狼と少女の物語   作:くらいさおら

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第35話

 城門の前で取り次ぎを待つ間、衛兵が彼らを見る目は、とても友好的とはいえないものだった。

 それはそうだ。

 ほとんど喧嘩を売りに来たようなものだ。

 

 衛兵にこちらの雰囲気が伝わっているのだろう。

 主に、近寄るもの全てに噛みつこうとする、狂犬のようなルティによって。

 

 やがて取り次ぎに走った衛兵が、この国の文官の制服を纏った若い男を連れてくる。

 その慇懃な態度の男に案内され、アービィたちは城内の一室に通された。

 

 

「なんて言って断るつもりなの?」

 何か穏便に事を納める秘策でもあるのかと、ルティはアービィに聞いた。

 

「ないよ。ただ、文句を言ってやりたいだけだよ。勝手に決めるなって」

 事も無げにアービィが答える。

 

 ルティの脳裏には、思い通りに事が運ばず怒り狂った姫に命じられて襲いかかる兵を片端から噛み裂く獣化したアービィの姿や、追っ手を逃れ人目を避けて二人で暮らすがすぐに見つかり手に手を取っての逃避行の場面が、走馬燈のように過ぎっていた。逃避行……きゃーっ。

 

 顔を真っ赤にして怒鳴ろうとしたルティをティアが押し留める。

 

「はいはい、大きな声出さない。どこで誰が何聞いてるか、分かったもんじゃないんだから」

 アービィにちらりと視線を投げてから、天井の一角を睨み据える。

 ティアが視線を投げたとき、アービィは既に天井に目を向けていた。

 

「そうだよ、ルティ。リムノ、降りてくれば? 堂々と聞けばいいよ」

 

 

 リムノは驚愕していた。

 完全に気配は殺していたはずなのに、一度ならず二度までも。

 

 今度はアービィだけでなく、ティアにも気付かれた。

 リムノは無言で下に降りた。

 

 

「僕たちの様子を窺って、靡きそうなら謁見、靡きそうもないなら懐柔しにくるつもりだった? 今夜にでも、君は僕に抱かれに来るんじゃない? 違う?」

 その通りだった。

 リムノはアービィの言葉に無言で肯く。

 

「悪いけど、僕は君を抱かない。そんな無駄なことはしないで。僕は文句を言いに来たんだ。勝手に連れてくるな。人の気も知らないで勝手に決めるなってね」

 ドーンレットから受けていた命令は、四人の動向や会話を探り、懐柔工作の必要性を確かめることだった。

 もし、懐柔工作が必要であれば、リムノをアービィ専属の女にする予定だった。

 

 リムノは密偵として、情報を得るためや、特定の人物をこちらに寝返らせるために、自らの身体を贄に供することに、躊躇いはない。

 そのために性の技も研いてきたし、容姿にも自信があった。

 

 今まで、男色家や年齢に関わる特殊性癖の持ち主以外で、籠絡できなかった男はいない。

 今回もそうするつもりだった。

 

「何考えてるのよ!! そんなことしたら許さないんだからぁっ!! リムノとは……リムノは……友達にもなれるような人だと思ってたのに……なんで……? なんで……あたしたちを…放っておいてくれないの?」

 リムノは、ルティの口から、いつ北の民に関わる罵倒を投げつけられるかと、思っていた。

 しかし、泣き出してしまっても、ルティからついにその言葉は聞かれなかった。

 

 

「リムノ、僕たちはどこか一つの国の道具にはならないよ。何をしてきても無駄だから。ドーンレッドさんに言ってきてよ。早く姫様に会わせろって」

 リムノはアービィの言葉に突き飛ばされ、ドアから部屋を出ていった。

 

 どんな方法で迫っても、彼は彼女に指一本触れることはない。

 この国に靡くことも、ない。

 それが判る。

 

 なぜかアービィの言葉は、素直に彼女の心に入ってきた。

 リムノは気付いていない。

 二人は連れ去られた元が北の大陸か異世界というだけの違いで、同じ境遇に置かれていることを。

 それ故に、リムノはアービィの言葉には、納得できてしまうのだ。

 

 リムノは思う。

 あの三人の南の住人は、一言半句たりとも北の民を貶め、蔑み、差別するようなことは言っていない。

 泣き崩れるほどの怒りに震えたルティですら、リムノを北の民だからと罵りはしなかった。

 

 初めて自分を人として接してくれた南の住人の前に、刃を持って立たなければならない極めて近い未来に、リムノは溜息を吐くばかりだった。

 リムノは、使役されるようになって以来初めて、ドーンレットに虚偽の報告をした。

 

