彩霧広佐の視線 アクセル・ワールド 作:かいくんtheネクスト
もう夕方だというのに、ひどく暑い。
いや、暑いのではない、熱い。広佐の顔が熱くなっているのだ。
凛火さん、なんてことをしてくれるんだ、とコウは思った。耳までひりつくくらい熱くなっている。あんなのギャラリーに見られていたらどうするんだ、とも考えたがクリスタル・ユートピアは透明だからギャラリーからは見えない。
「どうしたの? 体、重い?」
棒立ちで固まっている広佐の顔をのぞきこんで、心配そうに凛火が言った。いきなり目の前に凛火の顔が現れ、広佐はびっくりして後ずさった。今自分がどんな顔をしているのかも、どんな顔をすればいいのかもわからない。恥ずかしくてまともに凛火を見ることができなかった。
「あ、ひょっとして~、ボクのかっこいい姿を見て、惚れちゃった?」
「ほ、ほ、ほ、惚れ――――!? な、なななん、そん――とは――」
惚れただって、なにを言ってるんだ、そんなことはあるわけないだろ。広佐が言いたいことを過不足なく表すとこうなる。動揺しきった広佐にはこの簡単な返答を言葉にするだけの余裕はなかった。
思いっきり舌をもつれさせる広佐に、凛火はいたずらが成功したときのように笑った。
「もう、彩霧はかわいいなぁ。じょーだんだよ。それじゃ、また明日学校でね!」
不意打ちをくらって広佐が混乱した状態から抜け出せないうちに、凛火は手を振りながら走り去っていった。
立ち尽くしたまま、凛火がいなくなった方角を見続ける。行ってしまうのが早すぎる。彼女が去ったことを実感するのに何秒かかかった。いきなり広佐の心を揺さぶって、落ち着く前に走って行ってしまった。
ぼんやりと歩道の脇に立ったまま、これまで凛火としたことを思い返す。昨日、凛火からブレイン・バーストを受け取って彼女と前より話すようになってから、凛火の印象はずいぶん変わった気がする。最初は、ぼっちの自分にも話しかけてくれる優しいクラスメイトというだけだった。
しかし、今日の凛火は広佐が知っている彼女よりずっと表情豊かで、広佐のことを思いやってくれて、とんでもなく強くて、そしてちょっとイタズラ好きだった。
「元から惚れてるんだよな……」
――だけど、前よりもっと……。
とりあえず、広佐も帰ることにした。
広佐の住むマンションはここから歩いて十五分のところにある。昼間凛火と一緒に歩いた場所は繁華街だったが、これから帰るのは西の方だ。色あせたコンクリートでできた建物が並ぶ、住宅と昔ながらの店で構成された、下町といった風情の場所。だが、その中に建っている広佐のマンションはまだ作られてから十年しかたっていない。
マンションが建った十年前、というのは、広佐がこの場所に引っ越してきたときでもある。それより以前は名古屋に住んでいたのだが、父親の勤める電気機器メーカーが本社を名古屋から東京に移転させたことで、家族で東京に移住することになった、らしい。
その際に、両親がまだ新築だった一軒のマンションを気に入り、そこの五階を購入した。
最新の設備が充実し、《オーグマー》をはじめとした携帯端末とマンションのセキュリティを連動することでより安心で便利な生活を送ることができる点が決め手だったようだ。そのシステムは今もニューロリンカーとの連動に受け継がれている。
おかげで住人がマンションの玄関に立てば電波認証で何もせずともドアが開き、エレベーターは起動し、部屋のロックも解除される。快適この上ないサービスである。引っ越して最初にこのサービスを体感したときは広佐も兄と一緒にはしゃいだものだ。今も広佐はただ一点を除いて、自分の家に不満はない。
ちなみに都心でシステムがしっかりした3LDKの家を買おうとすると、ちょっとびっくりするくらいの金額になる。それをローンや会社の補助込みでも購入にまで踏み切れるということは、広佐の家はそれなりに経済力があるということで、それはつまり広佐の両親には相応の収入があったことになる。
歩きながらそこまで考えて、広佐は別のことを思い出した。
「そうだ、夕飯の材料、買ってこないと」
疲れていれば冷凍食品で済ましても構わなかったが、今日の広佐はすこぶる気分がいい。広佐はアニメの主題歌を鼻歌で歌いながら、近所のスーパーへの道を進んでいった。
