どこにでもあるようなガハマさんとヒッキーのお話   作:凍傷(ぜろくろ)

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親指が結ぶもの①

 後悔ってのはなんでもないいつも通りのことに、いつだってへばりつくもんだ。

 なにがどうしてそうなったのかなんて、注意が足りなかったとかそういう話じゃないだろう。

 いつも通りに動いた筈なのに、そこに偶然がくっつくと、嫌な出来事ってのまでついてくるからたまらない。

 

「ヒッキー……えと、しょうがないよ。あたしがさ、ほら、不注意だったんだし」

 

 いつも通りの行動、いつも通りのそれに、他人の行動が混ざるだけで、いつだって苦いものは日常に染み込んでくる。

 だからぼっちの方が気楽でいいのにとは思うが、そうなってしまったものは覆らない。よく言う、後悔先に立たずだ。

 先悔とかないかしら。先に悔やめば事前に覚悟も出来るんだが。いやむしろそうならないように動けるんだが。

 

「……いや。責任からは逃げねぇよ。つか、大人しく手伝わされてろ」

「うん……」

 

 先日、由比ヶ浜が引き戸に指を挟み、親指の爪を割るという事件が起こった。

 話をしながら余所見をして、勢いよく閉められる戸に気づかずに指を挟んでしまい、こんな状態だ。

 一応言わせてもらえるなら、閉めたのは俺じゃない。

 仲間内でギャハハと笑いながら追いかけっこみたいなのをしていた男子が、少し開いていた戸に近づいてきたのが仲間だと思い、来れないように戸を閉めたのだ。勢いよく。

 結果、少し開いていた部分に手を伸ばした由比ヶ浜は、丁度三浦に声をかけられ振り向いた際、親指だけを挟む結果になり、爪ごと指を怪我した。

 俺が感じている責任ってのは、燥いだ男子どもがやりそうなことが想像出来たのに、それを教室内だからって由比ヶ浜に伝えなかったことへの罪悪感からくるものだ。

 自分が発言することで注目されるのが嫌だった、なんて理由で、結果的にしなくてもよかった怪我をさせてしまったのだ。

 

「………」

 

 頭が真っ白になった俺は、三浦や葉山が心配し、駆けつけようとするのを押し退けるようにして由比ヶ浜を抱き上げ、走っていた。

 教室から飛び出し、後ろから聞こえる声なんか無視して、痛みのあまり縮こまり、泣きながら震えるだけの由比ヶ浜を強く抱き、保健室へ。

 冷静になれたのは、由比ヶ浜の指への応急手当が始まって、することが無くなってからだった。自室だったら布団に潜り込んで“あ゙ぁああああああっ!!”って叫んでるレベル。

 病院にも付き添ったし家にも送り届けて、由比ヶ浜の母親にも事情を説明。

 自分が言ってやれなかった所為でと頭を下げて、何度もさげて、困り顔の由比ヶ浜の母親に「じゃあ」と条件をつけられ、俺はそれに頷いた。

 キミは悪くないのよ? なんて言われたって納得は出来ない。

 条件をつけられるのだって、結局は俺が罪悪感から解放されたいって理由だ。

 けど、それ以上に───小さく蹲り、泣いて震える由比ヶ浜が頭から離れない。あの瞬間、ああ、こいつはか弱い女の子なんだ、と……当たり前のことを強く認識した。

 

「ほら。ペン、持てるか?」

「う、うん。ありがと、ヒッキー」

「気にすんな。好きでやってることだ」

「うん……」

 

 由比ヶ浜の母親が出した条件は単純なもの。

 こんなことがもう起こらないように、恥ずかしくても伝えたいことは伝えること。

 それと、親指がこれだから、由比ヶ浜の行動の手伝いをしてほしいってこと。

 条件付ける前にやたらと名前の確認をしてきて、“あなたがヒッキーくん? ほんとに? そうなの? あらあら~!”なんて何度も言ってきて、その上でのあの条件。

 なにかあるのか、と警戒はしたが、警戒し切れる気分でもなかったから、素直に頷いた。

 由比ヶ浜が赤くなって母親といろいろ言い合ってたが、その時は自分の立ち位置を自分に刻むので忙しく、気にしていられなかった。

 

  休むかと思ったが、由比ヶ浜は普通に登校すると連絡をしてきた。

 

 翌朝には早起きまでしてマンションまで迎えに行き、どなたですかーと無防備にも扉を開けた由比ヶ浜とやっはろー。

 「なななななんで居んの!?」って真っ赤になってゴシャーと後退った由比ヶ浜だったが、わたわたと腕を振るった拍子に指が痛んだらしく、しゅんと大人しくなってしまう。

 そうなるともうだめ。罪悪感がすごい。

 あの由比ヶ浜が騒ぎ切れないほどかと、ほら、その、なんてぇの? 調子が出ないっつーか。

 だから来てよかったと、しばらくは一緒に登校することを宣言。

 迷惑だったらそれでも構わんと言っ「迷惑なんてそんなことないよ!」……た、が…………ああうん、その、……え? そうなの?

 慌てて着替えに戻った由比ヶ浜を見送ると、エプロンをつけた由比ヶ浜の母親が「あらあらヒッキーくん?」なんて言ってやってきた。

 

「あ、ども」

「昨日は結衣を送ってきてくれてありがとう。今日は迎えに来てくれたのかしらー?」

「あ、はい。昨日連絡したら、登校するって言ってたので、その。一日くらい休んでいいとは言ったんすけど」

「うふふふふ♪ 結衣は休まないわよ。高熱出しても行くんじゃないかしら。あ~、今はちょっと別の意味で頭が熱いかもしれないけどね~?」

「え? 熱あるんすか?」

「ふふっ、う~う~ん? なんでもないわよー? あ、そうだヒッキーくん、ちょっと上がっていかない? 結衣が学校でどうしてるかとか、教えてくれるとママ嬉しいわー♪」

「ひ、ひやっ……おりゅっ……俺はそのっ……心配で、迎えに来ただけでひゅ、かりゃ」

 

 ぐっは噛んだ死にたい……! 知り合いの母親の前で噛むとかもうめっちゃ死にたい……!

