どこにでもあるようなガハマさんとヒッキーのお話   作:凍傷(ぜろくろ)

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親指が結ぶもの②

 それから、送迎の日々は続いた。

 朝は徒歩で迎えに行き、靴を履かせたり段差で手を貸したり。

 学校では板書を写すことも忘れず、解り易く書くために授業の要点を先生に訊きに行ったり、昼になれば食事の手伝い。お兄ちゃんスキルを遺憾なく発動、あーんで最後まで食べさせて、下校時刻になれば送っていって、ママさんに捕まって、しばらく会話をしてから家に帰る。

 夜にはその日にあったことをメールで伝え合ったり、時には電話をしてみたり。

 翌朝にはまた家へ赴き、遠慮しても家の中に引っ張り上げられ、いつの間にか朝はここで食事をしていくことになり、結衣の朝食をあーんで手伝い。

 朝風呂しても寝癖が直らないと情けない顔をする由比ヶ浜の手からドライヤーを取って、濡れタオルをレンジでチンしてホットタオルを用意。

 そこ座れってソファに座らせ、後ろからホットタオルでやさしく髪のケアをしてやり、寝癖も直し、教わりながらお団子を作ってはい完成。

 

「あははっ、ちょっと傾いてるっ」

「う……すまん、やり直すか?」

「んーん、これがいい。ありがと、ヒッキー♪」

「お…………、……~~……おう」

 

 うるさいくらいのドキドキは、いつの間にか消えていた。

 代わりに、ひどく落ち着いた……やさしい気持ちばかりが胸にあった。

 小町に相談しようとも思ったが、なんなら戸塚に相談しようかとも思ったが、誰かの真っ直ぐな想いに対して、他人がくれた助言で返すのはどうかって思ったから……今も、情けない自分のまま、自分の心に問い続けていた。

 まず間違い無く、俺は由比ヶ浜結衣が好きだ。

 由比ヶ浜も、そうなのだろう……ああいや、あんな真正面からの感情表現がそうじゃなかったら、俺もうなにも信じられない。

 つまり俺が問い続けなければいけないのは、俺の気持ちただ一つ。

 学校での噂は、どうしてかオカン三浦があっさりと解決してくれて、逆に俺がポカンとしていた。

 葉山グループが由比ヶ浜をサポートすることはほぼ無くなり、むしろ三浦に送り出された由比ヶ浜が俺の席へと笑顔でやってくるのが最近の流れっつーか。え? なんなのほんと。

 ともかく、日々自分に問い続けて、俺は由比ヶ浜が好きだ、という答えが間違っているかを確認し続けている。

 続けた結果が、この温かい感情。

 由比ヶ浜のことが大切に思えて仕方なく、かといってモノを扱うのとは違う、彼女の感情を受け止めたいと願う気持ちも強く湧いてくる。

 所有欲ではなく、きちんと人として見た上で、俺は……由比ヶ浜結衣って女の子のことを、大切にしたいと強く思っている。

 それは……人を好きになった自分を好きと感じていた中学時代とは、明らかに違った……とても温かく、心地の良い感情だった。

 

「………」

 

 人への善意は見返りを期待しての行為。どこぞの神父が言っていた言葉だ。

 けど俺は、こいつからの親切が欲しいわけじゃなくて……ただ、その。ふとした拍子に見せてくれる、笑顔が見たい。っつーか。

 やさしさに怯えていたいつかが可笑しくなるくらい、人へやさしくしたいという感情が溢れていた。

 こんなちっぽけなやさしさで笑顔をくれる人が居るって、すげぇことだよなって、もうどれだけ思っただろう。

 けど……そんな気持ちも、由比ヶ浜の指が完治したら無くなるのかな。

 そう思うと……女々しいことに、こんな日がもっと続けばいいのに、なんて思ってしまう自分が居た。

 ……ほんと。

 恥ずかしいったらない。

 

……。

 

 ファゴー、とドライヤーが音を立てる。

 朝、どうやればそうなるのか、サブレの犬用ミルクをぶちまけ、髪や服が汚れてしまった由比ヶ浜が風呂に入っているところへ来てしまった俺は、濡れタオルを使ったいつかのように、由比ヶ浜をソファに座らせ、髪を撫でていた。

 あの時は寝癖を直すだけだったが、こうして1からドライヤーで、って緊張する。

 つーか、髪は女の命でしょ? 俺に任せちゃっていいの?

 

「《ファゴー……》~~♪」

 

 由比ヶ浜は俺がなにかしらの失敗をする、などとはてんで思っていないらしく、楽しげに鼻歌を歌っている。

 俺はとにかくやさしく髪を梳かし、傷まないように注意した。

 そんな俺と由比ヶ浜を、すっかり慣れたってニコニコ笑顔で見つめる由比ヶ浜マ。

 

「それ終わったら食べちゃいなさいねー? うふふふふ」

「うん、ママ」

 

 おい。もうちょっとツッコむところとかないの?

 あんまりにも順応しすぎでしょう。

 大体だな、《さらさら》由比ヶ浜にしたって、《くしくしくし》人にこんなに簡単に、《しゅっしゅっしゅっ》身体を預けるみたいな、《くりんっ……きゅっ》───うし、お団子完成。

 

「じゃ、食うか」

「うんっ……~~~っ……えへへ、えへへへへ……♪」

 

 ……ん? なに考えてたんだっけか。

 まあいいや、大して重要なことでもなかったんだろう。

 ここでいただきますを口にするのももう慣れた。

 ああ美味ぇ……なんだろうな、腹の中からやさしさが染み入ってくるみたいなこの美味しさ。

 小町の料理にはない、大人の包容力があるような、経験が生んだ最高の旨みのような……───って違ぇよ!?

