アスラ王国
王都アルス
剣術“水神流”宗家道場
人気の無い道場の中央で、二人の剣士が互いに木剣を構え対峙している。
一人は、齢六十は過ぎようかという白髪の老婆。厚手の道着を纏い、木剣を手にするその所作は隙が無く、剣術者として相当な領域に達していることが見て取れた。だが、木剣を構える老婆からは一切の殺気が感じられず、半目となり対手を眺めるその姿は、刺繍や編み物が似合うであろう穏やかな老婆のそれであった。
もう一人は齢二十程の若い乙女。対峙する老婆とどことなく顔立ちが似ており、青みのある美しい黒髪と凛とした表情は、老婆の若い頃を知る者がこの場にいたら瓜二つだと評していただろう。
だが、その凛とした美しい顔は、老婆と対峙していく内にみるみると冷や汗で塗れていった。
「ッ!?」
老婆の木剣が、ゆっくりと乙女の首元に近付く。老婆は相変わらず半目を浮かべており、その眼は乙女の姿では無く、その後ろにある道場の壁を見ている様でもあった。
乙女は先ほどから老婆へ剣撃を繰り出すべく木剣を振ろうとしていた。しかし、どう打ち込んでも老婆からカウンターを取られる自身の姿しか思い浮かばない。
技の“起こり”が見えない──
乙女は全身から汗を噴き出し、呼吸を荒げながら、必死で老婆の隙を探っていた。
「ッ!」
ふと、一瞬ではあるが老婆に隙が出来る。刹那の瞬間、乙女はこの絶好の機会を逃さぬべく、その木剣を老婆へと放った。
「ほれ、一本」
「ッ!」
が、乙女の剣が届く寸前に、トン、と老婆の木剣が乙女の首に当てられる。呆気にとられつつ、悔しそうに肩を落とす乙女を見て、老婆はあくまで穏やかな空気を纏わせながら声をかけた。
「イゾルデ。あんたは有利な“後の先”であたしに打ちかかった。でもあんたの剣よりあたしの剣が先に届いた。この意味が分かるかい?」
「……分かります」
イゾルデと呼ばれた乙女が言葉を返す。それを見た老婆は小さく頷きながら言葉を続けた。
「こないだ教えた“目付け”がまだ甘いね。もっとぼや~っと対手の後ろの方を見るんだ。その方が対手の心を感受し易い」
「ぼや~っとですか?」
「そうさね。もっと顔の力を抜いて、口を半開きにして、アホみたくぼや~って見るのさ」
「ア、アホみたくですか……」
「アホみたく……アホみたく……」と真面目な顔をしてうんうんと考え込む、弟子であり孫娘でもあるこの乙女を、老婆は微笑を浮かべて見守っていた。
老婆の名は“水神”レイダ・リィア。
剣術“水神流”当主であり、当代水神でもあるこの老婆は、実の孫娘である“水王”イゾルデ・クルーエルへ日々水神流の極意を伝授していた。
「さて、今日はこれくらいにしようかね」
「はい。お師匠様」
レイダとイゾルデは互いに礼をし、道場に隣接された自宅へと戻る為片付けを始める。
既に門人達の稽古は終えており、レイダはイゾルデを更に鍛える為居残りで稽古をつけていた。
(この娘にも好敵手になる相手がいればもっと伸びるんだけどねぇ……)
木剣を片付け、道場の清掃を始めたイゾルデを見ながら、レイダはふぅと溜息を一つ吐く。
イゾルデは若くして水王級の印可を受けるほどの才気を見せており、その実力は同門の水神流剣士達では太刀打ちが出来ない域に達していた。故に、実力が拮抗した相手との稽古が出来ず、こうしてレイダ自らがイゾルデに稽古を付ける日々が続いていた。
もっとも、これにはいくつかの理由がある。
まず、水王級以上に認定された水神流剣士はイゾルデの他にも幾人かいる事はいるのだが、それらは各地に設けられた水神流道場で指導をする師範代であり、当主レイダがいる宗家道場で水王級以上に認定されているのはイゾルデのみであった。
これには水神流がアスラ王国“御留流”であることが大きく関係している。
受け太刀とカウンターが主体の水神流は、その特性故に貴族や騎士団に多くの門弟を抱えている。彼らの中にも才能ある者も何人かはいるが、基本政務や任務の合間を縫って稽古をする者が殆どであり、その才能を十全に発揮して水神流高位の印可を受ける者は少なかった。
