どこにでもあるようなガハマさんとヒッキーのお話 作:凍傷(ぜろくろ)
鬼役が飲み物を購入、という提案が投げられ、俺も葉山も頷いたことで……現在、二人きりで自販機前。
やだ、去年の結衣との恥ずかしい話とか思いだしちゃう。
……あー、ここに海老名さん居なくてよかったわ。
「俺が鬼……か。そうだな。結局俺は、選ばない」
んで。
思ったことをぶちまけてみれば、葉山はそんなことは解ってるんだとばかりにそう言った。
「お前すげぇな。自分のことが好きな相手の青春、丸ごと潰すってなってもまだ選ばないとか」
「盾にするとか女子避けとか……そんなんじゃないんだ。友達、仲間……そんな関係で居られればって、本当に思ってる」
「好きじゃ、ないのか」
「友達として、仲間としては、だ。それ以上の感情は……たぶん、これからさきもきっと、ずっと」
「じゃあなんで振ってやらないんだよ。伝えないだけでどんだけ苦しめるって……って、俺が言えた義理じゃねぇか」
「いや。君は選んだんだ。それは言っても許されることだ。けど、俺だって悩まずにこんな関係を選んでるわけじゃない」
「……。振ってしまえば友達にも戻れない、ってか」
「高校の間だけでもいいんだ。卒業したら、俺のことなんか忘れて───」
「自分に好意を持ってるヤツ相手に“俺なんか”はやめろ、だそうだ。相手はお前が好きなんだ。お前だから好きになった。散々真っ直ぐ言われて、今も言われてるから言ってやるよ。解り易くだ。あいつらはな、“俺なんか”を好きになったんだよ。お前がどれだけ“俺なんか”って言おうが、そんなくっだらねぇ言い訳を振りかざしちまう相手を、その丸ごと好きになったんだ。お前がそんな姿に惹かれる時がこれから先にあるなら今のままでいい。無いんだったら振ってやれ。お前、本音で話もしないで仲間だなんだって、言ってて恥ずかしくないの? 馬鹿なの? 死ぬの?」
「……。お前にだけは言われたくなかったな」
「そうな。俺もお前に説教だとか気色悪くて吐きそうだわ」
言いながら、ブラックコーヒーとマッカンを買う。
んで、ブラックを手に、葉山にはマッカンを。
「? 比企谷、俺はブラックって───」
「……許せないじゃない、許さないだけ、って話……知ってるか?」
「え……あ、ああ。認識の違いの話、だよな。どれだけ怒っていても、怒っている理由や根本の向きを変えてやると、案外簡単に怒りは消えるっていう……」
「ぼっちは少なからず、誰に教わるでもなくそれを身に着けて生きていく。殺したいほど憎いヤツが居ても、いつかどっかでスイッチを切り替えて、べつにどうでもいいから二度と姿を見たくないって、許す代わりにもう現れるなって、そいつを気持ちごと捨てることも出来る」
「………」
「トラウマを植え付けた相手なんざ、忘れようにも忘れられないし、いっそ殺したいって思う時だってある。けど、たとえばその経験の先で現在が幸せで仕方ない時、そいつを殺すことで人生を棒に振るいたいかっていったら……そうじゃねぇだろ」
「……比企谷、キミは」
「“俺はお前が嫌いだ”」
「っ……それは」
「修学旅行のあの日、お前は俺にだけは頼りたくなかったって言ったな。俺もだ。あの時俺は、お互い様だよ、馬鹿野郎って思ってた。根本から、俺達は合わねぇんだ。これはしょうがない」
「なにが言いたいんだ」
「たまには捻くれてみろ。正しいだけなんてつまらねぇって、変わらないものなんてねぇんだって、一度でも受け入れてやれ。それは、お前にしか出来ねぇことだろが」
「…………。なぜ、きみが俺にそんなことを言う。そんなことを言うやつだったか? 比企谷って男は」
「前の自分を見てるみてぇで腹が立つ。いや、違うか。……仲間仲間言ってるくせに、仲間のことをきちんと考えてやれねぇその有様が、見てて腹立つ」
「…………」
「……。なにも返さねぇんだな」