 なにやってんの俺なに普通にメシご馳走されてんの! 危ねぇ今小町の名前が浮かんでこなかったら腹から洗脳されてたよ! 腹に脳はないけど!

 

「ヒッキー?」

「ァゥッ……」

 

 しかし。

 そんな暴走も、ひな鳥のように口を開けて待っている由比ヶ浜を前にしては、横に置いておくしかないわけで。

 あ、あとでな。あとで真剣に考えよう。

 今はとにかく、怪我人最優先な。

 

「ほれ、あーん」

「えへへ……あーん……んっ、んん……」

「………」

 

 ……可愛い。

 

……。

 

 さて。

 

「……なに考えてたんだっけ」

 

 なにも思い出せないのは、兄さんが満たされてるからだよ。

 じゃなくて。

 

「なんか考えてたことがあったような……」

「ヒッキー?」

「っと、悪い。で、ここの問題だけどな……んん、悪い雪ノ下、知恵を貸してくれないか」

「………」

「いや、そこで謎の生命体を見る目とかやめてくれ」

「比企谷くん。最近体調がおかしいということはないかしら。悪寒がする、頭がボウっとする、とか」

「風邪引いてるわけでもねぇよ。俺だけじゃ難しいところがあるから教えてくれ」

「───…………」

 

 奉仕部にて、書き写したノートを広げて由比ヶ浜と勉強。

 やはりというか、元々の地頭力はよかったのだろう。由比ヶ浜はなんでか知らんが俺と勉強していると飲み込みが早く、俺も結構集中して勉学に勤しめた。

 難しい教科等は雪ノ下が助言をくれて、その上で解いてみれば、自然と俺と由比ヶ浜は笑っていた。

 まあ、俺の場合はフッとした、心からの笑顔ではなかったのだろうが。

 

   ×   ×   ×

 

 そんな時間を何度も越え、自分の心が完全に固まった時。

 いつもより早い時間、いつもと同じ場所で、由比ヶ浜とソファに座りながら話をしていた。

 俺が緊張していることからなんとなく察したのか、由比ヶ浜はいつもより言葉少な目で。

 由比ヶ浜マも、どこか微笑ましいものを見る目で、静かに見守ってくれていた。

 

「あー、その。由比ヶ浜」

「はーい♪」

「いえ、ママさんではなくて。ていうか知り合いの母親を苗字で呼び捨てるって普通しませんよね?」

「えー? ママ由比ヶ浜だから解んなーい♪」

「………」

 

 この美人ママめ。呼べと? 結衣と呼べと?

 

「ゆいがは」

「はーい♪」

「ゆいが」

「はーい♪」

「…………結衣」

「………」

「え……あ、う、うんっ」

 

 ほら。ちょっと、ほら。

 なんかもう微妙な空気になっちゃってるじゃないの。どうしてくれるのママさん。

 でも、呼んだあとにこちらを向かず、頬を染めながら少し俯いて、きしりと少し座る位置を直すように近づいてきた結衣が、なんつーかもう今さら確認するのもアレなくらい気持ちが固まってても、どうしてもアレ。解っちゃいるけどアレ。可愛い。

 結局今日までの期間ってなんだったんだろうね。

 気づけば由比ヶ浜家に馴染みすぎてるし、朝食もここで食べることになって、洗面所に俺の歯ブラシが置かれるようになって、親父さんとも面談して、ギロリと睨まれてヒィと怯えたものの、俺の後ろに居た結衣のことを思ったら守らなきゃって意識がお兄ちゃんスキルを彼氏スキルに昇華させて、どれだけ大事に思っているかを熱弁。

 親父さんが顔を赤くして思わず頷いてしまうくらい語り、気づけば娘をよろしくされていた…………え? なにこれ。恋人になる前にプロポーズOK状態が完成したとか。

 呆然としている俺を余所に……男らしく去る親父さんを余所に、ママさんたら頬をパンパンに膨らませて、必死に笑いをこらえてたっけ。

 でもまあ……そうな。俺は結局、誰かを好きになったら、そいつ以外を想うつもりは一切ないのだ。守ってやりたい、大切にしたい、幸せにしたいって思ったら、他なんてどうだっていいとも思えちまったし。……ああ。やっぱ俺、こいつのこと好きだなぁ。ああいや、こいつって言い方はないよな。うん。……結衣が、好きだ。うん。……俺は、由比ヶ浜結衣が───」

 

「───…………~~……《ぽろぽろぽろ》」

「……へ? あ、おい、結衣? どどどうしたっ!? なんでいきなり泣いて───」

「いきなり、は……そっちだよぅ……!」

「そっち? そっちって……、………………OH」

 

 この状況。急に隣の女の子が泣いて、俺にいきなりはそっちだとかいうシチュエーション。

 またですか。また俺やらかしましたか。

 どうなってんの俺、独り言とか喋ってて自分で気づかないとかある種病気なんじゃないですかね。いえ中二病じゃなくて。いえ平塚先生に言われた高二病でもなくて。

 けど……まあ。“そういう雰囲気”は出来たんじゃないかって……そう感じたなら、自分の失敗もきっかけにしてしまおう。

 こんなものは土台だ。

 俺の黒歴史が今に繋がったのと同じ、土台でしかないのだと。

 人を好きになった自分が好きなんていう勘違いのまま、こいつを好きにならなくてよかったって……心から思えるなら、本当に……あんな後悔も、二度と勘違いするものかと誓った惨めさも、必要なことだったんだと。