在野で剣技の才能がある者も、“貴人御用達”の水神流の門を叩くことは稀であり、才能がある若者たちの多くは剣神流や北神流へ入門していた。
水神流の骨子である奥義“
極めればどんな攻撃でも返すことが出来る“流”は、水神流の全ての技に通じると言われる程、水神流で最も重要な剣技とされている。とはいえ、余程の手練を相手にするというのなら兎も角、常の相手ならば上級相当の“流”で十分という、剣技の優秀さ故に“奥義を極める必要を無くす”という皮肉な結果を生んでいた。
実力ある冒険者の多くは水神流を上級まで習得すると、さっさと剣神流や北神流の技を磨くべく水神流から離れていくのが常であった。
「どっこらしょっと」
レイダは億劫そうに道場の上座へと座るが、その所作は水の様に流麗であり、当代水神の名に恥じぬ動きであった。
腰を下ろしたレイダはせっせと片付けをしているイゾルデをじっと見つめる。
この才気溢れる孫娘は、一見真面目に稽古に取り組んでいるようにも見えた。だが、水神の慧眼はこの孫娘がやや天狗になっている事も見抜いていた。
(まあ、仕方ないことかもしれないけどねぇ……)
相手が強ければ強い程、水神流はその威力を発揮する。であるからこそ、互いに切磋琢磨できる実力伯仲のライバルがいない現状では、イゾルデの伸びしろが止まるのはやむを得ない状況であった。
イゾルデは良く言えば謙虚、悪く言えば欲が無い。これが野心に溢れる若者であったのなら、明日にでも水神の名を奪い取るべくレイダへ苛烈な修練を挑んでいただろう。イゾルデ自身もいずれは己が水神の名を襲名するべく、真面目に修行に取り組んでいたが、実祖母であるレイダへ遠慮してかその野心を剥き出しにすることは一切無く、あくまで上品に水神流を修行する日々を過ごしていた。
「ま、水神流の剣士らしいといえばらしいんだけどねぇ」
「? 何か仰りましたか?」
思わず漏れた声にイゾルデが反応する。レイダは「なんでもないよ」と、ひらひらと手を振って孫娘へ苦笑を向けていた。
水神流は対手の感情の起こりを見極め、その攻撃に対し確実なカウンターを返す事を旨とする。であるならば、明鏡止水の心を常に持ち、対手に感情の揺らぎを悟らせない事が水神流剣士として最も必要な心構えであった。
だからこそ。
だからこそ、イゾルデの野心を、ほんの少しでも良いから刺激せしめる“狂犬”のような好敵手がいれば、この孫娘の才能を更に伸ばせるのにと、レイダは一人頭を悩ませていた。
「イゾルデ。こっちへおいで」
「はい。お師匠様」
片付けが一段落したのを見計らい、レイダはイゾルデを呼び寄せる。レイダの前で正座するイゾルデは、神妙な顔つきで師匠であり祖母である水神の顔を見つめた。
「今日は面白い……いや、あまり面白く無い話をしようかと思ってね」
「面白くない話ですか……?」
レイダが唐突に始めた話を、イゾルデは不思議そうな表情を浮かべそれを聞く。孫娘の表情を見て、レイダは眼を細めながら話を続けた。
「イゾルデ。あんたはあたしの実力をどう見る?」
「お、お師匠様の実力ですか?」
突然振られた祖母からの問いに、乙女は数瞬考え込むも、直ぐに答えを返した。
「水神、そして水神流当主として相応しい実力だと思います」
杓子定規的な孫娘の返しに、レイダは思わず笑みを零した。
「それじゃあ、初代様と比べても、あたしの実力は水神として相応しいかい?」
「そ、それは……」
イゾルデは思わず言葉に詰まる。
水神流開祖であり、水神流剣士にとって伝説の存在である初代水神レイダル。
古代王国を滅亡の危機に追い込んだ海竜王を討伐し、想い人である王姫と添い遂げたレイダルは、開眼した水神流の奥義に加え水魔術も“水神級”まで習得していたという。
大海原をも瞬時に凍てつかせる大魔術と、全ての攻撃を受け流し必滅の斬撃を返すその武威は、歴代水神が必死になってその領域へ辿り着こうと研鑽を積むも、未だに初代水神を超える実力者は現れておらず。
