しさが
「ひとつ貰ってもいいかい?」
木彫りの数々を見ながら、少女はそう尋ねた。
「どうぞお好きに」
特に執着もなく、心もなく、譲る。
「ありがとう」
少女は木彫りのひとつ……狼の木彫りを手に取った。
何の偶然か、俺が最も忌み嫌う獣を、彼女はその手に取った。
「よくできているね」
少女は木でできた狼を感心したように見つめる。
別段嬉しさはなかった。ただその狼ごと、自分の前から消えてほしかった。
口にしなくとも、態度から少女は察したのかもしれない。
「邪魔をしたね」
「本当にな」
皮肉を言っても、少女は澄ました笑みを崩すことはなかった。
まるで物事を見透かしたような少女の態度に、少し苛立ちを覚えた。それは久しくなかった、感情の動態だった。
だからなのか、
──“一匹オオカミ”でいることに、意味はあるのかな?
少女の何気ないひと言に、木を削る手が止まった。
何を言い返そうとしたのか、今となっては思い出すこともできない。
そもそも言い返す前に、少女は幻のように消えていた。
「……」
いつのまにか、風向きが変わっていた。
さっきまでとは逆の方向に、木々が揺れる。
同じように聞こえるはずの葉音は、しかしどこか違う音色のように思えた。
それが、ミカさんとの初めての出会い。
運命めいた出会いがあるとするならば、恐らくその日がそうだったのだろう。
風に運ばれてやってきた弦の音色を“序曲”として、俺の日常は大きく変化していくことになったのだから。
* * *
星の光がよく見える夜。
継続高校の小さな学園艦は、まるで寡黙な詩人のように、ゆったりと夜の海を進んでいる。
そこに住む生徒たちも今時の学生と比較するとしばし活気に欠ける寡黙な連中ばかり。はしゃぐことも少なく、騒ぎ立てることもない。
ただし些かマイペースというか、少し……いや、かなり個性的な人間が多い。一人ひとり掴み所がなく、型に嵌まっていない。
学園艦というのは多かれ少なかれ生徒たちに特色がつく環境だ。しかし継続高校にはそれらしきものはない。
一応、他の学園艦よりも自然が満ちあふれているという特徴はあるが、それぐらいだ。自由というか、開放的というか、無秩序というか、いずれにしても印象が一定していない校風。
それが継続高校。
それでも敢えてひと言添えるというのなら──とにかく変わり者が多い。ということだろう。
そのことを、俺はいま改めて実感しているところだった。
「この行為に意味があるとは思えない」
ミカさんはそうやたらと凜然に、そして仰々しい口調で言った。
「意味がないのに何でやるんすか?」
俺は彼女に尋ねる。
以前も同じようなやり取りをしたな、とぼんやり思った。そのときは、立ち位置が逆だったが。
ミカさんはいつものように思わせぶりな表情を浮かべる。
「たとえ意味がないと思えても、いざやってみると何か得るものがひとつでもあるかもしれない。そして思いもしない出会いがあるかもしれない」
「何事も経験が大事ってことっすか?」
「そういうことさ、ライヤ」
俺の返答に満足したのか、ミカさんはにこりと微笑んで俺の名を呼ぶ。
ライヤ。
あだ名っぽいが一応本名である。
基本的に継続では下の名前か、それを文字った愛称で呼び合う。最初のうちはその習慣に慣れなかったが、いまはさほど気にしなくなった。
そんなことを気にする余裕もなくなるほど、目の前のこの人のペースに毎度参らされているから、という理由もある。
「時には縁がないことにも敢えて触れてみる。そうすることで人は新しい世界を広げるのさ」
言葉だけならカッコいいことを言っているように思える。
本当に、言葉だけなら。
出会った当初、ミカさんへの第一印象は『ミステリアスな美人』だった。
常に崩れない笑顔から心情を掴むことは難しく、そしてその言葉から真意を汲むこともまた困難。俺にとって、近寄りがたい存在でしかなかった。
しかし、こうして交流を深めたいま、その認識はガラリと変わった。
いつも意味深なことばかり口にしては人生観の深さを伺わせる彼女だが……ただ単に、変わった人なのだ、この美人さんは。
俺は溜め息を吐いてミカさんに言う。
「あのミカさん。いいこと言っているようっすけどね……」
その美貌と言葉だけならこれほど魅力的な女性はいないと思う。誰の目から見てもミカさんは美形の部類だ。これまでの人生で、これほど綺麗な人に出会ったことはない。ひねくれ者の俺でも素直にそう思う。