 

「そうなの? 残念だわ……。あ、じゃあ…………これだけ。サブレと結衣を助けてくれて、ありがとう」

「え…………あ、いや。……その。犬はほら、成り行きで助けましたけど、べつにそのゆいがっ……いや、娘さん……いや、その。結衣、さん? を、助けた覚えは」

「ううん、助けてくれたわよ。目の前でサブレが死んでたら、あの娘きっとずっと後悔して、ずうっと泣いていただろうから」

「あ…………」

 

 言われて、自分がしたこと……することが出来たことで、1人の少女の先がどれだけ明るくなったのかを初めて考えた。

 自己満足だとかああできたよかったとか、特別深く考えたことなんてなかった。

 けど……こうまで真っ直ぐに言われて、初めて、俺は……。

 

「ヒッキーくん。ヒッキーくんさえよければ、これからも結衣を迎えにきてくれないかしら」

「あっ……それは、……うす。その、結衣さん、さえよければ」

「さんとかつけずに、結衣でもいいのよー?」

「…………。いや。俺なんかに呼び捨てにされたら娘さんが泣いて嫌がるっすから」

 

 身の程ってもんを知っているぼっちは、人に深く踏み込まない。

 俺なんぞに触れられて喜ぶやつは居ないし、触れられたら距離を取って、その部分をはたくくらい嫌がるに決まっている。

 だから触れないし近づかない。

 

「うーん……なるほどね~……これは強敵ねー……。結衣ったらきっと苦労するわね……」

「え? なんすか?」

「ヒッキーくん。結衣のこと、お願いね?」

「え……あ、はあ」

「返事はしっかりっ」

「あ、は、はいっ」

「うふふ、よろしい」

 

 ぴしゃりと言われ、つい背筋を伸ばして返事をしてしまった。

 するとぽむぽむと頭を撫でられ、もう恥ずかしいやら死にたいやら。

 

「でもだめ、ママ許しません。結衣、って言って?」

「いや無理っす」

「言って?」

「いや、だから」

「言って?」

「………」

「……娘を傷物にされて、お願いも聞いてもらえないなんて、結衣ったら可哀想……」

「呼ばれるほうが可哀想とか思わないんすか……あ、あー、解った解りましたよ……。あー、その。ゆ、ゆい」

「もう一回」

「ゆい……」

「言い方が違うわよぅヒッキーくん。言葉として言うんじゃなくて、名前を呼ぶのよ? はいもう一回」

「………」

 

 “ゆ”で下げて“い”で上げる俺の呼び方はやはりだめだった。

 

「じゃあその……ゆ、ゆい」

「だめ」

「……ゆい?」

「ちゃんと結衣を呼ぶように、よー?」

 

 やめて? その純粋無垢な笑顔で人のこと見ないで。

 

「……結衣」

「はい、よくできました」

 

 言って、なんでか頭撫でられた。

 あとちゃんとそうやって呼ぶようにって。ちょ、やめて、いろいろまずい。

 

「ヒ、ヒッキー、おまたせ……って、ちょ、ママ!? なんでヒッキーの頭撫でてんの!?」

「あら結衣。あんまり待たせちゃだめでしょー? だからいっつも準備は早くにって言ってるのに。いっつも着崩れたパジャマでうろうろって」

「わーわーわー! そういうことわざわざ言わなくていいってばぁ!! もういーからママはあっち戻ってて!」

「えー? ママ、もっとヒッキーくんと話した~い~っ」

「だめ! ……も、もう、いこっ? ヒッキー」

「お、おう」

 

 ぱたぱたと慌ただしく、こちらへ来て、屈んで靴を履こうとする。しかし右の親指が使えないのは辛いのか、上手くいかない。

 

「結衣、立って俺の肩に手、置け」

「え? あ、うん。───え? あれ?」

 

 立って、肩に手を置くように言って、屈みながら結衣の靴を手に取る。

 一度断りをいれてから結衣の足に手を添え、立てた膝に足を乗せるように促すと、そこにすぽりと靴を履かせる。

 反対側もそうして、それが終わると俺も立ち上がり、「んじゃ行くか」と促した。

 結衣はどうしてかぼーぜんと固まっていて、俺は首を傾げながらも母親さんに挨拶をして、結衣の鞄も一緒に持つと、それから結衣を促して外に出た。

 

……。

 

 マンションを下りてしばらく。

 通い慣れない通学路を結衣と二人で歩く。なんつーか、新鮮。

 いやまあ、女の子に怪我させといて新鮮とかどんだけ最低なんだって話だが。

 それも結衣にだ。後悔ばかりがジワジワと湧き出して…………ん? あれ? なんか違和感があったような…………気の所為か? 気の所為か。

 

「あ、あの……ヒッキー?」

「ん? なんだ? 結衣」

「───……!!《グボッ! ……ふしゅううぅうう……!》あ、あう、あうあう……!」

「?」

 

 えと、なにこのガハマさん、急に顔が赤くなったんですが。え? なに? ほんとなに?

