どこにでもあるようなガハマさんとヒッキーのお話   作:凍傷(ぜろくろ)

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前を向いたあの日から③

 駅から由比ヶ浜のマンションまでの距離をのんびりと歩く。

 電車から下り、ケータイの電源を入れて時間を確認した由比ヶ浜が、のんびり歩こうと提案してきたからだ。いや、時間くらいならそこらに……癖ってやつか。まあ俺も割とするけど。

 ともあれ、のんびり歩く。

 言われるまでもなくそうするつもりだったというのに、改めて言われると照れるもんだな、これ……。

 とはいえ駅から由比ヶ浜のマンションへは、そう遠くない。

 

「ねぇねぇヒッキー、あの時さ」

「あー、あれなー」

 

 他愛ない会話は続いている。

 どんな時にどう思ったのかを隠すことなく、特に、その時に相手のことをどう思っていたのかを正直にぶつけると、その大半で由比ヶ浜は顔を赤くして、俺の腕に自分の顔をぐりぐりとこすりつけていた。

 まあ、その。ワテクシも健康な高二男子ですけぇ、思うところはそりゃあその。なぁ。

 

「………」

「………」

 

 そんな調子だったのに、マンションが見えてくると、自然と足が止まった。

 話し合って解ったことは、意外なほどたくさん。

 だが、今更もっと話し合っておけば、なんて後悔はいらない。

 それはもう飲み込んで、スタートの一歩は踏み出したのだから。

 

「………~~」

「《ぎゅうっ》………」

 

 由比ヶ浜が、不安と期待を込めた目で俺を見上げ、腕を抱き締めてくる。

 待つとは言った。けど、不安がないわけじゃないのだ。

 今まで散々傷ついてきたから。

 明日になれば、またいつもの俺に戻ってしまうんじゃないか、なんてことを少しでも考えれば、不安になるのは当然だ。つか、喩えがちょっと前の自分ってあたり、俺も自分の性格が酷かったことを素直に認めすぎだろおい。

 いや、認めないと、こいつが泣いた幾つかの事実を他人の所為にしてしまいそうだから、それは誰にも譲れないのだが。

 

「……なぁ、由比ヶ浜。気持ち悪く、ないか?」

 

 自分の考える根本を、まず変えてみる。

 妹にも言われてしまう気持ち悪さというのを、俺ははっきりと認識しないようにしている。

 それをしてしまえば妹さえ鬱陶しいと思ってしまうからだ。

 兄にゴミだの馬鹿だの言える妹を好きで居続けるのは、多くの兄からしてみれば難しいことだろう。

 千葉の兄妹が、だのと言ってはみても、そこは現実問題だ、すれ違いだってあるし喧嘩もする。

 だから、そんな自分の気持ち悪さは、直せるのなら直さないといけない。

 

「えへへ、全然。素直になったヒッキー、とっても格好いいよ?」

「ぐ、うぐぐ……! そ、そか……! その、だな……なにかしてほしいこととか直してほしいところとかあったら……遠慮なく言ってくれ、な。どうせ成長するなら、そういう自分になりてぇから……な」

「えと、じゃあ」

「早速あるのかよ。それ全然って言わねぇよ」

「ふえっ!? あ、えっ!? わややっ、そそそそういう意味じゃなくてっ! これはただのあたしのお願いってゆーかっ! あの、えと……! ~~……たださ、あの。あたしにも、ヒッキーが好きなあたしを、教えてほしいかなって……そうお願いしたくて」

「───《ぷつんっ》」

 

 あ。これ無理。

 なにこの天使、もう無理。

 衝動に駆られ、思わず告白しそうになる自分を、なんとか抑えつける。

 そうじゃないだろう、と。

 真っ直ぐな告白には真っ直ぐな告白を、だ。

 あと……そだな。

 後悔はねぇか?

 

  んなもん後で決めろ。じゃなけりゃ後悔って言わねぇよ。

 

 これで、いいんだな?

 

  いいだろ、これで。他にしたいこと、あるか?

 

 独りの方が気楽だ、とかねーの?

 

  二人の楽しさも気楽さも知らねぇで、よく言うわ。

 

 むむむ無知ちゃうわ! ほら、戸塚と映画見に行ったりとか!

 

  恋人との二人の楽しさ、な?

 

 …………。

 

  声かけて、誘ってみて、振り向いてくれる度に見る笑顔。どうだったよ。

 

 ……。人前じゃなけりゃ泣いちまうくらい嬉しかったよ。

 

  そんだけ感じてて、なんでさっさと告らないかね“俺”は。

 

 常に冷静に、最悪の事態を予測した自分を置いておかないと、動けねぇからだよ。

 

  だったら、怯える方向が違うだろ。とっくに“そっち”を向いてるくせに、怯えるとか、なんなのお前。

 

 ……うっせ。ほっとけ。

 

  ほれ、待ってるぞ。言っちまえ。素直じゃない“俺”なんて置いていけ。

 

 ……俺は。

 

  んで、世界に絶望したらまた拾いに来い。そしたら、また一緒に腐ってやるよ。

 

 …………その前に。

 

  あ?

 

 その前に。金貯めて、遠出をするつもりだ。その時に、拾われろ。

 

  やだよ。俺はぼっちだからな、その在り方は“俺”にだって譲れ───

 

 こいつが“告られるならここがいい”って言った場所で、やり直したい。それは、腐った俺じゃなきゃダメなんだよ。

 

  うわー……なんかキザったらしい名称しがたいアレな提案きちゃったよー。引くわー、マジ引くわー、やだキモーい。

 

 おい。……いや、おい。

 

  あー……まあ、いいんじゃねーの? けど、なるべく早くな。さっさと嫌な思い出をいい思い出に変えてやれ。

 

 ああ。……じゃあ。

 

  おう。しっかり成長しろよ、“俺”。

 

 お前はそうして、変わらないまま腐ってろ、“俺”。

 

 ……。

 ……。

 

「……。由比ヶ浜」

「……! あ……う、うん、ヒッキー……」

 