 謁見は、翌日の朝の政務が一段落したらすぐ行うと、決定された。

 一刻も早くここを出たいアービィたちだが、この国の庶民たちにも生活がある。

 庶民の生活に必要な種々のことは、政務で決められている。

 

 政務の混乱は、庶民の生活の混乱に繋がる。

 間違いなく、謁見を先にすれば、その後の政務は大混乱だろう。

 

 この国の首脳部に恨みはあるが、それ以外の政務官や国民そのものに含むところはない。

 必要以上に迷惑を掛けることは、さすがに気が引けた。

 

 その夜、アービィの部屋のドアを叩く者がいた。

 城に到着した際に案内に立った、慇懃な態度の男だった。

 彼は宰相コリンボーサの配下の者で、アービィを執務室まで連れてくるよう命じられていた。

 

 アービィは、宰相の部屋へ案内された。

 城内の廊下を歩く間、彼の視線は好意的なものではなかった。

 嫉妬、値踏み、好からぬ企み。そんなものを内に秘めた視線。

 

 宰相はこの若者を自分より高い地位に取り立てようとしている。その嫉妬。

 こんなどこの馬の骨とも知れぬ者に、どのような能力があるのか。その値踏み。

 そして、どうやってこの若者の足を引っ張り、地に引き落としてやろうか。その好からぬ企み。

 宰相は、予想の遙か斜め上を行く待遇を、アービィに用意して待っていた。

 

 

「ようこそ、アルギール城へお越し下さった。ま、楽にされよ。私がこの国の宰相を努めるコリンボーサだ。明日は摂政殿下へのお目見えだが、どうかね、緊張はしていないかね?」

 アービィが言われるままに部屋に入ると、コリンボーサは満面の笑みで出迎えた。

 

「いえ、大丈夫です、閣下。しかし、僕のような下賎の者が、そのような方の御前に出て良いものなのでしょうか?」

 アービィは、コリンボーサの笑顔は、決して善意や好意からのものではないことを、入室した瞬間に見抜いていた。

 

 アービィを道具に、王女の歓心を買おうという企みが見て取れる。

 彼は自分に人望がないことを無意識に自覚していた。王女を後ろ盾にすることでしか手にすることのできない、権力への渇望だ。

 

「いや、あなたは充分その資格をお持ちだ。慎み深いところも、さすが勇者といったところかな」

 そこから暫くは、歯の浮くような褒め言葉をコリンボーサは並べ立てた。

 そして、これからが本題だと言うように、崩れた姿勢を直す。

 

「ドーンレッド殿があなたを見出し、その手の者がここまでご案内させていただいたようだが、ラシアスに仕官するに当たっての話などはされたかな?」

 要は懐柔か、とアービィは心の中だけで呟き、そういえば騎士に取り立てることも可能だと言われましたね、と隠すことなく答えた。

 

「なんと! それは誠か? ああ、なんという恥知らず。やはり、彼ではそれが精一杯か。いや、これは大変な失礼をしたようだ」

 彼には権限というものがありませんからな、と自らの権力を誇示しコリンボーサは続ける。

 

「いやしくも勇者殿を騎士などと、ふざけた振る舞い成り代わりお詫びする。私はあなたを子爵への叙爵を約束しよう。今後の働き如何では伯爵も夢ではなかろう」

 侯爵くらいくれてやってもよい、と彼は考えている。

 もちろん、まだアービィが本物の勇者であると確認できているわけではなく、侯爵はその後だ。

 もし、後日、本物が現れれば、子爵程度を取り潰すなど造作もないことだ。

 

「僕は、皆さんが仰るような、勇者などというような、大層な者ではありません。一介の冒険者です。そのような者に爵位など……鼎の軽重を問われるようなことは、なさらないほうが……」

 皆まで言わせずコリンボーサが言葉を被せる。

 

「いや、ご謙遜を。ヒドラ殺しに化け物退治の英雄と、勇名は轟いていますぞ」

 それから暫くは他愛のない話題に終始したが、明日の謁見をお楽しみに、という一言でコリンボーサとの対面は終了した。

 

 そこから部屋まで、再度案内についた男は、アービィの待遇は精々武官程度と思っていたのだろう、それがいきなり子爵様ときて、彼の機嫌を損ねないように細心の注意を払っていた。

 アービィは苦笑いしつつ、あなたが心配するようなことはしませんよ、お気になさらず、とドアを閉め、やっぱり謁見は政務の後で正解だなと考えていた。

 

 

 深夜、気配に目を覚ましたアービィは、部屋の照明を灯した。

 

