虎眼転生-異世界行っても無双する-   作:バーニング体位

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第五十二景『父子(おやこ)

 

 雪が溶け始め、春の足音が近付く魔法都市シャリーア。

 その門を潜るパウロ・グレイラットは、門番との手続きを終えた後、馬を駆け足で走らせる。その表情は焦りに加え、憂鬱なものが浮かんでいた。

 

 “シルフィ姉危篤。スグ戻レ”

 

 バシェラント公国は第二都市ローゼンバーグにてこの知らせを受け取ったパウロは、それまでの次男捜索を中断。急ぎシャリーアへと引き返していた。

 そもそも、パウロが何故シャリーアから離れ、ローゼンバーグへと捜索の足を伸ばしていたのか。

 これは、捜索に同道するパウロ無二の友、ギース・ヌーカディアの判断によるものである。

 

 

 ウィリアムが北神三世アレクサンダー・カールマン・ライバックとの死戦を繰り広げた折。

 その時のパウロは、自身の妻ゼニスの異常行動を受けシャリーア郊外へ向け走っていた。

 そこで、郊外に至る途中、長男ルーデウス、そして第二の妻ロキシーが倒れているのを発見する。

 二人を介抱し、ルーデウス邸へと運び、再び郊外へと取って返す。当然、パウロが武北相撃の戦場へたどり着く頃には、全てが終わった後であった。

 

 パウロが戦場跡を捜索するも、次男の姿は影も形もなく。その場はそのまま帰宅するしかなかった。

 そして、しばらくはルーデウス邸にて生活しながらウィリアムの捜索に従事するパウロ。ルーデウスもロキシーも目立った外傷は無くすぐに復帰しており、同じく正体不明の鬼との突発戦闘により負傷したシルフィエットも()()を負っただけで、特に問題ないように思われた。

 故に、パウロはある決断をする。

 

「ウィルを探しに、しばらく家を空ける」

 

 家族を集め、そう宣言するパウロ。

 己がいなくても、家族はきっと健やかに過ごせるだろう。そう確信し、パウロはシャリーアを発った。

 愛娘達の誕生日を祝う事が出来ないという去りがたい想いもあるが、愛娘達が懐いている次男を連れてくる事こそが一番の祝いになると信じて、パウロは旅立った。

 

 

「ギース。調べはついたか?」

 

 そして、パウロに同行するは一人の男。

 

「ああ。ここ数日調べたが、闇雲に探すよりゃ、多少はマシな情報を仕入れてきたぜ」

 

 そう応えるは、パウロが冒険者として駆け出しの頃からの付き合いである、ギース・ヌーカディア。一流のシーフとしてのスキルを持つギースは、様々な伝手を用いウィリアムや北神の目撃情報を集めていた。

 ギースが仕入れた情報によると、ウィリアムも北神もその行方は全くもって不明。しかし、妙な出で立ちをした三人組の男女が、大きな荷物を三つ程抱え、アスラ方面へと向かう姿が目撃されていたという。

 

「アスラ方面……バシェラント公国か」

「だな。まあそいつらが若センセに関係あるかわからんが、それ以外はこれといった情報はねえし、とりあえず行ってみるしかねえと思うぜ」

「ああ……」

 

 ギースの能力はパウロも全幅の信頼を置いている。こと索敵、捜索能力にかけては、おそらく世のS級冒険者の中でも随一のものであるだろうとも。

 そのギースが()()()()集めた情報だ。多少はあやふやなものでも、現状はそれに縋るしか無かった。

 

「わしは一旦故郷へ戻るが、道中ウィリアムの事を調べながら行くとしよう」

「ああ……すまん、タルハンド。ありがとう」

「なに、わしもウィリアムの事が気になるからのう。礼には及ばぬよ。では、達者でな」

 

 バシェラント公国国境付近までは、元“黒狼の牙”のメンバー、厳しき大峰のタルハンドも同行していた。

 ここで二手に分かれウィリアムを捜索する。頼もしい昔の仲間の助力に、パウロはただひたすら頭を下げるばかり。

 ひらひらと手を振りながら、峻厳なドワーフの男は、豪雪をかきわけるようにミリス大陸──大森林は青竜山脈へと向かっていった。

 

「パウロ、焦るなよ。元々この辺りは人の往来も厳しくなるくらい雪深い土地だ。ミイラ取りがミイラってわけじゃねえが、俺達まで行方不明になるのは避けたい」

 