電子化の新時代とも言われるこの2046年においても、スーパーはなくならなかった。今から約二十年前、先述した小型ウェアラブルデバイス《オーグマー》の登場によってケイタイデンワの時代は終わりを告げたとき、誰もが思った。――これから既存の産業はすべて電子化されるだろう、と。これは広佐の叔母から聞いたことだ。
そしてその直後、電子化の流れは世界全体を包むことになる。以前より直感的に操作ができ、機器をポケットから取り出し、電源をつけ、ネットにアクセスするといった動作すら必要としない。気が向いたときに視界に映る画面をタッチすれば目の前に仮想の店舗が出現し、そこでショッピングができる。そんな夢のような話が現実になり、人々は熱狂した。
だが、急速なネットワークの進化は同時に弊害を生み出す。ネットでの注文が増えすぎた結果、運送会社がパンク、都心ではトラックによる渋滞が頻発し、都市の道路が飽和状態に陥った。
さらに、ネットワークシステムが複雑化した影響でそれに適応できない規模の小さな店舗が悲鳴を上げた。これを憂えた政府はネットショッピングの規制を厳しくし、店舗を保護する方針を取った。
そして結局、消えると言われたものの多くはなくならなかった。失敗を通して、人は新しい技術との向き合い方を学んだのだ。
日は完全に落ち、空はオレンジ色から沈んだ水色へと変わっている。それでも道の両側に並ぶ店の明かりは街を明るく照らし、何人もの道行く人が広佐とすれ違っていく。明るく笑い合う顔、無表情な顔、不機嫌そうな顔。
人にはそれぞれ自分の生活がある。この一週間にあったこと、今日起こったこと、さっきの出来事、同じ最近でも、どこを見るかで、気分というものは簡単に変化する。向こうから歩いてくる人はどの時間を見ているんだろう、と広佐は考えながら、歩き続けた。
玄関に置かれた靴がひとつ多い。
夕飯の買い物を終え、帰宅した広佐が真っ先に感じたことがそれだった。いつも玄関に置いているのは広佐のスニーカーとサンダル、それから黒のローファの三足だけだ。広佐はまだ家に上がっていないので、ここに置かれているのはサンダルとローファの二足ということになるはずが、もうひとつ余計に靴が置かれている。
つまりこれは来訪者がいることを意味する。靴の種類からそれが誰なのか、広佐はなんとなくわかっていた。
食材の入った買い物袋を提げたまま廊下を渡り、リビングに入る。来訪者はソファに座っていた。
そこにいたのはなんと、つい一時間前に別れたばかりの凛火だった――――――らどれほど良かっただろう、と広佐は心から思った。
「――何しに来た」
不快感を隠そうともせず、広佐は言った。ソファに腰を下ろす人物は首を動かして広佐の方を向いた。
「ひどい言い方だな。ここは俺の家だ」
広佐より切れ長だが形の似た目に高くも低くもない鼻、やや尖った顎、そしてオールバックに固めた髪。髪型以外、広佐と面影の重なる鼠色のスーツを着たこの男の名は彩霧和也、広佐の父親にして、広佐が世界で一番顔を合わせたくない人間だった。
「理由になってねぇ。女に愛想でも尽かされたか」
「俺はただ広佐が心配で顔を見に来たんだ。どうだ、宿題はちゃんとやってるか? 進路は決まったのか?」
なにが心配だ、と広佐は心の中で毒づいた。こんな男が他人を思いやるわけがない、どうせ何か別の用があってこの家に戻ってきたに決まっている。
世間体やら体裁は気にして外面を飾ってはいるが、内面はだらしなく、仕事が終われば傍若無人。広佐の和也に対する印象だ。こんな人間を昔は父親として尊敬していたことが恥ずかしい。帰宅した和也に駆け寄って抱きついた思い出など、頭から消してしまいたい。
「アンタが口出しすることじゃねぇだろ。今更父親気分か?」
「いや、人並みに学校生活を送れてるならいいんだ。お前は俺と違って出来が悪いんだから、せめてマジメに勉強して普通の会社に就職しろよ」
「――――っ!! テメェッ!! それが自分の息子に言うことかっ!!」
和也の一言で、広佐は頭の血管が切れそうなほど激怒した。同時に確信した。この男は自分を満たすためだけに今行動している。こいつはそういう人間なのだと。
背中を見せる和也に大股で近づき、彼のネクタイを横から掴んで乱暴に引き寄せる。酒の匂いが鼻をついた。
広佐に掴まれても和也は動揺を見せず、肩をすくめただけだった。