レイダもまた水神流の秘奥である五つの奥義の内二つを組み合わせた“剥奪剣界”という新たな奥義を編み出す快挙を成し遂げてはいたが、それでも初代水神の武に届くことは叶わなかった。
「イゾルデ。あたしは初代様が今までで一番強い水神だと思っているよ」
「……はい」
イゾルデの心を代弁するかのようにレイダは優しげに語りかける。事実、水神流の奥義を尽く修め、それに加えて水魔術を水神級まで習得出来る人間など余程の才気がなければ成し遂げられず。一流の先にある超一流ですら到達困難な領域は、まさしく“神代の時代の御伽噺”といっても差し支えなかった。
「でもね、そんな初代様でも敵わない相手っていうのも、世の中には存在するんだ」
「初代様でも? そんな使い手がいるとはとても思えませんが」
レイダの言葉にイゾルデは訝しげな表情を浮かべる。各流派の開祖はそれこそ人外の領域にまで達した者達であり、そのような超越者ですら敵わない存在など乙女は想像する事が出来なかった。
「龍神の名前は聞いたことあるだろう?」
「七大列強第二位で、魔神殺しの三英雄の一人、龍神ウルペンから“龍神流”と龍神の名を継いだ古代龍族の末裔とまでしか知りませんが……」
淀み無く応える孫娘の如才無さに、レイダはやや固い声色で言葉を続けた。
「そこまで知っていれば十分さね。あたしはね、その龍神と立合った事があるんだよ」
「お師匠様と龍神が!?」
初めて聞くレイダと龍神との立合い。驚愕を露わにするイゾルデに構わず、レイダは滔々と話を続ける。
「あの頃は若かったねぇ……戦力差なんて考えずに、ただ己の蛮勇を見せつける為に強者に挑んでいたよ。そんな時分に、ガルの坊やと二人がかりで龍神に挑んだのさ」
「お師匠様と剣神様が……」
若き日のレイダと剣神ガル・ファリオン。レイダが水王、ガル・ファリオンが剣聖だった頃に、無謀にもこの二人は龍神に挑みかかった事がある。
結果は惨敗。龍神の本気を一切引き出せずに、文字通り瞬殺劇を喰らっていた。
レイダは初めて明確に“死”を意識したが、何故か龍神はレイダ達を見逃し、その命を奪うことなく姿を消している。
イゾルデは穏健なこの祖母の意外な一面を垣間見て、目を丸くしてその柔和な表情を見つめていた。
「あたしもガル坊も未熟だったからねぇ。なぁーんも出来ずに、けちょんけちょんにされたよ。ガル坊は、まあ多少は食い下がっていたけどね」
「でも、今のお師匠様と剣神様なら……」
「結果は同じさね。まあ、少しは戦えるようになったかもしれないけど、アレの本気を引き出せるとは思えないね」
「じゃ、じゃあ初代様が戦ったとしたら?」
「本気は引き出せるかもしれないね。だけど、さっきも言ったが初代様でも龍神に勝つのは難しいだろうね」
レイダから語られる龍神の壮絶な実力。イゾルデは未知の大強者の実力にただ慄くばかりである。
「世の中には想像も出来ないくらいとんでもなく強い相手がいるもんだ。今の自分に満足せず、より自分の剣技を磨くのを忘れない事だね」
「はぁ……」
イゾルデはレイダから語られた内容を咀嚼しきれていないような、なんとも釈然としない表情を浮かべている。レイダは孫娘の向上心を煽る為に龍神の話をしたのだが、どうも話のスケールが大きすぎたようだと、苦笑しながら乙女の様子を見つめていた。
ややあって、イゾルデは再度レイダへと問いかける。
「あの、お師匠様。もし、龍神に勝てるとしたら、それはどのような存在なのでしょうか?」
イゾルデの問いに、レイダは「ふむ」と考え込むように顎に手を当てる。
龍神はこの世のありとあらゆる剣術、魔術を神級以上の技量で使用する事が出来る。加えて龍族固有の魔術、そして先代龍神ウルペンが開眼せし龍神流奥義“龍聖闘気”をも使用する事が出来、その攻撃力と防御力は文字通り地上最強といっても過言ではなかった。
そのような出鱈目な存在に対抗するには、同じく出鱈目な存在をぶつけるしか無い。
レイダは自身の考えを、ゆっくりと孫娘へと聞かせた。
「アレは理合の外にいる存在だからねぇ。あたしらが想像も出来ないような……剣術や、魔術ではない、未知の技法の使い手なら、もしかしたら勝てるかもしれないね」