 厚い外套に身を包んだ猿顔の相棒の言葉に、パウロは無言で頷く。

 もう少し若ければ、無茶な行程も辞さないほど蛮勇溢れる気質のパウロであったが、愛する家族、孫娘がシャリーアで待っている身の上だ。

 ウィリアムの事も心配だが、ギースの言うことももっともであり。

 逸る気持ちを抑えつつ、パウロは寒波に覆われた北方大地を、次男を求め歩み始めた。

 

 

 それから三ヶ月が経過した。

 パウロ達は行く先々でウィリアムの情報を集めながら、出立して約一ヶ月ほどでバシェラント公国は第二の都市、ここローゼンバーグへと到達していた。

 アスラ王国国境から最も近くに位置し、北方大地の入り口ともいえる都市ローゼンバーグ。ここで、パウロ達は悪天候により実に二ヶ月も足止めを喰らう。

 

「こうなったら仕方がないぜパウロ。滞在しつつ、じっくり情報を集めようや」

「ああ……くそっ……」

 

 滞在している宿にて、そう提案するギースに、パウロは難しい表情を浮かべながら同意を示す。

 吹雪が舞う街中の様子を、窓際にて見つめるパウロの表情は冴えなかった。

 

 そして、ローゼンバーグにて情報収集の日々を過ごすパウロとギース。

 しばらくして、ある有力な情報を得る事となる。

 

「これはどう聞いても若センセとナクル達だよな……」

「……」

 

 寒波が過ぎ去り、幾分か天候が落ち着いた頃。酒場にて集めた情報の整理をしていたパウロ達は、たまたま席が近い行商人達の会話を聞く。

 アスラ王国からの交易商隊がローゼンバーグに至る途中、街道ですれ違った一行の姿かたち。それに、パウロ達のよく知るものが含まれていた。

 眼鏡をかけた痩身の青年、なにやら妙な引き眉を描いた女性、表疵が生々しい少女。

 

 そして、兎耳を生やした獣族の若者二頭と、白髪を結わえた虎の如き若武者が一頭。

 

 彼らは一言も発する事なく、黙々とアスラ王国の方角へと向かっていったという。奇妙な一行だっただけに、商人達は酒の肴にその一行を話題に上げていた。

 

「やっぱりアスラ王国か。しかし、なんだってアスラなんかに……」

「ギース。出発の準備をしろ」

「え? あ、おい、パウロ!」

 

 即座に立ち上がり、出立を宣言するパウロ。

 何故、ウィリアムが得体の知れぬ一行と共にしているのか。何故、双子達もそれに従っているのか。何故、シャリーアへと戻らず、アスラへと向かうのか。

 そもそも、目撃された一行が、本当にウィリアム一行なのか。真偽は不明である。

 しかし、ローゼンバーグ滞在中にこれ以上有力な情報を得ていなかったパウロ。己の勘を信じ、行動を起こす。

 

(ウィル……どうしてなんだ……?)

 

 パウロにとって、ウィリアムの生存は己の中で確定となり。

 そして、次男の思惑が全く読めない事が、パウロの焦りを強くしていた。

 

 直接会う必要がある。

 会って、確かめたい。

 ウィル、お前は──もう、俺達家族の事は、どうでも良くなっちまったのか?

 

 そんなはず、無いよな。

 

 

「ちわーす。パウロ・グレイラットさんはいらっしゃいますかー?」

 

 早々に出立の準備を整え、酒場のドアへと進むパウロとギース。すると、外から扉が開けれられ、呑気な声を上げる能天気そうな男が現れた。

 厚い防寒着に身を包んだ男を見留めたパウロは、少し怪訝な表情を浮かべつつ応じた。

 

「俺だが」

「お、貴方がパウロさんっスね。いやーギルドの職員からこの宿にいるって聞いて来たんスけど、見た所出発寸前って感じスね。間に合ってよかったっス。郵便っス。サインおなしゃす」

「あ、ああ……」

 

 そうまくし立てると、男は鞄から一通の手紙と受領証を差し出す。変わらず怪訝な表情でそれらを受け取ったパウロは、サラサラと淀みなくサインを書いた。

 そして、緊急速達便で届けられたであろうその手紙の差出人を見た瞬間。パウロの表情は更に険しくなる。

 

「アイシャ……?」

 