 

「結衣」

「ぐすっ……う、うん……」

「俺は、お前が───あ、いや……由比ヶ浜結衣が、好きだ。遅れて、悪かった。いっぱい待たせたよな。もしまだ間に合うなら……俺と、付き合ってほしい」

「───、…………ひっ…………、……ぁ、ぅうう……《ぽろぽろぽろ……》」

 

 気持ちを伝えると、結衣は口を両手で覆うようにして、赤い顔のまま泣き出した。

 泣き顔は見たくないと思ったことはあるが……なんだろうな。女の子の嬉し涙って、……なんだろう。ほんと、言葉が見つからない。見つからないのに、ただただ大切にしたくなった。

 そんな、涙する女の子を前に幸福なのであろう感情を胸に抱いていると、いつの間にやってきたのか、ママさんがソファの後ろに立ち、いつかのように肩に手をおいてきた。さらに頭をぽんぽんと撫でられて、よく出来ましたを言われた気分で……ええ、と。正直複雑だったけど。

 直後にもう一度、がんばりなさいと背中を押されたから、俺は静かに位置でいえば横に座る結衣、に手を伸ばし、頭を撫で《ぺしんっ》……う、うす。これ違うっすね。あー……せ、背中に手を伸ばし、抱き締めた。《なでなで》……あの。いちいち叩いたり撫でたりとかやめてくださいママさん。

 

「ひ、ひっき、ひっきぃい……あたし、あたし、でっ……いいっ……ひっ……ふぅうあぁあああん……!!」

「《ズキッ》~~……あの時、怒鳴って止めたりして悪かった。不安になるよな、すまん。その、よ。あの時はいろいろテンパってて……って、言い訳だよな文字通り。ちゃんと自覚出来ずに戸惑ってたってのも……ああいや、そうじゃなくて。だからだな、あー……もっともっと、知る努力、させてくれ。上っ面だけで決めつけて、誤解して泣かせるとか、したくねぇんだ。今日まで一緒に居て、いろんな結衣を見て、それでもまだ……知らない部分がいっぱいある。だから、そんな結衣を、見せてほしい」

「うんっ……うんっ……!」

「あと、あたしでいいのかとか……無しな。ほんと、やめてくれ。聞いてみて痛感したわ……。そいつが好きなのに“俺なんかじゃなくて他のやつが”とか言われたら、こんなに辛いのな……。あ、あのな、重いかもしれねぇけど、俺……そういうの、嫌だからな。浮気とかは想像するだけで吐き気がするし、大切だって思ったら、ほれ、あのー……小町にすらキモいって言われるほど大事にするから《ぎゅうぅっ……》うおっ……」

「~~~……!!」

「…………おう。これから、よろしくな」

 

 俺の言葉に、胸にぎゅうっと抱き着いてきた結衣は、それでいい、それがいいと伝えてきてくれているようだった。

 むしろ自分だって大事にするし、と……体で伝えてきてくれているようで、そんな感情に慣れてない俺は、自分も嗚咽に襲われるのを感じた。

 それを誤魔化すために結衣を抱き締め、心を幸福でいっぱいにする。

 抱き締め、抱き締められ。

 ようやく落ち着いた時、ママさんに声をかけられた。

 

「よかったわね、結衣。ところでヒッキーくん? 普段から学校には真面目に通ってる?」

「え……あ、いや、えーとそのぅ。遅刻の常習犯ですごめんなさい」

「ふふっ、そう。じゃあ、今日はもうサボっちゃいなさい」

「───え?」

 

 え? なして? と思っていたら、結衣もそうしてほしいとばかりに俺をぎゅー。

 まだ指、治ってないんだからやめろと頭をやさしく撫でると、きゅう、と鳴いてもっとぐりぐりしてきた。やだ可愛い。じゃなくて。

 

「どのみちもう遅刻確定なんだし、ね?」

「へ? …………うぉおあっ!? え、へっ!? もうこんな時間!?」

 

 時計を見れば、とんでもない時間だった。

 交わした言葉は短くても、その間が長すぎたんだろう。特に嗚咽を飲み込む時間が。

 遅刻は確定のようだった。

 ……ま、いいか。平塚先生とか雪ノ下に散々言われそうだが、今はそれも喜んで受け止めよう。

 

……。

 

 で、堂々と親公認でサボった俺達だったのだが。

 

「んんぅ……ひっきい、ひっきぃ~……♪」

 

 現在、ソファに寝転がり、俺の膝に頭を乗せたゆい、……ゆ、結衣が、甘えた犬状態である。

 空気を読んでか素早く便利に収納されていたらしいサブレも、今では俺の足元でひゃんひゃん言ってる。

 ママさんは鼻歌なんぞを歌いながら昼の用意をしていて、俺はといえば……

 

「………」

「《さらさら》……えへへぇ」

 

 とろけきった結衣の頭を、やさしくやさしく撫でていた。

 あーまあその、ハッキリキッパリ言ってしまうなら、現在の結衣のとろけ具合の元凶は俺にある。

 元々お兄ちゃんスキルを漏れなく発動させ、責任を果たそうとしていた俺だ。それが三浦の出現によって抑えられていた分、恋仲になったことで全力で発動。

 お兄ちゃんスキルが彼氏スキルに昇華して、それはもう甘やかしまくった。

 ……その結果がこのとろけガハマさんである。

 なんというか……アレな。俺ってアレばっかな。

 なんだっけ、ええっと。

 こんな、あー……達成感? みたいなの、初めてかも。

 俺ってあれだろ? ぼっちがどうの、孤独がどうのとか言ってる割に、その気になれば一人でなんでも出来る~みたいな顔しておいて、人に背中押してもらわなきゃここぞって時になんの判断も出来やしない。