「未知の技法ですか……」
固定観念に囚われないというより、それこそ龍神が認識しない
レイダですら想像がつかない程の、合理とは対極に位置する存在なら、龍神を掃滅せしめる可能性がある。
イゾルデは難しそうな表情を浮かべ、うんうんと考え込むも、直ぐに諦めたように息を一つ吐いた。
「私にはさっぱり想像出来ませんね」
「そうだろうね」
レイダは予想通りの返答をするイゾルデを見て溜息を一つ吐いた。自分より遥かに若いイゾルデが、毒にも薬にもならない答えしか返さないのを見て、憂いを込めた表情を浮かべた。
「そんなんだから浮いた話が一つも無いんだよねぇ……」
「な!? お、おばあちゃん!」
やや頬に朱を浮かべながら狼狽するイゾルデに、レイダは増々物憂げな表情を浮かべる。
この水王は、この年齢になっても未だ男の影が一切無く。器量良しなだけに、このまま行かず後家となりえる孫娘の将来が、水神レイダの目下の悩みの一つでもあった。
流麗なる水の剣士達。
彼女らは、あくまで合理の内にいる存在であった。
そして
アスラより遠く離れた北方大地、ルーメンの森では、合理とは対極に位置する人外達による狂宴が、今まさに始まろうとしていた。
信じられない──
双子の兎が、突如現出した光景を見てそう思ったのは詮方無き事かもしれない。
ルーメンの森にて魔剣豪師弟が遭遇せしオルステッドと名乗る人物。双子はこのオルステッドとは全くの初対面であったが、その姿をひと目見た瞬間得体の知れぬ恐怖心、そして嫌悪感が沸き立つのを感じていた。
怯え竦む双子の兎の前に立った虎は、いくつか言葉を交わすと突然その妖刀を抜き放ち、オルステッドへと斬りかかった。
刹那の瞬間、妖刀はオルステッドの首へと吸い込まれる。
然し
「「若先生ッ!!」」
双子の悲鳴が、森の中に響き渡る。
妖刀がオルステッドへ放たれた次の瞬間、ウィリアムの肉体は砲弾の如き勢いで後方の大樹へと叩きつけられた。
その爆発力は凄まじく、叩きつけられた大樹は轟音と共にへし折れ、ウィリアムの肉体は倒木に巻き込まれ双子の視界から消失した。
「チッ……」
オルステッドは舌打ちをしつつ、吹き飛ばされたウィリアムの方へその怜悧な三白眼を向ける。
見ると、その右手の親指は
「この俺に手傷を負わせるとは……!」
オルステッドは切断された手の部位を拾い上げると、即座に治癒魔術を行使して接合する。
忌々しそうに魔力を消費するその様は、予定外の“出費”を強いられたからだろうか。
刹那の瞬間に繰り広げられた龍虎の攻防。
オルステッドはウィリアムの抜き打ちが届く寸前、素手にて水神流奥義“流”を行使し、その剛剣を流麗に流している。神級レベルの“流”は、ウィリアムの抜き打ちをその猛烈な剣勢そのままに跳ね返し、虎は自身から発せられた剣圧によって吹き飛ばされていたのだ。
だが、受け流されたと思われた虎の牙は、確りと龍の拇指を喰い千切っていた。
オルステッドは龍神流の極意である“龍聖闘気”を纏っている。その纏気は帝級相当の攻撃魔術ですらかすり傷程度の損害しか与えられず。かつてウィリアムの兄であるルーデウスがオルステッドと相対した際、この龍聖闘気によってルーデウスは有効な一撃をオルステッドへ与える事が出来なかった。
しかし、ウィリアムの渾身の闘気による一撃、そして妖刀“七丁念仏”の凄まじい斬れ味は、龍聖闘気を貫通し、その肉体へと確りと届いていた。
「う、うあああああああッッ!!」
呆然と龍虎の攻防を見ていた双子の弟ガドが気炎と共に抜刀し、龍神へと吶喊する。蹴散らされた師匠の仇を討たんべく、なけなしの勇気を振り絞っていた。
その後方では突撃する弟を援護するべく、兄ナクルが吠魔術を放たんと“息吹”を始めていた。
「
「シュッ──!? あ、あれ!?」
だが、オルステッドが右手をナクルへ向けた瞬間、蓄えられた魔力が瞬く間に霧散した。
龍族固有魔術“乱魔”
先代龍神ウルペンが編み出したこの魔術は、発動前の同系統の魔力を放つことでその魔力を相殺し、使用不可能にせしめる。
