どこにでもあるようなガハマさんとヒッキーのお話   作:凍傷(ぜろくろ)

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壊れない“全部”のカタチ③

 ───そして、時は流れ。

 何度の“今”を越えた先になるのかも数えなくなった、ある秋の日。

 

 

 

 

 カランカラン……

 

「へいらっしゃい」

「なにそれ、魚屋?」

 

 小綺麗な喫茶店。その扉を開けて入った客に、グラスを磨きながら対応する。

 

「ひゃっはろー、比企谷くん。久しぶり」

「一年ぶり、くらいになりますか」

「そうだね。開店祝いで会ったくらいだったもんね。あ、MAXコーヒーひとつ」

「へーい」

 

 カウンターの席にちょこんと座った雪ノ下さんは、あの頃からさほど変わらない容姿のままコロコロと笑っている。

 胡散臭い仮面のような笑いも今は消え、随分とまあ可愛いと思える笑顔だ。

 

「どう? 人の秘書の誘いを蹴ってまで作った喫茶店は」

「これでも繁盛してますよ。まあ、今は暇な時間ですが」

「繁盛ね。それは、コーヒーの腕で?」

「……明らかに看板娘狙いでしょ」

 

 言って、ほら、と視線を向ける。

 そこにはトレードマークのお団子を揺らす、“黒髪”の女性。

 客から注文を取って、ぱたぱたと戻ってくると、雪ノ下さんに気づいていつもの挨拶を「やっはろーです」とした。

 ああほら、あんま走んな。お前体調良くないんだろうが。

 

「おひさー、ガハマちゃん。ごめんねー、旦那借りちゃって」

「……あげませんからね?」

「あはははは、安心していいよーガハマちゃん。大丈夫大丈夫、“ちゃんと選んだ人”は要らないよ。決められなくて、怯えながらも抗ってるコをいじくるのが面白いんだもん」

 

 高校二年のあのまちがいだらけの青春真っ只中、ある意味で一番騒がしかった頃、それはもう大変な悶着があった。

 言わずもがな、雪ノ下と雪ノ下家の衝突である。いや、本当はあっさり終わる筈だったんだよ? 好きに生きなさいとママのん……もとい、雪ノ下母が言ったように、雪ノ下は自由に生きていいとのことだった。

 それだけならよかったんだが、それまで黙っていた雪ノ下さんが“じゃあわたしも!”とかほざき始めるからまあ大変。

 ママのん怒っちゃって、“あーあ”とか思ってたら雪ノ下さんが人の腕に抱き付いて、「わたし、この人と駆け落ちするの!」とか爆笑しながら言い出して。

 声を荒げてしまったことを恥じて、お茶を口に含んだママのん、大噴火。主にお茶を。

 それまで喋らなかったパパのん、ほお、今時の男にしては度胸が……だのぽしょぽしょ言ってるし。あの、それ多分俺くらいにしか聞こえてませんでしたよ。

 そこからは結衣も激しく参戦し出すし、雪ノ下も一歩も引かずに“雪ノ下さんに”口撃を始めるしでひどいもんだった。仲介役としてその場に居た葉山、完全にとばっちりである。

 けどまあほらあれだ……なに? 一応、一応……話し合いにはなったんだが、いやーママのんひどかった。なんつーか、面倒ごととかをとことん人に押し付けようとすんのね。落ち着いた雰囲気があると思ってたのに、中身は案外子供っぽかったよ。だからだろうか。しっかりと話してみれば、あら不思議。個人的には雪ノ下さんほど怖くなかった。

 だからきっちりと、聞こえるように、理解出来るようにみっちり説明、教え込んだ。

 ママのんに感じたものは幼稚さ……だろうか。きちんとした経営者なのに、相談とか苦手だし人との会話は雪ノ下父のみ。ああ、こりゃ娘たちがいろいろと苦労するわけだと呆れた。

 

「随分吹っ切れましたね」

「いやーもう、母さんの前で冗談に走るのがあんなに楽しいとは思わなかった。なんでもやってみるもんだね。怖いとか思ってたのなんて、わたしと雪乃ちゃんくらいだったのかもしれない」

「まあ、そうですね。じっくり話し合ってみりゃ、解らないでもなかったわけですし」

「そうそれ。それが一番驚きだった。まさか母さんが比企谷くんのこと気に入るとはねー」

「………」

 

 昔から、子供にゃ好かれてたんですよ、とは言わない。

 ただまあ、金持ちってのは普通じゃないってことなんだろう。親でもなんでも。

 忙しすぎて子供に構ってやれない親は、親としての本能が芽生える前に子供が成長してしまい、“親”としての覚悟も芽生えないままに親をするハメになる、とかどっかで見た気がする。

 そうなると接し方も解らないし、子供を理解しようとする意欲も湧いてこなくなるんだそうな。ほら、なに? 気づけば大きくなって、常識も知っていた子供が居たが、自分の子供って“常識的”には考えられても、手がかかるけど可愛い子、みたいな気持ちは浮かばないんだそうだ。

 おそらく、ママのんはその典型。だから厳しくするか自由にさせるかという両極端な選択しか出せない。

 

「あ、で、雪乃ちゃんは?」

「一色と菓子作りしてますよ。今日はコーヒーが多いんで」

「あー、お姉ちゃん失敗しちゃったかなー。紅茶頼んであげればよかったかも」

「どっちも飲んでくれると喜びますよ。俺が。……ほい、MAXコーヒー」

「ありがと。……《ちゅるっ》うっは! 甘っ!」

「MAXですからね」

 

 この店のコーヒーは俺が淹れている。

 いろいろ勉強していろいろ面倒ごとも起こして、いろいろ経験して、あれこれやった先で今がある。

 軽く説明するとそんな感じだが、一番の衝撃だったのはやっぱり3年の頃のアレだろう。

 高校3年のとある日。由比ヶ浜マに家に招待されて、行ってみたらハッピーバースデー。思考がフリーズしているところにあれこれ言われて、気づけば判子をこう、ポンと押していて、結衣が比企谷結衣になっていた。

 あれに勝る驚愕はなかった。まあ、お陰でヘンに度胸はついたが。心の中にそれまで以上の覚悟が芽生えて、どこかに残ってた“子供のままで居たかった”みたいな気持ちが薄れたしな。お陰で頑張れた。余所見をせず、しっかりと結衣との先を見つめていられた。

 ……それとは別に心配ごとはあったんだけどな。

 だってなぁ……学校行く度に平塚先生が……なぁ……。

 

「……充実してますか?」

「今の自分に文句はないかな。うん、楽しんでるよ? そっちはどう?」

「これで不満言ったら罰当たりもいいとこでしょ」

「そっか。うん」

 