しかし、いま彼女がやっている行為がすべての長所を台無しにしてしまっている。
というか本当に何で……
「胸にスマホ乗せてカッコいいこと言っても全然キマってないっすからね?」
何で俺は目の前で俗に言う『たわわチャレンジ』を見せつけられているのだろう。
ミカさんの『たわわ』な膨らみの上にぽにょんと鎮座しているスマホ。
まったく落ちる素振りを見せない。どんだけデカければそんなことできんだ。人体の神秘に軽く感動している自分がいる。
週末にも関わらず何故か月曜日を過ごしているような気分になってきた。
こんな状態でご大層な話題をふられてみるといい。シュールでしかない。そしてすっごく反応に困る。
「言葉を送るという行為に、格好や見た目は必要なのかな?」
「必要でしょう。人の印象は9割見た目で決まるらしいっすよ?」
「見た目なんて所詮は飾りに過ぎない。本当に見極めるべきものは人の奥底に潜む心そのものさ」
「悪いですけど俺ぜんぜんいまのミカさんの心見極められないっす。何考えてるかぜんぜん理解できないっす」
「やれやれ。君はものを見る目は達者なようだけど、人を見る目に関しては未熟なようだね」
「何でそんな上から目線なんすか。腹立つっすね」
たわわチャレンジを見せつけるような人間の心理なんてわかりたくもないわ。
というかこの人は、ただ単に俺をからかいたいだけなのだ。
恐らくまたネットサーフィンで変な知識を身につけてきたに違いない。「あれ、これ自分もできんじゃね?」ってノリで試してみたくなったのだろうが、だからって多感な男子相手にそんな一芸披露しないでいただきたい。
「世の中にはおかしな流行もあったものだね。乗ればいいってもんじゃないんじゃないかな?」
「そう言うんだったらやめたらどうすか?」
そして口で言うわりに自慢げに胸を寄せあげないで欲しい。すっげえ目のやり場に困る。
いや、それ以前に……
「いい加減に俺のスマホで勝手に遊ぶのやめてくれないっすか?」
凶悪な双丘に乗っているスマホは、他でもない俺の所持品である。
今日に始まったことじゃない。ミカさんはしょっちゅう俺のスマホを使ってネット見たり動画見たりソシャゲやったりと、持ち主の俺よりも楽しく使いこなしていやがるのだ。
知らないうちにいろんなアプリがダウンロードされていたときはマジでビビったものだ。これでさらに無断で課金までされていたならば、容赦なく蜂の巣にしていたところだが生憎(?)そこまではされていない。
「いくら自分が携帯電話持ってないからって後輩のスマホをおもちゃにする人がどこにいるんすか?」
「君の目の前にいるさ」
やかましいわ。
継続高校はいわゆる貧乏校。そこに通う生徒も家庭の事情やら訳ありやらで金銭的に恵まれていない連中ばかりだ。
月々の支払いができない理由でスマホすら持てない奴なんてザラにいる。だから俺みたいに持っている奴はちょっとした上流階級のような扱いを受ける。
上流階級と言っても、現状は完全にジャイアンにもの取り上げられたのび太くん状態だけどな。
「人というのはね、互いに持ち得ないものを貸し与えることで不可能を可能にする生き物なのさ」
「そいつは素晴らしいっすね。でも俺、貸すことは多々あるけど一度だってミカさんから何か借りたってことないんすけど?」
「人生はいつだって例外がつきまとうものさライヤ」
「うっせーよ」
あ、いけね。苛立ちのあまり、つい上級生相手に本音がポロリ。
とはいえ、生徒数の少ないうちの学園では年齢差の見えない壁なんてものはない。上下関係などほぼ皆無みたいなものだから、これぐらいのことで険悪になったりしないけど。
ミカさんも俺の暴言に慣れているためか、特に気にしていない様子だ。
いつだってこの人は涼しい顔してるわけだが。大らかというより、ハナから意に介していない感じ。
なんかムカツク。
(ほんと、いまだよくわかんねぇ人だな)
彼女と関わりを持って随分経つが、知り得たのは彼女がいわゆる『残念な美人』という事実ばかりで、その思考や行動パターンは相変わらず謎のままだ。
思えば奇妙な縁である。
機械弄りの腕を買われ、彼女たち『戦車道履修者』が使う戦車の整備を頼まれてから早一年経つ。
