どこにでもあるようなガハマさんとヒッキーのお話   作:凍傷(ぜろくろ)

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やがて辿り着く、眩しさの中で、彼は

 ……随分と長い間を振り返っていた気がする。

 溜め息ひとつ、磨いていたグラスを置いて、最初は堅苦しいと感じていたベストを直し、自分が立つ場所を眺める。

 

「───」

 

 自分の青春が到着したのは喫茶店。

 長い長ぁい秘書生活を生き、陽乃さんが満足するまで事業を手伝い、やってみたかった仕事が軌道に乗って、ある程度稼げれば部下に任せて別の仕事に、を繰り返す陽乃さんについていく日々は……うん、地獄だったな。

 起ち上げられたブランド、HARUNOは本当に大きな規模に広がったよ。

 万屋って言ってもいいくらいになんでも揃ってた。

 集まったメンバーの得意なこと、好きなことを前面に押し出した果てを目指してみて、成功すればもうけもんって感じで突っ走ったり相当な無茶もしたのに、どうしてか……振り返ってみれば笑えるんだから、不思議なものだ。

 

「……ふむ」

 

 メンバーのそれぞれが、やがて一つ一つの夢へと到り、手を振ったいつか。

 全員の夢が叶うと、陽乃さんは“もう飽きた”とでもいうかのように、部下に仕事を譲ってのんびり生活を満喫し始めた。

 

 ユキは猫専門動物病院を開き、それとは別に猫の絵本などを描いたりして、猫好きの方々に大変人気のある医師として活躍している。

 

 材木座はしっかりと夢を叶え、ラノベ作家に。長期連載していた作品がアニメ化決定したとかで、つい先日“これは夢であろう!? 夢じゃないなら殴って!?”とか言ってきたからとりあえずデコピンかましたら、大変喜んでいたので変態と言ったら怒られた。

 

 戸塚は……材木座を手伝うかたちで編集者になった。誰かの夢を応援するのが自分に合っているって、グループの集まりの中で気づいたらしく、その当時から人の応援に精をだしていた。

 

 一色は、得意であった菓子作りを極め、今では菓子店舗を幾つか連ねるお菓子クイーンだ。経営のノウハウも陽乃さんに教わった上、お店自体もHARUNOブランド傘下だから、案外自由にやらせてもらっているらしい。

 

 川崎と小町は一緒に服飾の世界へ。これまたHARUNOブランドで服を出していて、それが中々人気とくるんだから、世の中ってどうなるのかなんてわからんもんだ。

 大志はそんな姉と小町を、自身の妹の京華とともに支え、手伝うこともよくあるらしい。

 

 で、俺は。

 秘書時代に接待として飲まざるをえなかった、お茶や紅茶、特にコーヒーで鍛えた技術を武器に、喫茶店を構える。

 人の黒さを秘書として一層見るに至り、目は余計に腐ったが……なんか逆にそれが客を呼んでいるらしい。腐った瞳の店長、とかな。

 稼いだ金で一括払い出来ちゃったこの二階建ての店は、今日も静かにのんびり営業。

 従業員はやたらと元気だが、まあそんなもんだろう。

 

「ん~~~っ、よく寝た~~~っ……あ、比企谷くん、コーヒー一杯ちょうだい? LOWで」

「社長、とっくに昼ですが?」

「あっはっは、社長なんて役職は捨てたなぁ。誰のことかなー?」

 

 現在昼。

 二階から降りてきた陽乃さんがカウンターに座って、コーヒーを注文してくる。

 溜め息ひとつ、身だしなみはきっちりの、出掛ける格好の陽乃さんにコーヒーを淹れて、予定を訊いてみた。

 