「無駄なことはしないでって言ったはずだよ」

 天井に向かって言い放つ。

 音もなく降りてきたリムノは、湯浴み着のような紗一枚を纏っているだけだ。

 

「何しに来たの?」

 

「無駄かどうかは、私が決めるわ」

 照明のせいか、身体のラインがはっきり影になって見える。

 紗は、脱がすまでもなく、破ろうと思えば簡単に引き裂ける拵えになっている。

 

 この状態で自ら紗を引き裂き、大声でも出されたら、既成事実のできあがりだ。

 まず、間違いなく、明日の朝日は拝めない。

 生きたまま地獄とやらに放り込まれるだろう。ルティの手で。

 

 そのことは別にしても、リムノの行動は意味をなしていない。

 アービィは、リムノの仕事故、意義があるなら彼女が自らの決断で身体を開くことを、全否定するつもりはない。

 ベルテロイからここまで、一緒に旅をするなかで、朧気ながら彼女の仕事について、理解できる範囲で理解したつもりだった。

 

「君の仕事は理解してるつもりだよ、リムノ。でも、ルティが何で泣いたか分かるかい? 僕をどうこうってことじゃないと思うんだ。リムノには、自分を大事に――」

 

「綺麗事だけで生きていけるとでも思ってるの!? 私は……私はこうするしかないの!! ドーンレッド様の役に立つしか、生きる術がないのよ!!あなたが私を抱かなくても、命令があれば誰かに抱かれに行くわ。いまさら心配されたって……あなた方の自己満足よ!!」

 解ってる。

 確かに今更だ、とアービィは思ったが、言わずにはいられなかった。

 自己満足だとしても。

 

「少なくとも、僕たちはそう思ってる。大事にして欲しいんだ。ルティだって判ってるさ。そういう奴らがいるって解って欲しいんだ。それに僕が――」

 

「そういうこと、か。本当にあなたたちって、お目出度い人たちね。いいわ、引き下がってあげる。あそこにいる彼女を、これ以上泣かせたくないからね」

 ドアの方を見ると、目に涙を一杯に湛えたルティが、静かに立っていた。

 

「また、一緒に旅ができると……ね」

 リムノはそう言い残して部屋を出た。

 

 

「上出来よ、アービィ。お説教は勘弁して上げるわ」

 ルティは、涙が今にもこぼれそうになっているにも拘わらず、笑みを浮かべて言った。

 

「なんでだよ。リムノは何もしてないじゃないか」

 

「あたし以外の女と……二人で部屋にいたからよ」

 涙を拭いたルティが悔しそうに言う。

 

 明日は謁見ぎりぎりまで寝ていたいね、とルティは言って部屋を出る。

 ドアが閉まる寸前、どちらからともなく、一緒に、と言う言葉がこぼれた。

 一瞬だけドアの動きが止まったが、再びドアが開けられることはなかった。

 

 

 謁見の間は、異様な熱気と静けさに包まれていた。

 登城と毎日の王家への謁見が許されている貴族の内、現在王都に住まう者たち全てが集まっていた。

 摂政ニムファ第一王女が玉座に着き、宰相、内務卿、外務卿、財務卿等の主要閣僚が左右を固める。

 

 誰もが、10年前に異世界から召喚されたという勇者を、その目で確かめてやろうと固唾を飲んでいた。

 居並ぶ目は、値踏みや疑いの色に染まっている。

 

 10年間結果を出せず、少なくない国家予算を浪費した宮廷魔術師の窮余の一策、つまり替え玉か、どこかで噂を聞きつけた山師の成りすましか。

 大方の見方は、この二点だ。

 

 その他にも本物ではあろうが、果たして言うほどの能力をもっているのか見極めようとしている者、如何にして自分の派閥に取り込むか思案する者、興味だけで見ている者、極一部に召集だからと来て早く帰りたいと思っている者がいた。

 

 

 やがて定刻になり、一人の若者が謁見の間に召し出された。

 飛び抜けて長身ではないが、実用的な筋肉に包まれていると一目で判る体格の男。

 少し伸びた灰色の髪は、耳を半分ほど覆っているが、不潔さは微塵も感じられず、旅を日常とする冒険者の精悍さを醸し出している。

 切れ長の目元に髪と同色の瞳は、権力に対しても理不尽を感じれば戦うことを厭わないであろう強い意志を窺わせる。

 美丈夫と言って良い顔立ちには、僅かにあどけなさも感じられ、それが近寄りがたい雰囲気を和らげていた。

 摂政の前に進むと、片膝を着き、頭を垂れた。

 

 ニムファは、今までの長い年月を思っていた。

 漸く手に入れた勇者。

 ラシアスの救世主。

 

