彩霧広佐の視線 アクセル・ワールド 作:かいくんtheネクスト
目を覚まして最初に感じたのは首の痛み、そして激しい空腹だった。首を押さえながら広佐は身を起こす。ひどい夢を見た。自分が目覚めなくなる夢は何度か見たことがあるのだが、これほど詳細に、しかも凛火まで登場する夢を見たのは初めてだ。明晰夢が本当に存在したことを広佐は知った。
痛みの原因は首の裏に装着されたままのニューロリンカーにあった、ニューロリンカーを外すことすらできないほど昨夜は疲れていたのか、と寝ぼけたまま考える。近くには外れた充電ケーブルがあり、ケーブルを抜くことすらしないまま眠りに落ちたことを示していた。充電ケーブルを抜き忘れたまま寝たことも初めてではなかろうか。ニューロリンカーを外し忘れたままだったことは初めてではないが。
「えっと、昨日は……そうだ! ブレイン・バースト! 凛火さんと会う約束!」
前日の記憶を取り戻し、慌てて時計を見るが、まだ午前七時前、予定の時間まであと三時間以上ある。それでも十三時間近く眠ったことになるので、よほど普段の疲れがたまっていたのだろう。
次の行動を起こすために立ち上がろうとするが、しかしそこでがくんと体が沈む。
「は、腹が減って体が動かねえ……」
そう、広佐は昨日夕飯をとり忘れているのである。思うように力が出ず、指が震える。とにかく何か口にしなければ、と考え、ふらついた足取りで自室から廊下を通ってキッチンへ行き、冷蔵庫の中に入っていた板チョコをむさぼるようにかじる。一枚まるまる平らげると腹の虫は多少収まった。
歯を磨くために洗面所にある鏡の前に立つと、向こうに映る自分が見つめ返してくる。自分の顔をじっと見ていると、なんだか変な気分になってくる。広佐は自分を顔面偏差値52くらいの人間だと思っているが、こうしてまじまじ観察するとそうでもないような気もしてくる。目元は切れ目というより単なるツリ目だし、鼻は高くも低くもない。顎も特段シュッとしてるわけでもない。いたって中途半端な顔だ。普通、とは思いたくないが。
「なんか、ホントになんなんだろうな」
特徴と言うならゲームが得意というくらい。だがそんなの社会に出てからなんの役にも立たない。よく「勉強なんて社会じゃ役に立たない」と言われるが、ゲームの方がもっとそうだと思う。
「進路、どうすっかな……」
来年で中学を卒業だというのに、広佐は自分の進路についてほとんど考えていなかった。担任との面談ではとりあえず高校進学とは言っていたが、どこに行くのか決めていない。中学を出てすぐ働く気はまったくなかったが、なぜ高校に行きたいのかといえば、「そういうふうにするのが普通だから」くらいしかなかった。
――自分は、なんとなく生きているだけだ。
その思いはずっと、広佐の胸を締めつけている。未来のことから目を背け、ゲームばかりして日々を過ごしてきた。そのせいか、なにをしても楽しくない、息が詰まるような感覚が常につきまとっている気がする。
だが昨日は――凛火と話し、《ブレイン・バースト》に触れたあのときだけは、広佐は未来への不安を忘れ、純粋に「今」を楽しむことができた。あの加速世界で戦えば、何かが変わるかもしれない、と広佐は思った。
「つっても、あれもゲームなんだけどな……」
新宿西口、すごく重要な場所だ。
東京在住のわりに東京にそれほど詳しくない広佐はこの程度の説明しかできない。そもそも休日にほとんど外出しない根暗ゲーマーが東京に詳しくなる方がおかしい。
シンジュクニシグチ、というワード自体はもちろん耳にしたことがあり、東京の駅の出口の中でも特に有名なやつ、という情報くらいは仕入れている。
実際、新宿駅は広佐の家から歩いて行けるくらい近くにあるので何度か駅を利用したことはあるにはあるのだが、学校には徒歩、遊びに行くときはバスを使っているせいで、日常の中で電車に乗る機会はあまりない。電車を利用するときも、家から一番近い南東口ばかり使っていて、西口には一度も行ったことがなかった。
「どうなってんだよここの構造……」