 差出人は、シャリーアで待つ家族……愛娘、アイシャの名前が記されていた。

 

「あざーーっス! パウロさんのおかげで割の良い収入になったっス。あ、でもここに来るまで魔物が怖くて護衛を雇ってるから……なにっ!? 収益がまるでない!! こ……こんなの納得できない」

 

 雑な金勘定をしながら立ち去る郵便屋の声は、もはやパウロには聞こえておらず。

 何か嫌な予感を感じつつ、手紙を開封した。

 

 “シルフィ姉危篤。スグ戻レ”

 

 速達便特有の短い文章。

 それを読み、パウロの身は固まった。

 

「どうしたパウロ。なんて書いてあったんだ」

「……」

 

 覗き込むギースに、無言で手紙を渡すパウロ。

 ギースもまた、手紙を読み表情を固くさせた。

 

「お、おいおい……こりゃあ日付が一ヶ月も前だぜ」

 

 大切な長男の嫁。その危急の報。

 積雪期よりは多少マシとはいえ、残雪期の街道は未だに固い雪がそこかしこに残されている。そのような現状を鑑みると、郵便屋の仕事は決して遅くはない。あまつさえ、雪解けのこの時期は冬眠明けの魔物の活動が活発になる。各都市に駐屯している騎士団や討伐クエストを受注した冒険者が魔物を掃討し、都市周辺や街道沿いの治安を回復させるのも、まだまだ時間がかかるだろう。

 そのような状態でも、郵便物を速達せしめる郵便屋の努力は推して知るべしである。

 

「……」

 

 しかし、それでも一ヶ月も前の出来事を告げられるとなれば、パウロの思考が滞るのは仕方がないといえた。

 

「俺は……」

 

 大切な家族。行方不明のウィリアムも大事だが、シルフィエットもまたパウロにとって大切な家族だ。

 そのシルフィエットが病に倒れている現状。

 どうしてそのような事態になったのか、パウロには分からない。だが、如才ないアイシャが、冗談でこのような知らせを送ってくる事は無いのは分かる。

 

 故に、迷う。

 せっかく掴んだ次男の情報。それを追うか。

 それとも、義娘(むすめ)の大事に駆けつけるか。

 

「パウロ。お前はもう戻れ」

 

 逡巡するパウロに、ギースはきっぱりとそう言った。

 

「いや、しかし」

「しかしもカカシもねえだろ。長男の嫁が大変だって時に、親父のお前が家にいないでどうする」

 

 なるほど、ギースの意見も尤もであり、それが普通なのだろう。

 しかし、己の息子は……ルーデウスは、自分より遥かに優秀な男だ。

 難事があっても、きっと何とかするのでは。

 

「でもルディなら」

「アホかおめえは! まだミリシオンでの事反省してねえのかよ!!」

「ッ!」

 

 しかし。

 そのような事を述べる前に、ギースが一喝した。

 そして、パウロの脳裏に、かつての親子再会が思い起こされる。

 

 あの転移事件の後。

 フィットア領捜索団を組織し、ミリスを中心に捜索活動を続けていた、あの時。

 捨てたはずの家名、冒険者時代の名声、妻の実家の権力。それら使えるもの全てを用いても、一向に家族の消息が掴めなかった。

 

 そのような時に、長男ルーデウスと再会した。

 優秀な息子なら、きっと生きていて──各地に残した己のメッセージに気付き、ゼニス達を探しているだろうと……思い込んでいた。

 自己弁護するわけではないが、あの時は一向に見つからぬゼニス達が既に死亡しているという絶望に苛まれていたから、そのような先入観で息子と接してしまった。

 

 事実は違った。

 魔大陸という最悪な土地に転移し、必死になってエリス・グレイラットを守りながら、ミリシオンへようやく辿り着いたルーデウス。己ですら生き延びられるかどうか怪しい過酷な旅を続け、健気に父を求めて来た、大切な長男。

 それを、遠足気分の呑気な冒険と断じ、理不尽な叱責を飛ばし、殴りつけ、あまつさえ軽蔑の眼差しを向けてしまった。

 売り言葉に買い言葉。すれ違った末の喧嘩というには、あまりにも切ない軋轢が、あの時にはあった。

 

「そりゃあ先輩だってあの時に比べたらもう立派な大人だ。てめえの嫁さんの事くらいてめえで何とかするだろうよ。でも、それでも先輩はお前の息子だ。息子が、家族が大変な時に、親父のお前が支えてあげなくてどうすんだ」