「本当のことだからな。人の時間を自分の幸福のために潰してなにも思わないほど、俺だって人として壊れていない」
それでも、と呟いて、葉山はマッカンを受け取った。
「いつか後悔するんだとしても、俺は“今”を選ぶ。変わらない今を。そのためにみんなの今をもらって、卒業したあとはなんらかのかたちで返していければって思ってる」
「………」
無理だろ。
そうは思ったが、口にはしなかった。
そう信じていれば叶えられる。自分にはそれが出来る。
なまじなにかが出来てしまうと、いつしかそれをそういうものだと信じてしまう。
救われなかったらしい雪ノ下雪乃のことを、救えなかったらしいこいつは今でもきっと後悔している。
だから大人になればと、今でもそれを信じているのだろう。
けどな、葉山。どれだけ大人になったところで、体がでかくなったところで、踏み出せなけりゃ、なにも変わらねぇんだよ。
孤独な馬鹿が泣きながら本物を求めるみたいに、一度でも……本当の感情を吐き出してみればいい。
俺にとってのあれが恥ずかしい過去だとしても、それを受け止めて頷いてくれる誰かは居た。
歯車が噛み合わさっても、答えを得たわけじゃない見えないなにかを、今でも追っては苦笑を重ねている俺達だ。
たしかに全員が“今”をって生きているが、望んでいるそれは“変わらない今”じゃないから。関わることで、自分さえ知らぬ間に変わる自分に戸惑いながら、それでも突き放したりはせずに歩いている。
手探りってのは心細いもんだが、歩いてみれば……見ている先は違うのだとしても、辿り着く先が同じだと信じていれば、こんなにも居心地がいい。
「はあ。やっぱ俺、お前は好きにはなれそうもないわ」
「……。そうだな。きみの言葉を借りるなら、俺の台詞だ馬鹿野郎、か」
言って、二人してガラにもなくニカッと笑い合った。
俺はブラック。
葉山はマッカン。
それをカシュッと開けて、かつんとぶつけ合って、
「俺は君が嫌いだ」
「こっちの台詞だ、馬鹿野郎」
嫌いを、飲み込んだ。
俺達はきっと、一生肩を組んで笑い合う、なんてことはないのだ。
だが、嫌いだからって突き放したりするかといえばそうじゃない。
「うげ、苦ぇ……」
「うぐっ……甘い……!」
素直な感想を漏らし、けれど残さず飲み込む。
同時に飲み終え、それをゴミ箱に突っ込むと、まずいものを飲み込んだ者同士、なっさけねぇ顔をしながら……言い合ったわけでもないのに拳を持ち上げ、ごつ、とぶつけ合った。
きっとこいつとは絶対に友達にはならねぇけど。
その、変わらないって姿には……三浦にゃ悪いが、ちょっと憧れた。
その、変わっていこう、幸せにしようって姿に、変わってゆく人の在り方に、変わらないと決めたくせに、ちょっと憧れた。
おそらくお互い、まったく逆のものを考えながら、俺達はニカッと笑って自販機と睨めっこした。
「さーてイケメン。女子ってのはどんな飲み物が好きなんだ?」
「雪ノ下さんなら……紅茶、かな」
「残念、あいつは野菜生活だ」
「ぐっ……ゆい、がはまさんなら……ほっとれもん、か?」
「残念、なんか知らんがここで買う場合は男のカフェオレだ」
「そ、そうなのか? 意外だ……!」
言って、なんだか笑えてきた。
買う度にやさしい顔になって、男のカフェオレをえへへーって俺に見せてくる結衣。
一番最初、依頼に来た頃に買った時も、大切そうに笑ってたっけ。
ああほんと……あいつは、あんな時から……。
ビッチとかぶっ殺すとか、あー……俺、あー……もう。
うし、戻ったらめっちゃ甘やかす。お願いとかもう無条件で叶えるよ俺。
「いろはは……い、意外性でスポルトップ……か?」
「残念、そここそほっとれもんだ」
「……。比企谷。次に君が自分のことをぼっちって言ったら、俺は君を殴るぞ」
「あ、そ。んじゃあ俺は刺し違えてでも殴り返す」
「そこはただ殴られておけよ……」
「やだよ。痛いだろうが」
