ヌミフは中央部の民との接触には成功していたが、大同団結を説得するまでには至らず、人質という形で囚われの身になっている。
当初は問答無用で陵辱のあと殺してしまえという意見が大勢を占め、危うく犯されるところだったが、従容とした態度と覚悟を決めた表情に、中央部を統べる族長であるプラボックが待ったを掛けた。
プラボックに性欲がないわけではないが、わざわざ身の危険を冒してまでやってきた平野部を統べる若き族長の妹を、陵辱のうえ殺したとなれば平野部の民全員が火の玉となって襲いかかって来かねない。
しらばっくれることは不可能だ。
ヌミフが狩りや遠乗りの途中とでもいうならまだしも、明確に交渉という目的を持って自分たちを探しに来ているうえ、拠点を発見し乗り込む際に同行してきた供を一人パーカホに帰している。
たとえその直後に事故で死んだとしても疑われることは間違いないし、ましてや陵辱のあとが判ってしまったら言い逃れなどできるはずもない。
とりあえず話は聞くことにしたが、長年殺し合った相手のいうことを、鵜呑みにするほどプラボックはお人好しではない。と言っても最北の蛮族の脅威は、中央部の民には対処し切れるものではなかった。
過去幾度も押し寄せてきては撃退してきたが、突然魔獣の群を前面に押し立てて攻めてきた晩秋の戦で一敗地にまみれ、中央部を追われていた。
確かに平野部の民と団結すれば、戦力は倍以上に膨れ上がるし、当面の食住に困ることはなく魅力的な提案といえた。
だが、南大陸の住人が進駐してくることには、安易に同意できない。最北の蛮族と南大陸の軍に挟撃されては、いかに精強を誇る北の民といえどひとまたりもない。
謀略ではないかとの疑念を、プラボックは捨て切れなかった。
ヌミフには指一本触れるなと命じ、彼女の供回り共々軟禁してはいるが、持て余していることも確かだった。
ルムが来たというのであれば、交渉なり話し合いにもなるのだが、族長の妹というだけのカリスマでは、部族の生き残りを賭けた話し合いなどできるはずもない。ルムの動向を聞けば、南大陸に渡ったという。
益々謀略の臭いを感じてしまうプラボックだった。
幸か不幸か当分の間、平野部は雪解け水が道を泥濘に沈め、河川を氾濫させてしまうため、組織立った軍事行動を不可能にさせてしまう。
この間は一年を食いつなぐための農耕の準備期間に当てるのが常で、互いにゲリラ戦しかできず、精々威力偵察に小規模なグループ同士の小競り合い程度しか起き得ない。
暫くは考える時間があるということだ。
中央部に残した偵察部隊からは、魔獣が消えたとの報告も来ている。
先日アービィが殲滅した結果なのだが、それをプラボックが知る由もない。食料の備蓄を進めつつ、ようやく膝下に組み入れることに成功した山脈の部族を使役して、情報を集めるべきだ。
プラボックは情報の重要性を、本能で知っていた。
バードンがヌミフの捜索に出ると言いだしたのは、偶然にも彼女が囚われの身になった日のことだった。
集落の防衛はハイスティに指揮させた方が、バードンより遙かにマシだった。組織の中で生きてきたハイスティは、単独行動が多いとはいえ連携というものを熟知している。それに対しバードンは完全な個人行動が主で、組織の運用など経験は皆無だった。
一兵卒として戦場を縦横に走り回ってこそ自分の真価は十全に発揮されるのであって、指揮官として全体を見渡す能力などないに等しい。
バードンは、年功序列で自動的に指揮官に上げてしまうことの愚を、自らの特性から知っていた。
過去幾多の優秀な兵が戦功への報償として指揮官に祭り上げられ、その個人が持つ最大の能力を封じられるのを見ている。