 うじうじ考え込んでは小町に相談したり、うじうじ悩んでは平塚先生にいろいろ言われたり。

 だから、今回のこれは……ほんと。アレなんだ。

 散々悩んで散々組み立てて、自分とちゃんと向き合って、そうして出せた答えなわけで。

 ……それでも結衣に先に言われそうになったり、ママさんには背中押してもらった気もするけど。

 って、結局俺一人で出来てねぇじゃねぇかよ。なんなの俺。ほんとめんどい。

 俺が女だったら俺だけは絶対ないわ。……ないのかよ。……ないんだよ。

 そう思えば思うほど、結衣に対する心が強くなって、なんつーかもう、もう。

 

「結衣」

「んんぅ……なぁに? ひっきぃ……」

 

 まどろんでいた猫がぱちくりするように、ころりと寝返りを打って俺を見上げる目。見上げるというか、結衣からすれば真正面を向いただけなんだが……ああ可愛い。じゃなくて。いや可愛いけど。

 

「デート、するか。今日はサボったから無理として、指が治ったら……まあ、まずはやっぱりハニトーな」

「……うん。いっぱいいろんなとこ行って、いっぱい楽しんで……そしてさ、疲れたら……こうやってまったりしたいな……」

「ん……解った。お前のしたいこと、出来る限り叶えてやる」

「……ほんと? にごん、ない?」

「ちょっと言い方が気になったが、ないぞ」

「じゃあ…………んっ」

 

 ……。結衣が、目を閉じて顎を小さく持ち上げた。

 いくら俺でも解る、カップルがするであろうあの伝説のサイン。

 まじか。つーか、いいの? …………いや、いいの、とかは無しだって言ったばっかりだ。

 俺で……いいんだ。疑うな。疑わず、ただ心が惹かれるまま、やさしさをぶつけてみえばいい。

 

「ん……《ちゅっ……》」

「んんっ……は、ふ……」

 

 膝の上で身じろぎする懐っこいわんこに、キスを。

 初めてってことで相当緊張したが、初めてだからこそ大事に大事に、やさしくやさしく……そして、出来るだけ長く、続けた。

 なにか思うことがあったのか、その下の足元ではひゃんひゃんとサブレがやかましい。

 遊んで遊んでとばかりに足を叩いたりかぷかぷしてきたり。

 そんなくすぐったさに、ぷはっと息が漏れて余計に前傾になった時、口がより深く密着し、俺の舌が結衣のくちびるをちろりと舐め上げた。

 

「……!」

 

 ぴくんと跳ねる体。

 やってしまったと思い、すぐに体を起こそうとしたのに、思った以上にやってしまったって思いは体を硬直させ、動いてくれなかった。

 人って混乱するとほんと体動かないのな。

 サブレを助けた時とは大違いだ……なんて思ってたら、今度は……はふ、と結衣の吐息が口内に漏れてきたのを感じた。

 え、なんて驚いている内に、ちろり、ちろちろとおずおずと唇を撫でる感触。

 少し考えればそれがなんなのかくらい解るだろうに、考えるより先に“なにかが入ってくれば舌でつつく”なんていう本能が先行し、それをつついてしまった。

 

「っ!」

 

 また、ぴくんと撥ねる体。

 思わず目を開けると、同じく目を開けて驚いている顔。

 けれどそれがすぐにやさしく、けれど真っ赤なものになって……俺の後頭部に手が伸ばされ、やがて……唇は、より深く密着し、舌が絡み合った。

 やめっ……ママさんが見てる……! なんてことが浮かばなかった、って言えば嘘になる。

 けれどそれよりも、俺達は青春ってものに……違うか。互いのことに夢中だったんだろう。

 苦しくなっても離れたくなくて、不器用に息を乱しながらキスを続け、人工呼吸みたいな息継ぎをして、呼吸を分け合って。

 傍から見ればアホらしいのだろうに、俺達にとってはそれが大切な行為で、深く繋がっている絆のようにも思えた。

 

「ぷあっ……は、はぁ、はぁっ……」

「は、はぁ、はぁ……」

 

 それでもやがては離れる。

 ぴりぴりと痺れたままの、ぼーっとした頭でなにをしていたのかを考えて、それがクリアになっていくにつれて、顔の温度がめちゃくちゃ高くなっていくのを感じた。

 それは結衣も同じだったんだろうが、顔を真っ赤に染めても……その顔が幸せそうだったから、俺はまた結衣の頭を撫でてもう一度、ちょんとキスをした。

 ……で、ハッとして顔を持ち上げると、顔を真っ赤にして「あ、あらあら……あらあらあら……!」とおろおろしているママさん。

 ああ、うん……はい。

 見守るのは好きでも、ほんとにされると……さすがに照れますよね。

 

「あ、ええっと……ママ、本気の本気でお邪魔だったかしら……! お、おほっ、おほほ……!? ケッホコホッ!」

「いえあのこれ以上はさすがにないんで! ていうかつっかえてますから無理にオホホとか笑わないでください!?《きゅっ……》……いやいやいや、おまっ……結衣も、“もうしないの?”みたいな顔で見ないで? 俺もういろいろアレがアレでやばいから……!」

 

 頬を染めた仰向けの彼女に潤んだ目で見つめられるって、破壊力すごいですね。

 思わずなんでも頷いてしまうような、そんな謎の破壊力がありますね。

 なんで丁寧に語ってんだよ俺。

 と、とにかくやばい。なにがやばいってやばいがやばい。

 このまま座っているのはやばいと本能が感じた。

 今だって、するつもりはなかったのにきゅっと服を抓んできた結衣の手をやさしく握って、もう片方でさらさらと頭を撫でてるし。やだ困る! 俺の体がお兄ちゃんスキルに食われていってる! 無意識でここまで動けるって、本人にしてみれば恐怖以外のなにものでもねぇよ!?