 つか、またなにか違和感が…………なんだ? なにかとっても大事なことに気付けていないような……。

 まあいいか、今はとにかく結衣だ。

 骨折させてしまった昨日、家に帰ってから小町に相談した。

 そしたら女の子に怪我を、それも骨折なんてさせたんじゃ、生半可な気持ちじゃ償えないとキッパリ言われ、そりゃそうだと俺も頷いた。

 どうすればいいのかも散々悩んだが、結局は結衣の母親……由比ヶ浜マに言われるまでもなく、結衣をサポートすることを選んだ俺に、迷いはなかった。

 なかったんだが……ひとつ問題があった。

 それを小町に相談したら、“そうしろ”と言われたことが、俺にとっての難題……いや、違うか。難題だと思い込んでいたんだが……これ、案外いけるもんだ。

 

  やれと言われたのは、結衣を小町以上に心配して接すること、だった。

 

 つまり“お兄ちゃんスキルを発動しまくるつもりで結衣さんを支えること”だ。

 正直どう接していいか悩みどころだった俺にとって、小町からの提案は物凄く助かるものだった。あとは俺がちゃんと動けるかどうかだったからだ。

 お兄ちゃんどころか、結衣の方が二ヶ月早いわけだが、こいつってところどころでポカをやらかしてくれる天然さんな分、強く意識してみれば案外受け入れられた。

 妹として見る、というよりは、面倒を見てあげたい、支えてやりたいと純粋に思ったんだ。……昨日、痛みのあまり蹲り、弱々しく震える結衣を見た瞬間に。

 出来ることがあるならなんだってしてやりたい。何様だって思われてでも、守ってやりたいって思った。

 だから、というわけでもないのかもしれないが、考えるまでも構えるまでもなく、お兄ちゃんスキルはひどく自然に発動した。

 

「ヒ、ヒッキー、鞄、持つよ?」

「いいから、お前は気にすんな。それより痛まないか?」

「あ、うん。大丈夫だけど……」

「そか。よかった」

 

 自然とやさしい笑みがこぼれた。ニヤリとかニタリなんて、意識してカッコつける笑みじゃない、本当に自然に頬が緩んで完成する、やさしい笑み。

 怪我人を前に笑うとかどうなんだって思っても、あんな姿を見たあとじゃあ痛くないと言われるだけでも安心する。

 

  そうこうしているうちに、学校へと辿り着く。

 

 靴の履き替えも苦労する結衣に、再び肩と膝を貸して履き替えさせて、階段を上る時も手を貸して、ただただ心に動かされるままに支えた。

 「み、みんな……見てるよ? ヒッキー、こういうの嫌……だよね?」と言ってきても、もうそんなものは気にならない。勝手に騒がせておけばいい。

 ある意味で覚悟は決まってるよと返すと、どうしてか結衣は顔を赤くした。

 

……。

 

 教室に入れば当然、葉山グループが揃って結衣を囲む。

 俺はとりあえず座らせてやってくれと頼んで、席まで送ると自分の席へと戻った。

 支えてやるのはいいが、友人関係にまで影響出るほど首を突っ込む気はない。

 なにより三浦という名のオカンが居るんだ、俺の出番はないと言っていいだろう。

 ここからはいつものステルスヒッキーだ。

 

<ヒソヒソ……クスクス……

<ダヨネー……アレニヨコダキニサレルトカサー、ナイヨネー

 

 ……。聞こえる声も気にしない。

 言われるまでもねぇよ、んなこた解ってる。

 けどな。

 ワーキャー騒いで人を巻き込むだけ巻き込んで、あんたが悪いお前が悪いって擦り付け合いしかしなかったお前らにだけは……言われたくねぇよ。

 

……。

 

 苦手な教科のノートもきちんと取って、昼になれば───……いや。三浦が動いた。

 結衣はこっちを見ていたが、三浦に話しかけられると“たははっ……”って感じで会話を始める。

 俺はいつも通り立ち上がってベストプレイスを目指し、静かなそこでのんびりと昼飯を食べた。

 珍しくマッカンって気分でもなく、スポルトップを飲んで、昼も終了。

 残りの授業も終えれば、部活の時間だ。

 結衣の方を見るが、やはりと言うべきか、三浦が世話を焼いている。

 聞こえる声では、どうやら部室まで送ると言っているらしい。

 まあ、そうな。男に送ってもらうより、噂とか立たなくていいんじゃねぇの?

 三浦がそうすることで、俺の横抱きのことも俺がトチ狂ってやった行動、って流れてるみたいだし。

 それならそれでいい。

 目が腐った変態にいきなり横抱きにされた可哀想なヤツ、なんて噂がもっと流れりゃ、結衣にやさしくするヤツは増えるだろう。

 俺はそれに乗って、黙してるだけで全て解決。

 サポートなんざいらなかったんだ。わあい、“みんな”やっさしー。

 

「あ……」

 

 俺が教室を出る時、誰かの寂しげな声が耳に届いた。

 教室では結衣を心配する声がそこかしこから聞こえてくる。その中の一つだろう、と気にしないで歩いた。

 

……。

 

 奉仕部に辿り着き、しばらくすると葉山グループと一緒に結衣が来る。

 いや、全員で来るなよ……とツッコミたかったが、まあ心配する気持ちは解らんでもなかったからツッコまなかった。送り届ければ解散。葉山たちも部活があるんだろうしな。

 いつも通り三人になれば、あとはなんというかこう、ほら、あれだな、おう。そのー……いつもと逆っつーの? 雪ノ下が結衣に構いまくるっつーか。紅茶飲ませたり茶菓子出したり、痛いところはないかとか不自由はないかとか。

 あ? 俺? 俺は普通にステルスしてたよ。ゆるゆり結構じゃないの。存分にいちゃこらしててください、その方が結衣…………ああ、そか、由比ヶ浜マに何度も言わされたから、結衣って呼んでたのか。こりゃまずいだろ。

 ああけどほら、あれだよ、気にする必要とか一切無し。

 俺がやらんでもあいつを支えてくれるヤツは山ほど居る。それも全部、ゆい……がはまの人徳の為せる業みたいなもんなんだろう。

 “まじない”めいた、怪我人の親からの言葉なんて忘れちまえ。

 奥さん、俺なんぞが支えなくても、娘さんは多くの仲間に守られてますよ。

 だから───俺は、外側でいい。いつも通りだ。ここは、本当に世界がよく見えるから。

 

「急に静かに笑いだして、とうとう自分の愚かさに気づいたのかしら、自虐谷くん」

「……そだな」

「……え? あ、あの、比企谷くん?」

「………」

 

 心は落ち着いた。

 いつも通りでいい。

 小町にもいつまでやれだなんて言われなかった。

 つまり、そういうことでいいだろ?