「……」

「何考えているか分からねえ次男坊を追いかけるより、困っている長男夫婦の側にいてやれよ。パウロ」

「……ああ」

 

 思えば、あの時もギースに説教を受け、ルーデウスとの和解の切っ掛けとなっていたのを思い出したパウロ。

 故に、縋るような目を朋友へ向ける。

 

「ウィルの方を任せてもいいか?」

 

 助けられてばかりだ。

 この男には。

 

「おう。任せろ」

 

 ギースはパウロへ(しか)と頷く。

 駆け出しの冒険者として中央大陸南部で燻っていた時分から、パウロとギースはこのように互いに助け合い、今日まで生き抜いて来たのだ。

 言葉は少なくとも、通じ合うものがある。

 

「すまねえ……本当に」

「気にすんなっての。お前がシャリーアに戻っている間に、こっちはこっちで上手くやるよ」

 

 そう言って、猿面の男は諧謔味に溢れた笑みを浮かべた。

 パウロはただひたすら感謝するのみであった。

 

 

 こうして、パウロは一人シャリーアへと帰還する事となった。

 買い付けた馬へまたがり、風のように馬脚を走らせるパウロを見ながら、残されたギースは一人呟く。

 

「……ま、こっちはこっちで上手くやるよ。悪いな、パウロ」

 

 ギースはそのような諦観とも憐憫ともつかない、不可思議な呟きを漏らしていた。

 

 

 

 


 

 一路ルーデウス邸へと駆けるパウロ。

 ここに至るまで特に障害となるような出来事は発生せず、通常よりも格段に早くシャリーアへと到着していたパウロであったが、それでも内にある焦燥感は拭いきれなかった。

 

(急がねえと……!)

 

 義娘の危急。

 今更、己が駆けつけた所で何か出来るというわけではない。

 だが、息子の支えに、家族達の心の支えにはなれるはずだ。

 否、支えにならなければならぬのだ。

 たとえどのような結末になろうとも。

 

「……?」

 

 ふと、パウロは市街地中心部にへ入る前、街外れの墓地に、見知った人影を見留めた。

 

「アイシャ……?」

 

 赤髪の少女。遠目でも分かる、愛娘の姿かたち。

 その表情は見えないが、何かを入れた籠を携えている。

 

「……」

 

 嫌な予感。

 だからこそ、パウロは躊躇わずアイシャの元へ馬を走らせた。

 

「アイシャ!」

「……お父さん?」

 

 数瞬遅れて、アイシャは父に気付く。

 

「アイシャ……」

 

 パウロは愛娘の姿を間近で見ると、僅かに息を呑む。

 若草の如き瑞々しい生命力にあふれていた少女とは思えない程、今のアイシャからは生気は感じられない。その様子に、パウロの悪感は強まる。

 

「遅いよ……」

 

 ぼそりと、アイシャは父へか細い文句を垂れる。

 いや、アイシャ自身も、パウロが驚異的な速度で帰還せしめたのは十分理解している。

 しかし、言わずにはいられない。

 

「アイシャ、シルフィちゃんは──」

「こっちだよ」

 

 パウロの言葉を最後まで聞かず、アイシャはすたすたと墓地へと足を向けた。

 やや呆気にとられつつも、パウロは馬を降り、娘の後に続く。

 いくつかの区画を通り過ぎると、アイシャは最近になって作られたであろう墓石の前に立ち止まった。

 

「おい、アイシャ」

「ここだよ」

 

 そう言ったアイシャ。

 墓石に刻まれた文字。それを見て、パウロは背中が凍りついたように立ち竦んだ。

 

 ここにルーデウス・グレイラットの優しい妻

 シルフィエット・グレイラット夫人の遺体が眠る

 彼女は人生の絶頂を生き

 より大きな悲しみのなかで亡くなった

 

「……」

 

 パウロは目の前の墓石銘を見て、どこか現実味が感じられないように思えた。

 これは、タチの悪い冗談か何かではと。

 そのような逃避気味の思考に囚われる。

 

「シルフィ姉、お父さんが来てくれたよ」

 

 アイシャは墓石を慈しむように撫でると、持参した花を供える。

 よく整備された墓。それは管理人の清掃だけではなく、少女が毎日のように墓参りしたからこそであろう。

 そして、そのようなアイシャの様子が、決してこれが冗談ではない事を、雄弁と物語っていた。

 