広い新宿駅の地下で広佐はぼやいた。適当に歩けば西口に出るだろう、とタカをくくって歩いていたら東口に来てしまい、反省してニューロリンカーのナビ機能を使ったものの、目的地にたどり着くのに五分もの時間を要した。待ち合わせの三十分前に到着するように家を出たから時間に余裕はあったが、インドア派の広佐は駅を余分に歩かされるだけでもおっくうだった。
しかし、九時四十五分、待ち合わせの十五分前に西口改札前に着いた広佐が、柱に寄りかかって佇む金髪の少女を目にしたとき、ここまで抱いていたいらつきや疲れは一瞬にして吹っ飛んでしまった。早めに来た広佐よりもさらに早く西口で待っていた凛火は広佐の存在に気がつくと、笑顔で手を大きく振った。サンダルを履き、真っ青な半袖のTシャツに肌色の半ズボンを身に付け、肩から白いバッグを斜めにかけた彼女の私服姿は広佐にとっては新鮮で、そんな凛火がまるで恋人に会ったように手を振っているのだから、広佐は色々と大変だった。
「や、早かったね」
「……凛火さんのが早いじゃんか」
「ボクはけっこうバタバタして家を出ちゃったからまだ寝グセとか残ってるんだよね。彩霧、ちゃんと用意して来てるじゃん。すごいよ」
凛火にそう言われると嬉しいが、こっちはかなり早く目が覚めて準備をしてきたのだから当然といえば当然。昨日風呂に入り忘れた分今朝シャワーを浴びたおかげで臭いもしないはずだ。
確かに凛火の髪はところどころ跳ねているが、それは彼女にとてもよく似合っていた。寝癖の部分も含めて凛火の髪型と言われてもまったく違和感のない自然な感じにまとまっているので、本当にそれは彼女の言うようにただの寝癖なのか少しあやしい。
「じゃ、行こっか。なにか特別なものがあるわけじゃないけど、落ち着いてブレイン・
バーストをできるところがあるんだ。グローバル接続は切ってある?」
「あ、ああ、そいつはノープロブレムだぜ」
「ノープロブレムって」と凛火はちょっと笑った。
広佐はフルダイブ型のゲームをしながら寝落ちしてしまうことが結構ある。そうすると自動的にログアウトしてくれる親切なゲームがほんの一部あるものの、基本的にその場に無防備な状態で放り出される。モンスターがポップする場所でそんなことをすればたちまち彼らの餌になってしまうのはもちろん、ダメージを受けない街中でも寝ている広佐の腕を動かして決闘、それも《完全決着》モードというどちらかの体力が尽きるまで戦う決闘の了承画面でイエスを押させ、寝ている広佐を倒してアイテムを奪おうとする輩もいた。一度それの被害にあってレアアイテムをごっそり失って以降、広佐はネット接続状態のニューロリンカーを装着したまま寝てしまった場合、自動的にネットが切れるように設定している。それがまさかブレイン・バーストでも生きるとは思わなかったが、結果オーライ。
などと考えているうちに凛火が歩き出したので、広佐も慌てて後を追う。急いだせいで前を歩く凛火にぶつかりかけ、焦って距離をとる。近づいた際、彼女からはレモンのような香りがした。凛火の五歩くらい後を歩きながら、広佐は友達としてふさわしい物理的距離はどれくらいだろうと考えていた。
東京都道4号東京所沢線。えらく難しい名前のこの道路は駅と半ば一体化したような形をしていて、かつものすごく広い。電車に乗るときは徒歩で来て目的の駅に着いてからも徒歩で目当ての場所まで行くものなので普通駅の周りはあまり規模の大きな車道はない、というのが広佐の常識であったのだが、このシンジュクニシグチという場所は想像を超えている。道路が広すぎて歩行者にとってはなかなかに不便な場所だ。この埼玉県まで続くという太くて長い道路に沿って歩くと、どこまでも高層ビルがそびえ立ち、あまり観光客に優しくないようなオフィス街になる。
それでも進んでいくうちにコンビニやらファーストフード店が見え始めたあたりで途中の小道に逸れ、なんだかよくわからないビルがひしめく道をジグザグに五分ほど歩いたところで、凛火は足を止めた。マンションのようだ。高さは広佐の住む四十階建てと同じくらいだが、フロントの様子はそれよりしっかりしている。