 まちがいだらけの高校生活は───まちがってしまえば関係が壊れるのではと心配していた俺達の関係は、今もまだ続いている。

 雪ノ下が紅茶を、一色がお菓子を、軽食等は俺か雪ノ下か小町が、小町と結衣がウェイトレスを担当する今は、随分と穏やかだ。

 選んでしまえば他を切り捨てるしかないのでは、なんて心配も必要なかった。

 人との関係なんて薄っぺらだ、という認識は……数人の女性たちにあっさりと崩されたわけだ。

 最初は構わずぼっちでいさせてくれ、なんて考えていたもんだけど……もちろん今じゃ感謝してる。そんな自分から切り離してくれてありがとう、だ。

 

「きちんと“選んだ”のに、それでも人が去っていかないって凄いことだよ? 比企谷くんはもっと胸を張っていいんだぞー?」

「胸を張るべきは結衣でしょ。俺達はあいつに全部押し付けただけですし」

「ガハマちゃんかー……正直あそこまで積極的に動ける娘だとは、最初は思ってなかったんだけどねー……」

「そりゃ見る目がない。あいつは俺達の中で、一番成長が早かったんですから」

「あっははは生意気だなぁ。ま、でもいいや。わたしにはそれが掴めなかったんだから、うん。わたしの負け」

「勝ち負けの問題だったんですか……」

「いーからいーから」

 

 けらけら笑って、MAXコーヒーをすする。

 「うわ甘っ! あははははは! 甘っ!」と元気に笑う姿は、あの頃に見たこの人よりもよっぽど子供に見えた。

 ……ああちなみに、うちのコーヒーには甘さ設定がある。

 社会に疲れた者が望む甘さの段階を、ということで。

 

「まあその、いろいろ助かりました。旅費とか」

「それは母さんに言ってね。バリスタの修行をしたいって話を聞いて、勝手に張り切ったのは母さんだし」

 

 喫茶店経営ってのも楽じゃない。いや、経営よりもなによりも開業が大変だった。

 高校の内に出来るだけコーヒーに力を入れている喫茶店にバイトしに行ったり、コミュ障克服のために頑張って会話をしてみたり、話を振られればパッと返事出来るようになるために情報を集めたり……と、あの時で言う“今まで”ならほぼやらなかったことのオンパレード。

 それでもなりたいものがあったから、あとは根性だ。

 

「借金返済はのんびりとでいいそうだよ? よかったねー、比企谷くん」

「……感謝します。借りを作ったのはあくまで雪ノ下の母親に、ですけど」

「ほんと可愛くないなぁ」

「一応仕事中ですんで」

「客と華麗に話をするのもバリスタの仕事じゃない?」

「結衣が睨んでるからだめです」

「むー……。まあでも、早い内に選んでくれてよかったよ。ずるずる引き延ばして女の子を待たせる男って、ほんとクズだし」

「運がよかっただけですよ。きっかけがあったから大切なやつらに出会えました。……まあその、轢いてくれてありがとう、とは言えませんけど」

「うん。今度都築に伝えとく」

「やめてください」

 

 思えば、随分と笑顔でいられる時間が増えた。

 高校、大学と面倒ごともあったが、それでも俺達は俺達で居られた。

 当然、目的のために一度別々の道へ、なんてこともあったが……“そういう関係がどこまで続くのか、見てみたい”という雪ノ下さんの口添えもあって、金銭的な問題は借金という形で“雪ノ下”が負担。

 そうなれば挫折なんて出来るわけもなく、全員が全員夢に向かってまっしぐら。

 そうして完成した現在が……この喫茶店だ。

 客層も若い人からお年寄りまで様々。あまり騒がないように、が一応のルールなんだが……やかましいやつはやかましい。

 ほれ、最近じゃネタに困ると現れるようになった、あっちの男とか特にそれな。

 

「八幡っ! 原稿が上がったぞ! 添削を頼む!」

「いや添削くらい自分でやれよ……って、今日戸塚は?」

「う、うむ。そろそろ来るな。おお八幡、我はLowコーヒーで頼む」

「遠慮すんな。MAXサービスするぞ」

「眠りたくないでござる! 溜めているアニメがあるから絶対に眠りたくないでござる!」

「摂取するカフェインの量は甘さで変わらねぇよ……」

 

 甘さを選べる、という方法を選んだのは結衣だ。

 辛さブームに対抗して、甘さブームとかどうかな! とか。

 実際やってみりゃ、人生の苦さを甘さで中和したい我が同胞が案外居て、八幡嬉しかったり。集えよ我が同胞! 王の軍勢とか使えたら、世界に疲れた甘さを欲する猛者たちばかりが集いそう。

 

「《カランカラン……》おじゃましまーす……あ、はちまーん!」

「おう戸塚。材木座ならそこだぞ」

「しひぃっ!? へへへ編集者様っ、頑張って書き上げたので、どうか甘めな判断を……!」

「大丈夫だよ、まだ締め切りとかじゃないんだし……あ、じゃあ見せてもらっていいかな」

「……へー、あのコ、編集やってるんだ」

「ええ。知り合いに誘われたとかで。……で、誘った知り合いは編集者にはなれなかったっていう苦い現実がプラスされてます」

「あっちゃー、そりゃ辛い」

 

 あの。雪ノ下さん? 辛いって割には笑ってますけど?

 

「あ、さいちゃんっ! やっはろー!」

「やっはろー、ゆいが、えと、ひきが……えと」

「……戸塚、比企谷で頼む」

「うんっ。やっはろー、比企谷さんっ」

「えへへ、なんか照れるね」

「それな。……高校じゃずっと由比ヶ浜さん、だったからな」

 

 高校で既に婚約済みで、しかも比企谷さん呼ばわりはいろいろと問題があった。

 ああその、なに? カーストがどうとか以前の問題な。

 けどまあそれももう過去だ。いろいろあった、で済ませられる。

 苦い経験も辛いことも、……楽しいことも、だ。

 

「あーあ、ほんとまいっちゃうなー。こんなの見せられたら、ほんと羨ましくなっちゃうじゃない」

「なにがっすか?」

「んー……“本物”?」

「ああ、なるほど。まあ、あれです。答えを見つめていられるヤツがしっかりしてりゃ、まちがってでも辿り着けますよ」

「うわ、ほんとむかつくそのドヤ顔」

「当店のサービスです」

「クレームこない?」

「さあ。雪ノ下さんにしかやったことないんで」

「たっぷりのいらないサービスをありがと、比企谷くん。まあいっか、負けちゃったなら今日はなに言われても受け取る。……本物かぁ。わたしももっと、静ちゃんを信じてれば……」

「その前に振り回されてもついていける知り合いが居たかどうかでしょう、雪ノ下さんの場合」

「……ねぇ比企谷くん。なんであと3年、早く産まれてこなかったのさ」

「知りませんよ。両親に言ってください」

 