 自分の愚かさに気づいたのなんて昔すぎて覚えていない。

 自虐なんていつものことだ。

 雪ノ下、覚えとけ。ぼっちにとって、そんなもんはガキの頃にとっくに経験するもんだ。正しさを証明してぶつかり続けたお前にゃ、諦めることを選んだぼっちの気持ちは解らないだろうけどな。

 だから。今さらそんな、“当然のこと”で動揺したりは……しねぇんだよ。

 

「………《ペラッ……》」

 

 しばらくは文字の世界に没頭しよう。

 俺が反応しなくなったことで、ようやく由比ヶ浜に向き直った雪ノ下に任せて、俺は“いつも通り”に沈んでゆく。

 

……。

 

 完全下校時刻がくると、いつも通り部活も解散。

 雪ノ下が鍵を返しに廊下へ消え、由比ヶ浜がちらちら俺を見て、たととっと小走りに寄ってくると、

 

「あぁ、ユイー、終わったー?」

「え? 優美子?」

 

 そこへ女王がやってくる。わざわざ迎えにくるとかオカンたらやっさしー。

 

「終わったなら帰るよ。送ってくし」

「え、で、でも」

「遠慮すんな」

 

 男らしく言って、三浦が由比ヶ浜の鞄を担ぎ、歩き出す。

 俺ももう歩き出していて、“いつも通り”の自分のまま学校をあとにした。

 

……。

 

 帰宅すると、小町に「たでーまー」と言って、喉が渇いていたから水を飲めばすぐに階段を上る。

 「遅かったねー」という小町の言葉に無難な言葉を返して、自室へ。

 もやもやがあるから勉強でもして気を紛らわそう……と思ったのだが、ノート、由比ヶ浜に渡したままじゃねぇかよ。なにやってんの俺。

 帰りだって結局回り道して二人の帰宅を離れた位置から見送ったり……ちょっと? これストーカーですよ?

 

「………」

 

 まあ、よかったんじゃねーの?

 あの様子じゃ、明日はオカン三浦が朝も迎えに行くっぽいし。

 俺が迎えに行くことで、俺と妙な噂を流されることもなくて、由比ヶ浜だって万々歳だろ。

 

「…………こういう日に限って、気分転換になるアニメとかってない曜日なんだよな」

 

 世の中ってちっともやさしくねぇ。

 ため息ひとつ、苦手教科でもやってみるかと手を出して、数秒で投げ出した。

 あぁ、ほんと。

 ……アホだ。

 そうしてしばらくごろごろしたりして時間を潰した。

 暗くなれば小町が風呂入っちゃってーと言ってきて、遠慮なく入ることにして、じっくり浸かって温まる。

 なんつーかあれね。入浴中っていろいろ考えちゃうよね。どうしようがどうにかなるしどうにもならんって感じだから気にしなくていいかもだが。

 

「……さて」

 

 風呂から上がると、自室に戻ってしっかりと髪を乾かしてから勉強を始める。

 “時間があること”がどうしてか辛かった。

 なにかで埋めて、じわじわと沸いてくるなにかを殺したい。

 だから勉強をした。

 解らないものに立ち向かっていれば、余計なことを考えずに済んだ。

 

   ×   ×   ×

 

-_-/由比ヶ浜結衣

 

 爪が割れたことには純粋に驚いて、圧迫しないようにって何度も言われてからは、痛み止めを飲んだりぶつけたりしないように注意する時間が続いた。

 ヒッキーがあたしにやさしくしてくれて、やさしく笑ってくれて、初めて見る表情で接してくれるようになって、嬉しくなかったって言ったら絶対に嘘だ。

 怪我を理由に寄りかかったらずるいかな、なんて思ったりもしたけど、こんなきっかけでもなくちゃ、きっとヒッキーから近づいてくれることなんてないから。

 だから、少しずつ近づけたらなって思ってたら、まさかの、だった。

 朝からヒッキーが迎えに来てくれて、心配してくれて、結衣って呼んでくれて、靴を履かせてくれて。

 な、なんで急に呼んでくれたのかな。前の時、あんなに嫌がってたのに。

 ……怪我人だから、やさしくしてくれてるのかな。そだよね、それくらいしか思いつかないし。

 でも、それでもいいから……近づいてくれるなら、たまには甘えても……いいよね?

 

「………」

 

 一緒に歩いて、一緒に登校。

 それだけで嬉しかったけど、学校が近づいて、人が増えてくる度に、“ああ、もう終わっちゃうんだな”って思った。

 だってヒッキーはこういうの、嫌いな筈だ。

 俺といるとどーのこーのって言って、きっと距離を取るから。

 それが解ってるから、どうせなら自分から言おうって思って切り出した。

 そしたらヒッキー、「ある意味で覚悟は決まってる」、だって。

 それがどういう意味かは解らなくても、傍に居ることを、みんなに見られてるこの状況で許してくれたのが嬉しくて。

 あたしは……俯いて、せめてこんな、どうしようもないくらいニヤケちゃう顔を隠すくらいしか出来なかった。

 

……。

 

 昇降口。靴を履き替えようとするんだけど、この指じゃ上手くいかなくて、もたもたしちゃう。

 ヒッキー、きっと待ってるから急がないとって思えば思うほど。

 そんなあたしの焦りなんて“気にすんな”って笑い飛ばしてくれるみたいに、ヒッキーはあたしの頭を「焦らなくていいから」って言いながら撫でて、玄関の時みたく屈んで、上履きを履かせてくれた。

 屈んで立てた足にあたしの足を乗せて、きゅって。

 

「………」

 

 なんか、ずるいなぁ。

 すっごくすっごくずるいと思う。

 そうだ、こんなの…………ずるい。

 胸がどきどきしっぱなしだ。

 すっごく、寄りかかっていたいって思っちゃうじゃん。

 でも、そういうのはだめだ。一方がよりかかるだけなんて、そんなの違うって思う。

 思うから、ヒッキーから近寄ってきてくれる今の内に、出来るだけあたしからも近寄れるように───って思ってたのに、優美子がやたらと手を貸してくれるようになった。

 そうなるとヒッキーは小さく溜め息みたいなのを吐いて、“ま、こうなるわな”って顔をして……あたしから視線を外した。

 途端、ひゅう、って。心が冷たくなるのを感じた。

 ……あたし、嫌な子だ。

 優美子は純粋に心配してくれてんのに、今、あたし───……

 