ぽちぽちと飲み物を購入していく。
途中、タイキックも連れてくるんだったと後悔するが、まあたまにはいい。
こいつが二人でって目くばせしてきたんだから、ちっと多めに持ってもらえばいい。
「比企谷。妹さんはなにが好きだ?」
「そうだな。主にお兄ちゃんだな」
「そうのはいいから、さっさと答えろ。わざわざ尖らせないために小町ちゃんって呼ばなかったんだ、早くしろ」
「お前たまにひでぇよな。小町はそっちの長いのでいい」
「大志くんは?」
「タイキックな。あいつは───まあ、あれな。スポルトップでいいだろ」
「ジャンク系か……ザイモクザキくんは……この奇妙系でいいか?」
「あー、それ選んじゃうかー。いや、だめじゃない、だめじゃないがそれかー」
「え、あ……不味いのか?」
「んや。材木座が言いそうな言葉選んでみた。いいんじゃねぇの? つーか、なに買ってきても飲むだろ、あいつ」
「そうか…………それで」
「ああ、戸塚だな。戸塚……スポーツドリンク系、だと思うか?」
「いや……正直飲み飽きている可能性だってある。俺も水分と塩分補給とはいえ、毎度飲んでいると飽きるし」
「さわやかな恋の味、ネクタードリンクはどうだ?」
「すっきり桃の風味か……」
「…………。いや、桃は俺が個人的に買ってくわ」
「? そうか。意外だな……桃、好きなのか?」
「……人の影響ってすげーなって話だよ」
「?」
結局、戸塚の分で結構悩んで、戻ってみれば遅いと怒られた。
× × ×
で。
「オンラブラトルド・アンベルト……オンラブラトルド・アンベルト……! 我は求め訴える……我が呼びかけに応じ、今こそ我が元に具現せよ! 汝の名、紡ぎし愛と哀の蒼き鬼! 鬼はぁーーー内ィイッ!!《くわぁっ!!》」
喫茶店で豆まきイベントが実施され、恵方巻に見立てた一色式恵方菓子が結構売れて、店を閉めた夜。
店内に炒り豆を散布しているのは、我が娘である比企谷絆である。
ちなみに謎の呪文を訳すと、私はラブラドールが好きですが、鎖で縛るつもりはありません、という意味らしい。
宅に犬は居ない。猫は居る。
犬が……サブレがその生命を全うした時、結衣が見ていられないくらい号泣して以来、俺達は……犬は飼っていない。
自然と犬の話題も出なくなったが、今でもいつか俺が贈った首輪は、捨てられずに飾られている。
「豆くらい静かに撒きなさい」
「元気がなきゃ弱気になんて勝てないんだよパパ! だからこう、あえて楕円球を投げるつもりで! 黄金の回転! 炒り豆のぉお! 無限回転エネルギー!」
おいやめろ。豆なんか回転させてどうしたいんだよお前は。
「あーでも昔は鬼さん信じてたなぁ。赤いものには福があるーって、サンタも日の出もお雛様も振袖も、鬼だって信じてたなぁ。ねぇパパ? うちではどうして鬼は内なの?」
「鬼が俺達になにかしたわけでもねぇからな。鬼ってだけで外出ろってのは違うだろ」
「おおさすがパパ! ぼっちの気持ちを解ってるね! でもでも納得! 絆納得! 鬼はー内ー! 福もー内ー! ふはははは! 鬼でもなんでもわたしが相手だー! なーんちゃってうりゃー!《ぶんっ!》」
「……比企谷くん、奉仕部まで聞こえているわよ。少し静かに《べちぃ!》───」
「あ」
「………」
調子に乗って燥いで、思い切り投げた豆が、丁度通路から出てきた雪ノ下の顔面に直撃した。
ああ、なんだろう。雪ノ下の落ち着いたオーラというか、周囲に漂う静かな空気っていうのか? あれがD4Cラブトレインがチュミミ~ンってすり抜けられたみたいに掻き消されて、代わりに黒いオーラがモシャアアアって溢れ出してきたような……!
ええと、ほら、一言で言うならこう…………鬼、到来?
「絆、さん……?《ニコリ》」
「ひぃいいやぁあああああああっ!? ごごごごめんなさいぃいいいっ!!」
一言、鬼だと呟きたかったが、まあほら、よかったじゃない、鬼が来たぞ?