「うん、今日はちょっと静ちゃんとね。だから私目当ての客が来ても居ないって言っちゃっていいから」

「自由ですね」

「そりゃあね、やってみたいことは粗方やったし、面倒事は仕事がしたいってコに任せちゃったし。あとは一緒に居て楽で楽しい人と遊んでた方が、人生が輝くでしょ?」

「恋愛とかは?」

「あー、もういい、たくさん。ああいう仕事してると、人とかほんと信じられなくなるから。人と関わる仕事してて何が嫌になるかって、信用問題で簡単に掌返す人間の汚さでしょ。だからもーいい。それとも比企谷くん、不倫してみる?」

「寝言は寝てから言ってください」

「あっはははは、ん、実によろしい。……ん…………はぁ。ごちそうさま、さすがに私の好みの温度、わかってるね~♪」

「どんだけ秘書してどんだけ振り回されてどんだけ我が儘放題に付き合わされたと思ってんですか」

「とりあえず私が楽しみ尽くすまでは思いっきりやらせてもらったよ? 実際のところ、飽きたから終わりっていうんじゃなくて、必要なお金は稼げた~って思ったからやめただけだしね」

 

 この人ほんととんでもねぇ。

 それに付き合って秘書続けた俺も相当アレだが。

 

「じゃ、そろそろ時間だから。奥さんによろしく」

「昨日も会ってるでしょーが」

「会ったら会ったでラブラブイチャイチャが始まるから、こーいうのは間接的で十分でしょ? じゃ」

「車出しますか?」

「比企谷くん~? 私をどこまで自堕落にさせるつもり~? 今は我が儘王女がなんでも自分で~ってところなんだから、気持ちよく送り出しなさいって」

「ん……そっすか。じゃ───……いってらっしゃい」

「あ…………うん。いってきます」

 

 どこの家でもやっているようなやりとり。

 けど、陽乃さんは一瞬きょとんとしたあと、嬉しそうな顔でいってきますを言った。 

 金持ちの家がどんな感じで回ってるのかなんて知らないし知りたいとも思わんけど。

 もしかして、言われたのなんて初めてだったんだろうか、なんて考えて……小さく息を吐いた。

 

「さて」

 

 静かではあるが、客がゼロなわけでもない。

 基本を妻と娘二人で回しているこの喫茶店は、バイトはそりゃあ居るが、学校の時間は常に大忙しみたいなもんだ。

 客が少なくても、捌く人が居なけりゃ忙しくもなる。

 ……まあ、平塚先生が陽乃さんと外に出られると言ったとおり、今日は学校は休みなわけだが。

 

「いらっしゃいませ。こちら、メニューに───」

「ああごめん、もう決まってるから。エスプレッソとクラブサンドのセットを」

「…………《むー》」

 

 バイトの一人、葉山翆がぷくりと頬を膨らませつつも注文を取り、届けられた注文を耳に、翆を宥めつつ苦笑しながらエスプレッソを淹れる。

 クラブサンドを作ってくれる妻と笑い合い、トレーと食器を並べる娘にサムズアップ。

 

「ドントマインド! 気にするな少女よ!」

「同い年でしょーが」

 

 娘……絆もニカーと笑いつつ、翆の肩に手を置いてサムズアップ。

 もう片方の肩にも美鳩に手を置かれ、ドンマイ、と静かに言われた。

 葉山翆。

 高校時代の二年の時に知り合うことになった、葉山グループのイケメンリア充の娘。

 雪ノ下グループに関わる中で、知ってはいたけど知り合いではなかったそいつとは、二年の時に随分とぶつかった。

 陽乃さんとよく一緒に居ることについてを随分と突っ込まれたけど、まあ仕事の話だから無意味に話すことなど出来るはずもなく。

 そうして突っかかられている内にお互いを知って、現在では娘のバイト先に選ばれるくらいには知り合えた。カテゴリは……一応、ライバル的ななにかだ。

 一人称があーしという女王と結婚、お互い近い時期に子供を授かり、同級生だったりもする。

 ユキが笑顔で過ごしているのを見て、陽乃さんが自然に楽しく燥ぐ姿を見て、なにをどう受け取ったのかは知らんけど、高校三年のいつか、二人で飲んでいた時に“救われた。君のおかげだ”なんて言われた。