……。

 

 ……うん。正直になっていいかな。

 ねぇ優美子、あたし正直になっていいかな。

 確かにね、心配してくれるのすっごく嬉しい。

 でもさ、これ、ちょっと違う。

 

「遠慮すんなし。つーかユイはいっつも遠慮しすぎなんだっつの。前にも一度あったっしょ、仲間なんだから遠慮すんな、辛かったら言えし」

 

 休み時間の度に声をかけられて、その度に授業が終わる前からあたしのことを気にかけてくれてたヒッキーが、ふい……って目を逸らす。

 いっつも苦手な教科の時は寝てるのに、珍しく起きてて、真面目にノートとってて。

 それが誰のためなのかを考えたら嬉しくて、ちゃんとお礼を言おうと思ってたのに、立ち上がる前から優美子に捕まった。

 返さないわけにはいかないから短く返してヒッキーのところに行こうとするのに、次は隼人くんが、とべっちがって続いて、わたわたしてるうちに大岡くんと大和くんが……声をかけながらあたしの胸をちらちら見てくる。……気持ち悪い。

 男の子って苦手だ。やっぱり苦手。

 そりゃ、さ。ヒッキーだって見てくる時はある。けど、すぐに視線を逸らすし、あれはなんか、違う。

 反射的に見ちゃうって感じで、ヒッキー自身は見たくて見てるわけじゃないって感じ……っていうのかな。

 ……違うか。“俺なんかが見ていいものじゃない”って感じだ。

 考えてみると結構ショックだ。好きな人にそんな風に思われるほど、あたし、偉くなんかないのに。

 あ、うん。でも今はそれはいいんだ。

 問題になってるのは……優美子たち。

 

「ねぇ優美子、指の爪くらいで大げさだよ……あたし一人でいけるから」

「だーからー、遠慮すんなっつの」

「え、遠慮とかじゃなくて……さ」

「……なに? もしかして迷惑だった、とか?」

「っ……」

 

 ずるい。

 そんな言い方されたら、迷惑だなんて言えるわけがない。

 けどあたしだって言いたいことはある。ある、けど……それをここで言ったって仕方ない。

 だからあたしは、優美子に時間が取れる日を聞いた。二人きりで、話が出来るようにって。

 

「………」

 

 辿り着いた奉仕部で、ヒッキーはあたしを囲むように歩くグループのみんなを見てギョッとしてた。

 そんな目がすぐに“どより”って濁っていって、“はぁ、ほれみろ言わんこっちゃない”って感じに歪んで…………それから部活中、ヒッキーは一度もあたしを見なかった。

 部活が終わればゆきのんが鍵を返してくるって言って、いつもならそのあとを追うあたしだけど、今日は───

 

「あぁ、ユイー、終わったー?」

「え? 優美子?」

 

 そこに、優美子が来た。

 みんなとじゃなくて、一人で。

 さっきの今で来てくれるなんて思わなかった。

 でもヒッキーが───ってヒッキーの方を見ると、丁度顔を逸らして歩いていってしまうところだった。

 呼び止めたかったけど……少しだけ見た、逸らした顔が……だったから、あたしは何も言えなかった。

 

「で、話って?」

「……あ、うん。ちょっと歩こっか」

「ん」

 

 完全下校時刻の特別棟は静かだ。

 べつに移動なんてしなくても二人きりの話は出来るし、誰が聞き耳を立ててるわけでもない、と思う。

 かくれんぼとかしてる人が居たら、ちょっと無理だけど。

 居ないかな。……居るかも。そんなやんちゃな人に、爪割られちゃったし。

 

「あのね、優美子。回りくどいこととか抜きで、まっすぐ言うね」

「……。解った。聞いてやっから言ってみろし」

「うん。……あたし、好きな人が居るの」

「ああヒキオ? で?」

「───」

 

 え?

 ……。

 え?

 

「え、えぇええ……え? ゆ、ゆみ……?《かぁっ……かああっ……かぁああ……!》」

「あ? 違うの? んじゃ誰? ユイがいっつも目で追ってる奴っつったらヒキオじゃん?」

 

 バレてた! てかあたし自分でバレバレすぎだ!

 そ、そんな見てた!? ……見てるよ! 思い返してみても、あたしヒッキーのこと見てばっかだ!

 

「ああまあ誰とかはいいから続き。なんか相談? 言ってみ」

「………」

 

 投げた真剣さを爆弾で返しておいて、平然と話すのってずるいと思う。

 時々だけど、優美子ってヒッキーに似てるって思うこと、ある。優美子は怒るだろうけど。ヒッキーは否定するだろうけど。

 

「……優美子もさ、隼人くんのこと、好きだよね?」

「っ、……まあ、いろいろ依頼しといて誤魔化すとか、ないし。てか解らなかったらアホでしょ」

「ん、そだね。でね、優美子」

「……ん」

 

 真っ直ぐに、丁寧に。

 言葉を組み立てて喋るのは苦手だし、かっこいい言葉を並べるのも苦手。

 見栄張って難しい言葉を言ったって、意味が解ってないから失敗するし、そんな言葉じゃきっと届かないって思うから、苦手でも組み立てて、解り易く届けた。

 怪我をした時に、痛くて辛くてたまらなかった時に、みんなが誰が悪いお前だあんただって言ってる時に、誰よりも早く行動してくれて嬉しかったこと。

 普段はそっけないのに、人のことを思って行動してくれて、あとでどんなことを言われるのかとか、あのヒッキーが考えないわけがないのに、それでも動いてくれて嬉しかったとか。

 そんな人が、今、自分を気にかけてくれていることが嬉しい、とか。

 こんな気持ちで、優美子の善意を迷惑だとか思っちゃうあたしが、悲しい、とか。

 