「さ、ここだよ」
もしかして、ここが凛火の家なのか。ふとそう考え、広佐は身を固くした。自宅にお呼ばれするにはいくらなんでも早すぎではないか。
「ボクがブレイン・バーストを渡した人は彩霧を入れて二十八人っていうのは話したよね」
凛火がカードキーでフロントのドアを開け、エレベーターで上の階へ移動しているとき、凛火が言った。
「ああ、この俺が最後なんだっけ」
「そ。でね、今までの二十七人みんながまだこのゲームを続けてるわけじゃなくて、引退しちゃった人も結構いるし、続けてる人の中でもボクが呼んだら来てくれるくらいの人はもう七人くらいになっちゃってさー。けどそのうちの一人が結構お金持ちで、ご両親がマンションを経営しててその空き部屋をバーストリンカーとしての活動のために貸してくれてるんだ。これから行くのがそこだよ」
「凛火さんの家じゃなかったのか、よかった……」
「……ひょっとして彩霧、ボクのこと嫌い?」
「そそそんなんじゃないって! ただいきなりお邪魔するのは凛火さんの家族に申し訳ないってか」
ここで踏み出す勇気があったら、自分は人付き合いが苦手な性格になっていないな、と広佐は思った。なんにせよそれでわかったのは、ここが凛火の家ではないことと、凛火に他の仲間がいること、それから彼らはわざわざ集合場所を用意するほどこのゲームを重視しているということだ。
十六階で止まったエレベーターを降り、規則正しく並ぶドアのうちのひとつの前でさっきと同じカードキーを通し、開錠する。
「入って。おとなりさんもいるからあんまり大きな音は立てないようにね」
部屋の中はなにも置かれておらず、ただカーテンひとつもないがらんどうの空間が広がっているものだと思っていたが、入ってみると意外に物がある。リビングには簡素なソファが置かれ、クッションの敷かれた木製のイスもある。リビングの隅には何を収納するのかわからない棚、その上に今時めずらしいパソコンがある。窓とベランダに出るガラス戸には水色のカーテンがかかり、キッチンには小さめの冷蔵庫も置かれ、生活感があるというほどではないが誰も住んでいない活動拠点としては設備が整っている。
凛火がイスに腰掛け、広佐にソファに座るよう手でうながす。空き部屋に凛火と二人きり、という状況はなんとなく居心地が悪い。
「じゃ、早速始めよっか。彩霧のデュエルアバター誕生会だね」
そう言って、昨日みたいに凛火は直結ケーブルを取り出し、端子を差し出してくる。すでに一度やっているとはいえ、緊張することに変わりはない。
「ボクがやってあげよっか?」
凛火の提案に、広佐は勢いよく首を振って断った。その申し出は非常に魅力的だが、情けない姿を見られるわけにはいかない。なんとか首の裏に手を回してケーブルをつなぐと、凛火の唇が動き、ささやくような声色で加速世界への扉を開けるための呪文が唱えられる。
「《バースト・リンク》」
直後に響く豪雷、青く染まっていく視界。広佐の体がイスアバターへと変化していく。現実世界の広佐から、仮想世界のコウへ。だが今日はそこで終わらなかった。イスになったコウの姿はさらに変化を続け、再び人間の四肢と頭が生まれる。その色は薄めの黒で、そのフォルムは生身の肌ではなくヒーローあるいは機械のように角張っている。まだ腕と足しか見えないが、多分かっこいい。コウは自分がヒーローものの主人公になったように思った。ブルーワールドもコウの二段階目の「変身」に伴い形を変え、まずコウのいる場所がマンションの中から外の地面へと移動し、あちこちに立つ高層ビルもその外観を変えていく。
それらの変化がすべて終わったとき、コウは対戦フィールドの地面に降り立った。
「この俺、爆誕!」
片膝をつけたまま地面に拳をつけた着地ポーズを決め、上がったテンションで叫ぶ。画面の上部に表示された体力ゲージおよびプレイヤーネームを確認してみる。右側に書かれているのは《クリスタル・ユートピア》。昨日ナイトメアが言ったものと同じだから、これが凛火だろう。
左側の名前は《グレイ・レコード》。それがコウの、バーストリンカーとしての名称になる。