 あーしさんと付き合い始めたのはその直後だった気がする。

 ……あ、ちなみに飲んでたのはマッカンとブラックコーヒーだ。アルコールではない。

 

 ……で。ここまで振り返れば改まって確認するまでもないのだが。

 由比ヶ浜結衣は、苦手だった運動も料理も勉強も見事に習得。ご褒美を前に出された彼女は実に強く、隣を歩いてくれた。

 そんな彼女の現在は二児の母にして俺の奥さんであるわけで。

 秘書時代でも現在でも……いや。ずうっと昔から俺を支えてくれる、本当に“有り難い”大事な人だ。

 言った通り、グループだった全員が好きなものや夢を叶え、現在はその道の先に立っている。

 当然結衣も───

 

「結局、全員の夢や好きなことの先が叶ったわけだけどな。誰が一番苦労したのやら」

「えとー……あたしか八幡?」

「それはなにか、俺がそんなに手強かったってことか」

「うん。それはそうかも」

「……自覚があるだけに否定できないな……」

「でもさ、八幡だけが、あたしだけがっていうんじゃないんだよね、たぶん。いろんなことが重なって、手を伸ばしてくれる人が居てさ? 出会えた人が居たから……こんなに早く、立派な喫茶店が建てられたんだから」

「そもそも結衣の親父さんが俺のことを邪険に扱ってなけりゃ、あの宝石も見つからなかったってことで……まあ、物凄く嫌な巡り合わせだな」

「あ、そっか……八幡があの宝石を見つけてなかったら、あたしたちってHARUNOブランドで働いてなかったかもなんだもんね」

「なかったかもというか、無理だったな。そもそもユキとの接点が持てなかった」

「あー……そだねー」

 

 苦笑をこぼしながら、今でも変わらず俺の隣に居てくれる彼女は、俺の心の支えだ。それをあの頃のように弱くなったな、などと受け取るかどうかで、自分の歩んできた道の重さが変わるというのも面白い。

 もちろん俺は弱さとしてじゃなく、喜びや幸福としてそれを受け入れる。

 ひっどい過去があった。

 人を信じて人に裏切られ、人から離れようとした場所で出会った人が居て、築けた関係があって。

 なにに感謝するべきなのかを考えて、仲直りをしたいってだけで同じ高校を目指して頑張ってくれたこいつに、俺は───

 

「おおっ……お父さんがキスしたい目になったよ美鳩……!」

「うん、きっとここで熱烈にするんだろうね。ぶっちゅぶっちゅ」

「うわー……うちンところの父さん母さんだって子供の前ではやらないってのに。相変わらず旦那さんと奥さんって愛し合ってんね」

「ンもちろんさァ☆ なにせ、宅のラヴ夫婦は些細なことで互いに惚れ続けているツワモノさんだからね。いやでも、この忙しい喫茶店運営しながらさ? わたしたちを育て上げた努力と根性と腹筋には、この絆さんも脱帽ですよ」

「そうだね。この妹の美鳩さんも素直に脱帽です」

「あんたらは同じポーズで頷くな。ただでさえ双子すぎてどっちがどっちだかわかんないんだから」

「なーにをおっしゃる翆サン。わたしが絆で」

「わたしが美鳩でしょ?」

「……あんたらもっと、特徴とか出さない? 一人称変えてみるとか、髪型変えるとか」

「どっちもサイドテールじゃん。右に結わうは絆の証!《バッ!》」

「左に結わうは美鳩の証!《ババッ!》」

『二人揃ってヒキガヤー!《どーーーん!》』

「あーはいはい、仕事戻るわよアホども。あーしも付き合ったげるから」

「この程度でげんなりするとは修行が足りん証拠よなぁ」

「精進が足りん! 出直せィ!!」

『ぬわっはっはっはっは!!』

「いーから仕事しろっつーの!」

 