 ニムファはこの力を使い、南大陸はおろか北大陸までを統一し、後世の歴史家から『誰も成し遂げることができなかった両大陸の覇者』と書き記されることを夢想している。

 手始めに、召喚の建前にした魔王と呼んでいる北大陸の奥地に蟠踞する蛮族を討伐し、次第に南下しながら北の大陸を制覇する。

 南大陸の安全を保障したという実績と、勇者という兵器を背景に、南大陸の三ヶ国を従わせ、何れは滅ぼしニムファの帝国を築く第一歩を、今踏み出すのだ。

 

 

「顔をお見せください、勇者殿。」

 たっぷりと時間を掛け、勿体をつけてからニムファはアービィに声を掛けた。

 

 アービィは顔を上げ、ニムファを見た。

 美しい女性だが、折角の美貌が欲にまみれている。

 無惨、それがアービィの感想だった。

 普通に見れば飲み込まれそうな美貌とカリスマ性があるのだろうが、視線の持つ全てを従えさせたいという欲求が台無しにしていた。

 

「よくぞ、我が国へお戻りくださいました。私は10年の長きに渡り、勇者殿をお待ちしていました。さぁ、早くその証拠である紋章をお見せください」

 アービィは片肌を脱いで右の肩胛骨あたりが見えるように、ニムファに背を向ける。

 ドーンレッドが得意満面で、魔法陣から写し取った刻印と照合し、主要閣僚が順次確認する。

 

「間違いありません、勇者殿。さあ、これでラシアスは救われます。共に手を取り世界を。宰相からの上奏通り、子爵に叙しましょう。受けて、いただけますね?」

 アービィは、服を直し、威儀を正してニムファに向かい、口を開いた。

 

「お断りします」

 

 

 謁見の間にどよめきが広がった。

 まさか、叙爵を断る平民がいるとは、彼ら貴族の想像の埒外だった。

 無礼者、身の程知らず、傲岸不遜な輩といった罵声が飛び交う中、ニムファが片手を挙げ、騒ぎを鎮める。

 

「なぜ、です? 平民が騎士を超え子爵に叙せられるのです。どこの国でも、これほどの待遇は考えられません。何が不満かお聞かせ願えませんか?」

 さすが一国を率いるだけのことはある。

 慌てふためき怒りに身を任せる有象無象とは違い、声を荒げることも、言葉を崩すこともない。

 

「まず第一に、勝手に、断りもなく僕の生活を叩き壊して、何の謝罪もない。それで従えと言われて従う者がどこにおりましょう。第二。魔王とやらが世界を脅かしているなら、それを倒すのは良しとしましょう。ですが、なぜ、世界がではなく、ラシアスが救われたと仰るのですか? なぜ、『世界に平和を』ではなく、『世界を』なのですか?」

 アービィの問いの前半は、極当たり前のことだが、選民思想に凝り固まっている貴族や王族には理解しがたいものがあった。

 

「勇者殿が異世界で如何なる生活をしていたかは存じませんが、平民が叙爵されるなど、望外の名誉と思いますが?」

 さも心外だと言わんばかりにニムファは答えた。

 

「僕のいた世界では、貴族など、何の役にも立たない過去の遺物でしかありません。百年以上も昔にその役目を終え、今ではただの名誉称号で、特権など何もありません。そのようなものにされたからといって、僕は少しも嬉しくないっ!」

 謁見の間は水を打ったように静まりかえる。

 全ての価値観を全否定されたのだ。

 アービィは続けた。

 

「この世界では確かに名誉でしょう。それは否定しません。必要な統治方法であることも解ります。いきなり民主主義と言っても、愚衆政治になるのが落ちですから。貴族の世は、まだ数百年は続くでしょう。ですが、民を民と思わず、牛馬の如くこき使い、その命を蔑ろにすることが貴族の振る舞いというのであれば、僕はそんな人間ではありたくない!!」

 ニムファや貴族たちは圧倒され言葉もない。

 

「ラシアスが救われるのは、何からなのです? 世界をどうするのです? もし僕に力があって魔王を倒したら、次は何を? 僕はあなたの、世界征服のための道具にはなりません。僕は愛する人と穏やかに暮らしたいだけです。もし、魔王それを邪魔をするなら叩き潰しましょう。ラシアスに敵対する気は毛頭ありません。そして、もしラシアスが僕たちの前に刃を以て立ち塞がるなら、僕は戦うことを躊躇いません」

 しばしの静寂の後、謁見の間は再び怒号と罵声の嵐に包まれた。

 それでもアービィは、怯むことなく立ち続けている。

 やがてニムファが口を開いた。

 