「今日はね、あたしの好きな水仙のお花を持ってきたんだよ。シルフィ姉も気に入ってくれるといいな」

 

 アイシャは努めて明るい声色で花を供え、墓石の清掃に勤しむ。しかし、その表情は暗く、陰鬱とした空気を纏わせていた。

 パウロは、ただ黙ってそれを見つめ──静かに黙祷した。

 

「じゃあね、シルフィ姉。また明日」

 

 そして、アイシャは腰を上げると、パウロへと向き合った。

 

「シルフィ姉、だめだったよ」

「……」

 

 涙を堪えるようにそう言ったアイシャ。

 哀しみに耐え、健気に家政を助けてきた少女の、痛ましい姿。

 

「アイシャ」

 

 パウロは腰を落とすと、アイシャをぎゅうと抱きしめた。

 

「あのね、ルーデウスお兄ちゃんも、みんなも、シルフィ姉を助けようとしてね」

「ああ」

 

 パウロの首に、アイシャの細い腕が回される。

 救いを求めるかのように縋る少女を、パウロはその逞しい腕で包んでいた。

 

「ロキシー姉もいなくなっちゃって」

 

 涙声で言葉を発し続けるアイシャ。

 パウロの肩に、少女の涙が零れ落ちた。

 

「お兄ちゃん、それで、お兄ちゃんが」

「アイシャ。もういい」

 

 抱きしめる力を強めるパウロ。

 これ以上、愛娘の、家族の辛い姿を見るのは、耐えられなかった。

 

「もういいんだ」

「……」

「父さんが……父さんが、全部なんとかしてやる」

「ぅ……」

 

 力強いパウロの言葉。腹の底から響く父の言葉。

 それを聞いたアイシャは、とうとう抑えられないといったように、大きな声で泣いた。

 

「わあああああああん!」

 

 赤子のようにしがみつくアイシャが泣き止むまで、パウロは抱きしめ続けていた。

 

 

 

 

 しばらくして、涙で目を腫らしたアイシャを連れたパウロは、ルーデウス邸へと帰宅した。

 

「……」

 

 アイシャだけではなく、家全体が喪に包まれており。

 快活で、幸福な家族の営みがあったとはとても思えないほど、今のルーデウス邸は暗澹たる空気に包まれていた。

 心なしか、玄関を守るトゥレントのビートも元気がない。

 

「ノルンはいないのか?」

「ノルン姉はまだ大学だよ」

「そっか……」

 

 短く応えるアイシャに、パウロもまた短く応える。

 そのまま、玄関の扉を開けた。

 

「……ただいま」

 

 扉を開くと、気重げな空気がより強まるのを感じる。

 この空気が、慈しい家族が一人減ったという事実を、如実に表していた。

 

「旦那様、おかえりなさいませ」

「……」

 

 リーリャがゼニスを伴ってパウロを出迎える。

 伴侶の帰還を受けても、瀟洒な女中婦人の表情も影が刺しており。

 正妻であるゼニスも、変わらずその表情は白痴美であった。

 

「旦那様、あの……」

「大体はアイシャから聞いた。ルディは部屋か?」

 

 帰宅途中に大凡の顛末を聞いていたパウロ。

 シルフィエットの急逝、ロキシーの夜逃げという事実も衝撃であったが、まずは息子の状態をこの目で確かめねばならない。

 パウロの言葉を受け、リーリャはやや辛そうに俯く。

 

「はい……ルーデウス様はお食事の時ですら部屋から出てきません」

「そうか……」

 

 シルフィエットの葬儀が行われ、ロキシーが家を出た後。ルーデウスの心の器には、ひびが入っていた。

 アイシャ曰く、食事は盆に乗せて部屋の前に置いているとの事だが、ロクに手を付けている様子は無い。

 用便の時には部屋から出ているらしいが、家族の誰とも目を合わせようともせず。

 ルーシーの様子を時折伺っているらしいが、それも短時間のみであり、ルーデウスは一日の大半を二階の夫婦の寝室──自室に籠もって過ごしていた。

 その様子は、幽鬼のようだとも。

 

「あの、旦那様。ロキシー様の事でお話が……」

「……」

 