小さい頃から手先が器用な俺は機械なら何でもそつなく直せる。だから初めて触れる戦車であってもすぐコツを掴んで整備ができた。
常に人員不足の継続にとって俺の腕は重宝された。
お礼するからと請われ、たびたび整備の手伝いをするようになった。
お礼と言っても大したもんじゃない。お菓子とか学食の食券とか割引券とかそんなものばかりだ。
とは言え、食生活すら困難を極めるこの継続ではそれは何よりもありがたい報酬だった。最初のうちはそんな報酬目当てで手伝いをしているだけだった。
その際、意見の食い違いやら軽い衝突やらあったわけだが……いまでは戦車の整備士ポジションとして彼女たちの仲間に加わっている。
そんなつもりはなかったし、自分なんかにその資格はないと思っていた。
しかし、俺のひねくれた性根を変える何かを彼女たちは持っていた。
正確に言えば、淡いアッシュブロンドの髪をおさげにした童顔の少女の言葉。
それが心の隅に残ったのがきっかけだった。
『ライヤってさ、手先はすごい器用だけど……でも不器用だよね』
いまは報酬は貰っていない。
俺にとっては、こうして穏やかに過ごせる時間こそが、充分過ぎる報酬だった。
そんな考えを持つようになった自分に、我ながら驚いている。人生なにが起きるかわからんもんである。
「ふふ。君といると退屈しないよ、ライヤ」
「そいつはどうも」
そして結果的に、どうも俺は隊長のミカさんに気に入られたらしい。
……弄りがいのあるおもちゃを見つけたという意味でのお気に入りだが。
いまもこうして俺の反応を楽しんでいるように、彼女の中では男子をからかうことがマイブームらしい。
相手にしなければいいと毎度思うのだが、彼女は一枚上手でどうしても意識を向けてしまうようなことをしてくる。
美人である分、本当にタチが悪い。苦言のひとつも言いたくなるというもの。
「ミカさんも暇っすよね。毎度俺んとこに来て、呑気に遊んでるんすから」
ささやかな抵抗として皮肉を飛ばす。もちろんその程度で動じるミカさんではないけど。
「地図ばかりに頼るような冒険は冒険とは言わない。ただ風に流されるままに、辿り着いた場所で大いに楽しむことに冒険の醍醐味があるのさ」
要は『どこにいようが私の勝手でしょ?』と言いたいのだろう。
慣れるとだんだんこの人の詩的な言い訳を一般的な言い訳に翻訳できるようになる。
まあ別にこの人がどこにいようが行こうが文句はない。ただ、俺を集中的に狙って弄ぶのは勘弁願いたい。
……それ言い出したら、こうして夜遅く俺の寮部屋に訪ねに来ることもできれば控えて欲しいのだが。
なんやかんやで美人の女性と自室で二人きりというのは健全な男子にとっては酷である。
これでもさっきから少しだけ緊張しているのだ。
そんな人の気持ちも知らず、ミカさんは俺の部屋に我が物顔で居座りながら、不適な笑みを浮かべている。
「やはりここは居心地がいいね。部屋が綺麗だからか、音の響きも違う気がするよ」
ミカさんは呑気にそんなことを言って、膝に乗せたカンテレをポロロンと弾く。
室内に染み渡る弦の音色。
ミカさんがしょっちゅう俺の部屋に訪ねに来るのは、整理整頓された部屋で愛用の楽器を弾くことがお気に入りだからと、本当なのか嘘なのかよくわからない理由かららしい。
確かに俺は綺麗好きな性格上、掃除はよくするほうだ。どの生徒の部屋よりも清潔にしている自信はある。
だが、そもそもそんな理由で訪ねにくるというのならば……
「綺麗な部屋がご所望なら、自分の部屋を掃除すればいいだけじゃないっすかミカさん?」
「人にはね、できることと、できないことがあるんだよ」
「素直に掃除めんどくさいって言えよ」
誰よりも優れた美貌を持ちながら、反面この人はすごいズボラだ。百年の恋も冷めるぐらい生活がだらしない。
この間なんて寝ぼけてタンクトップとショーツだけの姿で外を出歩いていて、アキに『アホかああっ!』とこっぴどく怒られていたほどだ。
この人、面倒見てくれる人がいないと日常生活もまともに送れないんじゃないだろうか。
というか、またお部屋ならぬ『汚部屋』と化しているから俺のところに避難しにきたわけじゃなかろうな……。
(久しぶりにアキと一緒に大掃除する羽目になりそうだな)
あれほど掃除は小まめにやれと言い含めているというのに。
……あれ。
てかまさか、今夜はここで寝泊まりする気じゃないよねこの人?