 

「…………」

「《なでなで》んぅ……ひっきー……」

「…………《ぱぁああ……》」

 

 でも癒される俺。俺のほうがよっぽどアホの子だろこれ。

 とりあえず本日はアレだな。今まで散々目を逸らしてきた罪滅ぼしとして、目一杯甘やかそう。

 で、明日から本気出す。

 一緒の大学とか行きたいって欲望がぞわぞわ浮かんできたらもうだめだ。

 解らないことはユキペディアさんにたすけてゆきえも~んと泣きつく方向で───一瞬にして断られる未来しか浮かばねぇよ。おいちょっと? 想像の中でくらい俺にやさしくしてくれない? ヒッキー泣いちゃうよ?

 

「と、とりあえず……ヒッキーくん? 今日は泊まっていく?」

「ちょっと奥さん? 落ち着きましょう?」

 

 よ、よし、言いつつ、俺も落ち着こう。

 ちょっと混乱してるだけなんだ。こう息を吸って吐けば、ママさんだって落ち着いて───

 

「《ハッ!》じゃあ……ゆ、結衣を……お持ち帰り……?《ポッ》」

 

 おい。落ち着け母親。

 

「だから待てっつっとるでしょうが。な、なぁ? ちょっと? 娘として母親になにか言って……」

「……すー……すー……」

「…………」

 

 まじか、寝てる。

 え……このタイミングで? え? えー……?

 

「……あら、寝ちゃったのね、結衣」

「《びくっ!》オアッ!? ……あ、は、はあ……」

「ふふっ……よっぽど嬉しかったのかしら……緩み切った顔しちゃって」

「ノ、ノーコメントで」

 

 やめて、恋人の母親の前でキスをして、しかもそのあとに会話をしなくちゃいけないなんて、俺にはまだまだハードルが高すぎる。

 ていうかあなた方、娘の相手に対してオープンすぎやしませんか!?

 という気持ちを、この際だから伝えてみた。

 

「うーん……この娘、ちょっと抜けてるところがあるけど、人を見る目はあると思うの。燥いでるように見えて、結構人のこと見てるし……場の空気が沈んじゃうと、無理して燥いだりする所為で、みんなからうるさいだとか馬鹿っぽいとか言われちゃうけど」

「……それは」

 

 解る。そうだ、空気が読めるやつが馬鹿だとかアホだとか、そういう事実ってのは薄いもんだ。

 言った通り、本物の馬鹿ってのは場の空気なんか読まないし、やかましく暴れまわるだけの、それこそ馬鹿って呼ぶべき馬鹿だろう。

 勉強が出来る出来ないの問題じゃなく、頑張ったからこそ周囲から馬鹿だのアホだの言われ、そんな生き方に慣れちまってたら……きっと、新しい環境ってのは相当楽しみだったに違いない。

 今度こそ。次こそは。あたしだって出来るんだ。

 そんな思いを抱いて、それでも上手くいかなかった時、人ってのはどうしたらいいんだろうな。

 きっかけもなく出会いもなく、気づけばずっと周囲に合わせるだけの人生だったって年老いてから気づいたら……俺ならきっと泣いちまう。

 ぼっちだろうと、自分を貫けているならいい。後悔しても、原因は自分だけのものだ。

 けど、周囲に合わせているってだけで、そんな“自分”がうすっぺらな人生の先で後悔しちまったら……きっと、それはとても……。

 

「そんな結衣だから、ヒッキーくんを好きになれたんじゃないかなって……ママは思うのよ?」

「………」

「サブレを助けてくれたってだけじゃない。この娘はちゃんと考えて、悩んで、その上でヒッキーくんを選んでる。ママね、一目惚れだとか吊り橋効果なんて信じないのよ? 人一倍、人との関係の中で頑張ったこの娘だから、ママもこの娘が好きになったヒッキーくんを信じられるの」

「俺は、そんな大したもんじゃ……」

「じゃあ、大したものになる努力をすればいいの。自分に自信がないならね、ヒッキーくん。好きでいてくれるうちに、惚れ直し……ううん、もっと好きにさせちゃえばいいのよ。知る努力から始めるんでしょ? だったら、今から弱音なんて吐いてたら、結衣に振り回されるだけで疲れちゃうわよー?」

「…………、……はは、そっすね。……そうだ。───そう、だよな……、───!」

 

 握ったままだった結衣の手を、きゅっと握り直す。

 また、背中押されちまったけど。

 自分じゃまたうじうじ悩んでばっかだったけど。

 それでも進めるってんなら進めばいい。

 選んで、決めて、どんだけ背中を叩かれても押されても、進むための一歩は……俺の足と意志で。

 

「………」

「《さら……》んん……ひっきぃ……♪」

「………」

 