 すっかり暗くなってしまった夜の空の下。

 遠くから聞こえるどこかの家の団欒の声に耳を傾けながら終えた“自身の計算”を終え、暗い場所ではなんだと……少しだけ、歩いた。

 街灯が照らす、スポットライトなんて気の利いたものには到らない、いつだってそこにあるものの下に辿り着く前に、小さく小さく覚悟を決める。

 ほんと、なんて厭味ったらしいやり直し。

 辿り着いた街灯の下は、いつか由比ヶ浜の言葉を遮った場所だった。

 俺の腕を抱き締める力が、ぎゅうっと強くなるのを感じた。

 けど、ここで届けるのは謝罪じゃない。

 やり直すのなら、ごめんじゃなくて───

 

「ゆい《チャーラーラーラーラーラー》…………」

「………」

 

 で、言おうとしたらこれである。

 しかも今度のは俺のスマホ。

 取り出してみれば小町である。

 ごめんなさいね小町ちゃん、今こんなタイミングで電話かけてくる妹ちゃん、八幡的にポイント低い。

 なので電源を落とした。

 するとすぐに由比ヶ浜のケータイがやかましく鳴り《プチッ》……認識の途中であっけなくケータイの電源は落ちた。

 俺のスマホが鳴った時点で取り出してたから、そりゃそうだ。

 そして、もう一度俺の腕に抱き着き直し、見上げてくるのだ。

 やだ、この子めっちゃ強い。

 強い、けど……その目が少しずつ涙に滲んでいくのに気づいちまったら、これ以上不安にさせてなんかいられないだろ。

 

  さあ。

 

 ああ。

 

  あの日から、逸らし続けていた視線を───

 

 ───前に、戻そうか。

 

「由比ヶ浜」

「……うん」

 

 改まった雰囲気に、由比ヶ浜の体が震えるのを感じた。

 ただのお礼としてクッキーを渡そうとしていたあの時のような、弱々しいのに強くあろうとするその姿に、胸が痛む。

 

「俺は……」

「あっ……」

 

 そんな腕をゆっくりとほどき、数歩距離を取ってしっかりと向き合う。

 大切なものを追おうとして、とたたっと駆け寄ろうと寄る由比ヶ浜を目で制して。

 

「え…………ヒッキー……?」

 

 そうして立ち止まった彼女に、しっかりと目を見つめたまま言う。

 今まで、傷ついても傍に居てくれた感謝と、それ以上の、俺の中から湧き出した気持ちをそのまま乗せた想いを。

 

「……俺は、またまちがえるかもしれないし、お前に嫌な思いばっかりさせて傷つけると思う。でも……迷惑かもしれねぇけど、お前が好きだ。他の誰にも渡したくないって思うようになっちまった。だから……」

 

 好きと独占欲は違うのだろう。

 けど、困ったことに俺の中にはその二つが生まれてしまっている。

 好きだし大切にしたいし、隣で笑っていてほしいし、出来ることなら俺がいつまでも笑顔にさせてやりたい。

 同時に、誰かに奪われるとかが許せないし、笑顔にするのは俺であってほしいとか思っている。

 随分とまた嫌なエゴが沸いてでるもんだと思って自己嫌悪を抱くのに、

 

「そんなの、あたしだって同じだ」

「っ……ゆ、い……が───」

 

 こいつは、そんな人の苦悩を、そうやって笑顔で受け止めてくれるのだ。

 

「あたしだって、ヒッキーを誰にも渡したくないよ。ヒッキーに、一番好きでいてもらいたい。傍に居たいし居てほしいし……別の人が隣に居るのは、悲しい、よ」

「………」

「あたしが一番最初に好きになったのに、って……絶対考えちゃう。きっと想いじゃ負けないんだって思えるし、一途な気持ちじゃ絶対負けないって胸だって張れる。でも───」

 

 でも。そう、恋ってものは平等じゃない。

 だって、決まってしまえばそれで終わる。

 誰にだって言えることで、とても残酷なものでもあるのに……それに溺れてしまえば、それがこんなにも、誰もが眩しいと思えてしまう。

 

「好きな人に好きな人が居て、自分とは別の人と両想いだったら……さ。そんなの、残酷だよね。素直に応援も出来ないし、自分がそこに割り込んで嫌われるくらいなら、やさしいまま誤解されていたいな、って……。でも、でも、さ……」

 

 だからここでこいつが泣くのはまちがっている。

 恋愛とは眩しいものだと願うなら、後悔の涙なんて必要じゃない。

 誰かの恋にごめんなさいを抱いて泣いてしまうのは、そいつの恋に対して失礼だ。

 

「それでも……っ……誰にも負けたくないっ……あたし、あたしはっ……ヒッキーには、あたしを一番好きでいてほしいっ……!」

「───、……由比ヶ浜」

 

 恐れていたことを言うのでは、と。一瞬陰が差した。

 それでも目の前の少女は、やさしいままずるく在り、涙をこぼした。

 それが誰に対しての涙かを想像した上で……俺は。

 

「………」

 

 俺はそれでも、やっぱり……俺らしく、自分の理想を押し付けるのだ。

 大丈夫だ、もう解は出ている。

 もう、逸らした視線は前を向いている。

 答えをまっすぐに見つめていれば、計算が違っていても、出せる答えは決まってるんだから。

 

「由比ヶ浜」

「ぐすっ…………~~……」

「…………結衣」

「……えへへっ……うんっ……」

「お前が好きだ。別の誰かじゃなくて、由比ヶ浜結衣が、俺は」

「……うん。あたしも、他の誰かなんて嫌だなって思うくらい……比企谷八幡くんが、大好きです」

「……俺たぶん、あ、いや、絶対、独占欲相当だぞ?」

「えと。言った通り、あたしも……絶対。ていうか、ヒッキーのは小町ちゃん見てれば解るし……」

「あー……まあ、そうな。でも、お前がそうなのは……ちょっと意外、か? ……いや、そういや、雪ノ下が別の誰かと仲良くするのが嫌だって───」

「っ……!? ~~~っ……ばかっ……なんで、そんな……そういうの、やだ……」

「……悪い」

 