「ミカさん。今日は何時頃に引き上げるご予定で?」
「特に決まっていないよ」
つまり朝日が昇るまで居座ってもおかしくない。
やべえ。泊まる気満々だこの人。
継続の生徒が野営とか別部屋でお泊まりをするのは別に珍しいことじゃない。そういうアットホームな学園なのだ。
……だからと言って男女が一室で夜を過ごすのは、さすがにマズいと思う。
ここはうまいこと言ってなんとか引き上げてもらおう。
というか、さっさと返せよスマホ。
「ミカさん、もう充分遊んだでしょ? 返してくださいよ俺のスマホ」
いつまでたわわチャレンジしてる気だこの人。そんなに自分のご立派な膨らみを誇張したいのだろうか。
もしこの場にアキがいたら『あてつけか!?』って言ってすっごく憤慨しそうだ。お子様ボディなのめっちゃ気にしてるからなアイツ。
というかスマホならアキだって最近買ったっていうのに、わざわざ俺のばかり借りにくる辺りこの人も性根悪いなと思う。そしてスマホを返す素振りがまったく感じられないというね。
「ちょっとミカさん? 聞いてんすか? 返してくださいってスマホ」
「大切なものは自分の手で取り返すしかない」
「は?」
「君にとってこれが大切なものだと言うのなら、すでに手を伸ばしているはずさ。そうだろう?」
「……」
え。
ちょっと待って。
自分で取れって言ってんのこの人?
女の人の胸に乗ったスマホに手を伸ばせと?
「何を躊躇っているんだい? 君にとってこれはその程度のものなのかい?」
「いやいや躊躇うでしょそりゃ」
本気で何言っちゃってんのこの人。
胸元に乗っかった己のスマホを見る。
うん、見事重力に従って柔らかな丘に埋没していやがりますね。普通に掴んで取ろうものなら、指先が立派な膨らみに接触する確率が非常に高い。
役得?
冗談じゃない。
いざ本当に不可抗力で触ってしまったとしてだ。絶対に後日、アキやミッコたちに吹聴されることだろう。「ライヤが鬼気迫った顔で私の膨らみに手を触れてきたよ」とか遠回しな脚色を加えて。
俺の社会的立場が危うい。
ここは知恵を使おう。そうだな。スライドさせて落としてみようか。
……いやダメだ。なんだか余計卑猥に感じられる。
「いいのかいライヤ? このままではいつまでも取り返せないよ?」
そう言ってミカさんはさらに胸を寄せ上げる。
むにゅり、とますます柔肉の中に埋没していく我がスマホ。
ちくしょうめ。ハードル上げてきやがった。
澄まし顔でいるけどあれ絶対に内心でニヤついていやがる。俺をからかうことが楽しくてしょうがないという具合に。
「ああ大変だ。バランスを崩したせいで谷間に埋まってしまった」
そう棒読みで言ってミカさんは胸の谷間にスマホを挟み込んだ。
これはひどい。もうほとんど現物が見えない。
「ほらほら。このままでは私の体温で熱暴走してしまうよ?」
「なんつうかアンタ最低っすわ」
もちろん谷間の中に手を突っ込む勇気なんてない。
もうここは回収することを諦めて、ミカさんが飽きるまで無視を決め込むべきか。
と、その時、俺のスマホが着信を告げる。
ブブブと、豊満な谷間の中で振動するスマホ。
「んっ……!」
「あ」
ミカさんの澄まし顔が一瞬崩れた。
しまった。
マナーモードにしたままだったから着信によってバイブレーション機能が作動してしまった。
よりによってミカさんが胸の間で挟んでいる状態で。
振動が収まらないところ、どうやらL○NE通知ではなく電話らしい。
つまり通話ボタンを押すまで止まらない。
「あ、んっ……」
「……」
揺れている。
スマホの振動に合わせてミカさんのたわわな膨らみも揺れている。
設定を最大にしているから、ものすごく揺れている。