 やさしい笑みが漏れた。

 大切にしたいって気持ちは変わらない。

 まずはなにをしようか。腐った自分改革? だな。

 まずは勘違いに怯えた心を砕いていこう。

 エリートとか言いながら結局は傷つくのが怖かっただけだ。

 誰だって傷つくのは怖いが、そんなもんは問題の解消をするたびにわだかまりを残すほうがキツいに決まっている。

 なにせ、総武高校には勘違いの所為で傷ついた黒歴史はないのだから。

 比企谷菌だのと言って蹴るヤツも居なければ、カエルだのと言って笑うヤツも居ない。ヒキガエルとか言う氷の女王は居るけど。

 今、恐れるべきは勘違いじゃなく、解消から始まる大きな波紋や“解”による、総武高校での日々だろう。

 だったら過去のことで怯えるより、誤解なんて“解”が広まりきっていないこの生活を、きちんと大事にしてやればいい。

 自己犠牲じゃないのだと断言出来るなら、そうじゃないと言えるのなら、そもそもそんなこと自体する必要もないのだと。

 嫌われるのに慣れているなら勘違いだって慣れている筈なのに、勘違いに怯えたために遠回りをした関係に呆れも出るが、今はそれでよかったとも思える。

 じゃないと、勘違いのまま傷つけることになってたかもしれないから。

 勘違いの先で、俺が本当に結衣に惚れられたならそれでもよかったんだろうけどな。それだとたぶん、ここまで大切にしたいだとかも思わなかったんじゃないかって……そう思うのだ。

 過程って大事。

 そう思うとなるほど、一目惚れって難しいわと納得してしまうのだ。

 

「ヒッキーくん、今日はのんびりしていってね。ママはべつに、泊まっていってくれたっていいと思ってるから」

「いえ帰ります。……結衣が起きたら」

「ふふっ……うふふふふ……ええ、お願いね。あ、でももうお昼が出来るんだけど───」

「…………」

「すー……すー……」

「だ……断食、とか……ありでしょうか」

「はーい♪ 晩御飯にしちゃいましょうねー♪」

 

 延長をお願いした。

 いやだって、こんな幸せそうな寝顔を壊すとか、無理だろ。

 大丈夫、朝飯もちゃんと食べたし、我慢には慣れてるからな。うん。

 

「………」

「……ひっきぃいい……~……」

 

 夢の中でなにやってんの、俺。

 あーくそ、幸せそうな顔しちゃって。

 夢の中の俺に嫉妬しちゃってる俺とかほんとキモイ。

 ヒッキーキモい、マジキモい。

 そう思うのに邪魔出来ない俺は、のんびりと彼女が起きるまで、さらさらと頭を撫でるのでした。

 ……俺も寝るか。

 あ、でもよだれとか落としたら大変なことに…………お、おし、起きてような、おう。

 

「………」

 

 ……あの日、こいつが指を挟まなかったら……どうなってたんだろうな。

 そんなことを考えながら、なんだかんだでこいつに迫られて、噛みながら頷いている自分の姿が思い浮かんだ。

 そしたらなんだか笑えてきて……もう一度頭を撫でて、息を吐いた。

 さて……平塚先生と雪ノ下への言い訳を考えるか。

 あー……うん。幸せを噛みしめてましたとか言ってテヘペロやったら殴られるかな。もっと別の言い訳にしたほうが威力も違ってくるんじゃ───おい、殴られるの前提なのかよ。

 いや、半端はよくないよな。重いだろうけど好きになったら一直線で居たいし、いっそこう、結婚を前提に付き合ってますとか、親に挨拶に行きましたとか言ってしまえば…………結婚したいって泣きながらボコボコにされそうだな。うん、なかったことにしよう。

 

「………すぅ……───」

 

 もういいや、寝よう。

 ……おやすみ、結衣。

 

 

 

 

 

 

  ……ヒッキーくん、ジュースとか…………あらっ、寝ちゃったのね。

 

   ひゃんっ!

 

  しー。サブレ、静かにね。

 

   ひゃふっ。

 

  それにしても……うふふ、結衣はいっつも目がすごいけどやさしい、とか言ってるけど……可愛いものじゃない。

 

   くぅん?

 

  目を閉じると、本当に……ただの…………。辛いこと、いっぱいあったのよね、きっと。

 

   ひゃんっ。

 

  ……大丈夫よ、ヒッキーくん。結衣は、好んで人を傷つけたりなんかしないから。……そんな顔、いつだって出来るようになっちゃうんだから。

 

   ひゃんひゃんっ、ひゃんっ。

 

    ……。結衣…………ありが…………と……

 

   くぅん?

 

  ……本当に、やさしい子。……サブレ~? 一緒に結衣のこと、応援してげようねー?

 

   ひゃんっ!

 

  しー。

 

   ひゃぅん……。

 

  あ、そうだ。写真撮って、ヒッキーくん帰ってから結衣に自慢しちゃお。うふふふふ~♪

 

   ひゃふっ!

 

  《パシャッ!》……うふふ……うん、可愛い♪ じゃあ、邪魔しないように向こう行くわよ~? サブレ~♪

 

   ひゃんっ!

 

 

 

 

 ……のちに、由比ヶ浜家にひとつの写真が飾られるようになる。

 俺の膝を枕に、幸せそうな顔で眠る結衣と。

 そんな結衣の頭を撫でたまま、穏やかな顔で眠る、目を閉じればやたら整った顔の男の写真。

 さすがに俺も結衣も恥ずかしかったのだが、お互いの眠っている姿が欲しく、しかし恥ずかしくとどうしていいか判断できない状態に至り、けれど燃やしてくれとは言えず、結局はず~っと飾ることに。