ほれ、黄金回転でなんとかしてやりなさいよ。
「パパ助けて!」
「絆。蒼い鳥はな、いつだって近くに居るもんなんだ。探し物は近くに、ってな」
「雪乃ママ! パパが雪乃ママのこと鬼だって言ってる!」
「うおぉおいこらちょっと待て! これはそういう意味じゃ───」
「比企谷くん? ちょっとそこ座りなさい」
「い、いや、だからちが」
「座りなさい?」
「つーかそこ床───」
「ええそうね。それが?」
「………」
「………」
ちょこんと正座で座る親娘ふたり。
あの、なにこれ。なんでこんなことになってんの? 俺完全に被害者じゃないのこれ。
ああちなみに、雪ノ下が戻ってこないからか、様子を見にきた結衣がなぜか一緒になって隣に正座したあたりから、説教が緩くなりました。
かつての部長、相変わらず結衣には甘々すぎである。
いや、まあ。俺も甘々すぎだが。
「あ、節分っていえばさー、高校でもやったよねー」
「ああ、葉山が盛大に落ち込んだアレか。結局あれってなにが原因だったんだ?」
「昔のことよ、忘れなさい」
「お前が原因かよ……」
「ぐっ……ええ、そうね。けれど原因、と言うのであれば、そもそもは葉山くんなのよ」
「え? またなにかやらかしたんですかあの人」
「そのいっつもなにか仕出かしてるみたいに言うの、やめたげなさい」
「? うん。パパの言うとおりにする」
きょとんとしながらも頷いてはくれる。
俺の言うことは大体素直に頷くから、なんちゅーか可愛いわけで。
まあ、命令きかせて喜ぶ趣味はないから、それが当然って受け止める気なんざさらさらないが。
「ん……そういや、一色はどうした?」
「あ、いろはちゃんならあたしが作った恵方巻、用意してくれてるよ? 今呼びにきたの、一緒にたべよーって」
「今年はどっちだったか……」
「えへへ、もうぼっちじゃないよね?」
「その返し方やめなさい……ああはいはい、最高の嫁さんもらえて、鼻もポイントも胸のトキメキも幸福度も高いよ」
「そこに絆をそっと添える喜び……プライスレス!《ドヤァーーーン!!》」
目を閉じ、静かに寄ってきた絆が、プライスレスの瞬間、ドヤ顔でクワッと目を開いた。なにしたいのこの娘ったら。
「はいはい、妙な病気ふりまいてないで、さっさと行くぞ」
「はーい。ねぇパパ? 恵方巻って鬼の金棒に見立ててるってほんと?」
「見立ててってだけだろうけどな。ほんとだったら尊敬通り越して怖ぇよ。どっちが化け物だよ。金棒食うとか昔の人々ったらなんでも噛み砕きすぎでしょ。なに? 紅羽高校で番長でも張ってたの? コンクリートブロックとか噛み砕いちゃうの?」
「金棒食べてお願い事とか、すっごいこと考えたよねー。ねぇヒッキー、なんで無言じゃなきゃだめなんだっけ」
っつーか、なんで俺に訊くの。そこにユキペディアさんが居るから、そっちに訊きなさい。
とは言わない。頼られてるって、ちょっぴり嬉しい。
なもんで、うんちくを話しながら雪ノ下に溜め息を吐かれ、一色と合流して恵方巻を食べた。
喋ってはいけない、という条件がある緊張感が好きらしい絆は、毎年人を笑わせに走る。
「地獄から来た野生の少年のケツを粉砕する冷血動物マシーンデブ殺し世界チャンピオン!《バッババッバッバッ!》スパイダーワッ!!《ビッシィーーーン!》」
「ぷふぅっ!?《ぷしゅっ!》」
で、不幸なことに雪ノ下が笑った。
あとはまあ、いつも通り鬼がご降臨あそばれたわけで。
「う、うわーん! 鬼は外ー!」
「そう、外でお話がしたいのね。いいわ、たっぷりとお話をしましょう?《にこり》」
「《がっしずるずる》きゃわぁあああっ!? たたたたすけてぇパパぁーーーっ!!」
「たまにはしっかり絞られてこい。つーか、イベントの度に怒られてると、もう恒例みたくなってるだろ」
「マ、ママっ……!」
「……ゆきのん」
