狼と少女の物語   作:くらいさおら

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第14話

 「がっ……はっ……げぶっ……」

 人通りが途絶えた薄暗い裏通りの一角に、若い男の呻き声が響いた。

 ロングコートを纏い、フードを目深に被った男の足下にうずくまった若者が、苦悶の表情で胃液をまき散らしている。

 

「どうした、やり返さねぇのか……?」

 男が低い声で問いかけるが、若者はうずくまったままだ。

 

 

「いきなり……なん……で……?」

 アービィは、掠れた声で問いかけた。

 

「質問に質問で返すんじゃねぇ……」

 男は、ようやく上体を起こしたアービィの顔面に、膝を入れる。

 吹っ飛んだアービィの胸座を左手で掴んで引きずり起こし、腰から短刀を抜いた。

 

「獣化しろよ、人狼。俺には解るんだよ、お前等の獣臭がな」

 短刀をアービィの頬に当て、軽く引く。

 アービィの頬に一筋傷が入り、鮮血が滴り始めた。

 

「どうだい、お前等のために作った純銀の剣の味は?早く獣化してくれねぇか?早く、早く、早く、早くっ!!人の姿のままじゃ切り刻めねぇだろがぁっ!!」

 

 

 クリプトから護衛の依頼を受けた翌日、夕方から大通りに市が立つと聞いたアービィたち三人は、仕事を早めに切り上げ市を見にきていた。

 屋台で以前買ったことのある串焼きや果物を買い、齧りつつ歩きながらアクセサリーや小物を眺め、初めての市を楽しんでいた。

 が、普段から人混みになれていないせいか、アービィたちは人波のなかで翻弄されていた。

 アービィは、僅かの間にルティとティアの姿を見失っていた。

 

 その人混みの中でいきなり腕を引かれ、裏通りに引きずり込まれたアービィは、態勢を整える暇もなく顔面に拳を受けてしまった。

 そして、呆然とするアービィに、男が言い放った。

 

「死ねや、人狼今まで何人喰らいやがった?」

 

 

 ようやく体勢を立て直したアービィは、男の問いかけに棒立ちになり、胃の辺りに膝を入れられ、うずくまったまま胃液を吐き散らしてしていた。

 胸座を掴まれ、壁に押し付けられたアービィは、力なく男の目を見た。

 そこには信念と怒りを湛えた、しかし静かな、涼やかな双眸がある。

 

 ああ、このひとは正義だ。

 一点の曇りもなく、正しく、正義だ。

 正義に拠って立つひとだ。

 

 戦いの始めにあった戸惑いや、理不尽な暴力に対する怒りは消えてしまう。

 既にアービィに戦意はなく、どうやって戦いを避けるかしか頭にない。

 胸座を掴んでいる男の腕を取り、振り解こうとするが、自分の腕は痺れていて力が入らない。

 

「ちっ……情けねぇ屑め。そうまでして生きたいか……」

 男は短刀を鞘に戻し、胸座を掴んだ腕を放し、アービィの喉元を締め上げた。

 そして、右腕を振り上げると、アービィの顔に拳を、肘を撃ち下ろし始める。

 

「覚えとけよ……てめぇからは完全な狼の匂いが溢れまくってんだ……。これじゃぁ……つまらねぇだろ……。次は獣化して全力できやがれ……。そしたら……殺してやるよ」

 アービィは既に反応できない。

 咳き込み、呻き声を上げるだけで、男の腕を掴んだ手からは力が抜け始め、殴られるままになってしまっている。

 

 男の鉄拳の嵐は、左腕を掴んだアービィの両腕が、力なく垂れ下がるまで続いた。

 男が手を離すと、アービィはその場に崩れ落ち、ぴくりとも動かない。

 唾を吐き、男は去っていった。

 

 

 それから一時間ほどで、アービィは意識を取り戻した。

 殴られ蹴られして破れた皮膚は既に塞がり、打撲の腫れも引いている。

 暴行のダメージは、ほとんどない。

 人狼の回復力が発揮された結果だ。

 

 しかし、出血こそ止まったが、頬には一筋の傷がぱっくりと開いている。

 人狼の回復力を以てしても、純銀の武器で付けられた傷は治りが遅い。

 ルティたちに、なんて言えばいいか判らないまま、宿への道をアービィは歩き出した。

 

 