 ミルをゴ~リゴ~リと動かす。いつやってもこれ、なんか和む。俺だけか? 俺だけか。

 ゴリゴリ和んでいると、奥からひょいと結衣が顔を出して、声をかけてくる。

 

「ヒッキー、そろそろまかない作るけど、食べたいものとか……ある?」

「好きに作ってくれー。愛するお前の手料理なら全部食べるぞー」

「なバッ!? も、もうっ! なに言ってんの!? ばかっ! ヒッキーのばかっ! ばっ……~~~~……うん、がんばる」

 

 そして引っ込む。可愛い。

 

「……未だにヒッキーなの?」

「焦るとたまに言うんで、からかってます」

「普段は“八幡”なんだ。そりゃそっか」

「いえ、営業中は大体ヒッキーなんですけどね。あいつが望んだのが“全部”なんで、ここはそういった場所なんです。……呼び方云々で言えば一時期、“はーくん”だった時もありますよ。周囲からバカップルって言われまくって、やめましたけど……ほい、豆かん。これはほんとにサービスです」

「えー、わたし今シブいものの気分だったのにー」

「大人用の渋めの蜜もあるんで、それ、試してみてください」

「……なんか、言おうとしてたこと見透かされてるみたいでむかつくなぁ」

「学生時代の俺から見た雪ノ下さんは、まさしくそんな感じでしたよ」

「ふーんそっかー、わたしそんな風に見られてたんだー。……ああ、まあいいんだけど。それよりさ、ガハマちゃん、料理苦手って聞いてたけど……大丈夫なの?」

「上手くなりましたよ? つか、あいつの手料理が好きなんで、なんの問題もありません」

「へー! え、なに? どうやったの? 失敗したらおしおきー、とか?」

「主に俺が腹痛と気持ち悪さと妙な頭痛に耐えるかたちで。不味いものは不味いとハッキリ言って、雪ノ下とお義母さんとの監視の下での特訓とか、同棲中にいろいろ」

「……好きな人のためなら、かぁ。……ん、こりゃ認めるしかないね。ガハマちゃん、強いや。あの頃はおどおどしててなんだかなぁって感じだったのに……ほんと、成長したんだね。……ふふん? けどそれって、誰のお陰なのかなー……?」

 

 誰の、ね。

 カウンターに肘を立て、組んだ指に顎を乗っけて訊ねてくる雪ノ下さんに、俺はフッと笑って返した。

 

「そりゃ、あれです。出会えた“いい人”全員でしょ」

「───……」

 

 言われた言葉にぽかんと口を開いて固まる。

 それがおかしかったので、ちょっと乗り出してそんなお口に新作のケーキを小さく切ったものをかぽりと突っ込んだ。

 

「ふむっ!? ん、んん……甘っ!? あ、でも…………うわ、なにこれ美味しい……!」

「一色の新作ですよ。あいつも感謝してましたよ? “修行期間は地獄の苦しみを味わいましたが、学べたことは至宝です”って」

「……なんかもう、この喫茶店の従業員はわたしが育てたー、とか言いたくなっちゃうね」

「言っていいと思いますよ? そもそも金銭面でのバックアップがなけりゃ、こんなに早く夢の実現なんて出来なかったんですから。……まあ借りは雪ノ下母のものですけど」

「いちいち一言多いと嫌われるよ?」

「あんまり女性と話してると結衣が拗ねるんで、嫌われるくらいが丁度いいんじゃないですかね」

「ふーん…………そういえば、目の濁りも今じゃ全然だね」

「あぁ、高校の時の知り合いに会うと、それ大体言いますよ。中には俺だって解らないヤツとか居ますし」

 

 葉山とか固まってたしな。あれはけっさくだった。

 

「それもやっぱりガハマちゃんのお陰なのかな?」

「さあ。俺にしてみればいきなりだったし、気づいたらいつの間にかだったし。ただまあ戻せってんならいつでもこう、世界を憎んで自分を諦めようとすれば……《どよ、どよどよどよ……》」

「あははははははは! すごいすごーい!」

 

 あ、なんかウケた。でもこれって一度やると中々戻らんのだ。

 人間、ショックすぎることが起こると白髪になるとか言うけど、俺の場合は意識して目を腐らせることが出来る。

 客の間でも地味にウケているんだが……そう、中々戻らん。

 そういう時は眼鏡をつけて誤魔化すんだが……

 

「八……あ、えと。ヒッキー、まかない───あー! ヒッキーまたアレやったでしょ! 目が腐ってるよ!?」

「《ぐさっ》ぐふっ……いや、旦那に面と向かって腐ってるってお前……」

「もうやっちゃだめだって言ったでしょ!? ……幸せなの、否定されてるみたいでヤなんだってば……!」

「うぐっ……わ、悪ぃ……」

 

 恥ずかしげに顔を覗かせてきたと思ったら大激怒である。悪いことをした。

 しかしいつも通りと言えばいつも通り、結衣は俺の両頬に手を添えて、自分と目を合わせるようにして固定。

 しばらくじーーーっと見つめ合ってから、キスをして、深く深くキスをして、やがて離れる。

 

「…………う、うん。はい。……あぅう、やっぱりいつまで経っても慣れない……!」

「ば、ばっかお前、いい加減キスくらい慣れろよ……」

「キ、キスじゃなくて! ~~~……もう、ばかっ! 今度やったら本気で怒るからねっ!?」

 

 言って、ぱたぱたと走っていってしまう。

 ……あれ? まかないは?

 

「見せ付けてくれちゃって。なに? あれって客へのサービスかなんか? ───……って、え?」

「人前でのキスがサービスなわけないでしょう……」

 

 失敗したな、拗ねてるの治すの、大変なんだが。

 とか思ってたら雪ノ下さんが固まっているのに気づく。え? なに?