「どうあっても、共に手を携えることはできないと仰るのですか、勇者殿」

 

「はい、僕を道具としてお使いになる、というのであれば。摂政殿下、数々の無礼、お許しください。………もう僕たちのことは放っておいていただけないでしょうか。それでは、これにて失礼いたします」

 完璧な動作で一礼し、ニムファを見つめる。

 

「そうですか……残念です。ですか、勇者殿、私はあなたを諦めたわけではありません。いつか、また…そう遠くない将来にお目に掛かれますことを。そして、あなたたちの旅が幸多からんことを。どうぞ、おさがりになって」

 

 

 周囲からの視線を気にも留めず、アービィは謁見の間から出て行こうとする。

 コリンボーサは呆気に取られつつも、ようやくのことでニムファに声を掛けた。

 

「よろしいのですか、摂政殿下?引き留めるなり、敵対されるくらいなら――」

 その一言は言わせないとばかりにニムファが言葉を被せる。

 

「諦めたわけではありません。これからも目を離さず、いつでも抱き込めるように……私の身体が必要なら……国を与えても……ですが、決して敵対するようなまねは――」

 ニムファが言い終わる前に、広間の出口で怒号が響く。

 

 敬愛する摂政殿下を侮辱されたと激昂した衛兵が、アービィにハルバードを向け、何事かを叫んでいる。

 ニムファは止めようとするが、既にハルバードは振り上げられ、打ち下ろし始まっていた。

 

 最高権力者の周囲を護衛する者は、軍事の才には乏しくても、個人の技量は最高位の者が選りすぐられている。

 いくら、アービィが勇者だといっても、丸腰で構えてもいない状態で、ハルバードの一撃に対処できるとは思えなかった。

 ニムファが己の無力さを呪った瞬間、アービィがハルバードを避け、片手を開いたまま天にかざしたように見えた。

 

 次の瞬間、衛兵は糸の切れたマリオネットのように、その場に崩れ落ちる。

 立ち上がろうとするが、その度に腰から崩れている。

 

 アービィはハルバードを避けながら、衛兵の顎の先端を掠めるように掌底を突き上げていた。

 狙い違わず衛兵の顎の先端を掠めた衝撃は、彼の脳を頭蓋の中で小刻みに揺さぶった。

 

 典型的な脳震盪の症状に襲われた衛兵は、完全に立つことができなくなっている。

 やっと立ち上がっても、次の瞬間は床が起きあがってくるような錯覚に囚われ、床に顔から突っ込み動かなくなった。

 

 

 アービィの動きと相俟って、妖術だと疑われたが、単純な物理と生理現象だ。

 ほとんどの者の目には、アービィの掌底が衛兵の顎を掠ったことが、見えなかっただけだ。

 

「この人、何番目?」

 横に立つもう一人の衛兵にアービィが訊ねる。

 

「順位を付けたことはないが、私を含め五本の指に入ることは間違いない」

 問いの意味を理解した衛兵が答える。

 

「そうなんだ~。あなたもやってみる?」

 既にアービィが臨戦態勢に入った状態から始めても、ハルバードを構える前にあの妖術紛いを受けるのが落ちだ。

 衛兵は、無言で首を横に振る。

 

 次いで白い手袋がひとつ、アービィに投げつけられる。

 意味することは、たったひとつ。決闘だ。

 

 アービィは、ニムファを見ることで許可を請う。

 ニムファは、無言で首肯する。

 勇者の戦闘能力を間近で見たい。

 

「よく逃げないな、無礼者よ。ひとつ、貴族に対する礼儀というものを教育してやろう」

 人垣を掻き分け出てきた偉丈夫が大音声で名乗りを挙げた。

 

「子爵ウェンディロフ・ラティフォン・ドン・テネサリムだ。これが最初で最後だろうからな。以後お見知りおきを、などとは言わん」

 言ってるじゃん……

 

「何番目?」

 アービィが気にも留めずに聞く。

 

「剣で私の右に出る者はない。いや、武芸でと訂正しよう。好きな得物を持ってくるが良い。謁見の間で光り物を振りかざすわけには参らぬ故、中庭に出るが良い」

 ここでアービィを殺せば、勇者に成り代わった上、ニムファの寵愛を一身に受けられるという打算がウェンディロフを突き動かしていた。

 

 ニムファが、必要以上に厳かに告げる。

 

「勇者アービィ・バルテリーと、子爵ウェンディロフ・ラティフォン・ドン・テネサリムの決闘を、摂政ニムファ・ミクランサ・ミリオフィラム・ネツォフ・グランデュローサの名において許可します。では、半刻後、案内を遣わしますので。勇者殿、ご準備を」


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