刃を揮う場において最高の能力を発揮する人間を維幕に縛り付けた結果、決定的な判断ミスを犯し大軍を壊滅させたなどの事例は枚挙に暇がない。
泥濘に覆われた大地は、多人数での組織的な行動を封じている。
同程度の能力を有する数人の小グループ単位での行動が、この場合は効率が良かったが、釣り合わない者同士を組ませては低い能力に均一化されてしまうため、バードンに限っては単独で捜索に出ることにしたのだった。
この時期魔獣の行動も泥濘に妨げられるため単独行動に不安はなく、さらに一対一であればバードンの戦闘力を以てすれば、大概の魔獣は撃退は可能だ。
ヌミフの動向は掴んでいるため、北にある山脈地帯を目指すことにする。
途中いくつかある集落は、ルムの勢力圏内であるため、寝場所や食料、緊急時の支援は期待できると思って良かった。雪が溶けるほどに寒さは緩んできているとはいえ、日が暮れてしまえばかなり冷え込みは厳しくなる。
犬の毛皮の外套と夜具を担ぎ、バードンは泥濘の中へと踏み出していった。
別れが近いという少しだけ沈んだ気持ちで、アービィたちはキャスシュヴェルの町に入った。
いくらなんでも素通りでは悪いので、ニリピニ辺境伯の屋敷を訪ねた。屋敷には忙しそうに人が出入りし、町の整備に忙しそうだ。
門番の私兵に取次ぎを頼むと、兵もアービィたちを覚えていたのか、すぐに応接室まで案内してくれた。
暫く待っていると、辺境伯がイヴリーを連れて現れる。
アマニュークの整備もほぼ終わり、観光名所として人を集めているそうだ。
周辺にも出店ができ始め、徐々に新しい町ができつつあるという。まだ永住するようなものは出ておらず、数日ごとに仕入れにキャスシュヴェルに交代で戻っているらしい。
それでも土産物屋のほかに飲食店がいくつかあり、簡易宿泊所も何軒かできている。
アマニュークは四つの尖塔を持っていたが、激戦で全てが崩れ去っていた。
そのうち一つを物見の塔にしてあり、そこから古戦場を一望でき、その向こうにはインダミトの平原が広がっている。
崩れた三つは戦争遺跡として保存する予定だったが、物見の塔が人気で一つでは観光客を捌き切れず、もう一つ改造する予定だ。
「悩みどころはそこなのですよ。全部を元通りに作り直して、在りし日のアマニューク砦として復活させるか、戦の愚かさを後世に残すため二つは崩れたままにするかで」
辺境伯は本気で悩んでいるようだ。
「私は、二つは崩れたままが良いと思うんです。物見の塔が欲しいなら、別の場所で新しい名所にできるようにすれば良いと思うんです。戦の馬鹿馬鹿しさを見てもらうべきです」
イヴリーの意見ははっきりしていた。
アービィたちも意見を求められたが、やはり二つは残したほうが良いと思ったのでそのように答えた。
ルムは最初何を話しているのか理解できなかった。北の大地に観光という概念がないからだが、それは生きることに必死すぎて余裕がないからだった。しかし、南大陸に来てからというもの、見るもの全てが新鮮だった。
見るということがこんなに楽しいことだとは、ルムは初めて知った。
「私は北の大地から出たのは初めてです。まだ、その物見の塔とやらは見に行ったことはありませんが、人を喜ばす方を優先した方が良いかと思うのですが」
ルムは景色を見て喜ぶならそのほうが良いと思う。
戦の後など見ても楽しくなどないだろうとも思った。
戦の後など、集落の中だけでもそこらじゅうにあった。そんな珍しくもないものを、なぜ取っておくのかと素直に疑問に感じていたのだ。
「急ぎ旅ですかな? もしよろしければ、明日にでもご案内しましょうか?