 

「“キスじゃない”って……あー、ガハマちゃん……ぷふっ、……そっかそっかー、なるほどねー……」

「なんですかそのニヤニヤした顔……」

「うーうーん? ただ、比企谷くんにとっての世の中のドス黒さなんて、キス一発でどうでもよくなるくらい、ガハマちゃんのことが好きなんだなーって」

「ええそりゃもちろん好きですよ。好きじゃ足りませんね。愛してますよ。むしろ愛以上の表現がないのが悔しいまであります」

「……比企谷くん、シスコン卒業してから恋人をダメにする男になったよね。何年経っても恋人気分で一緒に居られるわけだ。そのくせ妻としても大事にしてもらえる、か。雪乃ちゃんの代わりに、わたしが3年遅れて産まれてたらなぁ」

「やめてくださいよ。ここ潰したいんですか?」

「なんなら代わりに紅茶、淹れてあげよっか?」

「味が胡散臭くなるんでやめてください」

「あっはははははは!」

 

 ほんと、楽しそうにしながらもどこか胡散臭かったあの頃とは違う。

 笑い方も本当に楽しそうだ。

 

「“雪ノ下”の経営状況は……って、訊くまでもないですね」

「そうだね。わたしもなりたいものに勝手になったし、母さんたちも今は信頼出来る人に経営任せてのんびりしてる。まあ、裏切れば自分が消えるだけって状況でそれを出来る馬鹿なんて、そうそう居ないけどねー。……そんな馬鹿には少し心当たりがあったりするけど」

「人を見てニヤニヤしちゃいけません。つか、腹減ったんで雪ノ下と交代します」

「えー? こんな可愛いお客さんほったらかしにして、ご飯優先しちゃうのぉ~~?」

「甘えた声出さんでください。結衣じゃなきゃ嬉しくないんで」

「うわっは、店主まで甘いとかほんとここアレだね。……あー、でも解るなー、お店の名前、そのまんま。以前は嫌ってたけど、今じゃ嫌いじゃないよ、名前」

「そっすか。そりゃよかったです」

 

 言って、コーヒーのおかわりをサービスして奥に引っ込む。

 思い返せばしみじみ。ほんと、いろいろあった。

 いつかの夏に留美にも言ったが、学生時代の友人知り合いその他との交流が、そこを卒業しても続くのは奇跡に近い。

 連絡を取り合っていても、いつかは日々の暮らしに忙殺され、消えてゆくものだろう。

 それでも目的や夢があったから、苦労してでも掴めた今がある。

 ……つくづく、“全部”を欲してくれた彼女には感謝だ。

 欲張れば壊れてしまう。そんな恐怖を抱きながらも、全部を望んでくれた。俺が欲した本物も、雪ノ下が欲した本物も、だ。

 誰かが欲したものの先ではそれが得られない、なんて誰が決めたんだろうな。俺も雪ノ下もそれに気づけなかったから一歩が踏み出せなかった。

 踏み出してみれば……世界は案外簡単に広がってくれた。狭い部室から踏み出した世界には不安ばかりが存在していて、それでも辿り着きたい場所があったから頑張れた。

 その先にある今が、こんなにもありがたく、嬉しいものだなんて。

 本当に、“有り難い”未来だった。

 

「比企谷くん。由比ヶ浜さんが顔を真っ赤にして引っ込んでしまったのだけれど……あなたまたなにかしたのかしら」

「なんで毎度俺が悪いことになってんだよ……いや俺が悪いんだけど。雪ノ下、悪い。雪ノ下さんが来てる。俺まかない食べたいから、接客いいか?」

「姉さんが……?」

「一応客なんだから、そのうげぇって顔やめてやれ……」

「はぁ……」

 

 溜め息を吐きつつ出て行く雪ノ下を見送り、奥へ。

 休憩室ともミーティング室とも呼ばれている寛ぎの空間には、長机と椅子が存在している。

 喫茶店の中にあるくせに奉仕部、と呼ばれているそこは、従業員の憩いの場だ。

 

「あ、せんぱーい、遅いですよー! 結衣先輩が呼びに行ってからどれだけ経ってると思ってるんですかー!」

「おー、悪いな。魔王が来てる」

「はるっ!? ……は、はるさんせんぱいデスカ……な、なら仕方ないデスネ。ハイ」

 

 一色は未だに俺を先輩と呼んでいる。なんの先輩なんだかもう謎だ。

 しかしながら、菓子作りの修行もして個人経営をする実力もあるんじゃねぇのってくらいの菓子を作れるようになっても、ここで菓子を作ってくれているやさしいヤツだ。

 

「べつに待ってなくてもよかったのに」

「みんなで食べるから美味しいんですよ。わたしとしては全員で食べたいんですけどねー」

「店からっぽにするわけにゃいかんだろ」

「だから休憩時間、作りましょうって言ってるじゃないですかー」

「あほ、俺達がメシ食いたい時間は、客だって食いたい時間なんだよ」

「だったら昼のあとに急激に暇になる時間、休憩にしちゃえばいいんですよ」

「休憩時間作ると、客足が減るっつーしな……難しいんだよ。つかそれ、お前が休みたいだけだろ」

「てへっ☆」

「あーへいへいあざといあざとい」

 

 長机の端っこ、俺の定位置には、結衣の料理が置かれていた。

 その前に座り、ちらりと見れば、結衣の定位置に料理。

 

「……結衣ー、来ないと食べちまうぞー」

 

 呼んでみるとすぐ来る。

 奥の備え付けのキッチンから顔だけ出して、俺をじーっと見つめてくる。

 

「……先輩。また目、腐らせましたね?」

「……お前さ、毎度だけどなんで解んの? 今眼鏡つけてんのに」

「気づいてないのは先輩だけってことですよ。結衣先輩が真っ赤になってあんななるの、先輩の目が原因の時ばっかじゃないですか」

「………」

 

 そうかも。

 とりあえず埒が明かないので手招きをすると、おずおずと近寄ってくる。そして料理が乗ったトレーを持つと移動させ、椅子もガタガタと移動させて俺の隣に座った。

 

「えへへへぇ♪」

 

 この笑顔は変わらない。むしろいつかよりもよっぽど幸せそうに笑ってくれる。

 それはたぶん、そこから“周囲に合わせた笑顔”が無くなったからなんだと……そう思う。

 

「はぁ、ほんと、先輩たちってどこでもあまあまですよねー……人生が苦いからってマッカンが好きだったのに、人生まで甘くなってちゃ世話ないですよ。いっそ好物とか変えますか?」

「いいんだよこれで……人生ぬるま湯が一番だろ」

「ぬるま湯ですかー……最初見た人、絶対ここが喫茶店って思いませんよ? なんですか、ケーキとコーヒーと紅茶がとっても美味しいぬるま湯、って」

「あ、うん。あたしもお店開く前、優美子に言ったら“銭湯でも開くん?”って訊かれたし」

「“ぬるま湯”なくせしてお客すんごい入って、のんびりどころじゃないですし。ピーク時なんて熱湯じゃないですか。全然ぬるくないです」

「忙しいよねー。ねぇヒッキー、バイトとかパート募集とかしないの?」

「結衣先輩、下心しかない人なんていりませんよ。面接に来た人、みぃんなわたしや結衣先輩や雪ノ下先輩のことじろじろニヤニヤ見てきてましたし」

「あ、あはー……でもあたし、ヒッキー一筋だし……」

「なんですか幸せそうにうっとりと指輪撫でて自慢ですか幸せ自慢ですかうらやましいのでやめてくださいごめんなさい」

「なんかごめんなさいされた!?」

「そうだぞ結衣。お前が俺一筋だとしても、バイトどもが結衣を下心満載の目で見るとか俺がそいつの目を潰すわ」

「先輩さすがにそれはどん引きです」

 