魔術師にとって悪夢としか言いようがないこの絶技。オルステッドは獣族固有魔術である吠魔術も習得しており、ナクルが使用する吠魔術にも十分有効な代物であった。
「兄ちゃん! 何やって──」
来るべき吠魔術の援護が皆無なのを見て、ガドは一瞬だけ躊躇する。
その隙を、
「がぁッ!?」
「ぐぅッ!?」
瞬時にガドの鳩尾に強烈な打撃を叩き込み、返す刀でナクルの側頭部に苛烈な蹴撃をカチ入れる。
その動きの尋常ならざる疾さは、龍族である優れた身体能力に加え、オルステッドの
地を這う双子の兎を、龍神は冷めた三白眼で見やる。
「お前達は殺さん。ヒトガミの使徒で無いのは分かっているからな」
「うぅ……」
「……」
ガドは腹を抑えて蹲っており、ナクルは一撃で意識を刈り取られたのか大の字で倒れ伏していた。
オルステッドは双子を一瞥した後、吹き飛ばされたウィリアムの方へと視線を向ける。
「だが、ヒトガミの手先であるあのアダムスとやらは殺す」
暴力的な殺気を纏わせながら、オルステッドは一歩づつウィリアムへと近づく。ヒトガミの名を出した瞬間、斬りかかって来たウィリアムがヒトガミの使徒である事は、オルステッドにとって疑いようもない“事実”であった。
「む?」
ふいに、オルステッドがその動きを止める。
ウィリアムが吹き飛ばされた先で、オルステッドに勝るとも劣らない程の殺気、そして“怒気”が、猛然と噴出していた。
『この儂を、人神の手先と抜かしたか……!!』
怨嗟に溢れた日ノ本言葉が響き渡る。
悪鬼羅刹の如き憤怒の形相を浮かべた、血塗れのウィリアムが現出していた。
「ッ!」
瞬間、オルステッドの眼前に巨大な倒木が射出される。それは、へし折られた倒木をウィリアムが蹴り飛ばす事で放たれていた。
三十尺はあろうかという倒木を、瞬時に蹴り上げるウィリアムの凄まじき脚力。
鍛え抜かれた肉体、練り上げられた闘気に加え、自身を悪神の手先と断じられたことからの“怒り”で、虎の身体能力は通常よりも格段に跳ね上がっていた。
「チィッ!」
オルステッドは即座に闘気を込めた拳にて倒木を迎撃する。
「ッ!?」
だが、ウィリアムは破砕された倒木に紛れて跳躍し、身体を回転させながらオルステッドへ斬撃を浴びせる。
闘気を限界まで込め、更に遠心力をもぶち足した必滅の斬龍刀!
その撃剣は、オルステッドの頭部へと一直線に向かっていった。
「ッ!?」
「くッ!」
雷鳴ともいえる重金属音と共に、凄絶なる爆裂音が鳴り響く。
オルステッドの左手から突如現出した一本の“刀”
それは、使用するのに多大な魔力を必要とする龍神が切り札“神刀”であった。
古代五龍将が一人、“狂龍王”カオスが拵えし神威の神刀は、魔術の行使と並んで龍神が温存せし必殺の得物であり、龍聖闘気をも貫通する七丁念仏に対抗する為、不本意ながらもオルステッドは神刀の使用を瞬時に決断していた。
だが、交差する“妖刀”はその神威の神刀と打ち合っても折れず。
世界を越え、
共に超越した神通力を持つ二つの刃が交差し、その衝撃は周囲の植物を薙ぎ倒す程の圧力を放つ。
「ぐぅッ!?」
しかし純然たる人族の身でしかないウィリアムにその圧力に耐えきれる力は無く。オルステッドもまた少しばかりその圧力に怯むも、この好機を逃さぬべく身体に力を込め踏ん張る。
刃が交差した瞬間、姿勢を崩してしまったウィリアムは、即座にオルステッドにより“捕獲”されていた。
「ガァッ!」
ウィリアムの首を掴み、そのまま勢いよく地面へと打ち付けるオルステッド。
苛烈な龍の猛威に、ウィリアムは七丁念仏を手放してしまい、その身を地に縫い付けられた。
「殺す前にいくつか聞きたい事がある」
「ぐ、うぅぅッ!」
みしり、とウィリアムの胸骨が軋む音が響く。
オルステッドはウィリアムを地面に押し当てると、その脚でウィリアムの胸を踏みしめ、その動きを封じていた。
同時に、手から衝撃波を繰り出し、七丁念仏をウィリアムの手の届かぬ場所へ吹き飛ばす。