 アービィとはぐれたルティとティアは、暫くアービィを探していたが、あまりの人混みに途方にくれていた。

 この状態で二手に分かれて探しても、三人して迷子になるのと同じことだ。

 

 諦めた二人は、とりあえず楽しむことにして、市に並ぶ屋台を覗き始めた。

 一時間ほどして宿に戻ると、アービィも前後して戻ったようだ。

 ルティは文句のひとつも言ってやろうと、アービィの部屋のドアをたたく。

 

 いつもなら、元気良く返事をしながら飛び出してくるアービィが、黙ってドアを開けた。

 思い詰めたような顔には一筋の傷があり、何かがあったことを偲ばせていた。

 

 文句を言おうと口を開いたままで固まるルティの腕を、雰囲気を察したティアが引っ張る。

 心配そうにルティが、アービィの目を覗き込んだ。

 アービィの目は、初めてルティに人狼であることを知られた夜と同じ色を湛えていた。

 

 独りにさせておいて欲しい、とようやく口を開いたアービィに、何かを言おうとしたが、上手い言葉が見つからないルティは小さく頷くだけしかできない。

 見かねたティアが、おやすみ、ちゃんと寝るんだよ、ルティもね、と言いながらルティを部屋に押し込み、自分も部屋に帰る。

 三人が出逢ってから初めて、会話のない夜が過ぎていった。

 

 

「神父殿、今度は大物だ。楽しませてくれそうな狼と蛇だぜ」

 城下町の貧民街にあるマ教会の一室で、ロングコートの男と神父が対峙している。

 

「もう仕止めなさったか?」

 あまり派手にはしてくださるな、と神父は思うが、言って聞く相手ではないことは承知のうえで、付け加えずにはいられない。

 

「いや、今夜狼は捕まえたが、放してある。蛇は狼の後だ。オマケみてぇなもんだな」

 精々気を付けるさ、と気にもしていない。

 

「何故、捕まえなさったのに、殺らずにお放しになど!?」

 神父が色めき立つ。街に人狼がいることに我慢がならないようだ。

 

「つまらねぇからだよ。獣化してくれねぇんだ。張り合いがねぇだろ。なぁ、神父殿、仕事ってのはやりがいがあって楽しくやらなきゃいけねぇよな? ま。そういうこった」

 男は、まだ何か言いたそうな神父を残して部屋を出る。

 閉じていくドアの隙間から、あれは俺の獲物だ、神父殿たちは手を出さないでくれ、という男の声が聞こえてきた。

 

 

 アービィは、真っ暗な部屋の中で、身動ぎもせず闇を見つめていた。

 隠していた正体がバレた。

 明確な殺意を向けられた。

 

 あの状態から即獣化して相手を噛み裂くなど、アービィにしてみれば造作もないことだった。

 しかし、男の目を見た瞬間、闘気が失せてしまった。

 それと同時に相手の殺意が消えたことも、獣化できなかった理由だ。

 

 あの人の目は正義だった。

 あの人は何の疑問も持ってなかった。

 人狼を『討伐』する。その意志に溢れた力強い目だった。

 僕らが魔獣を討伐するのと、同じ。

 

 僕は居てはいけないの?

 穏やかに暮らしたいと人狼が思っちゃいけないの?

 人を喰らってなんかいないよ?

 人狼ってだけで……生きてちゃ……ダメなの?

 

 アービィの目から涙が止めどなく溢れる。こんな僕じゃルティを守れないよ。

 考えれば考えるほど、アービィは全てが解らなくなってきた。

 

 ドアが開いて室内に冷たい空気が流れ込む。ルティが部屋に入ってきた。鍵を掛け忘れていたらしい。

 見るとルティも泣いていたようだ。

 ベッドに並んで座り、アービィに向かって口を開く。

 

「ねぇ、アービィ……あたしには、あなたの辛さは解らない。なんて言ってあげればいいかも。今日何があったかは聞かないわ。聞いて欲しくないでしょ? それくらいは、解るよ。ねぇ、あなた泣いてたでしょ? あの夜以来じゃない? いつも我慢してたの?いいのよ、泣いても。あたしの前で、そんな我慢しないで」

 一瞬、躊躇った後言葉を続けた。

 

「お姉ちゃんは、それじゃ寂しいよ?」

 はっと目を見開いてルティを見る。

 ルティがこくんと頷き、揃えた膝を掌てぽんぽんと叩く。

 

 アービィは、ルティの膝に顔を埋め、声を殺して泣き続けた。


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