 ほんとに引いた。が、「気持ちは解りますけど」と続けてくれるだけで十分だ。

 ともあれ、食事だ。

 散々と不味さを噛み締め、腹痛に耐え、嘔吐感に襲われながらも耐え抜いた末、結衣の料理は完成へと到った。

 未知の料理は相変わらず危険だが、それでも美味い。

 なにを入れればどんな味になってしまうのか、というよりはこれを入れてしまえばヒッキーがお腹を壊す、みたいな方向で覚えてくれたらしく、自分用に作るとたまに失敗する。

 けどなぁ……そんな覚え方、身に付け方が嬉しくてなぁ……。ああほんと、俺こいつにあまあまだわ。ユイコン言われても一切否定できない。

 

「休みの日とか二人ともすごいですからねー……なんですかあのラブラブ空間。見てるだけで歯が抜け落ちそうですよ」

「言っておくが俺は好きなものをハッキリ好きと言える男だぞ。じゃなきゃリア充の前でプリキュア歌えるかよ」

「そのハッキリさを人間関係に向けられたら、どれだけ人が悩まずに済んだと思ってるんですかー……」

「それはすまん。わりとマジで」

 

 結衣が散々と苦労したのを知っている。主に俺の性格でだ。

 だからそれは素直に謝る。謝りつつ、手を合わせていただきます。

 

「んむ……ん、んんー………………うまい」

「先輩ニヤケすぎですキモいです」

「お前さ、人が一口目を食うたびにそれ言うの、やめない? いいじゃねぇかよ美味いんだから」

「えへへ……えへへへへへぇ……♪」

「ほれ、結衣もとろけてるぞ。言ってやれ」

「結衣先輩は可愛いからいいんです」

「おい」

 

 俺の“美味い”発言に、両頬に手を当てて、てれてれと照れる結衣。

 いつものこと、と言ってしまえばそれまでだが、どうにも慣れないし慣れたくない。こんな初々しさが続けばいいなと思っている。

 

「は~~……でもですよ、せんぱい。このお店で一番忙しいのって、たぶんわたしですよね?」

「誰でもそう思ってるもんだぞ? なんなら雪ノ下と交代して紅茶淹れてみるか? それともコーヒー? 言っておくがな、一番忙しいのは結衣だぞ」

「あー……男連中からの下卑た視線としつこいナンパと鬱陶しいアピール、連絡先教えてとか仕事のあと暇? とかのアレですか……。目ぇ腐ってんじゃないですかね、そんなことは結衣先輩の指を見てから言ってほしいです」

 

 ちらりと見れば、きらりと光る指輪。俺が結衣に贈ったものだ。

 

「お前があざとい顔で接客すれば、全員釣れるかもだぞ。そしたら結衣も平和で俺も安心」

「うっわ最低ですね先輩。……でも、忙しさについてはまあ納得です。最近、先輩のほうにも言い寄る女性とか居ますしねー……」

「雪ノ下には葉山からのアピールが凄いしな……つか、あいつ三浦とはどうなったんだよ」

「結局はのらりくらりなんじゃないですか? そういう対象じゃないなら、ちゃんと選んだこととか教えてあげなきゃ辛いのに……」

「そういうもんか」

「そういうもんです。気づかない人とか、気づいてもそれをステータスとか思ってる人は最低ですね。その点、先輩なんてまさかの学生結婚……あ、婚約ですか。でしたもんねー。あれは驚きました。でも……これ以上ないってくらいの“選択”だったと思います。あとは、先輩のことが気になっていた人が“どう吹っ切るか”の問題だったわけですし」

「……そか」

 

 そう言う一色は楽しそうだ。

 浮いた話題はないのかー、とは言わない。

 仕事が忙しくてそれどころじゃないだろうし、そもそもそういうものを望んでいるようにも見えなかった。

 それは……たぶん、雪ノ下も。

 

「まあ、わたしは結衣先輩の“全部”のひとつですし。なんかもう結衣先輩がもらってくれたらそれでいいんじゃないですかね」

「おいやめろ。人んところの愛妻をそっちの道に引きずり込もうとしてんじゃねぇよ」

「そ、そうだよいろはちゃん。あたしはその、ヒッキーのだし……」

「お、おい……」

「え? あ………………でも、えと…………だよね?」

「………………」

「………」

「…………お、おう」

「…………《かぁあ……》」

「なんですかこの空間ぶらっくこぉひぃのみたいです……」

 

 いいじゃねぇか、甘いの好きだよ俺。愛してるまである。

 他人を見ては爆発しろって言ってた俺だが、なるほど、これはそう思われてでもそこに居たくなる。

 

「まあ、あれですよ。わたしもいろいろまちがった青春してたかもですけど、その時の“今”でしかすることの出来なかった恋は、きっと忘れません。そこに居たのが、やってくれたのが別の人ならその人に恋をしてたかもしれませんけど、“わたしの今”に居たのは残念ながらその人でしたからねー」

「言い回しがややこしすぎて全然解らん」

「わりかし幸せですねって言ったんですよ。じゃなきゃこんな仕事、笑顔で出来ませんよ。ああいえ、仕事がどうとかじゃなくて、毎日毎日らぶんらぶんな空気吸わされるのが耐えられないって意味で」

「え、えー……? そ、そんな……かな。これでも全然押さえてるんだけどな……」

「え? あれでですか? 結衣先輩、それ本気ですか? 休日の二人がすごいのは知ってますけど、あれ以上に……?」

「……一色。誰の視線もない休業日のこいつ、本気ですごいぞ」

「うひゃあっ!? ちょ、なに言っちゃってるのヒッキー!!」

「あー休業日ですかー……。そうですねー、なんだか休業日に向けてどんどんと綺麗になっていく結衣先輩、ほんとやばいですもんね……」

 

 休日明けはすっきりした笑顔。それから一週間、日が経つに連れてものっそい色っぽくなっていく。

 それの繰り返し。

 い、いや、その話は忘れよう。うん。

 一週間に一日しかシてないとか、そういうことは口に出すもんじゃない。

 ……本番がないだけで、じゃれ合うように愛し合ってはいるけどな。うん。

 ほら、あの、なに? ポリネシ───やっぱなんでもない。

 そして一日、と言ったのであって、一回だけしかシてない、とは言ってない。

 

「も、もうその話はいいからっ! ……はいヒッキー、あーん」

「お、おい、一色が見てる《ちらちらちらちらちらちら》」

「はいはい目ぇ逸らしときますから鬱陶しいくらいちら見しないでください鬱陶しいです」

「おい。二回言う必要あったの? ねぇ、あったの?」

 

