「ほな、うちらはこれで失礼します。おおきに」
そう言って、アナスタシア様は応接室のソファーから立ち上がる。もちろん、自分も。応対していた男爵家当主の弟――当主は東方領主会議関係の用事で出かけていてたまたま不在だった――も、立ち上がり見送ろうとする。弟君の顔色は傍目にもはっきりと悪く、態度も何処か落ち着かず動揺しているのが見て取れる。当然といえば当然な話で、今しがた王選候補者とその騎士たちがアウグリア砂丘に挑むなどという話を聞いて気が気でないのだろう。
勿論こちらは生きて帰るつもりでしかないが、ここら一帯を治めている領主としてはそのように言って結局帰らなかったものたちなど山のように見ているのだろう。純朴そうな弟君は半泣きになりながら必死に砂丘の危険性を具体例を引っ張りながら説き、途中からは情報収集の一環にされたと感づいていながらも私たちを止めようとするも、最終的にはアナスタシア様の手腕の前に宥められてしまった。本当に、アナスタシア様の人間心理を突く力やそれを生かした交渉力には感服させられる。見送りを受けながら男爵家の屋敷を後にして、しばし歩いた後にアナスタシア様に声をかける。
「見事でした。相変らずのお手並みです」
「いややわあ、うちが全部操ったみたいに言わんといてえな。ま、田舎の人は素直で助かるのは事実やけどね」
心の底から出た賛辞は、しかしどうにも少し穿って理解されたのかと思いきや、アナスタシア様は悪戯げな表情を浮かべている。どうやら冗談の類だったらしい。尤も、その後の発言で色々と台無しである。苦笑しながらも彼女よりも道の内側を歩き、竜車の類が跳ねる砂がかからないようにする。彼女もこのひと月でそう扱われることに慣れ、またそのような関係性を築くことにも今のところ成功している。
「でも、領主さんもあんまり情報もってへんかったなあ。男爵家ならもう少し情報があるかと思ったのに」
先ほど挨拶をして「王選候補者たち一行が砂丘で行方不明になっても自己責任です」という旨の書状を渡したのは、ミルーラを中心にこの一帯を統治している男爵家だった。当然、アウグリア砂丘に関しての貴重な情報を持っている筈だ――と期待したのだったが、その目論見はあてが外れてしまった。弟君から引き出せた情報はそう多くなかった。アナスタシア様の言葉は続く。
「まあでも、弟くんの口から聞くことで改めて確かな情報になったんやから、それに関しては御の字やね」
情報は、量もそうだが確かなものであるか、言い換えれば真偽もまた重要である。その点、ここ一帯を治める領主の言葉であれば、そうとう信頼しても良い情報といえる。ともあれ、ただ単に一行が帰ってこなかったときのために領主の責任を軽減する配慮をしようという意図しか持たなかったこの会談で、情報収集もついでにしてしまおうと言い出したのはアナスタシア様である。些細な場であっても出来る限りのことを、とは彼女の弁であるが彼女の態度は一貫して全てにそうであり変わることが無い。欲しいものを手に入れるためには労を惜しまないのを、その欲しいものの大きさゆえにある人々は強欲と捉えて軽蔑するのかもしれないが、私はそうではない。そのような誰よりも自分に厳しいあり方を貫き、飽くなき向上心を持つアナスタシア様に私は有るべき理想を感じた気がして――だから私は彼女に忠義を捧げたのだ。
それは、たとえこの『名前』が失われようとも変わらない。幸いにして、アナスタシア様も今のところは私を騎士として扱ってくださっている。ならば、彼女の目的のためにこの剣を振るおう。かかる火の粉を私が払おう。それが騎士の務めというもの。
「ユリウス、聞いてるん?」
ひょい、と突然目の前に現れた顔――今まさに決意を新たにした、忠を捧げる主の顔。少し怪訝げな表情を浮かべて私を見ている。不味い、考えに耽りすぎた。
「――失礼しました。申し訳ありません、アナスタシア様」
「ふーん、まあいいわ。ちゃあんとエスコートしてな」
聞くだけ聞いて、生半可な返事しか返さなかった私を咎めるようなこともしない。気を使われているのだろう。彼女の気遣いがありがたいと共にまだまだ自分の至らなさに歯噛みする。主に気を使わせてどうするのか。こんなことではあの黒髪の少年に笑われてしまうな、と自嘲しながら再び歩き始める。今度は主の言葉に耳を傾けながら。
「そうそう、やっぱり瘴気というのが難しいところやねえ。周り全部が汚染されてるっていうんは、思ってるより大変やろうね。特に砂。少しでも口を空けたりしたら、容赦なく汚染された砂が入り込んでくるから気いつけんとあかんなあ」
投げかけられた言葉は、アウグリア砂丘の困難さを物語るもの――先ほどの男爵家で裏づけを得た。とはいえ妙だ。なんというか違和感がある。そしてそれは、プリステラを発ってからずっと感じていたこと。先ほどから、私はずっと相槌を打っているだけで、アナスタシア様が延々と話し続けている。それが別に不満というわけではなく、嘗てのアナスタシア様なら私の意見を求めてきていた。それなのに今は、そうやって喋ること自体が目的となっているかのように舌を回し続けている。そして、違和感はそれだけではない。
前方から、いかにももふもふな亜人族の少年が歩いてくる。当然、アナスタシア様の視界にも入っているはずだ。かつてなら、その声を一段と高くして、捲くし立てるように私に喋りかけてきたものだった。しかも、特にお気に入りの子を見つければ駆け出していって言葉巧みにその毛並みを堪能しようとしたことまである。だというのに、アナスタシア様は延々とアウグリア砂丘の砂について語り続けている。
まあ、どちらにしても些細な違和感だ。アナスタシア様に少しご心境の変化でもあったのかはたまた『名前』を食われて変わってしまった関係性の相手にそんな姿を見せないようにしているかのどちらかだろうと結論付けて、砂に取られそうな足を動かす。一行が泊まる宿屋はもう目の前にあった。私は宿の前で足を止めるが、アナスタシア様はそのまま建物の中に歩みを進める。当然、数歩分の距離が開き、アナスタシア様が振り返る。
「ユリウス?」
宿に入らへんの? と彼女の瞳が問いかけている。それでも良いが、主の力になるために、他にもまだやれる事がある。
「いえ、砂時間なものですから、目を慣らしておこうかと」
なるほどと言わんばかりに主は頷き、苦笑を浮かべて言葉を続けた。
「頑張るんはええけど、頑張りすぎて目を傷めんようにな」
ほなまた後でな、といって主は手を振って宿屋に入ってゆく。さて、私も目を傷めない範囲でこのあたりを散歩するか、と気を取り直し一歩を踏み出した。