 好き合った瞬間に他の女の子の名前を出すとか、ほんと俺、アレな。素直に謝れたわ。

 由比ヶ浜にもいろいろな葛藤はあるのだろう。

 俺がどれだけそうじゃないと思っていても、女子には女子にしか解らない何かが当然あるのだ。

 だから、それに関しては……俺はなにも言えない。

 選んだのなら、他のことで後悔するのは筋違いだから。

 だって、そんなの惨めだろ。

 どれだけ想っても同情されるだけ、みたいなもんだ。

 

「…………」

 

 街灯が俺達を見下ろす中で、俯いている結衣……がはま、いや。結衣は、とてとてと……俺に歩み寄り。

 手を持ち上げて、俺の服をちょんと抓んだ。

 顔を持ち上げず、俯いたまま。

 

「ゆ───……んんっ、……結衣?」

 

 声をかけると、ぴくんと肩を震わせて……おそるおそる顔を持ち上げて、俺を見た。

 そこには、不安ばかりが存在している。

 

「えっと……あたし、いいんだよね? あたし……ちゃんと告白して、さ。ヒッキーが好きで……ほんとにほんとに大好きで……」

「……うん」

 

 そんな怯えた結衣に、頷いてみせる。頷いて、服を抓んだその手に右手を重ね、ゆっくりと撫でてやる。

 すると、服から離れた手がゆっくりと俺の指に触れ、指を包み、撫でて、やがて手を繋ぎ───

 

「あたし……頑張れたんだよね? やっと……あたしっ……ふ、ぅぇっ……~~……!!」

「……すまん。本当に、悪かった。いっぱい待たせて、いっぱい傷つけた」

 

 言葉の途中で嗚咽に負け、ずっと目を逸らされていた少女は泣いたのだ。

 すべて、俺が目を逸らし続けた結果だ、躊躇はしなかった。

 ぐっと手を引いて、胸に抱き寄せた。

 声を上げて泣くやさしかった女の子の声が、自分以外に聞こえないようにと、きつく抱き締める。

 結衣は子供のように泣いた。

 いや、実際俺達はまだまだガキなのだ。

 世界の厳しさを知ったつもりになって、一丁前に愚痴なんかをこぼして。

 守られたままのくせに、その生き方がどれだけ楽だったかを知らず、やがて親に感謝する暇もないまま愚痴に埋もれ、大人になるのだ。

 けど……暇はなくとも覚えていたいとは思う。

 そして、口には出さなくても感謝し続けよう。

 ガキがガキなりに無茶をして、青春ってものを駆け抜けられる今を、今を構築している全てに……ガラにもなく。

 

「………」

「………」

 

 抱き締め合う。

 冷静な自分はとっくに何処かへ消えていて、けど……雰囲気のまま告白したのかといえばそうじゃない。

 大事だと思い、何度も確かめ、その上で告白し、受け入れられたし受け入れた。

 正直な話をすれば信じられないっていうのがデカいが……もう、そんな疑いも置いていく。

 あるのは好きだって気持ちで、今はいいのだろう。

 だから存分に確かめた。その体の小ささを。傷ついても頑張ってくれていた人の大きさを。

 ぐしゅぐしゅと涙する姿に胸が締め付けられる。その度、大切にしたいって心が沸き上がり、もどかしくて、抱き締めたまま背を撫で、頭を撫でた。

 結衣も一層に強く抱き締めてきて、不意にそれが緩むと……涙に濡れた顔が俺を見上げ、俺もまた、見下ろした。

 

「ぐすっ……えへへ……ヒッキーの目……すごく綺麗だね」

「……いや、この場でお世辞はどうなんだよ」

「ううん、綺麗だよ……。本当に、綺麗だ。すっごく格好いい。こんなに格好いいと、あたし心配だ」

「心配しなくても、独占欲以上に貞操観念は強ぇえよ。つか、好きになったら普通そうだろ、そいつに全部をって思うだろ」

「………………」

「……え? おい? …………ち、違うのか?」

 

 え? まじでか?

 普通、好きになったら自分の全部をそこに置きたいって思わないか?

 だって想像してみろよ、浮気とかされたら泣くだろ、絶望するだろ、もう二度と信じたくなくなるだろ。むしろここまでこんなに想ってくれてた結衣にそれをされたら、他のなにも信じられなくなるぞ俺。

 

「ううん……ううん。ただ、同じだって思っただけ。嬉しくて……もう、ほんとヒッキーって……ほんと……~~……ひっきぃ……」

「《ぎゅううう……》お、おう……なんだか知らないが、ああその、ありがとう……か? ……だな。同じなら、安心だ」

 

 感謝して感謝されて。

 好きだ好きですと告白し続け、そうやって、お互いの気持ちを確かめ続けた。

 けど、どうしようもなく別れの時ってのはくるもので……さすがに寒空の下、ずっと外でってわけにもいかず、今日は───《クイッ》……。

 

「……結衣」

「あ、の……今日、さ。うち……誰も居なくて。あ、サブレは居るけど……前からあった旅行の話、ヒッキーとのデートがあったから断って……だから」

「いや……けどお前、それは」

「ヒッキーが……あたしに全部を置いてくれるなら……あたし、なにも怖くないから。あたしも……自分の全部、ヒッキーに置いても……いいかな」

「……い、いや、それ普通は逆じゃ…………いや」

「《さら……》んぅ……ヒッキー……?」

 

 もう一度抱き締め、頭を撫でる。

 受け入れたら、きっと止まれない。

 若さ故の過ち? いや、なにかをすることで生じる責任から目を逸らすことは絶対にしない。

 だから、ここから先は俺の責任だ。いいのか、と訊ねるべきは結衣にでもあり、当然俺自身にも。

 