ぽよんぽよんと波打っている。
……なんというか。
うん。
直球で言ってしまうと。
「んぅ、はぁ……」
エロい。
ミカさんが普段絶対に出さないような艶っぽい声を上げているのが余計にエロい。
表情はいつも通りの澄まし顔に戻っているけど、谷間に広がる刺激によって明らかに動揺している。
それを必死に我慢しているのがまたエロい。
エロい。
「……電話鳴ってるんすけどミカさん?」
「その、ようだね」
「……谷間から出したらどうっすか?」
「このぐらいのことで、狼狽える、私では、ないよ」
「めっちゃ汗かいてるじゃないっすか」
何を意気地になっているのか、ミカさんは谷間の中で震えるスマホを取り出そうとしない。
……そんな真似をするものだから、なんだか妙に黒い感情が込み上げてきた。
魔が差して、よろしくない悪戯心が湧いてくる。
「何で取り出さないんすかミカさん?」
「これは、んっ、君自身の手で、はぅ、取り返さないと、んく、意味がないからさ、あん……」
言葉の合間にとても嗜虐をそそる吐息を漏らすミカさん。
そんな彼女を見ると、ますます調子に乗ってしまう。
これは、やり返すチャンスではないかな?
「ふーん。本当にそうっすか?」
「どういう、意味、かな?」
「もしかして、気持ちがいいから取り出さないんじゃないんすか?」
まるで日頃の鬱憤を晴らすように、自分の声とは思えない、サディスティックな言葉が出てくる。
「何を、言うんだい、ライヤ」
ミカさんの顔が上気していく。
それは胸に奔る刺激だけが原因じゃないような気がした。
口が勝手に動く。
「前からミカさんって変わった人だとは思ってましたけど……そんな変態染みたことして感じちゃう人だったんですね?」
「んぅっ」
ビクビクと、俺の言葉で、ミカさんが背筋を張る。
「そんなにいいんすか? 胸の間でバイブレーションしてるスマホ挟むの」
「あ、んっ……」
徐々に彼女の取り繕った表情が解けていく。
そしてどんどん、とろけた艶顔に変わっていく。
なんて、扇情的な反応をするんだろう。
ちょっとイタズラするだけだったのに。ちょっと仕返ししてやろうと思っただけだったのに。
こんな蠱惑的な顔を見せられたら……本気になっちゃうじゃないか。
「まるで変態じゃないっすかミカさん」
言葉が、嗜虐が、情欲が、どろどろに混ざり合って、頭の中をおかしくする。
「変態っすねミカさん。俺の前で感じてる顔を見せる変態さんだ」
「ん、ライ、ヤ、君って人は……」
どうしよう。止まらない。
彼女をこうしてなじることで、とてつもない快感が芽生える。
自分が自分でなくなっていく。狂おしく、ミカという女性をいじめたくなる。
「ほら、もっと喜んだらどうすか? 後輩になじられて、涙目で感じちゃってる、変態隊長さん」
「んぅ……はぁっ、ライ、ヤ」
俺の言葉で、俺のスマホで、あのミカさんが、悶えている。
まるで掌の上で弄ばれるように、とても淫らに、そして美しく……
「あぁっ」
ひと際大きな声を上げて、ミカさんはそのなやましい肢体を弓矢のように弾かせる。
上下に波打つ巨峰。
その反動で、
ポロン、と谷間から抜け出たスマホが床に落ちる。
ゴトリと鈍い音が、まるで魔力を切り払うかのように俺たちの意識を一気に正常に引き戻した。
「……」
お互い無言になる。
スマホはいまだに揺れ続けている。遠目で画面を確認する。
画面には『アキ』の名前が表示されていた。
さすがに出るのが遅かったためか、ブツリとコールは止んだ。
アキの『何で出ないのよもう~!』という非難の声が聞こえてきそうだった。
完全な静寂に包まれる室内。
「……あ~」
一気に頭が冷静になっていく。
……何やってんだ俺?
マジで何やってんだ?