 双子が翆に怒られ、しかし元気に燥ぎ回る。

 どちらか一方が物静かな性格、なんてこともなく、双子は実に双子であった。

 髪型も同じで顔も性格もほぼ一緒。一方で翆は葉山には似ず、あーしさんによく似ている。性格は……まあ、女王ではない。ぼやく様がとっても一色に似ているのは、こいつが菓子作りが好きで一色に憧れているから……だけでは説明つかないよなぁ。

 

「旦那さぁん……娘のことなんだからもっとツッコんでくださいよー……」

 

 と、そんな翆が疲れた顔で救済を求めてくるが、すまない、オチが読めてるから無理だ。

 

「言ったところで、その場では聞いてもすぐに忘れるだろ」

「あはは、そだねー。そこのところは自由すぎて困っちゃうかも」

「おっとそれはいけない。この絆、母を困らせるつもりは毛頭無し」

「もちろんお父さんのこともだけどね。じゃ、しょーがない、やりますか、絆」

「そだねー、美鳩」

 

 比企谷絆と比企谷美鳩。

 一卵性の双子であり、趣味はお互いの物真似とくる。

 結衣に似た可愛い娘なんだが、これがまたどっちも同じことをするものだから判断が難しい。

 ……まあ、直感でどっちがどっちだかがわかって、外したこともないのだが。

 

「あ、ところでお父さん、今日は夜に予約があるんだっけ?」

「ああ、学生の頃の知り合いが予約取ってる」

「へー……HARUNO関連?」

「おう、そんなところだ」

「よっし、じゃあ色紙用意しとかないと」

「友人にでも材木座のサイン、ねだられたか?」

「熱烈ファンらしくてさ。アニメ化が決まって大喜びで、学校でもやかましかったよ」

「ほーん……美鳩はそういうのはないのか?」

「ザイモクザン先生のサインなら、昔にいっぱい押し付けられたから。一応、埃がかぶらない程度には綺麗にしながら飾ってるけど」

 

 おお、そりゃああいつも喜ぶだろうな。

 

「わたしはいろはさんと会えるのが楽しみかな。あのお菓子界のカリスマとじっくりお菓子談義が出来るとか、わたしは恵まれてるよね」

 

 むふんと胸を張って、恵まれてますアピールをするのは絆だ。

 しっかし……未だに先輩先輩言って突っかかってくるあいつがカリスマね……まあ、仕事とプライベートは別ってやつか。実際、仕事では失敗は許しませんって感じなのに、仕事が終われば束縛から解き放たれた自由人って勢いだからなぁあいつ。

 

「サインって意味ではえっと……SAKIさんのサインも欲しがってる人とか結構……や、あーしもだけど」

「そうなんだ。翆ちゃんもねだられたりした?」

「あ、いえ、あーしはべつにそれほどでもないっていうか」

「ミドリーニョは学校では遠巻きされてるからね。友達がわたしたちしか居ない」

「頼んでもいないのにあいつらが勝手に誤解してるだけだし、そもそもミドリーニョ言うな」

「両親が綺麗で、しかも雪ノ下の顧問弁護士をやってるあの葉山の子、なんてことで、みんなから距離を置かれてるんだよね。わたしと絆はまあ、肩書なんかで人を選ばないからズカズカ入っていくけどね」

「それ以前に幼馴染で友達だからね、余計なちょっかいどんとこい!」

「……あんさ。ウチの親も言ってたけど、HARUNOブランドの社長の秘書をずっと続けてたってだけで、そこらの社員や弁護士よりよっぽどすごいって。そこんとこどうなん? 絆」

「わっはっは、我が儘な人だからねぇ、プレジデント・はるのんは。いきなりやってきては今日泊めてーとか言って、HARUNOブランドの人ン家に突撃しては、空き部屋で寝ていくみたいだし。昨日はウチだったわけだけど」

 