アービィ殿にも悪霊のいなくなったアマニュークを見ていただきたいと思っておりましたし」
辺境伯が皆を誘った。
急ぎといえば急ぎだし、二日くらいの余裕はあるといえばある。
ランケオラータは北の大地の自然は、それだけでも見る価値があると思っていた。
なにもインダミトの市場とするためだけに、北の大地を育てる必要はない。
峻険な山並みや、それに続くなだらかな丘陵地帯は南大陸の自然とは違う景観を作り出し、南大陸とは微妙に違う植物相は独特の景観の彩りになっている。雪に閉ざされている風景も、ラシアスやストラーの最北部とビースマックの高山地帯以外では、見ることはできない珍しい光景だ。
地峡から平野部に降りるまでの山岳地帯や、中央部と平野部を隔てる山脈地帯には温泉が湧く場所もある。
ラシアスの駅馬車が好評なのは、第一に魔獣や野盗に襲われる心配のない、国軍の警護による旅の安全が確保されているからだ。
そして、それ以外でも、いくつもの駅に点在する温泉や山間の変化に富んだ景色も大きな魅力になっている。
ルムにとっては資源というと鉱物や木材、食料といった物が思い浮かんでしまうが、北の大地の雄大な自然の風景や、各地に点在する温泉も、大きな観光資源といえた。
冬の厳しさは筆舌に尽くしがたいが、乾燥した風が吹き抜ける夏の涼しさは、南大陸の湿った夏に慣らされた者にとって、魅力的な避暑地になるだろう。
そこで商習慣が発達していない北の大地へ、避暑に訪れる人々を対象として南大陸から商人が売り物を持って行く。
そして現地での働き手は北の民を雇わせる。南大陸と北の大地の合弁企業のような形を取ればよい。
共通の通貨がないため、給与は南大陸の貨幣で支払い、南大陸資本の商店で使わせているうちに、徐々に浸透していくだろう。
幸い、鉱物資源に恵まれた北の大地だ。
信頼できる人選で造幣局の分室を各国が北の大地に置けば、南大陸の貨幣が不足することはあるまい。もちろん貨幣の作りすぎはインフレを引き起こすので、各国が慎重に調整すべきだ。
バイアブランカ王が構想する共同統治機構がこの役割を担えば、ある程度うまく調整できると考えられた。
南大陸資本の商業が軌道に乗れば、北の民が独立して北の大地資本の商業も発生する。
競争はそれからでよい。最初は北の大地資本を保護する施策を採らなければ、商売慣れした百戦錬磨の南大陸の商人たちの独壇場になってしまうだろう。
目先の利益に目が眩み、北の大地の経済を食い物にするような商人は、できる限り排除されなければ、いつまでも北の民の南下への渇望は癒すことはできない。
ランケオラータは一刻も早くインダミトに戻るべきだと考えていたが、ここでルムに観光地というものを見せておいて損はないと思いついた。
辺境伯の誘いは渡りに船といえる。
「では、辺境伯殿、ぜひご案内いただきたく思います」
ランケオラータは、それまで考えたことをニリピニ辺境伯に話す。
ルムにとってアマニュークを見ることは重要なことだと熱っぽく語った。
ルムはランケオラータが北の大地のことをそこまで想ってくれていることに、目頭が熱くなる想いだった。
それと同時に学ばなければならないことは、まだまだ山積していると思いを新たにする。だが、いつまでも部族を統べる自分が南大陸に滞在するわけにはいかない。バイアブランカ王への謁見が済んだら、最低限の知見を得た後直ちに北の大地へ戻らなければならない。
ルムは自分の代わりに妹のヌミフを、インダミトに派遣するつもりになっていた。
ランケオラータにしてみれば、ただ北の大地や北の民のことを想って言っているわけではなかった。
当然インダミトの発展が第一だ。だが、数ヶ月の北の大地での生活は、可能性に溢れたフロンティアを見せ付けられた思いだった。
何を以って偏見や差別の対象だったのかと思うほどの純朴な人々の暮らしが少しでも良くなり、南大陸と争うのではなく競い合って両者が発展できれば、より良い世の中になると信じてのことだった。
二リピニ辺境伯は北の大地の改革について興味を示し、もし商人を北の大地へ送り込むことができるようになったら、自領の信頼できる者を推薦させて欲しいと言った。
ランケオラータに嫌はないが、インダミトの利権を優先させてもらえるならと釘を刺すことを忘れない。
二リピニ伯も死の危機を潜り抜けてきた若者を蔑ろにしてインダミトと事構えるつもりはなく、まずは存分にインダミトが北の大地を味わってから割って入りますと返した。