 結衣にあーんされて、ぱくりと食べる。

 トマトは相変わらず苦手だ。大人になったら平気になるかと思ったんだが、苦手だ。俺大人だしもう平気だろとプチトマトを齧り、吐いたあの日が懐かしい。

 ああいや、食べさせられたものにケチャップがついてたから思い出しただけだ。

 つまり俺はトマトは食べない。

 

「えへへ、じゃあヒッキー」

「おう。ほれ、あーん」

「あ~……んっ♪」

 

 だから、俺の皿の上にトマトがあるってのは、こういうことだ。

 

「あのせんぱい、こまちちゃんよんでもらっていいですか? さすがにとうぶんかたでしんじゃいます」

「小町呼んだらいちゃつけないだろ」

「ハッキリいちゃつく宣言しちゃいましたよこの先輩! せんぱ~いぃ~お願いですからシスコンに戻ってくださいよぉ~……常識的なルールがあったほうが、まだ妹に甘いだけのキモい先輩で済んだんですからぁ~……!」

「んなこと言われても知らん。それに小町は川崎んとこ行ってるし、今日は居ないぞ?」

「え? それってあの……たい、たい……」

「タイキック?」

「誰ですか川崎タイキックって!」

 

 シスコンをやめてからというもの、小町もまあ俺の面倒を見ることから離れ、自由にしている。

 が、たま~に俺と結衣がくっつきすぎてると、頬を膨らませて密着状態を剥がそうとしてくる。

 たまに甘えたくなるのかもしれん。

 

「じゃなくて、姉のほうだよ。裁縫習いに行ってるらしい」

「あー……そういえばサキサキ先輩、そういうお仕事でしたっけ」

「おう。ほれ、あ~ん」

「えへ~……あ~ん」

「だからやめてくださいってば! 見て見ぬフリにも限界がありますよ!」

「……あーんはだめか」

「だめです」

「マジでか」

「まじです!」

「………」

「………」

「じゃ、じゃあ……《はぷっ》んっ……ひっひー……」

「お、おう……結衣」

「口移しにしろって言ったわけじゃなくてですね!?」

 

 その後ガミガミと一色に説教された。

 ああ、うん、されながら結局口移しはしたが。

 

「はぁ……じゃあわたし、お菓子作りに戻りますんで……」

「まだ客来てないし、手伝うぞ」

「お願いします。糖分混ぜるの辛いって思ってましたから……」

「あ、あはは……ごめんねいろはちゃん……」

 

 喫茶“ぬるま湯”ではお菓子の販売もしている。

 頼まれてから用意するものではなく、ケーキ屋みたいに置いておくものだ。

 急いでいる人なんかはむしろそっちの注文をすることが多く、言っていた通り、一色は忙しい。

 俺と雪ノ下も手伝いはするが、主力はもちろん菓子修行も治めた一色になるわけだ。

 

「今回の新作は自信作ですからねー♪ これが広まれば、きっともっと忙しくなりますっ! ……そしたら暇な時間にラブラブ空間で虫歯になりそうになる気分を味わうこともありませんしねー……」

「いろはちゃん!? 張り切るための理由がおかしいよっ!?」

 

 元気なのはいいことだ。いろんな意味で。

 だから元気出してけって意味も込めて、ぽんぽんと一色の頭を撫で───そうになったところで止める。そういうのは結衣だけにだ。選ぶってのはそういうことだ。

 ……はあ、久しぶりに発動したな、お兄ちゃんスキル。止められてよかった。

 

「……はぁ。年頃の女性の頭を気安く撫でようとしないでくださいよ。……がんばりたくなるじゃないですか」

「そか。んじゃ、もうちょい頑張るか」

「乙女の独り言を拾わないでください気持ち悪いですごめんなさい」

「うるせ。ぼっち経験者は耳がいいんだよ。……結衣、ごちそうさま。今日も美味かった」

「うんっ、えへへ───あ、ヒッキー、片付けとかはあたしがしとくから、いろはちゃんの手伝いの方、お願い」

「おう。んじゃ、頑張りますか《むんっ》」

「はい、頑張りましょう《むんっ》」

 

 一色と二人、口をへの字口に、腕まくりをして歩く。こんなことをしていると、たまに“兄妹みたいね”と雪ノ下に笑われる。まあ、こんなふうにノリに乗れる時は、案外くすぐったいもんだ。

 と、そこで店の方からのパンポーンという呼び出しチャイム。

 

「すまん雪ノ下が呼んでる、じゃあな」

「ちょっ、やる気にさせといて放置ってヒドイです! せんぱい!? せんぱーーーい!」

 

 しょうがないでしょそういうもんなんだから。

 

「じゃあ結衣を戦力に」

「ひとりでがんばります!」

「いろはちゃんひどい!?」

 

 そんな、なんでもない日々の会話で笑えることが、本当に多くなった。

 ……たまに、声が聞こえる。

 ずっとずっと前のいつか。独りぼっちになったばかりの頃の、小さな子供の声だ。

 どうしてお前は俺なのに、そんな笑えるんだって訊いてくる。

 俺はそいつに、いつもこう返している。

 

  歩んだ青春がどんだけまちがっていようが、選んだ道が正しいって信じてるからだ、って。

 

 自然と笑えるようになった顔のまんま、わあわあ騒ぐ結衣と一色を見る。

 こんな光景が目の前にあることを、時々に疑う。

 それでも“今”は、まだここにあって……そんな今が、不思議なくらい心地良い。

 

(っと、早く行かないとまた罵倒が飛ぶな……雪ノ下さん込みで)

 

 テキパキと片づけをする結衣を見守りつつ、思考にふけっていた頭を軽く振る。

 苦笑を漏らし、移動しようとしたところで結衣が振り返り、笑顔をくれる。

 その笑顔が、いつか自分の気持ちを自覚した笑顔と重なった。

 

「───……」

「ヒッキー?」

 

 ありがとうが溢れる。でも、一番言いたいのは“好きになってくれてありがとう”。

 こいつが居なかったらあそこは、俺達はどうなっていたのか。

 全部が欲しいなんて欲張りだ、なんて“みんな”は言う。

 けどそれが、努力することで得られるなら、努力し合うことで届く果実であってくれるなら、俺はそれに手を伸ばしたいと思う。

 あの頃では届かなかったクッソ不味い葡萄も、手を伸ばすだけでちょこんと掴める。その葡萄はとっくに熟れきっていて、不味かっただろう味を甘くしすぎてしまっている。

 それを残念に思うか? とんでもない。“俺”だったらいつだってこう言うね。

 人生は苦いんだから、口にするものくらいは甘くあるべきだろ、ってな。

 ほら俺アレだから。自他ともに認めるほど、甘いもの大好きだから。

 