 リーリャはためらいがちにそう言いつつ、アイシャへ視線を向ける。母と同じように、アイシャもまた辛そうに俯いていた。

 アイシャからはロキシーが家を出たという事実しか聞かされていないパウロ。

 しかし、詳細は知らないのだが、何があったのかは、敏いアイシャは察する事が出来た。

 故に、口憚れる。それを言うのは。

 だから、母親である私が伝えねばならないと、リーリャは思っていた。

 

「ああ。でも、それは後にしてくれ」

「で、ですが」

「リーリャ」

 

 リーリャの言を遮るパウロ。

 その瞳は、父親としての貫目が備わっていた。

 

「今はルディの側にいてやりてえんだ」

「……」

 

 そう言って、パウロはリーリャの肩を優しく抱く。

 やや軽佻浮薄な気があるパウロ。それ故に、詳細を知らぬままルーデウスと会わせては、またミシリオンのような致命的なすれ違いが起こり、事態はもっと悪化するのでは。

 そう思ったリーリャだったが、主人の瞳を覗くと、その懸念は霧散した。

 

「大丈夫だ。俺が、全部なんとかしてやる」

 

 娘と同様に、力強い主人の言葉を受けるリーリャ。

 

「……」

「奥様……」

 

 見ると、リーリャの裾を僅かに引くゼニスの姿があった。

 じっとリーリャの瞳を見つめるゼニスの瞳もまた、パウロと同じ。

 子を想う親の情愛が、瞳に表れていた。

 

「……畏まりました」

 

 そう言って、リーリャはパウロへと頷く。

 アイシャと同様に、リーリャにとってもパウロは縋るべき存在だった。

 

「お父さん」

「アイシャ、大丈夫。大丈夫さ……父さんに任せておけ」

 

 ふと、アイシャがルーシーを抱え、パウロへ不安げな瞳を向ける。

 すうすうと眠るルーシーを撫でながら、パウロは安心させるように、努めて優しい言葉をかけていた。

 

 

 家族を一階へ残し、パウロはルーデウス邸の二階へと上がる。

 そのまま角部屋に備えられた息子の部屋へ進んだ。

 

「……」

 

 途中、三つの部屋、その扉に目を向ける。

 ウィリアムが滞在していた客室、ロキシーの部屋、そしてシルフィエットの部屋。

 どれも、今は空室である。

 

「……ルディ。入るぞ」

 

 そして、ルーデウスの部屋の前へと立つパウロ。

 ゆっくりとノックをした後、ノブへと手をかける。

 意外なことに、部屋には鍵はかかっていなかった。

 

「ルディ……」

 

 ドアを開け、中へ入るパウロ。

 そして、目をそむけたくなった。

 

 乱雑に放置された衣服など、部屋は散乱としているのは、そこまで気にならない。

 だが。

 

「……ああ、父さん。おかえりなさい」

 

 じっと、彫像のように、ベッドの縁に座るルーデウスの姿。

 そして、抑揚の無い声で返された無機質な挨拶。

 それらが、パウロの心を苛む。

 整えられた髪は寝腐れ髪のように乱れきっており、清潔を常に心がけていたその容姿は、今は薄汚れた畜獣のような様子を見せている。何日も着古した部屋着は垢染みており、不潔極まりない。

 

 そして、そのような己の様子を全く気にも留めない、ルーデウスの生気の無い表情。

 その目、その瞳は、この世の全ての絶望に苛まれたような、亡者の如き暗闇に包まれていた。

 

「……隣、いいか」

「……」

 

 父の言葉に無反応なルーデウス。

 ある意味ではゼニスと似たような症状と思われたが、根本では違うだろう。

 そう思いつつ、パウロは息子の隣へ腰を下ろした。

 

「……」

「……」

 

 しばしの沈黙が漂う。

 隣に座っても、ルーデウスは特に言葉を発せず、虚空を見つめ続けていた。

 

「……」

 

 パウロは、ここに来るまで、ルーデウスがここまで“病んでいる”とは思ってもいなかった。

 いや、相応に気落ちし、痛ましい姿を見せている事は予想していた。

 とはいえ、これは一体どうすれば良い。この長男に、どうすれば立ち直ってもらえるのか。

 

 一発殴って精神注入をし果たすか。

 否。

 もうあのような短慮極まりない行動は、二度と起こしてはならぬ。

 

 滔々と慰めの言葉をかけるか。

 否。

 今のルーデウスには、そのような“薄っぺらい”言葉は届かない。

 