「《でごしっ》はたっ!?」

 

 そこまで言ったら、優美子があたしの額を軽く押すようにして叩いた。

 

「あんさ、ユイ。そこまで気持ち固まってんならさっさと言え。これじゃあーし、ただのお邪魔虫じゃん。……あーしだって隼人がそうしてくれたらって思うし、近寄ってくれるなら……それは“みんな”じゃなくて“隼人だけ”がいい」

「優美子……」

「てか、ごめん。ヒキオがユイのこと心配そうに見てたのは、知ってた。どんだけ踏み込めるのかとかも、ちょっと試した」

「……うん」

「いやうんじゃなくて。気づいてたんならそれこそさっさと言えし」

「ちょっと……ほら。期待しちゃった、っていうか」

「あー……ヒキオが割って入ってきて、“こいつは俺が診るから”、とか?」

「………」

「………」

「ないね」

「ねぇっしょ」

 

 二人して笑った。

 想像がつかなかったから。

 でも……悪い意味じゃなくて、それがその人っぽいからだ。

 優美子が想像したのは、きっと隼人くん。

 それでも、隼人くんがそうする姿なんて想像は出来ない。

 あたしも優美子も、もういい加減解ってる。

 隼人くんはやさしいけど、“個人のために”っていうことをあまりやらないんだって。

 

「ああ、ん。けどね、ユイ」

「ん? なに?」

 

 昇降口を出て、少し進んだあたりで優美子がケータイを見せてくる。

 なんかの画像かなって覗き込んでみるんだけど、そこには青空が映ってるだけ。

 

「そういうことは言わなくても、見守ってはいるみたいじゃん?」

 

 優美子がケータイの角度が変えると、その先に……こっちを見てる、見知った人。

 あっ、て声が出そうになったけど、なんとか抑えた。

 

「ヒッキー……」

「ていうかマジこれ、あーしが邪魔者でしかねーし……ヒキオも男見せろっつの」

「……無理だよ。ヒッキー、きっと男の俺よりも女の優美子のほうが、とか考えてるもん」

「……気、使えるんだ。……知らないで決めつけてたのはあーしだけ、か。ちゃんと男してんじゃん、あいつ」

「うん。無神経に踏み込んで、なれなれしくする人とは……違うんだ、ヒッキーは」

「そ」

「ん。そだ」

 

 歩く。

 優美子が意地悪して、ちょっと道をそれたら追ってこなくなるか試してみても、ヒッキーは最後まで……マンションの傍まで見送ってくれた。

 それが嬉しくて……でも。

 

「ユイ。明日からは手ぇ貸さないけど、ヒキオのやつ、」

「うん。ヒッキーはもう来ないよね」

「……ユイ」

「優美子が、とか、隼人くんたちが、とか考えたらさ、そりゃ……普通は誰も踏み込めないよ。だいじょぶ、ちゃんと解ってるんだ」

「ごめん」

「いいってば。……約束、はしてないけどさ。決めたんだ。言ったんだ、ちゃんと、あたしは。……“自分から行く”って」

「……そ。んじゃ、あーしからはこれだけ。“がんばれ”、ユイ」

「うん。その、優美子も」

「……ん」

 

 優美子は薄く笑って、帰っていった。

 ヒッキーはもう居ない。

 あたしも一度頷いて、ゆっくりと自分の家までを目指して歩いた。

 

   ×   ×   ×

 

-_-/比企谷八幡

 

 朝が来た。

 希望の朝、なんてことは、俺に限ってはまずない。

 目の前で戸塚が寝てる時とかアレはやばかったが、ないだろ。ないよな。

 

「………」

 

 もぞもぞと起き出して、さっさと準備をしたところで、そういや由比ヶ浜の家に行く必要なんてねぇんだったと思い出す。

 たった一日で習慣化させるつもりになってたとか、俺まじ優秀。社畜の才能ありまくりじゃないの。なるつもりねぇけど。

 

「………」

 

 なんだろな。

 べつに、いつも通りの筈なのに、“やる気だけが空回っちまった”みたいな……このぽっかりと穴をあけられた気分。

 ……自転車で行くには早い。けど、家でじっとしてるといろいろと考えちまってキモい。

 

「………歩くか」

 

 のんびり行けばいい。

 んで、誰よりも早くガッコについて、たまには一番目の登校とかを無駄に喜んでみよう。

 なんつーか、今無駄なこととかしたい気分だし。

 いやほんと……無駄なことな。

 小説でも読んでりゃいいだろうに、開いたって集中出来ないのが目に見えていた。

 

……。

 

 で。

 ……なんで俺、ここに居るんだろな。

 

「………」

 

 マンション内、“由比ヶ浜”のプレートを見て、とほーと溜め息。

 いやほんと、なんなの俺。

 そりゃさ、無駄なことしたい気分だったよ?

 でもこれほど無駄なこととかねーだろ。

 これでちょっとあとに三浦とか来てみなさい? 俺ただ勘違いして女子の家に来たイタイ男子だよ?

 ほれ、今なら間に合うからさっさと逃げろ。

 あきらめるのは悪いことじゃねぇからって、逃げちまえ。

 今ならまだ間に合うから。

 今なら───…………今なら。

 

「…………」

 

 だな。

 なんなら真っ直ぐにお断りを受けりゃあいい。

 由比ヶ浜自身に三浦が来るから俺はいいって、それっぽいこと言われりゃ、みっともなくこんな無駄なことをすることだって二度とないんだ。

 だから……俺は、そのためのスイッチを、押した。

 

 

───……。

 

 

……。

 

 み、妙ぞ……こはいかなること……!?