「……行くか」

「うんっ」

 

 片づけを終え、目の前まで歩いてきた結衣の手を掴んで、繋ぎ合って、歩き出す。

 雪ノ下さんに冷やかされるだろうが、今はそれくらいが丁度いい。

 答えを見つめ続けてくれた彼女に感謝を。

 そして───

 

「あ、そだ。えっと……えとね? ……えへへ、あぅう……」

「おう。どした? 顔がめっちゃ緩んでるが」

「~~《かぁあ……》あの、さ。ほら。今日さ、早くから気分悪くてさ、病院……行ったじゃん?」

「そうだな。店開けずに付き添おうとしたら却下されたな」

「大げさなんだってばヒッキーは。……そ、それでね? えっと…………いろいろ調べたら……ね? ~~……お……」

「お?」

「……おめでた、だって……」

「───……」

「…………、あ、の……ヒッキー……? よ、喜んで、くれなぃ、の……かな」

「でかしたぁあああああああっ!!!」

「《がばぁっ!!》ひゃああっ!!? やっ、わっ……~~~……ひっきぃい~~っ♪」

 

 ……そして。新たな命に、ありがとう。

 頭が真っ白になったあと、心の奥底からあふれ出した感情が、一気に爆発。

 結衣を引き寄せ抱き締め抱き上げ振り回し、あらんかぎりの声で叫んだ。

 急に抱き上げられて振り回されて驚いていた結衣だったけど、どうしようもなく緩み、笑ってしまう俺の顔を見ると、本当に嬉しそうに笑い、俺の頭を抱き締めてきた。

 視界を塞がれても喜びは消えず、燥いだままにぐるぐる。

 バランス崩して二人仲良く壁に頭をぶつけても、それが笑いのタネとなってしばらく笑っていた。

 

  ───ああ、幸せだ。

 

 いつからこんなに笑えるようになったんだろう。

 ……いつから、こんなに笑うことを許されたのだろう。

 きっと誰も禁止なんてしていなかった自分の感情も、昔はずっと息苦しささえ感じていた世界も、ひとつの答えをひたすら追ってみれば消えていて。

 楽しい時には笑っていいのだと。格好つけず、自分のまま笑っていいのだと、隣に居てくれる人にこそ許された気がした。

 だから感謝を。自分が与えられる全てを以って、感謝していこう。

 出会ってくれてありがとう。見ていてくれてありがとう。好きになってくれてありがとう。好きで居続けてくれてありがとう。支えてくれてありがとう。

 

  幸せだと伝えたら泣いて喜んでくれた。

 

 あたしもと言ってくれるキミが好きだ。

 孤独だった頃では考えもつかなかった“好き”がそこにある。

 人を好きになることに憧れていたのだろうと、今なら思える。

 初めての興奮に燥いで、勢いだけで突っ走り、振られて後悔して笑われて後悔して言い触らされて後悔して。

 高校生活に希望を抱いて初日で失敗して、それでも……得られる絆があったから。

 こんなものは偶然だって笑えてしまえるような未来。

 それでも、あの日の結衣の言葉を信じるなら───俺達はどんなまちがった歩き方をしてきても、いつかは出会い、恋に落ちたのだろう。

 そんな幸福を、今では俺も、ずうっと胸に抱いている。

 

 

 

 

 

 

   うるさいわよ比企谷くん。そもそも呼び出されてからどれだけ経っていると───

 

  ああっ、雪ノ下! 雪ノ下! 結衣が! 結衣が!

 

   由比ヶ浜さんが? ───まさか具合が悪化してっ……!? ……元気そうだけれど。

 

    なんなんですかー、急に叫んだりして。厨房まで聞こえましたよー?

 

  あぁあ一色! 一色! やばい、やばいんだ、ほんとにやばい!

 

    なんですかそれいつかのわたしの真似ですかほんとキモいんでやめてくださいごめんなさい。

 

  真正面からひどいなおい! じゃなくてっ! お、おめっ、おめで……っ!

 

    え? もしかして新作完成おめでとう、とかですか? もー、言うのが遅いですよーせんぱ───

 

  おめでたっ! 結衣がっ! お、俺のっ、俺の子供っ!

 

   …………。由比ヶ浜さん、それは本当なの?

 

 う、うん……! 今日病院で、そのー……えへー……♪

 

  あれ? 今のべつに俺に訊いてもよかったよな? え? あ、いや、確かに結衣に訊いたほうが確実……あれ?

 

    ……なんでそんな大事なことを人のおめでとうと被せるんですかほんっと信じらんないです先輩って馬鹿なんじゃないですかこのばか!!!

 

  おまっ……学校でテストの度に“生徒会長だから~”って泣きついてきたお前に、誰が勉強教えたとっ……!

 

   そうね。主に私とあなただったわね。けれど比企谷くん? 一色さんが言っている馬鹿とは、そういう意味での馬鹿ではないのよこの馬鹿。

 

  俺、お前になんかした……?

 

   夫のくせに気づいてあげるのが遅いと言っているのよ。由比ヶ浜さん、今日はもう店を閉めましょう。いいえ閉めるわ。一色さん、今作っているお菓子を祝い用にアレンジできるかしら。

 

    おまかせですっ! あ、先輩はさっさと看板下げてきてくださいね。

 

  お、おい、今日三浦が予約取ってて───

 

   あら。巻き込んで祝えばいいじゃない。きっと喜ぶわ。

 

 あ、うん。あたしも優美子に報告したいし。それにほら、せっかくさいちゃんも陽乃さんも居るんだし。

 

  …………わぁったよ。あと材木座のことも忘れんなよ。……一応、あいつのお陰ではあるんだからな。

 

 知らない。ビッチが清楚にしてもビッチとか言っただけでチャラだし。

 

  まあ……アレはないな。ヒキタニくんに言わせたかったんだろうが。

 

   それから比企谷くん。小町さんとは連絡がつくかしら。

 

  おう。もうこうなったら全員巻き込むか。小町にかければ川崎も誘うだろ。

 

    そうですよねっ、全員揃っての“全部”ですからっ!

 

  あー、でもな……。

 

 ? ヒッキー? どうしたの?

 

  ……平塚先生、どうする……?

 

 あ……

 

    あー……。

 

  俺としては呼びたいんだが、あの人毎回泣く上に絡んできて、トドメに結婚したいだからな……。

 

   ……姉さんに丸投げしましょう。

 

  無条件で賛成。なにそれ最高。……つか、随分と言うようになったな、お前。

 

   困ったことに、追い抜かれたくないと思える人が親友になってしまったから。

 

  あー……解るわ。成長速度、どうなってんだかってな。

 

 ? なんのこと?