 陽乃さんは基本、自由である。

 ふらふらと動き回っては、急に来て泊めてーと。

 その前は川崎のところだったらしく、小町から“陽乃さんが来たー!”って連絡があったくらいだ。

 金は持っている。腐るほど。しかしながらわざわざ使うつもりもないのか、肩の荷を下ろすような場所は作らず、飛んでは羽を休める渡り鳥みたいな人だ。

 

「前置きは置いといて、うん。ウチのお父さんはスゴイよ? 感情論とか苦手だけど」

「そうそう、人が考えてることとかはよく拾ってくれるのに、感情論とかになると妙なところでヘッポコだったりするね」

「友達は少々だったりするけど……限定的で、なんでか力を持った人の知り合いが多いとことか不思議で」

「人数は多くない分、深いところで解り合ってる友人が居る、みたいな感じ?」

 

 ……ていうかさ。なんでこの子ら人の話とか楽し気にしてるんだろうね。

 いいから仕事して? ほらほら、誰か来たみたいだから───

 

「《カランカラン……》こんにちは、お邪魔するわね」

「あっ───ゆきのーーーん!」

 

 ……ユキだった。

 いや、ユキどころかその後ろにはHARUNOブランドの仲間連中がぞろぞろと。

 

「もははははは! 久しいなぁ相棒! 今宵も貴様の目は腐っておるかぁ!」

「開口一番叫ぶなやかましい。今宵どころかまだ昼だろうが」

「あふん、相変わらず我には厳しい……いやまあ、その飾らない在り方が今は嬉しいものだが」

「ん? ……なんだお前、また太った?」

「むぐっ……うむ。実は痩せた上に稼ぎが増え続けた結果、財産ばかりを狙うおなごに迫られるようになり、軽く人間不信でござる……。今となってはこの集まりが我の数少ない癒しという有様……」

「お前も苦労してんのな……」

「HARUNOの名の下に集いし者に、苦労せぬ者などおらんだろう」

「まあ、そりゃそーだ」

 

 他のやつらが絆と美鳩と翆に挨拶する中、わき目もふらずに俺のところに来た材木座、どんよりの発言であった。

 「リア充って、モテてウハウハってだけじゃなかったのね……」とかマジトーンで言うの、やめれ。

 

「つーかお前ら、よく毎度毎度休みが合わせられるよな」

「あはは、八幡? 休みは合わせるものじゃなくて、取るものだよ」

「……彩加も随分逞しくなったな」

「編集って思ってたより大変だからね……人との関係で悩んでた八幡の気持ち、本当によくわかるんだ……」

「彩加の場合、人との関係で悩んでたって意味では、俺と出会う前でも変わらないだろ」

「うん、それでもだよ」

「はーあー、わたしもはるさん社長みたいに、お店を任せてのんびり出来るようになりたいです……。先輩、いい方法とかありませんかー?」

「そういうのはユキに訊け」

「あら。あなたを頼った相手をいきなり人に任せるなんて、随分と薄情に成長したものね」

「一応客が居るんだから、あんまり絡まんでくれって合図だよ、拾ってくれ頼むから」

『わかっててやった』

「お前ら帰れ」

 

 気心が知れるってのは、案外悪くない。

 悪くないが、相手も結構遠慮しないから、妙なところで……まあその、毒気ってのを抜かれるっていうか。

 悪いことじゃないよな。ああほれ、つまりは悪くない。

 ともあれ全員が思い思いの場所に座るのを見届け、客が帰れば店じまい。

 娘たちに店の前の看板を“open”から“closed”に変えてもらい、貸し切り状態にした。

 ……いやまあ、実のところ、金は全然余裕あるし、無理してやらんでもいいくらいには稼がせてもらってる。

 が、まあ……こういう時もあるし、結衣と一緒になにかをしたいって思いもあったのだ。

 むしろ子供の頃から働いてた所為で、働いてないと落ち着かない。働き過ぎの弊害ってやつだな、おう、全部ウチの両親と陽乃さんが悪い。

 

「………」

 