 

「あ。あの、あのあの……《ぷしゅううう……!》」

「いや……お、おう、あのな……《かぁああ……!》」

「……結衣? ママ、あとは若い者に任せて~とか、一度言ってみたかったんだけどー……いい?」

「や、やめて!? ここに居て!?」

 

 俺、由比ヶ浜家なう。いやなうじゃなくて。

 あー……名前なんつったっけ? チャイム? コールチャイム? ドアチャイム? とにかくピンポン鳴らしたら、完全武装した由比ヶ浜が出てきて、俺驚愕。

 由比ヶ浜も「え? …………え?」って本気で驚いて固まってたし、後ろから「結衣ー? どなたー?」って顔を出した由比ヶ浜マが、「あらあらぁっ!」って本気で嬉しそうな声だして、俺を引きずりあげたのは……記憶に新しい。そらそうだ、ついさっきだし。

 

「あ、の……ヒッキー……?」

「あ、ああ、なんだ?」

 

 由比ヶ浜家のソファーに、向き合って座る。

 いや、正しくは横に座って、首をそっちに向けてって感じで。

 

「えと……もう、来てくれないかと……思ってた」

「いやまあ……そうな。そう思ってたんだけど、なんか足が向いたっつーか」

「ヒッキー……」

「そういう由比ヶ浜はどうしたんだ? つーか、用事あるなら出た方がいいぞ? 俺のことは気にしないでも───」

「あ、ううんっ、違くてっ! あ、あのね? あたし…………ヒッキーを、迎えに行こうかなって……だから、早めにって」

「へ?」

 

 俺を迎えに? ……いやいやなんでだよ。

 俺が来るならまだ解るけど、怪我人が俺のところに来てどーすんの。

 

「ヒッキー。あの……今から言うことに、誤魔化しとか茶化しとか……なしね。本音で言うから……ほんとに、嬉しかったから……だから」

「…………解った」

 

 じっと見つめられて、真っ直ぐ言われりゃ断れない。

 なにか言いたいことがあるっていうなら聞こう。

 もしかしたら、嬉しかったけど、もういいからってことかもしれねぇし。

 ……覚悟決めとけ。やさしい女からのそういう言葉には、もう慣れてた筈だろ?

 

「指がこんなんなっちゃってさ、痛くて、しゃがんで痛みに耐えるしか出来なくてさ。そんな時、ヒッキーが助けてくれた」

「、───」

 

 助けたとかそんなんじゃねぇ、って言おうとしたら、由比ヶ浜マが俺の肩にポンと手を置いてきた。

 見守ってやってくれって言われた気がして、整えた言葉なんて、すぐに解けて消えてしまった。

 

「誰に言われたわけでもないのにヒッキーが付き添ってくれてさ。マンションまで送ってくれて……次の日には迎えに来てくれた。嬉しくて、でも恥ずかしくて……ふきんしんだけどさ、怪我してよかったな、とか思っちゃって……よ、よくないよね、こんなの」

「………」

「嫌々手伝ってもらうのも、それは悪いかなって思ったのに……ヒッキー、ちっとも嫌そうにしてなくてさ。靴履かせてくれたり、足を貸してくれたり……さ。手慣れてるのは小町ちゃんにもやったことがあるからかな、とか思って」

「………」

 

 黙って受け止める。

 と同時に、ちゃんと考えている女の子の心が、きちんと胸に届いてくるのを感じた。

 普段の行動を見ただけで、アホだアホだというのは簡単だ。

 けど、本当にアホなら空気なんて読めないし、騒ぐだけ、目立ちたいだけでうるさい人間にしかならないのだろう。

 そんな当たり前のことを今さら受け止めて、俺もようやく、きちんと真っ直ぐに由比ヶ浜結衣を見つめた。

 上っ面だけを見て、知っているつもりだったのは俺も一緒だったのだと認識出来たからだ。

 そんな、今一生懸命に自分の気持ちを語っている由比ヶ浜を見て、まっすぐに俺の腐った目を見つめる女の子を見て、俺は……心に、温かいなにかが広がっていくのを感じた。

 

「ずるい……けどさ。ヒッキーが傍で、あたしを見てくれている内に、あたしも歩み寄りたいなって……少しでもいいからさ、普段のあたしのことも見てくれるようになってくれたらなって」

「ゆ……」

「ヒッキーは……あたしの気持ち、知ってるよね? 知った上で、気づかないフリ、してる」

「………」

「頑張ってヒッキーのところに行こうとするんだけどさ、難しいんだ。気づいてくれるかなって頑張ってみても、気づいてもらえなくて。気づいてくれてもそっけなかったりして。あたしじゃだめなのかなって……そう思ったりして」

「《ズキッ……》……!」

「でもさ、それは違うって思ったの。気づいてもらいたいっていうのは、自分から行くのとは違うって。もらう、じゃあヒッキーからってことになっちゃうから。だから───あたし、決めたんだ。もう隠さないって。青春ってものに夢を押し付けて、我慢するのなんてもうヤなんだ。だから───」

 

 だから、と。

 由比ヶ浜は真っ直ぐに俺を見て、目の端に涙を溜めて、口を───

 

「《グッ》……───!」

 

 ───開く前。

 由比ヶ浜マが掴む俺の肩に、強い力が込められた。

 男でしょ、って強く背中を押されるみたいに、娘の夢を叶えてあげてってやさしく背中を叩かれるみたいに。

 

「あたしはっ───!」

「由比ヶ浜!」

「《びくっ!》っ……あ、あたっ……あたしっ……」

 

 急に呼ばれ、由比ヶ浜の喉が詰まる。

 拒絶された、と感じたのだろうか。その先は言うなと言われた、と思ったのだろうか。

 溜まっていた涙がぽろぽろとこぼれ、それでも続きを言おうと、溢れ出しそうになる嗚咽と戦いながら、それでも視線を外さずに俺を見る。

 

  ───俺の気持ちはどうだ。

 

 中途半端な場の雰囲気で、こいつの夢を潰すつもりはない。

 相手の気持ちはもう、十二分なほど伝わった。つーかこれで解らないとか受け取らないとか、捻くれがどうとか以前に人として終わってる。

 じゃあ俺はどうだ。

 雪ノ下にゾンビだの言われ、周囲に目が腐ってると言われ、妹にごみぃちゃんと呼ばれてなお、“人として”を捨てたつもりなんざ一切ない。

 その上で、俺は人として、由比ヶ浜を見てどう思う。

 真っ直ぐに、逃げずに、誤魔化さずに、断られるって予想の方がでかいだろう今でも、泣きそうな自分と戦ってでも俺に気持ちを伝えようとしている。

 

 ───あの日、痛みのあまり蹲ってしまった女の子を見て、純粋に守ってやらなきゃって思った。《とくん……》

 

 葉山グループが近づいてきた時、あいつらじゃなく俺が守ってやらなきゃって強く思った。《とくんっ……》

 

 誰にも任せたくないし、ひどい話だがこいつの涙を他のヤツに見せたくなかった。《どくんっ……!》

 

  ……それは独占欲、支配欲じゃあないのか?