 

  なんでもねーよ。んじゃ、看板下げてくるわ。

 

 あ、あたしも行く。

 

   その前に比企谷くん。あなたはいい加減由比ヶ浜さんを下ろしなさい。

 

  えー、いいだろもうこのままで。

 

    一緒に行く、の意味がいろいろおかしいですよ、結衣先輩。

 

 えー、いいじゃん一緒なんだし。

 

   はぁ……この似た者夫婦は……。いいからさっさと行きなさい。

 

  おう。

 

 あ、ヒッキー、そっとだかんね? お腹に衝撃とか絶対ダメ。

 

  ばっかお前、俺がんなことするわけねぇだろ。もう愛してるから。性別も解らん我が子に既に愛情側のコンプレックスを抱いているまである。

 

 いくらなんでも早すぎだよ!? ……~~……あ、あたしのこと、ほったらかしにしちゃ、やだよ?

 

  しない。絶対にしない。つか無理。逆に子供に見せ付けて砂糖吐かせる。

 

 それはやりすぎだよ!? あははっ……もー、ヒッキーは~……

 

 

 

 

   …………。

 

    ……。雪ノ下先輩、糖分混ぜるの手伝ってもらっていいですか?

 

   ええ、任せなさい。存分に祝ってあげるわ。“親友”の、祝いの席だもの。

 

    ですねー。わたしも“後輩”として、全力で祝います。

 

   ふふっ……。

 

    あはっ……♪ ほんと、不思議ですよねー、この関係って。

 

   選べば壊れてしまうと思っていたのに……結局、勇気がなかっただけなのね、私も、あなたも。

 

    わたしのは参戦が遅れただけですし。まあほんと、今はもうもっと幸せになってくださいってだけですけど。だって楽しいんですもん、毎日毎日。

 

   そうね。私も同じだわ。

 

    ……まだ気になってたりとか、します?

 

   言ったでしょう? “親友”よ。……どちらも、ね。

 

    わたしも、どっちの“後輩”でもありますしね。あ、ちなみに吹っ切れたのはいつですか?

 

   婚約ね。高校3年であれは驚いたわ。驚いて、笑って、それで綺麗さっぱり、といったところかしら。

 

    わたしもです。まあ、ちょお~っと夢に苛立ちをぶつけた、みたいな時期はありましたけど。その甲斐あって、立派な職人さんですっ。《むんっ》

 

   今度葉山くんにでもアプローチしてみたらどうかしら。

 

    やです今さら興味ありませんていうか雪ノ下先輩ラブじゃないですかあの人なのに三浦先輩振ってあげないとか正直キモいですごめんなさい。……てゆーかっ! ですよ? 雪ノ下先輩はどうなんですか。居ないんですか、誰か。

 

   居ないわね。仕事が恋人でもいいと思っているわ。

 

    そう言って、いつか平塚先生の二の舞に……。

 

   べつにそれが悪いことだとは思っていないわ。格好いいじゃない、あれはあれで。……酔わなければ。

 

    ……まあ、解ります。ちゃんと選んでも周囲がほっとかないって、案外辛いですよね。

 

   私、何回ハッキリ葉山くんにお断りを伝えればいいのかしらね……。

 

    まあまあ、ほらっ、そんな苛立ちも糖分にぶつけましょう!

 

   ……そうね。では、私はクッキーを焼くわ。これがないと、“私たち”は始まらないから。

 

    じゃあわたしは子供用みたいに小さなお菓子を。……きっかけって、とっても小さいのに忘れないものですよね。

 

   だからいいのだと私は思うわ。小さいから大切に出来る。大きすぎては、手に余るもの。

 

    そうですか? わたしはでっかいのがいいです。だから、この関係って大好きですよ?

 

   そうね。ええ、本当に。

 

    ですよね。さって頑張りますかっ。…………って、雪ノ下先輩? なんか設定温度おかしくないですか? なに作るつもりなんですか? え? クッキーですよね?

 

   ふふっ……そうね。ジョイフル本田の木炭を作るのよ。

 

    なんでですかっ!? え、ちょっ……雪ノ下先輩!? わたしのお城で失敗作なんてダメですダメダメ! ダメですってばぁ~~~っ!!

 

 

 

 

 

───……。

 

 本当は、嘘でもいいのに。

 

 そう思って、願って、手を伸ばしたものが本物になった時。

 

 気づけばそこに、幸せがありました。

 

 これからずっとこんな関係が、なんてきっと無理なんだって解ってる。

 

 でも、頑張って手を伸ばして手に入ったいつかを思えば───

 

 いつか離れ離れになっても、また何度でも手を伸ばそうって思える。

 

 だからあたしは全部を願うんだ。

 

 歩く道をどれだけまちがっても、答えだけは見失わないようにって。

 

 

 

 あたしは……わからないものをわかるようになるために、頑張れたかな。

 

 頑張った分だけ遠ざかっても、それを手繰り寄せることができたかな。

 

 小さな声で、隣の彼にそう訊ねると、彼は笑った。

 

 途端、クラッカーが鳴って、集まってくれた全員が笑顔でおめでとうって言ってくれた。

 

 恥ずかしげな、ぶっきらぼうな声が耳に届く。

 

  “これが答えだろ”

 

 笑顔が溢れた。ありがとうが溢れた。

 

 出会ってくれてありがとう。助けてくれてありがとう。守ってくれてありがとう。好きになってくれてありがとう。

 

 いろいろなありがとうが溢れ出して、どうしようもなくなって、彼に抱きついた。

 

 おかしな声を上げて驚く姿はいつまで経っても変わらない。

 

 いい加減慣れればいいのに、とか思うのに、慣れてほしくもないとも思ってる。

 

 途中、いつかの“夢を歌にする”の話題が出てきて、彼が真っ赤になってそっぽを向いた。

 

 イベントとしては好評で、しばらくは続いたそれで、彼は最優秀を得たことがある。

 

 高校3年の……婚約を果たしたあとの夢の歌。

 

 いい歌だなーって思ってたら彼が真っ赤になっていて、全校放送している間中悶絶しっぱなしだった。

 

 内容は……犬がきっかけで出会った、男女の歌。

 

 そんな話題が出たからか、全員がヒューヒューとか言ってからかってくるのに、浮かんでくるのは笑顔ばっかり。

 

 くすぐったくて恥ずかしくて。

 

 でも、ふと見上げて、ふと見下ろされて、目が合うと……やっぱりあたしも彼も笑うんだ。

 

 そして言う。お互いに、小さく。

 

 

 

  ───幸せだな

 

 

 

 ───幸せだね

 

 

 

 って。

 

 周りに合わせたものじゃなく。

 

 “みんな”を嫌って、孤独を選ぶために身に付いたものでもない笑顔のまま。

 

 そんな、いつでも笑顔で居られる空気があるこの場所が───あたしは、大好きです。


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