「これから必死こいて、金でも貯めるか」

「わ…………うぅう……ずるい、ヒッキーずるい……」

「ずるくねぇよ。誰かさんが言うには、俺はやさしいらしいからな。だから───」

「う、うん……ヒッキー」

「相当重い男かもしれんが、これから末永く頼む」

「……うー」

「欲しい台詞はもうちょっとだけ待っててくれ。……言いたい場所があるんだ。いつか二人で行った時に、まとめて伝えるから」

「……ほんと? え、ていうかそれってど───…………こ…………っ……《ぽろぽろぽろ》ひっきぃいい~~……」

「あっ……だっ……だから、泣くっ……! ~~……気軽に行けない場所に、一番の後悔を残してるんだよ。だから……その時、ちゃんと伝えるから。また、その……待たせちまうけど」

「ずるい、ずるい……だいすき、ずるい……~~~……っ……ひっきぃ、ひっきぃい……!!」

 

 言いたい場所、で場所を想像してしまった結衣は、声をあげて泣いてしまった。

 ずるいずるいとこぼしながら、ぽすぽすと俺の胸を殴って。

 そんな、くすぐったい気持ちになれる軽い衝撃に苦笑を漏らしながら、ぎゅううと抱き締めた。

 抱き締めて……なんだかふわりと胸の奥底から湧き出してきた暖かい何かに戸惑いながら……それを受け入れ、笑った。

 

 

───……。

 

 

……。

 

 真っ暗な家に案内されて、明かりがつけられた家の中を歩き、真っ直ぐに結衣の部屋に案内された。

 俺の匂いを覚えていたのか、ひゃっほいとばかりにひゃんひゃん駆け寄ってきたサブレは、とても慣れた手つきの結衣によって流れるように便利に収納された。笑ってはいけない。

 そわそわと落ち着きなく視線を彷徨わせ、とりあえず荷物をぽすんと置くと……えとえとと言葉を探していた。

 

「あの、その、えと、それっ、それじゃ、その……シャワー……とか」

「お、おう……え? いや、考えてみれば俺、着替えとかないんだが」

「あっ……ん、っと。あたし、ヒッキーの匂い、嫌いじゃない……よ?」

 

 脱いだものをまた着ろと。

 いや、そりゃな、ここでパパのを着てとか言われたら、ファブリーズの件以上にお父さんに同情するわ。

 まあ、考えてもそれしか浮かばないし、そうしようって決めておいたカップルでもなけりゃ、普通はこうなるんだろう。

 

「じゃあ……ヒッキーから」

「お、おぉおお俺から、なのか」

「う、うん。あの……準備とか、あるから……」

「……そか」

 

 まあ、そうな。そうなんだろうな。そうなのですよね? ごめんなさい詳しくとか知りません。

 いろいろ考えるのも恥ずかしくて、結衣の案内のもとに脱衣所を目指した。

 

……。

 

 体をいつも以上に丹念に洗い、シャワーで流し、そういえばタオルすらないことを思い出し……しかしそこは由比ヶ浜。家族の分の他にもあったタオルを用意してくれて、それで素早く水滴を拭うと、服を着直して一息。

 髪の水滴も取れる分だけ取ると、ようやく脱衣所をあとにする。

 戻った結衣の部屋は綺麗に片づけられており、顔を真っ赤にさせて自分のベッドの上で枕を抱きかかえていた結衣が、入ってきた俺を見て「ひゃうっ」て声を漏らした。

 

「あぁ、その……結衣」

「う、うん……行って……くる、ね。…………あの……ヒッキー?」

「ん?」

「……帰っちゃ、やだよ?」

「───」

 

 不安そうな顔で、なんて無茶な注文いいはらすばい。いや帰るつもりだったとかそういう方向じゃなくて。

 今すぐにでも抱き締めて不安とか全部吹き飛ばしてやりたいくらいですが? それこそヒッキーキモいって言われるくらいの勢いで。

 けど、見送った。帰らないから、ときちんと伝えて。

 

「………」

 

 見送ってしまえば所在ない。

 いや、退屈とかじゃないんだが、することがないっつーか。

 そのくせ落ち着かない。

 こういうのってアルバム見てて、そっとお互いがーとか……うん解らん。

 世の男子たちはこういう時、どうしてるんだろうか。

 許可なく部屋ン中を物色されるのは嫌だろう。俺が嫌だから俺はやらない。

 荷物の中に小説が入ってるわけでもねぇし……暇だ。

 そんな時にはスマホさん。

 電源を切ってあったから、とりあえず小町に連絡でも。

 電源をつけてしばらくしてから、とりあえずメールの確認をしてみると、結構な量。

 心配しているものから茶化すようなものまであったが、それがしばらく続くと“結衣さんにも繋がらないし返信もないし、ちょっとお兄ちゃん? お兄ちゃーん? 無視とか小町怒っちゃうよー?”に変わり、やがて“え? もしかしてまじだったりするのお兄ちゃん”ってメールのあと、“ごめんね小町空気読めてなかったねポイント低いねっ! お兄ちゃんガンバだよっ! あ、家の鍵は完全に閉め切るから、間違っても帰ってきちゃだめだからね?”……とだけ。

 つまりもう帰れない。むしろ帰ったらごみぃちゃんじゃなくてただのゴミ扱いされそう。

 

「………」

 

 それから、適当に時間を潰す。

 ちょっと気になって。初めての女性に対するケアとかを検索したのは一生内緒にして生きていきます。

 

「!?」

 

 ややあって浴室の扉が開く音が、静かな家にどうしても響くと、ドキームと胸が高鳴った。

 そしてあたかもキングエンジンのごとくドッドッドッドッと鳴り響き、落ち着いてくれない。

 ああだめだ、冗談混ぜてみてもちっとも落ち着かない。

 落ち着け、落ち着け俺、落ち着《コチャッ……》

 

「ヒッキー……あの……」

(ほわぁあーーーーーーーっ!?)