「……すんませんミカさん。なんつうか、マジすんません」
バツが悪くなって、まともにミカさんの顔が見れなかった。
「冷静じゃなかったっす。いや、マジで申し訳ないっす。忘れてください」
ミカさんの珍しい姿を見たせいでいろいろ理性がそげ落ちていた。
正気に戻ると一気に顔が熱くなってきた。
さて、肝心なスマホはミカさんの胸から解放された。
しかし、すぐに取る気にはなれなかった。
……いや、だってな。
女性の温もりが残っているものを直後に使うのは、なんというか、躊躇われる。
たとえば、いつも間近で嗅いでいる電子機器特有の匂いと混ざって、甘ったるいミルクのような香りがしてこようものなら……
うん、とにかく止そう。考えるのも止そう。
電話してきたアキには申し訳ないが、しばらくしてから折り返すとしよう。
ミカさんは何も言わない。
顔を見れないのでわからないが、さすがの彼女も当惑しているようだった。
「えーと。なんか飲みますか? コーヒーぐらいしか用意できないっすけど」
気まずさを誤魔化すようにそう提案する。
うん。そうだな。お詫びとして一杯ご馳走しよう。
ちょうど新鮮なコーヒー豆が手に入ったことだし。
ミカさんに背を向けたまま、キッチンに足を運ぼうとした。
そのとき、
むにゅり
と信じられないくらい柔らかい物体が背中にあてがわれた。
「はひ?」
思わず変な声が漏れる。
女の人特有の芳しい香り。ズボラなくせにやたらといい匂いがする、よく知った香り。
「ミ、ミカさん?」
動揺しながら振り向く。
美しい顔が間近にあった。
綺麗な瞳が、とろけるように潤っている。
白い頬は火照り、ゾッとするほどの『女気』がその表情に宿っている。
艶に濡れたミカさんの美顔。
「ライヤ」
甘い熱を含んだ吐息が首筋を通り過ぎる。
名を呼ばれただけで、鼓膜に蜜を注がれたような感覚に陥る。
「ミカ、さん」
「君もひどいね。このまま終わらす気かい?」
「どういう、意味っすか?」
バクバクと鳴る心臓。
言葉を形作るミカさんの唇が、異様に艶めかしく感じられる。
「この滾りに滾ってしまった火照りを、どう鎮めてくれるのかな?」
「え?」
「聞こえるかい? 君の言葉で、君の視線で、こんなにも胸が高鳴っているんだよ?」
そう言ってミカさんは俺の身体に細腕を回す。
より密着する肉体。ありえないほどに柔らかな物体が押し潰れる。
背中を越して届くミカさんの動悸。同じように高まる俺の動悸。
「君も鈍感が過ぎるんじゃないかな? 女の子がこうして毎日のように男の子の部屋を尋ねに来る理由ぐらい、そろそろ察してくれてもいいんじゃないかな?」
「それって……」
つまり、
「ミカさん、俺は……」
こんなの急すぎる。どう反応すればいいっていうんだ。
俺の混乱など無視して、ミカさんはどこまでも色欲を滲ませて、その肉感的な肢体を押しつけてくる。
耳元に寄せられる彼女の唇。
「……君も男なら、覚悟を決めてごらん」
「あ……」
脳髄を揺さぶるような囁き。
理性が溶けていく。
頭の中がドロドロになって、ミカさんのことしか考えられなくなる。
どれぐらいの時間そうしていたのか。
俺の手はやがて自然にミカさんの身体に伸びていき……
「ライヤ~? いる~?」
「っ!?」
寸前のところで、ドア越しから呼ぶ声に俺は跳ね上がった。
アキの声だ。
「シチュー多めに作っちゃったからお裾分けに来たんだけど、よかったら一緒に食べない?」
さっきの電話はその件だったのだろう。
通話できないため直接来たようだ。
アキはよく俺に作り余った食事を恵んでくれる。いつもたいへん感謝している。
……が、今夜に限っては遠慮したい。いまの状況を真面目な彼女に見られたら、いろいろとマズい。
どう見ても不純異性交遊一歩手前の俺たち。見たら癇癪玉が破裂するに違いない。
ただでさえアキは俺が女子と親しくしていると、やたらと怒るというのに。
「な~にが作り余っただよ~。ほんとはライヤに食べて欲しいからわざわざ作ってるんだよな~アキ~?」