翌日、日が昇る頃アービィたちの馬車にイヴリーが便乗し、一行をアマニュークに案内した。
二リピニ伯は深夜に配下の訃報が入り、そちらを蔑ろにするわけにいかないと同行が不可能になっていた。残念そうに見送るニリピニ伯に、出発の挨拶をして馬車は走り出した。
一日の行程は途中ゴブリンの襲撃があったが、ルムが先頭に立ち撃退する。
日々剣を取る生活で鍛えられた武技は、ゴブリン程度は鎧袖一触に葬り去る。剣の血糊を振り払い、布できれいにふき取り油を塗り直す。己が命を託す剣を、ルムは大切に扱っていた。
やがて、以前来たときとは全く別物の光景が見えてきた。
アマニュークの周辺は、作りこそ簡易なものだが商店や宿が立ち並び、賑わいを見せている。
馬車を宿に預け、一行は酒場に繰り出した。ストラーで一般的に食べられている料理がメニューに並んでいるが、残念ながらまだここだけというものまではできていないようだ。
イヴリーに聞くと、それぞれの酒場や飲食店では新メニューの開発に余念がないのだが、ある程度完成されたストラー料理のレシピはあまり改良の余地がないらしく、突飛なものばかりできてしまっているらしい。
中にはアービィがラガロシフォンで伝えたアイスクリームを出したいと考えている店もあるらしく、商標や特許についてイヴリーに釘を刺すような場面もあった。
どの店で働く顔も、これから新しい街を作っていく希望と活力に溢れている。
ルムは北の大地もこうなって欲しいと思いながら、店で汗だくになって働く人々や道行く人々を眺めていた。
翌朝、アマニュークの砦に一行はやってきた。既にたくさんの人々が砦の中を見物し、物見の塔に登っている。
イヴリーの案内で中に入り、まずは慰霊碑を見に行った。悪霊やレイスとの戦いの思い出を語りながら、イヴリーをからかいつつ慰霊碑に参拝する。
あの時点では応急修理だったが、現在は新規の慰霊碑に取り替えられていた。
「これは、何のための物だい?」
ルムが不思議そうに訊ねた。
「今から450年前、ここで大きな戦がありました。我がストラーと、ランケオラータ様の母国インダミトとの間で、国境を決める争いでした。この砦は、ストラーが国境を死守するために作られたものです。この砦の奪い合いで多くの人々が亡くなりました。戦が終結した後、亡くなった人々の霊を慰めるため、ここに慰霊碑を建てたのです」
イヴリーが慰霊碑の由緒に付いてルムに説明する。
北の大地では墓は重要だが、慰霊碑という考え方はなかった。
家族や愛する人の亡骸を放置したくないという気持ちからのもので、葬った後の墓参りという発想はない。
霊という概念はあるが、それぞれが心でしっかりと慰霊することこそ重要で、シンボルを作るという考え方がルムには理解できなかった。
「そうか、こうやって霊を慰める方法もあるのか。だが、それを見世物にしているんだろう? いいのか?」
ルムは疑問を素直に返した。
「確かに見せ物にしてますね。それでお金を稼いでいる。考えようによっては、死者への冒涜とも取れなくはありません」
イヴリーはあっさりと肯定する。
ですが、と前置きしてからイヴリーは続けた。
私は必要なことだと思っています。
なぜなら、この砦を見ることで、そして物見の塔から遠くまで広がる平原を、そこに沈む夕陽を見ることで、こんな素晴らしい自然の中で戦をすることの愚かさに、気付くかも知れないからです。
今日ここに来た人々の中では誰も気付かないかも知れませんが、明日には気付く人がいるかも知れない。
数え切れないほど人が見に来ても、ほとんどの人が景色のきれいさに感動するだけかも知れない。
でも、その中でたった一人でも良い。戦の愚かさに気付いた人が、たった一人でもいてくれたなら、この地で命を散らした英霊たちは鎮まるのです。そのたった一人がいつか起きる戦を止めるかもしれません。それを信じたいのです。もちろん、一人でも多くの人に知って欲しいです。
建て前もありますが、と付け加えてイヴリーは語り終えた。
ルムは黙って聞き、そして考える。
戦が愚かだとは思っていなかった。いつでも生活圏広げるために、侵略を跳ね返すために剣を取ってきた。正義は我にありと信じて、敵を討ち続けてきた。
間違っているとは思ってもいなかったが、討たれた敵も同じことを考えていたであろうことに、ルムは気付いてしまった。
皆が手を取り合って、平和に暮らせるに越したことはない。