「おお怖い。こんなんでキレてたら社会に出てから大変だぞー」
「仕事以外何一つできねぇクソ無能が偉そうに説教すんじゃねぇよ!!」
大人は嫌いだ。ただ仕事に必要なスキルがあるだけで、ゴミのような人間でも自分は素晴らしく価値のある存在だと思っている。そして子供を見下し、大人という肩書きにしがみつく和也のような人種が、広佐は心から嫌いだった。
息を荒らげて詰め寄る広佐に対して、静かに、それでいて怒ったようなトーンで和也は言った。
「おい、この家は誰の金で買ったと思ってる。お前の学費も、誰が出してる、言ってみろ」
「母ちゃんじゃなく、テメェが死ねばよかったんだ」
広佐は床に倒れた。
和也の力の入った張り手が広佐の頬を打ったのだ。打たれた頬と、倒れたときにぶつけた肩に痛みを感じて広佐は怒りの叫びを上げる。和也も憤った様子で声を荒らげた。
「死ねなんて言葉を軽々しく使うな!」
「――――っざけんな!! 死ねクソが!!」
殴られたことが、広佐の心を深く傷つけ、彼に視界がぼやけるほどの怒りを覚えさせた。怒りで我を忘れた広佐は和也に殴りかかる。和也が広佐の拳を受け止め、手四つで掴み合う形になった。
だが体を鍛えていない広佐は簡単に押さえつけられ、再び床に倒された。もう一度殴りかかったが、同じように倒され、顔から倒れ込んだ拍子に歯が床にぶつかり、口の中を切ってしまう。口の中にしびれるような痛みと血の味を感じて、広佐はその場で悶絶した。
「全く、どうしてこんな風に育ったんだか。いや、育てた俺にも責任があるか。どこで間違えたんだろうなぁ」
「アンタが……のうのうと生きてることが、間違いなんだよ……!」
和也は倒れた広佐を呆れたような目で見下ろした。その目が、広佐の怒りをさらに燃え上がらせる。この男のあらゆる行動が、広佐の神経を逆なでする。和也はなぜこんなにも簡単に、人を怒らせる行動が出てくるのだろうか。
「わかったわかった。悪者は退散するよ。広佐のそんな姿見たら、母さん悲しむだろうな」
「テメェに母ちゃんのなにがわかる!! ペラい言葉で取り繕うな!!」
和也は何も返さず、大きなため息を一つついてネクタイを直すと、大股でリビングから出て行った。
廊下をどすどすと歩く足音がして、次に玄関のドアが開いて閉まる音、それが終わると家の中は静かになった。
家の中には、広佐だけが取り残される。沈黙が部屋を支配した。窓の外からくるかすかな風の音以外、物音を立てるものはない。今の今まで激しい喧騒があったとは思えないほどの静寂。
一人で住むには4LDKのこの家は広すぎる。この広さが、広佐の孤独を強調しているようだった。
和也がいなくなった後も、広佐は床にうつぶせで倒れたまま、立ち上がろうとしなかった。
「……うっ、ううっ……うううううっ……」
広佐の口から嗚咽が漏れた。彼は泣いていた。自分の無力さに。和也を打ち負かすだけの権力も腕っぷしもないことが悔しくて、拳をきつくきつく握って、広佐は泣いた。
「ちくしょう、ちくしょう……」
――自分にもっと力があれば。
拳で床を何度も殴る。広佐のひよわな拳はすぐ悲鳴をあげて、ひどい内出血をおこした。
ゲームの中で強くても、意味ないじゃないか、と広佐は思った。ゲームで活躍したって、結局大人には勝てない。いろんな戦闘技術を学んでも、この身体は思うように動いてはくれない。ゲームで加速ができても――、
「……加速?」
ふと、広佐はその可能性に気がついた。
つまり、加速の力を使えば、和也に勝てるのではないか、ということ。
加速コマンドを唱えると行くことができる青い世界。対戦フィールドに入る前に対戦相手を選んだり、他のプレイヤーの試合を観戦、自動観戦の設定をしたりできる、いわばスタート画面のような場所であり、本来通過点にしかすぎない空間だ。
しかし、あの空間では対戦時と同じく体感時間が千倍にまで引き伸ばされる。相手が行動する直前で加速し、その動きを観察すれば、人間の反射神経を超えた反応が可能になるはずだ。広佐の攻撃に対応しようとする和也の動きが早い段階でわかれば、防げない攻撃を出すことは不可能ではない。
バーストリンカーの条件的に、和也が加速の力を持っていることはありえない。とすれば、加速コマンドこそ広佐が和也に対してのアドバンテージになる。
――今からアイツを追いかければ間に合うか?