 雪ノ下と平塚先生にお互いの待ち受け画面がお互いの写真ってことで散々いろいろ言われたが、これも青春ってことでと言ってみれば平塚先生には大声で笑われた。

 君が青春か、と笑い、俺の背中をばしんと叩いた平塚先生は奉仕部卒業は好きな時にしろ、と言って去っていった。

 雪ノ下も溜め息ひとつ、目の濁りがどーのこーのと言うと、平塚先生の依頼は終わったけれど、私たちの賭けがまだよと穏やかに笑う。

 勝った方が負けた方の言うことを聞く、という賭け。

 今さら願うこともないのだろうが───それでも、もし自分が勝って、相手のポリシーも強情さも全て押し退けられる願いが叶うなら。

 今まで願っても無理と言われたあの願いを、叶えてもらおうと思っている。

 

「ま、その前に」

「ええそうね」

「あたしが勝ったら、えと……うーんと、……あ! ヒッキーとゆきのんとずっと一緒に居てもらうとか!」

 

 その前に誰が勝つかだろ。

 結衣の言葉にそう返して、けれど俺と雪ノ下も笑い、否定はしなかった。

 誰かとずっと一緒にってのは無理だと、今でも思っている。

 が、いずれ別れたとしても、なんらかのきっかけでどこかでまた出会えれば───そんな機会が作れれば、会いに行くことなんて案外ぽんと出来てしまうものなのだろう。

 だから、まあ。

 

「じゃあ俺が勝ったら」

「そうね、私が勝ったら」

「結衣に、」

「由比ヶ浜さんに、」

『ずっと一緒に居てもらうわ』

「ほえ? …………うえっ!? えぇええっ!?」

 

 恋人として親友として。

 願う意味は違っても、隣に居てほしい人は同じ。

 結局はまあ、こういうやりとりの先で、腐れ縁っていうのは出来ていくのだろう。

 まあ今までぼっちであった俺が、どれだけその付き合いを維持できるか、ってのもあるが。

 無くしたくないって思ったなら、頑張る価値くらいあるだろ。

 あるなら知る努力からだよな。……よし。

 焦ることなくじっくりやっていこう。必要になれば急ぐ。言葉にするなら明日から本気出す。冗談じゃなくて本気で。

 明日になるまで何をするかって? そりゃ……その。

 もういつでも退部出来るってのに、自らここに居座る覚悟? ってのを、ちゃんと自分の意志で選び切る準備っつーか。いや、準備の準備をしたいわけじゃなくて。

 ちゃんと自分で選んだ上で、まちがっていてもいいって思える青春を、って。

 ……それだけだよ。

 いいだろ、それで。

 

 

 

 

 

 

 あ、そうだよゆきのん、ヒッキー! もしかしたら平塚先生、こーおつつけがたしー、とか言って、全員が勝利とか言うかも!

 

   あー……ジャンプ系の展開好きだからなぁあの人。

 

 だからさだからさっ、そうなったら平塚先生が負けってことにして、

 

  平塚先生に命令を? ……比企谷くん、卑猥なことは───

 

   いや考えてねーよ。なんで呆れる速さでそんなこと疑われてんの俺。ねーから。これっぽっちも。ただ───

 

 ? ただ?

 

   ……誰とは言わないから、命令で“早く結婚してください”って

 

  比企谷くん……べつに惜しくない人を亡くしたわね。

 

   おいちょっと待とうか雪ノ下? なんで俺死んでることにされてんの? 読めた展開だったけど。

 

 ヒッキー……それはひどいよ……。

 

   うぐっ……だな。その、悪い。いい人ではあるんだから、叶うといいなってのは本心なんだよ。

 

 あー……そだねー……。じゃああたしたちで探してみるとか!

 

  やめなさい由比ヶ浜さん、それは洒落にならないわ。

 

   ほんとやめろ、冗談でもやめ───……やめてください、死んでしまいます。

 

 え、う、うん……。死んじゃうのは困る。やだ。うん。……えと、でもなんで?

 

   生徒に男紹介されて結婚って、あの人のイメージじゃねぇだろ……押しつけかもしれねぇけど。

 

  むしろ紹介するから結婚してくださいなんて、口が裂けても言えないでしょう?

 

 えっと……

 

   ママさんが俺じゃなくて適当な男を紹介してき───

 

 やだ! ……っ……あっ……、ふ、ふえっ……あぅううぁあ……!!

 

   ……お、おう。つまりはそういうこと……な……《かぁああ……!!》

 

 あ、あぅう……! う、うん……わわわかった……《かぁああ……!》

 

  はぁ……いちゃつくのなら別の場所でしてほしいものね……。

 

 い、いちゃついてなんか、ないよ? いちゃつくってさ、もっとほら、あれがあーして……ね、ヒッキー?

 

   いやおまっ……!

 

  ……比企谷くん? 日頃から由比ヶ浜さんにどういったことをしているのか。是非聞かせてもらいたいのだけれど。

 

   ひ、ひやっ……ほらしょの、あれだよ……ひ、ひひっひひ膝枕、とか。

 

 うん。そんでね、頭撫でてくれたり髪梳いてくれたり、

 

   いやちょっ……!

 

 お団子結わってくれたりやさしい顔で見つめてくれたり、

 

   ゆ、結衣さんっ……!? ちょ、結衣さーん……!?

 

 えへへへへぇ……♪ キスしてくれたりっ!

 

   おまっ!?

 

  平塚先生を呼びましょう。《ピッprrrr》

 

   やめて!?

 

  《ブツッ……》……まさか二人の関係がそこまで進んでいたなんて……! せ、せいぜい手を繋ぐ程度とばかり思っていたのに……! ここここういうことは、その、まずは交換日記からではないの……!?

 

   お前何年前の人間だよ……。

 

  今の言葉、録音させてもらったわ。平塚先生に転送しましょう。

 

   やめてお願いマジでやめて!?