 仲間と呼べる人達にコーヒーを求められ、慣れた手つきで心を込めて淹れてゆく。

 ミルを回す時は、なんとも静かにものを考えるものだ。

 思い返すのは過去ばかり。

 目まで腐らせたいつかののちに出会えた、たくさんのありがとうの記憶だ。

 仲間の喧噪が店内に響く中、それに紛れ込ませるように「ありがとう」を呟く。

 それは予想通り誰にも拾われず、けれどそれでよかったから俺は笑って……唯一拾ってくれた妻に笑顔を向けられて、自分の笑顔に照れと恥ずかしさが混ざるのを実感しながら。

 今日もまた、見えないなにかに感謝した。

 

  まちがっていても、辿り着けるなにかがある。

 

 ずっと昔に求めたなにかに、人を信じたために目を腐らせた馬鹿な男が名前をつけよう。

 陳腐だろうし格好いいわけでも心惹かれるものでもない。

 中二をこじらせれば逆の名前の方にこそ心惹かれるのだろうそれを、それでも俺は。

 

「こういうのを……本物っていうのかな」

 

 ……自信たっぷり言えない自分を情けなく思う。

 自分がそう思いたいだけなんじゃないかって、まだ強く言えない。

 そんな俺に、彼女は寄り添いながら言ってくれる。

 

「うん……誰が違うって言ってもさ、あたしは……それがいいな。本物だったらいいね、じゃなくてさ、これが……本物がいい」

「…………ああ」

 

 寄り添ってくれる彼女の肩を抱いて、しっかりと引き寄せる。

 途端に冷やかされるのに、邪魔をするなとも冷やかしはやめろとも言わず、この顔は勝手に笑顔になる。

 目はきっと治らない。

 疑うことが根元に染みついてしまった今、全てを信じて輝きだけを見つめる、なんてことは不可能だ。

 それでも、それでいいのだと。

 眼鏡でも隠せないほどに黒いものを見てきたとしても、新しい関係をどれだけ築き上げても離れていく人は居て、それでも最後まで残ったものこそが答えだというのなら。

 ……俺は。

 到れた今この時の光景こそを───

 

 

 

 ……なぁ、結衣

 

  ……ん。なに? 八幡

 

 ……出会ってくれて、ありがとう

 

  ……、…………うんっ

 

 

 

 ───独りぼっちで、人を信じてばかりだった馬鹿な子供が居た。

 世界は今よりも広く、楽しいことに満ちていて。

 知ることが楽しくて、知ったことを口にするのが楽しくて、眩しい世界を元気に走り回ったガキの記憶。

 

 いつからかそこに、信じていたヤツからの嘘が混ざって、それでも信じたいから信じて、傷ついて。

 それが裏切りだったと気づいた時には自分の周りは嘘だらけで、眩しかった世界は灰色の世界になっていた。

 やがて信じることをやめて、人が自分にくれるものは嘘でしかないと決めつけて、見る世界から色を消して歩む日々。

 あんなにも信じることが、駆けることが楽しかった世界は、歩くことが、疑うことが当然の世界に成り下がった。

 

 それでも……心の奥底では信じていたものがあって、探していたものがあって。

 そんななにかが今さらって言えるくらい今さらに、目の前にあることに気づいた時。

 俺はもう一度、あの眩しかった頃の世界を───本物と呼べる場所を、信じていける気がした。

 

  もう、駆けるには歳を取りすぎたか?

 

 浮かんだ自問に、馬鹿言えと自答する。

 独りじゃ走れないなら手を伸ばすさ。

 笑いながら、眩しさと一緒に走っていく。

 

 眩しいのはもう、場所だけじゃあなくなったんだから。

 




お疲れさまでした、これにて終了です。
いやー……続きは書かないとか言っておいてこれですよもう。
はい、というわけでこのお話は追記分です。
pixivで以前書いた“ごちゃ混ぜた結果”の流れのようなものですね。
っと、仕事の時間なので積もる話はブン投げてこれにて!
読んでくれた方に、ほんの少しのほっこりがあらんことを。

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