 

 悲鳴をあげるのはなんとか抑えた。

 ただ、心が絶叫したのは確かで、なんかもう怖いくらいに心臓がうるさい。

 ああいや俺の心臓への感想よりも、今視界に存在している女性をどう表現すればいいのか。

 俺と同じく丹念に磨いてきたのか、少し疲れたように「はふ……」と吐く溜め息が、汗が浮かんだ肌と相まってひどく艶めかしく聞こえた。

 そして、着ている可愛らしいパジャマと……それを押し上げている迫力ある双丘。

 出るところは出ていて引っ込むところは引っ込んでいる、普段から思っていた“スタイルがいい”という感想が、ありきたりなのにぴったりだった。

 そんな彼女がお団子は結んでいない髪をさらりと耳に掛け、もじっ……と体を揺らすと、恥ずかしそうに「お、お待たせ」と呟いた。

 思わず“俺も今来たところだから”なんてわけのわからんことを言いそうになったが、それも無理矢理抑えつける。

 言いたいのはそんな言葉じゃない。感想なんてひとつだ。

 むしろそれだけで十分だろこれ。それ以外が浮かばないまである。つまりその、なんだ……ええと……ああ。……綺麗だ」

 

「───……! ……え、えへへ……えへへへ……ひっきぃ……ひっきぃ……!」

 

 頭の中がぐるぐると騒がしいまま考え事をしていると、どうしてか結衣はほにゃりと嬉しそうに表情をとろけさせ、立ち上がった俺へと静かに歩み寄ってきた。

 そして、軽く促すと……一緒にベッドの傍まで歩き、ベッドに腰かけ……そして。

 

「え、っと……あたし、その……」

「いや、俺の方こそこういうことは、その」

「あ…………う、うん。なんか、よかった……。経験あるって言われたら、あたし泣いちゃってたかも……」

「そりゃこっちの台詞だっての……あ、あー……その、じゃあ。手探りで悪いんだが……」

「……うん。あの、あのさ、ヒッキー。どうせ手探りで、不安だらけなら……さ」

「お、おう?」

「お互いがさ、知り合いながら……さ。ゆっくりしていきたいな……って」

「あ、ああ……ゆっくり……な。……そだな。俺も正直、お前を傷つけないかって不安だ。だから……触れられると嫌なところとか、痛い時は……ちゃんと言ってくれ」

「……ヒッキーもだからね? その、あたしもさ、話では聞いたことあっても……さ。それをするとどうなるのか、とか……知らないから」

「ん……解った」

「うん……」

「じゃあ……」

「じゃあ……」

 

 見つめ合い、頬に手を添え、ゆっくりとキスをした。

 一回目のキスは……軽く、なんてこともなく、一回目を大事にするかのように、二人とも離れず、重ね合わせ、傾け、密着部分を増やして、それをしばらく続け……やがてくっつけたまま舌を伸ばし、つつき合い、擦り合わせ、味わうように。

 息が荒れて、苦しくなって、それでも限界まで初めてを大事にして、惜しみながら離れた。

 

「………」

「………」

 

 お互い、とろんとした表情のまま笑っていると思う。

 信じられないくらいにやさしい気持ちになれている。

 人をいとおしく感じるって瞬間が、きっとこんな瞬間なんだろう。

 そんな“きっと”を確かめたくて、もう一度もう一度とキスをする。

 唇を合わせ、舌同士を絡ませて、唾液を交換し、嚥下する。

 こくりと動く喉が、自分の唾液を飲み込んだという事実が、どうしてかとても大切なことに思えて、嬉しくて、またキスをして、嬉しくて。

 人に受け入れられるということがこんなにも満たされることなのかと理解して、それが泣きそうなくらい嬉しくて。

 そうしてキスとお互いの気持ちをぶつけ合い続け、やがて……どちらともなく促して、ベッドに沈み、お互いを抱き締めた。

 

「ヒッキー……」

「今さら……見栄張っても仕方ないから言うけどな……」

「うん……ちょっと、怖いよね」

「……先に言わないでくださる? 格好悪いでしょちょっと」

「怖いのは変わらないよ。それに……あたしだけじゃないなら、なんか嬉しいし」

「………」

「痛いのとか傷つけるのが怖いんじゃないんだよね、きっと」

「……ああ。そういう段階に上っていくんだなって……そんな変化が怖い」

 

 普段自分が過ごす場所が、“そういう場所”になる気分っていうのはどんなものだろう。

 今日、出かける前まではきっとただの普通の部屋だった場所が、そういう場所になってしまうというのは……どんな気分なんだろう。

 一度踏み込んでしまえば一生変わらない。

 でも───

 

「でも、さ……。変わらないままじゃ……いられないんだよね」

 

 そうだ。

 何度も悩み、選んだものがある。

 

  “もし、お互いの思ってることわかっちゃったら、このままっていうのもできないと思う”。

 

 あの日、彼女はそう言った。

 そうだ、変わらないまま、選ばないままなんてことは許されない。

 俺はそれを欺瞞だと言って、悩んでもがいて苦しんででも、答えを探し、見つけて───自分を疑った末に嘘をつくのではなく、自分を理解し信じ切れた先で、大切に思う誰かと笑い合いたい。

 

「変わるって……怖いね」

「ああ……怖いな」

「でも……」

「ああ、でもだ」

 

 ちゅ、とキスをして、その頭を胸に押し付けるようにして抱いた。

 さっきからやかましい音を聞かせて、少しでも緊張がほぐれるように。

 笑えるくらいやかましいだろ、とばかりに。

 

「……うん。あたしたち、進んでいこ? 変わって、今じゃ合わせられないあたしたちを、重ねられるように」

「……ああ」

 

 それをするから大人になれるとか、そんな理想は形にはならない。

 なにをどうすればそれが叶うかなんて、誰が確証をくれるでもなく、約束をしてくれるわけでもない。

 雪ノ下が自分の答えを自分で出すよう努力するように、俺は俺の、結衣は結衣の答えを出さなければいけない。

 全員が出した答えは、きっとそこでも重ならないいびつな形なのだろう。

 それを何度も何度もぶつけて、削って、解り合って、譲り合って押し付け合って。

 やがてそんなことにも疲れた時に、きっと……それは軽く角度を変えるだけで重なることを知るのだろう。

 人の争いの末なんて、いつだってそんなもんなのだ。

 けど、俺達はそんなことに気づけるほど自分が持つ形に自信が持てないから、いつだって不安定で、自分が寄りかかりやすい形を持っている人を探すのだ。

 

「結衣……」

「ん……ヒッキー」

 

