狼と少女の物語   作:くらいさおら

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第1話

 その日、彼は緊張の極致にあった。

 県庁にいくつかある会議室のひとつに、彼は同僚と二人で座っていた。

 

 隣の部屋ではプレゼンが行われている。

 彼のプレゼンは次。時間にしてあと15分後。

 ある公共施設の指定管理者選定のためのコンペだ。

 同僚に一言断り、彼はそそくさとトイレに立った。

 用を済ませ、鏡の前に立ち手櫛で髪を整える。

 

 あと5分。

 鏡に背を向け、歩き出した瞬間。

 鏡の表面が滴を落とされた水面のように、王冠型の盛り上がりを作り、彼を飲み込んだ。

 

 真っ暗な中、細いチューブの中をゆっくりと滑り降りるような感覚にとらわれていた彼は、しびれたような頭でコンペのことを考えていた。

 このプレゼンで、彼と彼の所属する会社の運命が決まってしまう。

 

 選定から漏れたら、彼の会社に未来は無い。

 近い将来、良くて会社更生法の申請。大胆なリストラ付き。プレゼンで下手を打った者がどうなるか、言うまでも無い。

 悪ければ倒産だろう。そしてこの可能性のほうが高い。

 

 この地方では、なまじ規模があるだけに彼の会社が倒れたら連鎖が起きる。

 

 いきなり消えちゃって、敵前逃亡だと思われているだろうな、と考えたとき、チューブの先に光が見え、人影がいくつか見えたと思った瞬間、彼の下からチューブの感覚が消えた。

 チューブから吐き出され、その人影の前に放り出されると思った彼は、受身の姿勢をとる。

 突然視界が真っ暗になり、垂直に落ち始める感覚に襲われ、彼の意識は消失した。

 

 

 石壁に囲まれた部屋の中で、壮年の男が肩を落とす。

 しばらくの間、身じろぎもできずにいた。

 

 同世代の男たちが二人、10代前半と思われる少女がひとり、その男を背後から見下ろしている。

 非難がましい視線と労わるような視線、落胆の視線が注がれる中、男はようやく立ち上がった。

 そして、少女に向かって片膝を突き、頭を垂れ、言葉を紡ぎ始める。

 

「王女様、申し訳ございません。わたくしの力では召喚の呪文は完成できぬ様子。いま少しのところで魔力が途切れたようでございます」

 落胆の視線を送る少女に男は続ける。

 

「しかし、影までは見えてございます。この場にこそ召喚はできませんでしたが、この世のどこかに落ちているはずでございます」

 王女と呼ばれた少女が答える前に、非難がましい視線を送る男から、嘲りと怒りの言葉が投げつけられる。

 

「さんざんに勇者召喚などと期待させておいて、このざまか、宮廷魔術師」

 さらに言い募ろうとする男を、労わるような視線の男が遮る。

 

「残念ではありますが、いまだ誰も完成させていない、いや、思いつきもしなかったことです。頭ごなしに貶めることはありますまい、騎士団長?」

 

「そうはおっしゃるが、宰相。今まで掛けた金と時間が虚しく消えたのですぞ。金はまた民から集めればすみますが、時間は取り戻せぬのです。次は捜索に金と時間をつぎ込むと? こうしている間にも……」

 

 騎士団長と呼ばれた男は宮廷魔術師と呼んだ男にさらに言い募ろうとするが、少女の言葉がそれを止めた。

 

「騎士団長、宰相、おやめなさい。騎士団長が言うとおり、今は時間がありません。失敗を責めているときではないのです。即刻勇者の捜索隊を。そして今後どうすれば良いのか、対応を考えましょう」

 

「はっ。申し訳ございません、王女様。捜索隊をすぐにでも」

 

「では、軍議の招集を、すぐ」

 騎士団長と宰相が答え、王女が頷き部屋を出る。

 

 宮廷魔術師から伝えられた情報を基に、捜索隊は国内はいうに及ばず、大陸全土に散った。

 が、勇者の消息は伝えられないまま、10年の歳月が流れた。

 

 

 彼には8歳以前の記憶が無かった。

 正確には8歳くらい、ということで、いつ生まれたのかが判らないため、外見からそう判断されていた。

 

 気付いたときには、小さな村の前に立っていた。

 名前も覚えていない。家族の顔も、言葉も解らない。

 不安という気持ちだけを抱えて、彼は立ち尽くしていた。

 幸いなことに、通りすがった三人家族に拾われた。

 

 両親は何事も無かったかのように通り過ぎようとしたが、彼より少し年上に見えた少女は、子供特有の正義感から彼を放ってはおけなかった。

 両親は、捨て置くように少女に言い渡し、強引に彼女の手を引いて家路についた。

 

 その理由は言わなくても解るだろう。

 生活が決して楽ではないこと、彼の素性がまったく解らない上、言葉すら解さないこと、他にもいろいろあるが、それが主な理由だった。

 

 しかし、と両親は思う。

 この時代、親の庇護下にあってすら人買いに攫われ、奴隷として売買される子供は後を絶たなかった。

 その家族が住む村でも借金や食料不足といった理由から売り払われた子供や、遊びに出たまま帰らなかった子供は、一人や二人ではない。

 

 そして彼は、それなりに整った顔立ちをしていた。

  このまま見捨てれば、彼を待つ運命は大して選択肢の多いものではない。

 誰にも省みられず餓死するか、森に迷い込み、そこに住む獣や魔物に跡形も無く喰い尽くされるか、奴隷として売られるか、だ。

 

 奴隷として売られた場合、過酷な労働に就けるならまだましだろう。

 男色の餌食にされ、飽きれば転売。幾年かのうちに正気を失い狂死するだけだ。

 言葉すら解さないのであれば、尚のこと生きていられる時間は少ないことは火を見るよりは明らかだ。

 

 まだ世間を知らない少女だが、このまま放っておけば彼が死んでしまうことはなんとなく解った。

 彼女の両親は、しょうがないことだとは理解できていたが、彼女に負い目は負わせたくないとも考えていた。

 

 ほんのちょっとした偶然で、少年は家族を得ることになった。

 両親はふたりを分け隔てなく愛し、姉弟として育てた。

 

 家族や村人から言葉や一般常識、その村に駐屯する騎士団から身を守る術を学び、10年過ごすうちに彼はどこにでもいる普通の少年として育っていた。

 

 背中に文字のような痣があることと、時折誰も思いもつかなかった方法で暮らしを良くする方法を言い出すこと、夜中に突然姿を消すことを除いて。


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