 いっそ、娼館にでも引っ張り、女でも抱かせて辛い思いを忘れさせるか。

 否。

 己ならともかく、妻を、同時に二人も失ったルーデウスに、そのような行いは悪手極まりない。

 よしんば連れて行けたとしても、今のルーデウスにはそのような手段が有効とはとても思えなかったし、ノルンからは軽蔑され親子関係が断絶状態になるのは目に見えていた。

 

「……」

 

 だから、パウロは。

 ルーデウスの肩を抱くと、そのまま己の胸に寄せた。

 

「……」

 

 父の胸に頭を預ける形になったルーデウス。

 父の頑健な匂いを嗅いでも、ルーデウスの表情は変わらず、人形のように父に体重を預けるだけだった。

 

「……」

「……」

 

 パウロは、ルーデウスを頭を優しく包む。

 ただ黙って、息子を胸に抱く。

 かつてベガリットで再会した時とは逆となった親子の姿。

 しかし、本来はこのような形こそが、父親としてのあるべき姿なのだろう。

 

 そう思い、パウロは黙ってルーデウスを抱き続けていた。

 

「そういや、ラパンの時を覚えてるか? あの時はリーリャと三人で駄弁ってたよな」

「そうですね……」

「俺、ルディとああいう話が出来て、すげえ楽しかったよ」

「そうですね……」

「その後、母さんを助けるまで大変だったよなぁ……俺も、ウィルにヤベえ事しちまったし」

「そう……ですね……」

 

 パウロの独白は続く。

 今のルーデウスに、父の言葉が届いているのだろうか。

 

「ルディ……大丈夫だからな……大丈夫……」

「……」

 

 息子の顔を見つめる父。

 虚空を見つめ続ける息子。

 空虚で、残酷で、優しい時間が、親子の間に流れていた。

 

 

 

「旦那様……」

 

 しばらくして、パウロは一階のリビングへと戻る。

 沈鬱な表情を浮かべるリーリャに、パウロは短く応えた。

 

「時間がかかる。でも、きっとルディを立ち直らせてみせる」

「はい……」

「リーリャ。ルディとロキシーの間に何があったか聞かせてくれ」

 

 アイシャはダイニングでルーシーを寝かしつけており、リビングはリーリャとゼニスしかいなかった。

 

「……エリナリーゼ様の話と、私が知る限りの話で、憶測も含まれておりますが」

 

 そして、リーリャは訥々と語り始める。

 ロキシーが妊娠していたであろう事。

 そして、シルフィエットが亡くなった日に、ルーデウスが()()してロキシーの子が流れてしまった事。

 ショックを受け、精神的に不安定となったロキシーを、エリナリーゼと相談してルーデウスから離した事。

 

「そうか……」

 

 一通りの顛末を聞いたパウロは、深いため息を吐きながらそう呟いた。

 愛する妻を立て続けに失い、あまつさえ生まれてくるであろう子供を、自身の選択の誤りで喪ってしまった。

 哀しみや悔恨など、様々な負の感情がルーデウスを苛み、あのような廃人へと変えてしまったのだろう。

 

「さっきも言ったが、時間はかかる。でも、きっとルディを……」

 

 そう言ったパウロは、それ以上言葉を紡ぐ事が出来なかった。

 一体どのようにすれば長男は立ち直れるのだろう。

 何度目とも分からぬ自問。

 想像した以上に深刻な事態だったのを受け、パウロもまた懊悩していた。

 

 しかし。

 

「……俺は、父親だからな」

「旦那様……」

 

 父としての自責、自覚。

 それは、子を想う親としての、最低限備えるべき覚悟であり、最大限発揮すべき愛情なのだ。

 

「……」

「……母さん」

 

 ふと、呆としていたゼニスが、パウロの隣へと座り、夫の手へ自身の手を重ねた。

 

「……」

 

 パウロはゼニスの手を取り、大切な宝物を扱うように己の頬に当てた。

 

「旦那様……」

 

 見ると、リーリャも、パウロの空いた手に自身の手を重ねていた。

 パウロは、その手を確と握る。

 

「大丈夫さ……大丈夫……」

「……」

「……」

 

 己に言い聞かせるように、瞑目しながらそう呟くパウロ。

 グレイラットの親達が過ごす、久方ぶりの夫婦の時間。

 しかし、それはひどく湿っぽくあり、暗い感情に包まれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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