 互いを呼び、身を重ねてゆく。

 手から始まり、滑らせるように手首を、肘を、二の腕、肩。

 喉から顎をさすると、きゅうん、と切ない声が漏れ、何度か思ったことがある犬みたいだ、なんて考えを浮かばせては、その口にキスを落とした。

 触れる箇所は外からゆっくりと内側へ。

 女性を意識させる部位には触れず、ゆるやかに、体と心に準備させるように触れてゆく。

 

「んんっ……」

「……くすぐったかったか?」

「うん、ちょっと……でも、なんか……肌が触れるのって、いいね」

 

 傍に居ても、空気は冷えている。

 暖房もそこまで温度を高くは設定していないのか、時間が経てばシャワーで温まった肌から汗は消えていた。

 そんな肌が肌と触れ合い滑ると、確かにくすぐったく、気持ちいい。

 結衣は微笑むと首に腕を回し、キスをしてくるでもなく頬同士をこすり合わせてくる。

 それがくすぐったいけど気持ちよくて、俺もそれを手伝うように結衣の頭を支えてやり、頬同士を滑らせた。

 そうしてじゃれ合うように、やがてより近づきたいと焦がれ、欲し、溶け合ってゆく。

 ささやくように確認を取ると、彼女はふるりと震えたあと……顔を赤くして、頷いた。

 どうしようもなく鳴ってしまう喉に恥ずかしさを感じながらも、緊張して少し強張った手が、仰向けに寝ても存在感のある丘を目指して伸ばされる。

 クマの柄のパジャマを押し上げている……クマ……クマ?

 

「……結衣、このパジャマって」

「……うん。その、やっぱり……さ。あの出会いがあったからこそ、かもしんないけど……ヒッキーだけが痛いのなんて、ヤだから」

「ぁ……ぅ……!《かぁああ……!!》」

 

 つまり、これを着ている自分にも、痛みを刻んでくれと。

 ぐ、あああお……! だめ、もうほんと、なんなの、もう、もう……!

 どうしてこいつはこう、無自覚に人の冷たくなったところへ手を差し伸べてくれるんだ……!

 

「《きゅっ……》ふわ……あ……ヒッキー……?」

「ごめんな……もう、我慢できない。好きすぎて……抑えられない」

「うん……大丈夫、あたし、ちょっとくらい苦しくても痛くても、ヒッキーなら……耐えられるよ?」

「……だから……そういうのが反則だって───……!」

 

 自分の奥底から湧き出してくる熱いなにかに動かされるようにキスをする。

 けれど乱暴にする気はなくて、がっつきすぎだと思えば強引に止まり。

 傷つけたいわけじゃないんだ。

 大切にしたい。

 だからこそ、次から次へと湧き出してくる欲望をなんとか抑えながら、それでも抑えられない分は行為を続けることで抑えた。

 

 

───……。

 

 

 ……やがて、夜が明ける。

 長い夜を二人で過ごし、互いの想いをぶつけ合い、溶け合った時間が終わるように、カーテンで閉ざされた窓の隙間から朝陽がこぼれた。

 

「んんぅ……ひっきぃ……」

 

 隣には……といいますか。この場合隣でいいのか? 向かい合っているんだが。

 ベッドに寝転がっているという状態でいえば確かに隣なわけだが、俺の視点からしてみれば正面なわけでして。

 ……ああいや、恥ずかしさのあまり戯言に逃げるの、よくない。

 隣には、穏やかに眠る結衣が居る。

 汗で額に張り付いた髪を指で掬い上げると、そのままさらさらと手櫛で梳くように撫でてゆく。

 起きはしない。というか、寝てからそこまで時間は経っていないのだ。

 これが若さというものか、と言ってしまえばそこまでなのだが、まあその、なんというか。あれだよほら。互いに“初めて”を大事にしすぎて、離れるのが嫌でずうっと繋がり、それこそ体力が底を尽きてオチて眠るまで、行為を続けた。

 もちろん無理矢理なんて絶対にせず、本当にゆっくりと溶け合うような行為だったわけだが。

 というか。今もその、繋がって……げふんげふん。

 だがさすがにもう無理だ、これ以上、いけない。そのくせ離れてしまうのは寂しくて、なんというかアホみたいに繋がっていたいという気持ちのままに、こうして……ああもう、いいや、寝てしまえ。

 

「すぅ───」

 

 寝よう、と意識してしまえば、とっくに疲れすぎていた体と意識はすとんと夢の中へ落ちていった。

 

……。

 

 で。

 起きてみれば、顔を真っ赤に染めながら、ぽ~~っととろけた表情で俺を見つめる結衣が居て。

 まだ繋がったままだった寝起きに逞しいあれが、それこそ逞しかったために……いや、その。目覚めのキスから繋げ、再び動けなくなるまでいたしてしまいました。

 若さってすげぇ。

 水族園のクッキーもそうだったが、結衣は料理をきちんと勉強して練習も続けていたらしい。

 簡単なものしか出来なかったが朝食をごちそうしてくれて、それがまた、なんというか照れくさいながらも……幸せで。

 用意された食事を食べる俺の正面には、テーブルに頬杖をついてにっこにこ笑顔の結衣。

 頬杖って片手でやるイメージあるけど、結衣は両手でやって、ほにゃあと幸せそうに微笑んでいる。やだ幸福。ていうかきみも食べなさいよ。ほら、サブレはもう自分の食事を開始してらっしゃるよ?