部族の垣根を越えて、共に暮らせることが幸せなことだと、理屈では判っている。
だが、北の大地の自然が、それを許さないと思い込んでいた。
痩せた土地から収穫できる食料には限りがあり、全ての人々の腹を満たすことは不可能だと、頭から決めつけていた。しかし、ランケオラータから教えられた農法や水処理、炭焼きや炭を利用した断熱方法といった生活の知恵は、今まで思い込んでいた限界を突破させる可能性が高い。収穫が上がり、水が確保でき、冬の寒さを凌げるようになれば、他の部族を滅ぼしてまで収奪する必要などなくなる。ルムの部族一人勝ちになるのではなく、中央部の民にもその技術を伝えればよい。
ヌミフがそれに気付いていれば、大同団結の交渉も容易になるだろう。
そう考えれば、食料や僅かの農地や狩り場の奪い合いで戦をするなど、愚かとしか言いようがない。
慰霊のやり方はそれぞれの伝統や考え方があるからとやかく言う必要はないが、戦が愚かだということは同じだった。
正義の戦など、この世には存在しない。生存権を賭けて戦わなければならないときはあるが、どちらにも言い分はある。
勝った方だけが正義を名乗れるだけであって、負けた方には正義がないわけではない。
その人、集団、部族、民族、宗教、国家それぞれの信じる正義があり、その中に欲望という悪を飲み込んでいる。
戦争とは欲望のぶつかり合いが話し合いで解決できなかった結果であり、ルムにはその概念はないが、外交の延長線上にあるものだ。言葉による戦いと譲歩と妥協が限界を超えたとき、暴力的な方法で全ての言い分を通そうとする。
それが戦争という外交手段だった。
南大陸は四百五十年前に全大陸に戦乱の嵐が吹き荒れ、総人口のほぼ四割が死者の列に並んだ。
実際に剣によって命を奪われた者はそのうち 四分の一ほどだが、そのほとんどは働き盛りの世代とそれを継ぐ世代だった。戦場で剣を振るうのは、いつだってその世代だ。
残りの四分の三 は、働き手を失ったことで生活が成り立たなくなり餓死に追い込まれた者や、食料の生産が滞ったため間接的に餓死に追い込まれた者たち、つまり体力的に劣る弱者たる幼子や老人たちだった。
肥沃な大地を持つ南大陸の住人たちは、弱者が剣に拠らず命を落とすのを見て戦の愚かさに気付き、四国家を並立させることを選び戦乱を終結させることができた。
剣よりも鋤や鍬を選び、自ら食料を生産し得ない弱者の腹を満たすことができた。
だが、北の大地は、今まさに戦乱に明け暮れ、弱者は切り捨てられている。
それが当たり前だと思い込んでいた。
その当たり前がひっくり返されようとしている。武力に頼った征服ではなく、文明を、平和をもたらす栄誉の方がよほどマシだとルムは思った。
もし世界が明日滅びることが判っても、俺は北の大地に苗を植えよう。
「アービィ殿はどう考える?」
ルムは、ふと魔獣が何を考えているかが気になった。
「そうですね~。死者への冒涜って言うなら、殺し合いなんか生への冒涜だし、死者を作り出してるだけだし。良いんじゃないですか。殺し合いに向けるより、貪欲と思われようと何かを作り出す方に向けられる活力の方が」
アービィにも死者を悼む気持ちはあるし、鞭打つような仕打ちは許されるべきではないと考えている。
だが、死者すら商売の種にする貪欲さを、否定する気はない。
貪欲さが戦争へ向かわないだけで、どれほどマシなことか。商人同士の競争は当然あるし、裏に回れば汚い話が山ほどあることも承知している。それによって死に追いやられる人々がいることも。それでも戦争がもたらす大量の死よりは、圧倒的に少ないし、理不尽な暴力に対抗するより容易に逃げることだって可能だ。
商売に失敗したからといって、即、死を選ばなければならないという強制などはない。
「無理に北の大地に、南の風習を持ち込むことはないんですよ。受け入れられないことは、どうしたって無理ですもん」
ルティがルムにフォローを入れた。
ルムが少々視野狭窄になりかけているように見えたからだ。
「なぜ、ここに人が集まると思います? 自分が住む近くにこういうのがないからですよ。みんな、日常から逃げたいんです。仕事、しがらみ、競争、疲れることばかりですからね」
メディが続ける。
これまでの旅も、日常からの脱却だった。
ただ虚しく寿命が尽きるまで、あの夫婦が用意してくれた屋敷に閉じこもり、世話されるだけの日常。
