「……」
眠れない。間違いなく、中途半端な時間に起きてしまったからだ。久々に見た夢は、一年ほど前までずっとそうだった顔も知らぬママの下でエルザと二人でひたすら殺しや壊しに明け暮れる日々をなぞるというもの。そのときには全く疑問も何もなかったのに、いつの間にか飛び起きてしまうくらいには嫌なものになっていた。
竜車の座席に横たえていた体を起こして、ついでにかむっていたかけ布団を脇へよける。なんとなく、外の空気が吸いたくなり、抱いて眠っていたお気に入りの人形を手にして誘われるように竜車の扉を開けて外へ出る。皆すやすやと眠っており、それを見咎めるものは誰も居ない。扉を開ければ、一気に冷たい風が身体を打ち付けて、暗く淀んだ気分をすこしだけ晴らしてくれる。
「なにをしてるかしら」
すこし険を孕んだ声がかけられた。見れば、お兄さんの契約する大精霊――お嬢ちゃんが竜車の御者台でお兄さんの膝の上に腰掛け手持ち無沙汰気味に足をぶらぶらとさせているではないか。お兄さんは何も声をかけてくれないのかと少し寂しい気持ちになったが、よく見れば目を瞑ってすやすやと安らかな寝息を立てている。
「なんでもないわあ。眠れないから、気分転換に少し外の空気を吸いに来ただけよお」
その答えに納得したのか、お嬢ちゃんは私に向けていた視線をお兄さんに向ける。普段は街道沿いの適当な町で宿を取るのだが、辺境に向かうにつれて宿を取れるような町が少なくなっていくのは当然だ。今日はたまたま一日で移動できる距離の内に宿を取れる町が無く、街道沿いに竜車を止めてめでたく野営をしている、というわけだ。当然、女性陣は竜車の中で、お兄さんと騎士さんは外で眠ることとなった。これは勿論男女の別ということもあるが、私たちは王選候補者とその一行だ。たとえここが治安のいい街道沿いであることを差し引いても、万が一への備えを欠かしてはならない。それで夜に誰か見張りを立てる必要があり、普通の精霊と違いずっと現界していられる上に睡眠をとる必要もないお嬢ちゃんがその役目を請け負うのは自然なことだった。とはいえ、お嬢ちゃん一人に任せてしまってもいけないというわけで、今日はお兄さんが見張りに加わることになっていた筈だ。もっとも、当のお兄さんはすやすやと眠っていて、何のための見張りなのかと思わざるを得ない。
「旅はまだ長いのよ。今からそんなに無理することはないかしら」
すやすやと眠るお兄さんに向けていた視線を察知したのか、再びこちらを向いてお兄さんをかばうような一言。別に咎めるような意図は無かったのだけど、どうにもお嬢ちゃんは私のことを穿って見ているようだ。いや、私の過去を考えれば全く仕方がないと思うけど。そもそも、全くそういったそぶりを見せないお兄さんやお姉さんの方がおかしいのだ。それにしても。
「ずうっと思っていたけど、お嬢ちゃんはお兄さんと仲が良いのね」
「当然なのよ!スバルはベティーの一番かしら」
漏らした感想に、屈託も無く返される答え。誇らしげな表情が、とても羨ましい。いつか、私もそんな風におおっぴらにお兄さんとの関係を誇れるようになるのだろうか。お嬢ちゃんは、お兄さんと契約している。だけど、それだけではなくてお兄さんに救われたというのがこのいじっぱりな精霊ちゃんがお兄さんにこんなに懐いている理由。直接そのことを聞いたわけじゃないけれど、お兄さんやお姉さん、ペトラちゃんがそれぞれ漏らした断片的な情報をつなげれば、自ずと解ってしまった。――でも、それは私だって同じ。
「そうなの。それは――すごおく羨ましいわあ」
そう、それが羨ましい。自分にとっての一番なのだと誇らしげに、あけっぴろげに言えることが、私にはまだできない。そうするには、敵と味方としてであったという過去が重すぎて。お兄さんだって、そのことを完全に消化しきっているわけではない。ただ、屋敷を襲わせた背後関係について知るために捕縛されて、それでも小さな女の子ということだけで丁重に扱われて。お兄さんだって、無機質な牢の中に入れておくのは目覚めが悪いから、という以上に私に優しくしてくれる理由を示しはしない。
でも、たとえそうだとしても。私は、間違いなくお兄さんの優しさに救われた。最初はどうとでもなれ、と投げやりに思っていた私も、いつの頃からかお兄さんが来るのを待ち遠しく思うようになった。何故だろう、お屋敷の地下室でひっそりと過ごす日々は前よりもずっと窮屈なはずなのに、それよりずっと自由だったはずの前の生活に戻りたい、だなんて全く思わなくなっていた。今だって、手に持っている彼手製のぬいぐるみからは材料によるものではない温かみを感じているのだ。だから、私はこの長旅で、お兄さんへの協力を申し出たのだ。
「――そう。スバルが、巷でどういわれているか知っているかしら」
ふいに、お嬢ちゃんが問いかけてくる。急にどうしたというのか。問いかけの意図を理解できずに困惑する。
「『英雄』とかかしらあ? 白鯨や大兎を討ったんだから、それぐらいでもお、おかしくはないわあ」
そう、彼こそが『英雄』。白鯨を打ち破り、大兎を討伐し、大罪司教をも退け――そして、私を助けてくれた。しかし、その言葉を聴いた彼女が浮かべるのは、してやったりと言わんばかりの笑み。
「そう、それもあるのよ。でも、別のものでは――『幼女使い』。誰が呼びはじめたのかわからないけれど、今のお前を見ていると全くその通りだと思うかしら」
精霊の少女は、にまにまと人の悪い笑みを浮かべている。何もそんなところまで契約者に似なくても良いものを。吹き付ける風が心なしか少し冷たく感じるようになったのは顔の温度が上がったからか。何か抵抗を試みようかとも思ったけど、きっと旗色は悪くなるばかりだろう。どちらにせよ、気分転換にはもう十分だ。さっさと中に戻って寝よう。きっともう、悪い夢は見ないから。――尤も、少し火照った身体が、眠りを受け入れてくれるかは別問題だが。
「そろそろ、失礼するわあ。それじゃあ、また朝に」
そう言って、竜車の中に戻ろうとする。再び取っ手に手を掛けて扉を開けば、外よりも幾分か暖かい空気が肌を撫でる。入ってそのまま、後ろ手に扉を閉めようとして、扉が締め切られる寸前。蚊の鳴くような小さな小さな呟きが、風に運ばれて耳に入ってくる。
「お休みなさい、なのよ」
――ああ、本当に。この陣営の人たちはどうかしている。それでも、それを嫌だともなんとも思わない私自身が、一番どうにかしているのかもしれない。きっと、朝日が上るのを見ることになるだろうと、頭の片隅で漠然と思った。