 

 あ、でも交換日記って言葉、久しぶりに聞いたかも。日記っていえば、子供の頃ね? 物置の奥でパパの日記見つけてさ。夜空に煌くきみの……なんちゃら? なんか不思議なことがいっぱい書いてあったなー。あれどこ行ったんだろ。

 

   おまっ、それポエム───

 

  比企谷くん。

 

   お、おう。……しかし意外だった……あの人にそんな趣味g

 

 あ。あと子供の頃のパパの右目には黒き力、とかゆーのが《がしぃっ!》きゃんっ!?

 

   や め て さ し あ げ ろ。

 

 え? え? ヒッキ《きゅっ》わっ……ゆきのん?

 

  由比ヶ浜さん、お願いやめて。

 

 え? う、うん……?

 

  …………。

 

   …………。

 

  その。比企谷くん。心中を…………察せないわ、ごめんなさい。

 

   いや……うん……やめろよ……。ほんとやめて……。

 

 ヒ、ヒッキー? ゆきのん?

 

   ……結衣。親父さんの誕生日、いつだ? なんか今めっちゃ祝いたい気分なんだ。

 

 え? パパの? えと……ごめん解んない。あ、でもママのなら知ってるよ!

 

  っ……!《ブワッ》

 

   っ……!《ブワッ》

 

 え!? なんで泣くの!? え!?

 

   俺……頑張って働いて、親父さんに酒でも買うわ……。

 

  高校生でも寄贈用に購入できる、しっかりとした場所を紹介するわ……。真心を込めて選びなさい……。

 

   そだな……。なんか俺、親父さんとは仲良く出来る気がするんだ……。

 

  そうね……財津くんと仲の良いあなたなら───

 

   だからやめてさしあげろ。

 

  ご、ごめんなさい。……その、紅茶を淹れるわね。

 

   お、おう。……あー……あれだ。カップ用意するわ、俺……。

 

 え? ゆきのん? ヒッキー? どしたの急に……ねぇ? ねーえー……?

 

   あと、あれな。爪が治ったら、ああえっと、なんだ、その。快復祝い? でも……する、か?

 

 あ……ヒッキー……! うんっ、ありがと、ヒッキー!

 

   いや、まだやってもないのに礼を言われてもな。早ぇえよ。

 

  そうね……なら私はケーキでも焼こうかしら。

 

 いいの!? ありがとーゆきのーん! じゃあ急いで治さなきゃだね!

 

  ふふふっ……落ち着きなさい、由比ヶ浜さん。あなたはそこのゾンビと違うのだから、興奮して余計な熱を持たせて悪化させては危険よ。

 

   だから人を例えに使う時に罵倒すんのはやめろ。いっそ律儀に感じるわ。ていうかせめて谷はつけろよ……それただのゾンビだろ。

 

  そうね……ごめんなさい。悪かったわ、ゾンビ谷くん。

 

   いやちょっと? 雪ノ下さん? それ違うからね? べつにそう呼ばれたくて言ったわけじゃないからね?

 

 もー……ゆきのんもいい加減、名前でいじくるのやめたげようよー……。

 

  (いじる云々がそもそもとして無ければ、私はゆきのんではなかったのではないかしら……)

 

   (いじる云々がそもそも無けりゃ、俺ってヒッキーじゃなかったんじゃ……)

 

 ? ゆきのん? ヒッキー? 

 

  いいえ、なんでもないわ、ゆいゆい。

 

 《がたたっ》ふえっひぇ!? え!? どどどしたのゆきのん!?

 

   いや、なんでもないぞ、ゆいゆい。

 

 ヒッキーまで!? や、ちょ、やめてよ、特別な呼ばれ方って憧れるけど、それはちょっとヤかなー、って……。

 

  さ、紅茶が入ったわゆいゆい、どうぞ。……比企谷くん、飲みなさい。

 

   なんで俺だけ命令的なんだよ……あぁほれ、ゆいゆいも急に立ち上がってないで座れって。

 

 え、えー!? なんなの!? なんなの!? よく解んないけどやめてよぉ!

 

  べつにいいじゃない、ゆいゆい。そもそもあなたがゆきのんと呼び出したのだから、私はきちんとそれに応えるべきだったのよ。

 

   おう、そうな。つーわけだ、俺もゆいゆいって呼ぶからよろしくな、ゆいゆい。

 

 え、やっ………………~~…………そ、だよね。あたしから呼んだんだし、あたしが受け入れないのは、へんだよね?

 

  え゙っ……!? ゆ、ゆひっ……ゆいがはま、さん……!?

 

 あ、ううん、いいよゆきのん、ゆいゆいで。なんかこう、ほら、呼ばれ慣れれば案外いいカンジに聞こえてくるかもしれないしっ! ねっ、ヒッキー!

 

   あ、いや……ゆ、結衣?

 

 なぁにっ!? ヒッキー!

 

   そのだな。仕返しがしたかったんだろうけど、結局それっていつも通りで、お前がゆいゆいって呼ばれるだけだぞ?

 

 え? ………………~~~~《かぁああああっ!!》うわぁんゆきのんのばかー!

 

  《ぐさぁっ!》ふきゅっ!? …………《がぁああああん…………!!》

 

   あ、あー……まあ、あれな。ナレーション入れるなら……友人の一言が、初めて凶器になった瞬間であった、……とかか? ドンマイだゆきのん、お前は悪くない。

 

   

 

 

 

 ちゃんちゃん、と。

 

 自分の意志で居座るようになった部活は、今日も今日とて暇で暇で。

 

 ……そのくせ、退屈ではない不思議な場所でしたとさ。

 

 めでたしめでたし。

 

 ……めでたいのか? これ。


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