「な、なに言ってんのミッコ! そんなじゃ、ないし……。ていうか何でついてきてんの?」
「あたしにもシチュー恵んで~♪」
「もう~」
どうやらミッコも一緒にいるらしい。
ますますヤバい。
アイツにこんな状況見られた日には一気に噂を広められてしまう。
「ちょ、ミカさん、離れてください。ヤバいですって。誤解されるっすよ」
小声でそう伝える。
いや、誤解されるどころじゃない事態に危うく転じそうだったんだが、いまは状況が状況である。
しかしミカさんは俺を離してくれない。どころかますます強く俺を抱きしめる。
いや、抑えつけるというほうが正しい。
そしてその顔はニヤリと笑っていやがる。
俺はすべてを察した。
「あ、あんたって人は」
やられた。
これも俺をからかうための演技だったのだ。
一瞬でも本気になりかけた自分が悔しい。
女とはなんて恐ろしいのだろう。たとえ演技でも、あそこまで迫真めいた色っぽい顔を浮かべられるのか。
「くっ。この、離せっつの」
「ふふふ」
俺は急いでミカさんの腕を振り払おうとする。
だがなかなか外れない。
むむ、意外と強い。
こんな細いカラダのどこにこんなパワーが……。
恐らく俺が本気でドキドキしたところで「冗談だよ」と言って笑う算段だったのだろう。
しかしいま彼女は新たな遊びを見つけたようだ。
アキとミッコにこの状況を見せつけて俺を困らせるという遊びだ。
ふっ。だがその手にはのらん。
俺は扉に向かって叫ぶ。
「アキ! すまん! 今日はちょっと都合が悪いんだ!」
「え? どうしてライヤ?」
なんてことはない。
適当なことを言って引き上げてもらえばいいだけの話だ。
アキの絶品シチューを食べられないのは非常に惜しいが、世間体を失わないためにも今日のところは我慢しよう。
「実は今夜中にやらないといけないことがあってな……」
しかし、そこで俺の言葉を遮るように、
「アキのシチューか。いいね。せっかくだから一緒に食べようじゃないか」
「ちょっ!?」
わざとらしく大きな声でミカさんがアキに呼びかけた。
なにしてくれてんだこのスナフキン!?
「あれ? ミカもいるの? またライヤに迷惑かけてるんじゃないでしょうね?」
かけられてます。
「にしし。ライヤと二人きりになれなくて残念だなアキ~」
「べ、別に残念じゃないし! ……てか、そう言うなら気を遣ってよミッコのバカ」
ガチャリとドアノブが動く。
やべえ。終わった。
いや、待て。
諦めるな俺。まだいける。
扉が完全に開かれる前に、この状況を打破してみせるのだ。
「うおりゃ!」
「むむ」
渾身の力を振り絞って身体を捻る。
背中で形を変えている柔い物体の感触はとりあえず意識からシャットアウト。
とにかく抜け出すのだ。
咄嗟のことでミカさんの拘束は緩み、なんとか脱出に成功する。
秒速の出来事だった。
勝った。
「あ」
だが勝利を確信した瞬間、人は敗北するという。
強引な動作ゆえに、バランスを崩した俺の身体はそのままミカさんの上にしなだれかかった。
ドシン、と室内に響く鈍い音。
「ちょっ! どうしたの二人とも!? なにいまの、音、は……」
音に驚いて扉を勢いよく開けたアキの視線の先には、
どう見てもミカさんを床に押し倒している俺の姿があった。
そしてどんな物理法則が働いたのか、
もにょん
と、俺の片手はしかとミカさんの豊満な膨らみを鷲づかみしていた。
……なに、このトラブル。
普通なら健全な男子として舞い踊るような初体験。
だが正直感動なんてしている余裕などない。
これ、完全に天国から地獄への直行コース。
サーッと目から光を消していくアキ。
その後ろでこの状況を「わーお」とおもしろそうに見ているミッコ。
そして、
「……ライヤ。君って人は、強引なんだね」
トドメの爆弾を投下する
突き刺さるアキの冷え切った視線。
「……へえ。『今日は都合が悪い』かあ。『今夜中にやらないといけないことがある』かあ。へえ。なるほどね~」
沈んだ声色でアキはそう呟く。
怖い。
愛らしい童顔はいまや修羅のごとき怒気に彩られている。