ウィリアムはオルステッドの脚を両手にて掴み、必死になって抗うが、龍聖闘気により守られしその龍脚はびくともしなかった。
「あの剣は、どこで手に入れた」
「ぐぅっ!」
六面世界最強ともいえる神刀に伍する程の妖刀。その存在はオルステッドにとって少なくない衝撃を与えており、自身の、そして龍族の宿敵でもある人神の手先がそれを持つことは、龍神の悲願成就の大きな壁になり得ていた。
「ヒトガミに、何を囁かれた」
「がぁぁっ!」
めりり、と更にウィリアムの胸骨が軋む。
容赦なく虎の胸骨を踏みしめる龍神。その力は、人神によって滅ぼされた龍界の怨念が篭っているのかの如き重圧であった。
「先程言ったあの“言葉”……あれは誰から教わった」
「カッ……!」
ウィリアムが憤怒と共に言い放った日ノ本言葉。それは、かつて共に旅をしたナナホシ・シズカが使用していた“日本語”と酷似していた。
フィットア領転移事件が発生したあの日。中央大陸某所で光と共に現出したナナホシを、オルステッドは即座にその保護下に置いている。突然異世界に迷い込んだこの何も力を持たぬ女子高生を憐れんでの事であったが、自身の“他者に嫌悪される呪い”が効かぬ異世界人であるナナホシは、オルステッドの深層にある“孤独”を癒やす存在でもあった。
当初は全く六面世界の言語を理解していなかったナナホシは、オルステッドと試行錯誤しながらこの世界の言語を習得している。それ故、少なからず日本語を解していたオルステッドは、ウィリアムが言い放った日ノ本言葉を聞き逃すはずが無く。
ナナホシにまでヒトガミの魔の手が伸びている可能性をも見出したオルステッドは、更に怒気を強めてウィリアムへ問い詰めていた。
「き……様……が……!」
「うむ?」
ウィリアムは血がにじむ程オルステッドの脚を強く握り絞める。呼吸すら満足に出来ぬ有様であったが、その血走った眼でオルステッドに睨みつけていた。
己が忠義を捧げる神君の血を引きし異界の姫君。明らかにその存在を知っている節があるオルステッドは、その言い様からナナホシに対する忠義が全く感じられず。それ故に、猜疑心に塗れたウィリアムにとってオルステッドは誅戮すべき“逆賊”と言えた。
同時に、オルステッドの口から人神の名が出たことで、ウィリアムはオルステッドが人神と何らかの関係を持っているとも断じていた。あの狡猾な悪神なら、意識していなくてもオルステッドをその下僕として仕立て上げるのは容易いだろうとも。
前世からの“身分の檻”による因縁、そして今生でも虎の貝殻に巣食う粘ついた猜疑心が、ウィリアムが正常な判断を下すことを妨げていた。
「貴様が……貴様こそが、人神の手先ないならんッ!!」
そして、虎は盛大に龍の尾を踏み抜いた。
「この──」
「ガァッ!」
みり、みりり
オルステッドはゆっくりとウィリアムを踏み抜く力を強める。胸骨がひしゃげ、肺腑に骨が突き刺さり、ウィリアムは黒く濁った血反吐を吐いた。
「この俺が、ヒトガミの手先だとッッッ!!!」
「グガァァァァァァァァァァァァッッッ!!!」
怒りの龍神による酷烈たる責め苦。
先ほどとは比べ物にならぬ剛力で、ウィリアムの胸を踏み抜く。
筆舌に尽くしがたい激痛により、森に虎の血反吐が篭った絶叫が響き渡っていた。
「……もういい。死ね」
オルステッドは満身創痍の虎にとどめを刺すべく、掌に魔力を込める。
冷然とした三白眼で虎を見やり、その処刑を実行しようとした。
だが──
「ほほう! これは珍しい!」
突如、森の中に艶美な美声が響き渡った。
オルステッドは不意に聞こえたその美声の発生源に眼を向ける。
「人の形をした龍と虎が!」
その視線の先に、過剰にして無謬、猥褻にして純潔な──
「闘犬の如く咬み合うておる!」
美麗な陣羽織を揺らし、はだけた胸からその美しい乳房を覗かせる、一人の美丈婦……いや、美丈夫。
まるで、最初からそこに存在したが如く、龍虎の前にその美しい立ち姿を見せていた。
志摩の凶剣
魔界の現人鬼
そして怨身たる業の化身
現人鬼波裸羅
龍虎相争の樹海に現出す──!