「なにかしら、由比ヶ浜さん」
「えっとさ、絆もほら、楽しませようとしてやったことだし」
「……。まあ、そうなのでしょうけれど」
「ママ……!《じぃいん……!》」
「やさしく怒ってあげてね?」
「ママーーーッ!?《がーーーん!》い、いろはママッ……!」
「結衣先輩はやさしいだけじゃありませんからねー。とりあえずきーちゃん?」
「は、はいいろはママ!」
「……やまない雨はないよっ☆」
「絆は今すぐ大快晴が欲しいのですが!? う、うあーん! パパー! ママー!」
こうしてスパイダーワッは雪ノ下に引きずられていった。
いやほんと、毎度毎度雪ノ下をつつくことに関してはプロ級である。
悲しいのは、それが狙ってやっているわけじゃないことな。
「さて。それでは先輩、結衣先輩。雪ノ下先輩だけだといきすぎた説教になっちゃうかもなので、わたしが様子を見てきますね?」
「……おう。そっちのミニケトル、お茶入ってるから持ってけ。外に出てのんびり会話するには、まだ寒いだろ」
「さっすが先輩、妙なところで気が利きますねー。あ、それじゃあお礼といってはなんですが。……ちゃんすですよ結衣先輩っ、存分に甘えてくださいねっ」
「え……やっ、ななななに言ってんのいろはちゃっ───」
「いまさら恥ずかしがることじゃないでしょー? 今日のための準備で忙しかったですし、存分に甘えてくださいってことで。あ、じゃあ先輩? お茶、ありがたくもらっていきますねー!」
「ちょ、いろはちゃん!? いろはちゃーーーん!?」
うふふふふと謎の笑いを残しつつ、一色はてこてこと奥へと消えた。
で……ぽつんと残される俺と結衣。
「あ、あはは……やー……なんか、えと。まだ慣れないね、こーゆーの」
「慣れなくていいだろ、こういうのは。その方がなんつーか安心できる」
「そっかな。……そっか」
カショッ、と椅子を持ち上げて、てこてこと歩いてくる。
下す場所は俺の隣。
そこに座り、腕に抱き着いて、静かに体重をかけてくる。
こんな距離が、心地良い。
「はー……なんか、ヒッキーってもうヒッキーっていうかコーヒーのにおいがするよね」
「俺から俺のにおいが消えたって、ちょっと怖いな」
「休みの日とかはいつものヒッキーのにおいだけど。……いっつも頑張ってくれて……ありがと。あなた」
「……おう。おまえも、昔っからありがとな」
「うん」
「おう」
抱き着いてきている結衣の髪をさらさらと撫でる。
この歳になって、なんて言葉は無粋だ。
俺達は俺達の自然で生きていく。大多数に向ける当然なんてものは、俺達にとっては不自然だ。
楽しけりゃそれでいい、なんて胸張れる歳でもないが……それでも、どうせだったら楽しくありたい。楽しければなんでもいいのではなく、選んだ先が幸福でありますようにと願うよう、俺達もまた───ってな。
「恵方巻、美味かった。ごっそさん」
「うん」
「豆も焦げてなかったしな」
「さすがにもう焦がすとかはしないってば」
「勉強も出来るようになったし、スタイルもいいし性格も良し。振り返ってみれば、お前に好きになってもらえるとか、すごい確率だよな……」
「えへー……♪」
腕からずるずると崩れていき、ぽてりと俺の足の上に上半身を寝かせる。
そのまま頭を撫でたり顔を撫でると、くすぐったそうにふるりと震えた。
「ん……眠いか?」
「ちょっとだけ」
「まあ、ちょっと忙しかったもんな。うし、寝ていいぞ? 部屋まで運んでやる」
「……うん」
慌てることこそしないが、結衣は顔を赤らめた。
そんな妻を見つめながら、よっと横抱きにすると歩き出す。
「えと……ヒッキー?」
「ん、どした?」
「恵方巻のお願いね? ヒッキーじゃなきゃ出来ないこと頼んじゃったんだけど……やってくれるかな」
「離婚しろとかじゃなければ大体大丈夫だぞ」
「それ言ったらあたし泣いちゃうからやめて」