「待て、アキ。違うんだ。誤解されてもしょうがないとは思うが、事故なんだ。信じてくれ」
そうだ。まだ諦めるな俺。
事情を必死に説明すれば、ものわかりのいいアキは察してくれるはず。
ここは彼女の判断を信じよう。
「弁解の余地をくれ。話し合える時間はあるはずだ。な、まだセーフだよな?」
「アウトだよ!」
ですよねー。
こういう状況では男子の言い分などほとんど焼け石に水である。
悲しいね。
そして「まあ役得な思いしたからとりあえずいいんじゃね?」とちょっとだけ考えている自分に対しても悲しくなった。
「ライヤのバカー!!」
「ぐわー!」
その夜、学園艦から断末魔のごとき悲鳴が星明かりに向かって響いた。
* * *
ライヤが怒り狂ったアキにボコボコにされている傍らで、諸悪の根源であるミカは他人事のようにカンテレを弾いていた。
その隣でミッコが呆れた顔でシチューを勝手に食べている。
「ミカ~。またライヤのこといじめて楽しんでんの~? あいかわらずヒドいね~」
ミッコはアキと違い真相を察している。
しかし口でそう言うわりにはアキを止める様子も、ライヤを助ける素振りもない。
止めたところで無駄だということを、散々経験しているのだ。
ああなったときのアキはとにかく感情を発散させないと止まらない。
「ライヤのアホー! マヌケ! スケベ! 結局は乳かあ!? 男なんて結局は乳なのかあ! おバカアアアッ! ライヤのバカアアアッ! いっつもいっつもこんなに尽くしてるのにいいぃ! バカバカバカ! ライヤの朴念仁んんんんん!!」
アキはその小柄な体躯には見合わないパワーで「オラオラオラ!」と拳を連打する。
装填手特有の怪力と速度は某星の白金に届かんばかりの勢いであった。
罵倒の後半には彼女の本音がさり気なく混ざっていたが、すでに気絶しているライヤの耳には届いていない。
とりあえず後で傷の手当てぐらいはしてあげよう、とミッコは思った。
無事生きてればの話だが。
激しい拳の音とは無関係とばかりに、ポロロンとカンテレの流麗な音色が響く。
「ふふ。ライヤを相手にしていると、ついついからかってしまいたくなるね」
「ふーん。どして?」
「さあ。そこに答えを求めることに意味はあるのかな?」
「さいですか」
はぐらかすようにそう言うミカに対して、ミッコは思う。
(なーに言ってんだか。答えなんてわかりきってんじゃん)
色事に疎いミッコだってわかる。
アキがライヤにいだいている感情。
それと同じ感情をいだいていればいだいているほど、ミカはその相手をいじめたくなる。
そんな小学生染みた、至極単純な話だ。
(苦労するね~アイツも)
ミカのひねくれた嗜好と、そしてアキの激しい嫉妬に振り回されるライヤに、ミッコは同情した。
ついでに自分のようなガサツな女にまで気に入られ……と考え出したところでミッコは意識をシチューに戻した。
さすがアキの手作り。今回のデキもバッチリだ。
手が早いところを改めれば、理想的なお嫁さんになれるだろう。
ペロリとシチューをたいらげたところで、ミッコは隣で演奏を続けるミカに視線を向ける。
「とりあえずさぁ。ライヤの反応が楽しいのはわかるけど、ほどほどにしときなよ? アイツ結構繊細なんだからさ」
「約束はしかねるかな。人の気持ちなんて風のように気まぐれなものだからね」
「はぁ~こりゃダメだぁ」
ミカに改めるつもりはないらしい。
恐らくこの先もいまみたいな展開が何度も繰り広げられることだろう。
心の中でミッコは合掌した。
強く生きろライヤ、と。
「そう。気持ちなんていつも気まぐれに変わるのさ。だから……」
ポロンと一回弦を弾くと、ミカは頬を赤く染めた。
「たまには、いじめられるのもいいかもね」
「え?」
そう口にするミカの横顔は、少女のミッコですらドキッとしてしまうほどに色っぽかった。
ミッコの耳に届かないほどに小さな声で、ミカは呟く。
「──もうちょっと、だったんだけどね」
カンテレの旋律がまたひとつ。
その音色はどこか、なにかを惜しむような、甘い切なさを宿していた。