 

「~♪ ……ヒッキー、おいしい?」

「ああ。美味しいな。案外少し焦げてたくらいのほうがいけるかもしれない」

「んぐっ……ううぅ、甘やかさないでね、ヒッキー……。あたし、ちゃんとヒッキーに美味しいもの、食べさせてあげたいから。甘やかされちゃうと、なんてのかな、ほら、成長できないんじゃないかなって」

「ちゃんとうま……げふん。美味しいから大丈夫だ」

「なんで言い直したの!?」

「男にゃいろいろあるもんなんだよ……。彼女が初めて作ってくれた料理とかには、うまいとか返すんじゃなくて、心を込めて“美味しい”って返したいとか」

「あ……そ、そか。そうなんだ。そっか……えへへ」

 

 ふにゃりと表情を緩ませて、えへへと笑う恋人さん。

 ああ、なにこの甘い空気。幸せすぎるんですが。

 そんな恋人さんと、先ほどまで……その。

 “出来るだけ一緒に居たいから”って風呂にも一緒に入って、そこでもイタしてしまい、もうなんと言ったらいいやら。

 

「~♪」

 

 自分の食事をようやく開始して、おかずを口に、ごはんも食べて。

 自信作だと言っていたものを口に運ぶと、それがちゃんと美味しく出来ていることにほっと胸を撫で下ろし、また俺をちらりと見て、ほにゃりと幸せそうに微笑むのだ。

 つか、俺も見つめすぎだから。なんで細かい動作まで脳内で解説しちゃってんの。落ち着け。人のこと全然言えねぇよこれ。

 けど、まあ、その、あれだよほら。

 ……嬉しいっつか。

 幸せなんだからしゃあないだろ、こんなの。

 

……。

 

 食事を終えれば無意味にひっついていた。

 三大欲求をしっかり満たした俺達がお猿さんになることはなく、むしろお互いを大切にしたいという気持ちばかりが湧き出して、傍から見ればただのバカップルという行為をそれはもう続けて。

 しかしさすがにそろそろ着替えたい俺は家に帰ることにして、そしたら結衣もついてきて。

 帰宅してみれば突撃してきた小町になぜか「……誰!?」と驚かれ、拍子に鏡を見てみれば目の腐っていない自分。

 いや、風呂とかでも確認しなさいよって話だが、自分の目が腐ってるって知ってて自分の目を鏡で見続けるやつなんて居ないだろ。

 そういう習慣がすっかり馴染んでいた俺は、自分の変化にまるで気づいていなかった。

 ちらりと隣を見てみれば、「ね? 綺麗だよ?」と微笑んでくれるエンジェル。

 えーと。じゃあその、つまりは昨日の夜から、とっくに?

 原因あれか。気持ちの整理をつけた瞬間か。どんだけ単純なの俺。

 

「お兄ちゃん!? うそっ! わっ、ハワワワワ!? こここ小町のお兄ちゃんがこんなにピュアッピュアな目をしてるわけがっ!」

「おいやめろ、お兄ちゃんの目の前でなんてこと叫んでくれちゃってるの。いくら俺がシスコンだからって泣いちゃうよ?」

「あ、お兄ちゃんだ」

「納得の仕方がそれってどうなんだよ」

 

 しかし、まあ。

 そんな小町は俺と結衣の距離をジロジロジィィイロジロと舐め回すように見つめると、きゃらんと目を輝かせて言ったのだ。

 

「ふん」

「《ゾス》ふきゅうっ!?」

 

 いや、言わせねぇよ。

 どうせあれだろ、ゆうべはおたのしみでしたねとか言うんだろ。

 なので脇腹に貫手をかますと黙らせて、からかうんじゃありませんと先手を打った。

 

「うぅう……まあ確かに、そういうのは余韻が大事だっていうし……今のは小町的にポイント低かったかもだけど、解った」

「そか」

「あ、じゃあ結衣さんっ、ほらほら上がってくださいどーぞどーぞ! あ、お兄ちゃん、小町お茶用意するからちゃんとリードしてっ!」

「だからそういう気の回し方が今は余計だっつーとるだろが」

「《ゾス》うきゅうっ!? う、うー……! でもでもなんだか落ち着かないっていうか……! 初めて彼女さんを家に連れ込まれた母親の気持ちが解るっていうか……!」

 

 再び脇腹に貫手をかますと、小町はそこを両手で押さえながらふるふると震え、俺との距離を取った。

 いや、べつに妙なことしようとしなけりゃやらねぇよ。

 と、身内の賑やかさに恥ずかしさを抱きながら振り向いてみれば、笑顔の結衣。

 ほら、恥ずかしいだろこんなの。

 そう思いつつも視線は外さず、そうするのが自然みたいな流れで手を差し伸べて、招いた。

 結衣の家に上がった時にそうされたように、脇目も振らずに自分の部屋へ。

 そこで待っててもらい、風呂は入ったのだからと着替えるだけで終わらせて。

 ……いや、そりゃなんかやっぱりちょっと気になるけどさ、入るかなどうしようかなとは思うけどさ。ここんところなんだろうな、男と女の違いって。女だったらたぶん、風呂に入り直す気がするし。

 で、脱衣所から戻ってみれば、燥いだ勢いで結衣に質問しまくるKOMACHIさん。おいこら、いつ来たのきみ。

 

「そそそそれで兄は! 兄は上手くできたのでしょーか!《ゾス》うきゃぁう!? ……ハッ!? お兄ちゃんいつの間に!? お風呂に入ってたんじゃっ……!」

「着替えてきただけだよばかたれ。つか、ほんとなにやってんのお前……」

「い、いやー……小町としては、兄の成長とかがやっぱり気になるわけで……」

「そんなの話すわけないだろ……ほら、その、なんだ。落ち着くまでは俺達も別の誰かと居るのは恥ずかしいから……しばらく二人きりにしてくれねぇか」

「ハッ……小町としたことがそこに気づかないなんて! ん、解ったよお兄ちゃん! 小町、しばらくは家出てるね! ではでは結衣さん! ……がんばっ!」

「え? ふえっ!? え、や、ちょ、小町ちゃん!? あたしたちべつにそういうことするわけじゃ───!!」

 

 しゅたっ、と敬礼すると、小町はゴシャーアーとものすごい勢いで部屋を出て階下へ降りてドタバタと走り回るとドバーンと玄関を開け、しっかりと鍵を閉めて出て行ってしまった。

 ……長年住んでると、下に居る人が何処に行ってなにをしたのかとか想像できるから面白いもんだよなー……なんて関係ないことをぼんやりと考えつつ、「騒がしくて悪い」と言って…………言って。

 あの、結衣さん? なんで俺のベッドに座ってるのん? それもベッドの端とかじゃなく、真ん中に。ていうかどうして昨夜のように枕を抱きしめておるのでしょうか。

 え? …………あの…………えっ?

