彩霧広佐の視線 アクセル・ワールド 作:かいくんtheネクスト
帰りたい、教室のドアを開けた瞬間そう思う。本当は家にいるときから帰りたかった。
新宿の某所にある私立中学校、穂積大学付属中は進学校である。そもそも都内に立つ私立学校という時点で馬鹿にならない学費を要求するのだから、通う側としても相応の教育水準を期待する。そんなわけで、この穂積大付属中の生徒はみな家庭の収入に恵まれなおかつそれなりの学力を持つ。この学校に在籍している以上、それは広佐とて例外ではない。だが広佐は、ここの人間が嫌いだった。教室で話している彼らの声は混ざり合って平均化され、単なる騒音となって広佐の耳を打つ。ニューロリンカーの聴覚遮断機能を使いたくなる衝動をこらえ、自分の席へと足を向ける。広佐の隣の席に、彼女は座っている。彼が学校に行くのをやめない最大の理由が、そこに座っている。彼女は広佐に気が付くと笑って手を振った。
「や、おはよー彩霧」
優しげな瞳を細める彼女は
「おはよう、凛火さん」
彼は可能な限り自然な笑顔で挨拶を返したが、わずかに顔が引きつっていた。
「今日はずいぶん外暑いよね。こういう日くらい休校にしてくれてもいいのにさー」
「あ、ああ、そうだな」
広佐としては永遠に休校でも構わないところだ。いやいやでもそしたら凛火さんと話をする機会が、と広佐は心の片隅で思う。
「凛火さん、日焼けとか、大変じゃないのか?」
「あはは、彩霧の言うとおりだよー。ちょっと気を抜くとすぐひりひりするんだ」
言葉に反して凛火の肌は白く、汗もかいていない。話している間も額から汗が流れる広佐からしてみれば驚くべきことだ。短く切り揃えられた髪は金色で、女性にしては高い身長と真っ白は皮膚は見る者に日本人離れした印象を与える。凛火の気さくさとミステリアスさが合わさった雰囲気が、広佐は好きだった。何より、こんな自分にも話しかけてくれる。朝と放課後の僅かな時間彼女と話すことが、退屈な学校生活たった一つの楽しみだった。
「そういえばさ、昨日彩霧、なんかのゲームしてたよね。あれどういうやつなの」
広佐は学校にいるあいだ特にやることがないので、休み時間にいつも携帯ゲームをしている。現在ゲーム業界は完全にニューロリンカーをハードとするVR世界へダイブするタイプのゲームへと移行し、携帯ゲームどころかヘッドギア型のダイブマシンすら過去の遺物となってしまっている。旧世代のゲーム機はもはや中古ショップの片隅にちょこんと居座っているだけの代物になったが、広佐は携帯ゲームもそれなりに愛していた。学校ではグローバルなネットには接続できず、校内のローカルネットのみ使用が認められており、ローカルネットに用意されているゲームはサッカーやら野球やら、広佐の嫌いな人種の文化ばかり。しかもそうした人間は広佐の居場所であるVRMMOの世界までも侵食しようとしている。それに比べてダイブ技術が登場する以前のゲームはオフラインで、一人で楽しめる。二週間前にあのゲームに居場所を失って以来ずっと、広佐はいっそこれからは昔の一人用ゲームに専念しようと思い続けている。けれど、そう思いはしても決心がつかないのは、きっと――――。
「彩霧、大丈夫?」
「――あ、ああ、何でもない。昨日のやつは普通の王道RPGさ。記憶を失った主人公がドラゴンと一緒に旅をするっていう話で、ストーリーもすごくいいんだけどゲームバランスも絶妙なんだ。物理と魔法がどっちも攻略に必要だし、リソース管理に気を遣いながら戦わないとどこかで詰まる。この俺も4章はかなり苦戦して……って、ごめん、興味ないよね」
「そんなことないよー。ボク、王道大好き。キャラクターもかっこよかったし」
「そ、そうか。なら今度一緒にゲームしない?」
「あ、それいいいなぁ。彩霧、詳しそうだからきっと楽しくなるね」
凛火にそう言われると素直に嬉しい。だけど俺の言う今度はずっと来ないかもしれないな、と広佐は思った。あるいは来ない方がいいのかもしれない。
「凛火ちゃんおはよー」
「うぃーっす凛火」
彼女の友達の挨拶が、楽しい時間の終わりを告げる。彼女らは広佐のことなど眼中にもないようだった。凛火が広佐とだけ仲良くしているわけではないのはもちろん広佐も知っている。それでも凛火が女友達二人と談笑しているのを見るたびに、広佐はもやもやしたものを感じずにはいられない。
「ね、彩霧さ、もし時間があったら放課後に体育館裏に来て」
凛火が耳元でそう囁いたとき、広佐は幻聴でも聞いたのかと思った。だって女子が男子を放課後の体育館裏に呼びつけてすることなど、広佐はひとつしか知らない。そして広佐は、凛火と自分の関係はよくて友達、悪くて世間話をする他人くらいだと思っている。どう考えても、それがその程度の親しさの人間にかける言葉だとは考えられない。
「あの、凛火さん今なんて」
彼女は広佐の問には答えず、ニコッと笑ってそのまま友達の輪へと入っていった。広佐は自分の口が半開きになっていることにも気づかず、凛火の背中を見ていた。
放課後まで何一つ手につかなかった。
凛火の約束を頭の中で反すうしてはその意味を考え続け、気が付けば授業は全部終わっていた。彼女は体育館裏で何をしたいのか。彼女が広佐に好意を抱いていて、その想いを伝える、普通に考えるとそうなる。だけどそんな普通が起こってしまうのは異常だ、と広佐は思う。たまたま席が隣なだけで付き合いといえば毎日ほんの少し雑談をする程度。仲がいいと言えるかすら怪しい相手を好きになるだろうか。
だが、その思考が矛盾していることを広佐は感じていた。なぜなら、広佐はその程度の関係でしかない可児凛火のことが好きだから。