 

 ……解らない。

 けどさ、こんな辛そうな顔を、いつもの笑顔にしてやりたいとか……そんな笑ってる姿をもっと増やしてやりたいとか、それを出来るのが俺だったらいいなとか……そう思うのって、独占はあっても支配とかとは違うだろ。

 だから。もう、さっきからやかましくて仕方ない、こいつを知るたびに高鳴る鼓動は、間違いようのない本物の俺の感情、ってやつなんだろう。

 逸らし続けていたものと向き合うだけで、こんなにも簡単に答えは得られた。

 難しく考えるから受け取れないものもあるんだって、今さらながらに受け取れた。

 答えを得たなら、口にだそう。

 話し合えば解り合えるってのは傲慢だ……けど、伝えなくても伝わるってのは傲慢以前に現実的じゃない。

 そんな関係に憧れたことは当然あるが、実際に伝わったことだってあったが、それは必ずしも完全一致の答えではないから。

 だから伝えるのだ。真っ直ぐに。

 由比ヶ浜が今、自分が描いた夢を青春に押し付けて、我慢するのをやめるように。

 ……それは恐らくは、恋をして好きになってもらって、真っ直ぐに告白されるなんていう……少女が夢見るようなありきたりな青春。

 ───それでも確かな夢であろうそれを捨ててでも、自分から歩み寄り、俺との歩みを望んでくれたように。

 

「……由比ヶ浜」

「《びくっ》……ひっ、ひっき……っ……ひっく……」

「……茶化しは無し、な」

 

 え、という嗚咽。

 次いで、断るための文句が来ると思ったのだろう、堪えようとするのに涙はぽろぽろとこぼれ、「や、やぁ……やぁあ……!」と声を漏らした。

 ……くそ、さっさとしろ。泣かせたいわけじゃないだろうが。こんな時くらい、思う通りに動いてくれ、俺の口。

 

「~~っ……その……な。お……、……お前を守りたい。他のやつらに任せたくない。涙は俺にだけ見せてほしい。……寄りかかってほしい。笑ってほしい」

 

 纏めて、整理して伝えるのは難しくて。

 だから、浮かんだ想いをひとつずつ、まちがえずに伝える。

 ひとつ伝える事に、由比ヶ浜の目からは怯えが消え、不安が消え、恐怖の所為か強張っていた表情も、少しずつ……緊張を無くしていった。

 

「ガキみたいな我が儘ばっかだけど、素直な気持ちだ。だから……だな。その。……俺に、青春させてくれ」

「ひっきぃ……」

「真っ直ぐに気持ちを伝えようとしてくれたの、ちゃんと届いた。言う通り、由比ヶ浜の気持ちには……気づいてた。勘違いに違いないって、無理矢理思い込もうとしてたってのもあるが……」

「うん……」

「……ただ、不安がある。あ、いや、俺はその、今まで何度も失敗したり諦めたりばっかだったから、よ。今だって、信じられねぇくらい心臓がうるさくて、ほんとなんだよこれって状態なんだ。なんだけど……俺はこれが好きってものなのか、解らねぇんだよ」

「…………」

「誤魔化しも茶化しもしない。解らないってのが俺の答えだ。これがちゃんと好きってことなのか、ただの独占欲なのか───俺には」

 

 こんな時くらい、やさしい嘘でも言ってやればいいのにって思う。

 けど、由比ヶ浜の真剣な想いに対して、それはないって答えを出せたから。

 真っ直ぐな想いには真っ直ぐな想いを返さないと、俺は中学時代のみじめな思いを、由比ヶ浜にさせることになるんじゃ、って……どうしても考えてしまう。

 

「だから……出来るなら、待っ───」

 

 待っていてくれないかと頼もうとした時、由比ヶ浜の手が俺の手に重ねられた。

 

「ヒッキーは……ずるいね。女の子を不安にさせといて、しかも待てだなんて」

「だよな……すまん」

「だめだよ、ヒッキー。今謝るのはほんとだめ。それはずるいとかじゃなくて、最低だ」

「そ……そうか」

 

 向き合った状態で、涙目の女の子に最低って言われるの、すっげぇキツい。

 やべ、泣きそう。一発で様々なトラウマがフラッシュバックするレベルでキツい。

 

「あたし、言ったよね? 待ってても仕方ない人はって」

「……おう」

「でも、こんなんじゃ……こんな指じゃなにも出来ないから……うん。待ってる……ね。待ってるけど……でも、さ。あんまり……長いのは……さ。もう、辛いよ……」

「………」

 

 重ねられた手とは逆の手で、由比ヶ浜の頭を撫でる。

 他人に気安く頭を触られるってのは相当腹が立つもんだ。俺だったらかなり嫌だ。

 が、そんな勝手に発動したお兄ちゃんスキルも、由比ヶ浜は嫌な顔ひとつせず受け入れる。

 

「自分の気持ちと向き合ってみるだけだ、そんな時間かけるつもりはないから……その。安心してくれ」

「……うん。……あのさ、ヒッキー」

「お、おう? どした?」

「えと、その、さ。い、意識してもらうために……もっと近づくの、とか……あり、かな」

「…………」

 

 待っててあげる発言はどこに行ったんだろうな。

 そう思いながらも、勝手に持ち上がりそうになる口角を押さえるのに夢中で、返事はしてやれなかった。


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