 

「あ、え、えと、これは……違くてっ。こっち、こっちに座ってたんだけど……急に小町ちゃんが来て、詰め寄られて、気づいたら、ほら、枕とか盾にしちゃって……あの…………ひっきぃ」

「そんな心配そうな顔すんな。ちゃんと信じるから。……その、悪かったな、小町が」

「あ、ううん、それはいいの。ちゃんと報告しなくちゃって思ってたから。でも……うん、ちょっとびっくりした」

「まあ、あそこまで燥いでちゃあな……」

 

 言いながら、俺もぽすんとベッドに腰かける。と、結衣が立ち上がらずにきしきしと膝立ちになって近づいてきて、ちょんと俺の服の端っこを抓む。で、枕を抱いたままほにゃりと微笑むのだ。やだ可愛い。

 

「あ、あー……その。これから、どうする?」

「ん、んー……えと。……こうしていたい、かな」

 

 抓んでいた服を離すと、腕を引っ張り、抱き着いてくる。

 顔を赤くして俯く姿に心臓が高鳴り、しかし欲望が沸いてくるでもなく……ただ静かにベッドに上がり、俺からも抱きしめた。

 

「ふえっ、あのっ、ひっきぃっ? あ、あたしそういうつもりじゃっ……」

「アホ、俺だってそういうつもりじゃねぇよ。ただまあそのー……なに? ……なにをするでもなく、よ。こうして抱き合ってごろごろしたいなって願望があったっつーか」

「…………あ…………うん。それ、いいね。うん、いいかも」

 

 言ったら、くいっと引かれ、そのままぽすんと二人して布団に沈んだ。

 毛布と掛布団が引っ張られ、二人まとめてそれを被ると、結衣の顔がさらにさらにと真っ赤になった。

 

「ぁ……ぅ……これ、やばいかも……。ぅゎゎゎゎ……ひっきぃの匂いだらけだ……!」

 

 そら、俺の布団ですし。

 苦笑を漏らしながら、自然と動く体が結衣をぎゅうっと抱き締める。

 昨日まで触れることさえドッキドキだったくせに、なんとも凄い進歩だこと。

 

「んんぅ……ね、ひっきぃ……」

「……ん」

 

 なにを言うでもなく、もぞもぞと胸から顔を上げた結衣が、楽しげ……とも違うんだろうが、けれども状況を静かに楽しんでいるような表情で、顎を持ち上げる。

 もはや抵抗もなく俺は俯き、二人、横になりながらキスをした。

 結衣はどうやら布団の中に潜るのが気に入ったようで、布団の境目から顔を出そうとしない。

 必然的に布団の中でもぞもぞとじゃれ合うようになり、ああもう、ほんと、なにをするでもなく……そうしていちゃついた。

 唐突に抱き着きたくなれば抱き着いてきて、キスがしたくなると、何を言うでもなくねだるようにくいくいと服の胸元を引っ張ってくる。

 甘えたくなると胸にしがみつくようにして顔をこすりつけてきて、頭を撫でると昨夜のようにきゅううんと鳴いた。ほんと、構ってちゃんな犬みたいだ。

 なんて思っている俺も甘やかしたくて仕方なく、頭を撫でたり髪を指で梳いたり、抱きしめたくなれば抱きしめて、キスがしたくなれば顎を持ち上げてキスをした。

 互いが好きだと認識して、遠慮がなくなった男と女ってすごいのな。

 どこか他人事のように思いつつも、恋人らしいことをたっぷりとする前に性行為を経験してしまった事実を取り戻すように、二人していちゃつくことに没頭した。

 不思議と性的な欲求が湧くこともなく、喉が渇けば階下へ降りて水を口移しで飲んでみたり、お腹が空けば二人でキッチンに立ち、楽しみながら料理をして、出来たものをあ~んと食べさせ合いながら済ませて。

 外でのデートは結構したからと再び俺の部屋に戻ると、結衣はまるでそこが自分の住処だと教え込まれた犬のように、ベッドの布団に潜り込んだ。

 

「…………《じいっ……》」

 

 で、くるまりながら、こちらをじーっと見てくる。

 なにやら、こっち来てと言いたいらしい。

 近づいてみるとがばーっと襲い掛かられ、ベッドに押し倒されると、そのまま布団ごと覆いかぶさってきた。

 俺が“なななななにごと!?”なんて心の中でパニックを起こしていると、抱き着いてきた格好のまま、かぷかぷと首筋を甘噛みしてきた。

 ……途端、くすぐったいとかそんな考えよりもまず、やさしさが溢れた。

 抱き締めるように背中と頭に手を回すと、ゆっくりと受け入れるように撫でてみる。

 すると結衣は甘噛みをやめて、首をぺろぺろと舐めてくる。

 犬だなぁ、なんて思いながら、どうにもそれをされることがちっとも嫌じゃない。

 

「結衣」

「えへへへへ……ひっきぃ……ひっきぃ~……♪」

 

 甘えたいのだろう。

 小町にもこんな時期があった。もちろんここまでではないが、両親が働いてばかりの日々だ。帰ってみれば静かで暗い部屋が待っていることなんて何度だってあったのだ。

 結衣はどうだったのだろう。

 家に帰れば由比ヶ浜マが居たかもしれない。

 けど、空気を読まずにいられなかったこいつはきっと、学校に親友と呼べる相手もおらず、家に帰れば心配させまいと振る舞っていたと思う。

 それはどこまでいっても我慢であって、甘えじゃない。

 だから……───こんなものはただの想像にすぎないのだとしても、甘えたいと訴えているのなら、甘えさせてやりたいと思った。

 頼られても支えてやれる自分を目指そう。

 甘えたい時に甘えさせてやれる自分を目指そう。

 一億円に見合う自分なんて目指す必要はない。

 ただ、自分が大切に思う人に対して、嘘を吐くような自分にはならないように。そんな自分を疑わない自分で居られるように。

 もう、誤魔化しは必要じゃない。

 ちゃんとした自分で───俺は、こいつと。

 


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