「お、おう……すまん。笑えない冗談だったな」
「ん。ほんとだ。気をつけてよね、もう。ほんとそういうところって変わんないんだから。……ばか」
「……おう。で……なにをしてほしいって?」
扉を開け、寝室へ。
ゆっくりと結衣をベッドに下すと、その結衣が顔を赤らめたまま、きゅっと俺の服を撮む。
「えっとさ。今日はヒッキーの膝で眠りたいなーって。……久しぶりにね? サブレの夢……見たから」
「……そか」
「ほら、サブレさ、ヒッキーの傍とかでよくおなか見せたりして……膝に乗っけるとすぐ寝たし、だから……《ぐすっ》」
「……結衣。大丈夫だから。拒んだりしないから、遠慮なく甘えろ。ほら」
ベッドにきしりと座って、左足を斜めに伸ばし、右足を軽く曲げ、横から見れば数字の“7”のような姿勢を取る。
そこに結衣を招き、曲げた右足に頭を乗せて、体も左足の外側に飛び出ないように体を丸め、サブレがそうしたみたいに……息を整えた。
「………」
少しすると寝息を立て始めた結衣を、やさしくやさしく撫でてやる。
平気な顔して、辛いことがあっても我慢していつも通りで接してくれる“家族”に感謝。
“水臭いな”とは思うが、言われたところでどうしようもないのが情けない。
「……ごしゅじんさまを守ってやってくれな。夢の中までは、守ってやれねぇから」
ぽしょりと呟く。
しばらくすると、んん……と身じろぎをする結衣だったが、起きるということもなく。
ただ、かつてのペットの名前を呼ぶと、目尻から涙をこぼし、震えた。
……どうやら、夢の中で会えているらしい。
律儀にお願い聞いてくれるとか、最高だな、まったく。
「……ありがとうな。ほんとお前、ペットの鑑だわ」
ご主人様威嚇してばっかだったけどな。
あんだけ泣いたんだ……きっと幸せだったろうさ。
だから……どうかこいつが目覚める最後まで、やさしい夢を見させてやってくれな。
勝手な願いばっかを押しつけ、いつしか俺も……体を曲げながら、眠った。
苦しい姿勢で寝たからかどうかは知らんけど、見た夢はそのー……明晰夢? ってやつで。夢って解っていながら、起きるのがもったいねぇなって思える、いわゆる幸せな夢ってやつだった。
夢の中では結衣がサブレと遊んでいて、それに俺も巻き込まれるなんて、なんとも普通な夢。
そのくせ……二度と叶うことがない夢だから、ひどく大切で、幸せで。
だからこそ、目覚めた時にもただただ普通に目を覚まして、一緒に目覚めた結衣が、泣きながら「会いにきてくれた」って言うのを……抱き締め、ただ受け止めた。
ほれ。やっぱり、なんもしてねぇ鬼に豆を投げる、なんてしないほうがいいだろ。
どこぞの河原の番人が気ぃ利かせて、うろついてた犬を少しだけ連れてきてくれたとか考えれば、なんでもない夢にだって涙にだって、たくさんの理由がつけられる。
それが偶然なんだとしても、学生時代の俺なら“くだらない”って鼻で一言で片づけるようなことなんだとしても、一緒に歩いて、大切だって思えた時間があったら、考え方だって変わるもんだ。
だから、ほら。あれだ。
ぼっちだった野郎の礼なんざ欲しくねぇだろうけど。
あんがとさん。
嫌いじゃなかったら、今度同じ“豆”ってことで、コーヒーでも用意しとくわ。
炒り豆苦手なんだっけ? 煎り豆なら平気かね。
そんなことを考えながら、また“今日”を始めた。
いつもより張り切る嫁さん見つめながら、同棲を始めた頃よりも足元が寂しい今を思って。
「パパ、今日も張り切っていきましょう! ママに負けてられません!」
「お前のテンションで頑張ったら途中で力尽きるわ」
まあ……そうな。
足元は寂しいけど、周りはそれ以上にうるさいから、寂しい思いなんてさせてやらねぇよ。
だから、俺なんぞに懐いてくれたお前にも。
……───ああ。あんがとさん。