広佐は考えた。急いで立ち上がり、台所へ向かう。台所の洗い場からとったのは、いつも調理に使っている包丁だった。
包丁の刀身がぎらっと鈍い銀色に輝く。切れ味は落ちていないはずだ。当たりさえすれば、確実に奴を傷つけられる。これと、加速コマンドがあれば、目的を達成できる。中学生になってからずっと考えていたことを。
――加速すれば、奴を刺せる。あのゴミを殺せる。
血走った目で包丁を凝視しながら、広佐は思った。そして想像したことを実行に移すため、広佐が一歩踏み出そうとしたとき、
――それじゃ、また明日学校でね!
あの声を、思い出した。
はっと我に返り、改めて包丁を見る。違う、これは人に向けるものじゃない。
「なにやってんだ、この俺――」
首を振って包丁をしまい、洗面所へ行く。鏡に写った自分は、それはひどい顔をしていた。充血した目にボサボサになった髪、眉間にシワの寄った跡。人は気持ち次第でこんなに見た目が変わるのかと驚く。
顔を洗い終えると脱力感に襲われた。自室のベッドに倒れこみ、真っ白な枕に顔をうずめてうめく。
和也への強烈な殺意はなくなったが、彼への怒りはなくならなかった。頬のひりついた痛みが、殴られた屈辱を思い出させる。あまり思い出すと、また我を忘れかねない。
母を失うまで、広佐は円満な家庭の子供のはずだった。それまでは、広佐は父も母も大好きだった。両親は広佐の小さいころから高いレベルの教育を受けさせ、近所の子供と一緒に遊ぶことを制限し、それを苦痛に感じたこともあった。それでも、広佐は両親が好きだった。
「……この俺も、昔はバカだったってことだ」
ベッドの上を転がることで気分転換をはかる。しかしざわついた心は簡単には収まりそうになかった。
寂しい、と唐突に思った。普段意識することはないが、こういうとき、家に誰もいないことが響いてくる。静けさが痛い。新宿の雑踏に埋もれたい。そうすれば、自分の悩みなど忘れてしまえる気がした。けれど、そんな気力も残っていなかった。
広佐はしばしの間悩んでから、仮想デスクトップを操作し、通話モードを起動した。交流の輪が極端に狭い広佐のアドレス帳に載っている番号は多くない。目当てのものはすぐに見つかった。
発信ボタンを押す直前でまたいくらか逡巡していたが、気がつくと自分の指がボタンを押していた。頭ではなく体が、広佐を前に進ませた。
コール音二回目の途中くらいで、相手に繋がる。かなり早い。その人と通話で話すのは初めてだし、コールする動機もあって緊張してしまう。直感的にかけてみたが、何を話すかを考えていなかった。
とりあえず何か言っているうちに次の話題が浮かんでくるだろう、と考え、広佐は切り出す。
「もしもし、彩霧広佐だけど。悪い、特に理由はないんだけどコールしちゃった」
なるべく平静をよそおったつもりだったが、声が震えている。
通話の相手はそれに気づいたか気づいていないか、普段通りの明るい声で返した。
「や、さっきぶりだね。もうボクの声が聞きたくなるなんて、彩霧は寂しがり屋さんなんだから」