それが突然破られ、目が眩むほど刺激的な毎日が続いてきた。
もし、アービィたちがギーセンハイムに来なかったら、その中にティアがいなかったら、今の自分はあり得なかった。
そして、間もなくこの旅も終わり、自分は日常へ帰って行く。
「北の大地にしかないものが見られることが大事ですよ、ルムさん。ただ、便利さに慣れちゃってる南大陸の住人が、ある程度快適に過ごせる施設は必要かも知れません。さっきメディが言った日常からの脱却って、野営みたいに不便さを楽しんじゃう部分もあるんですけど、やっぱり程度問題ですからね」
ティアが纏める。
その夜、ルムは夢を見た。
南大陸から多くの人々が北の大地にやってくる。
湿地帯や河川、湖には舟遊びを楽しむ光景が広がっている。
温泉宿は満員になり、窓の明かりの中には人々の笑顔が溢れていた。
まだまだ足りないものは山ほどある。
訪れた人々を、何でもてなすか。今まで北の大地独特の食べ物は、固いパンと薄いスープしかなかった。
機能ばかりが優先され、寛ぐことなど考えられていない家屋しかなかった。
確かに南大陸のものをそのまま持ってきただけでは、北の大地へ人々が訪れる理由がない。
だが、最初は模倣で良い。南大陸で一般的なものを、北の大地で採れるものに置き換えることから始めよう。やはり人を派遣し、人材を育成しないとダメだ。
人材を招くだけでは、いつまでも南大陸の模倣から脱却することなど不可能だ。
北の大地で採れるものを目の前にして、北の大地にある道具でどうすればいいかを考えなければいけない。
才能溢れる者であれば、すぐに応用ができる。だが、すべての人々にそれを求めることは酷だ。教わって帰ってくる者には、材料や道具の違いが最初の壁になってしまう。
殺し合いにしか才能を発揮させる場のなかった民に、いきなりその壁を独力で乗り越えさせるのは、かなり難しいことだろう。
まだ夜が明け切らぬうちから目を覚ましたルムは、それから朝食に呼ばれるまでずっと考え込んでいた。
だが、それは解決策のない難問に呻吟する苦しさではなく、思考することが楽しいひと時だった。
アマニュークを発った一行は、キャスシュヴェルに戻ってからニリピニ辺境伯の歓待を受けた。
さすがに町を発展させ続けているだけの人物だ。ルムが欲しい人材を派遣することを、その場で約束する。ランケオラータもインダミトが料理に関しては、ストラーに劣ることは理解している。観光客の満足度は料理の良し悪しが大きく影響する。
そこは一日の長があるストラーに任せても問題にはならないし、そうでなくてはならないだろう。
多少優位性を失うことになるが、バイアブランカ王もその程度のことは読みに入っているはずだ。
もとより、ある程度の優位性さえ確保できていれば、いずれ四国家が鎬を削ることになるときが来てもインダミトの優位は揺るがない。
ストラーでは、農作物の生産調整をして市場での値崩れを防いでいるほどだ。
他国にほぼ原価で売れるほど、ストラーの農業や酪農の生産力は高い。税として四割を国が取っているが、余剰分は保存の効く農作物の作付けを奨励することで無駄を出さないようにしている。その枷を外しても良いのだ。
好きなだけ作り、売ることができる。
十のうち四を税として納めれば六しか残らないが、二十作って八を税として納めても十二も残る。
農業や酪農のギルドが代表して北の大地へ販売してもいいし、国営事業として税の増収分のほか余剰になる生産物を生産者から国が買って販売しても良い。いずれにせよ、ストラーに損はないだろう。北の大地の生産力が上がっても、人口の増加に簡単に追いつけるとは思えない。
経済が活性化すれば南大陸も人口の増加が予想されるので、農業や酪農業の規模が肥大化しても問題はないだろう。
ビースマックにしても、鉄器やその他の工業製品の膨大な需要ができる。
販売に関しては優秀な販売網を持たないため、インダミトに任せなければならないが、それでも大量に買ってくれるなら問題はない。
原料は南大陸で生産される鉱物だけでは追いつかないが、北の大地に眠るほぼ無尽蔵ともいえる鉱物資源は、産業革命がおきていないこの世界では、どう頑張っても使い尽くせるものではない。
ラシアスはこれといった産業がないため、北の大地との交易で利益が薄いと思われるがそうではない。
物流に掛かる通行税や関税、それに伴い人々の移動により国内に落ちるカネの規模は莫大だ。自国がなにもせずとも勝手にカネが落ちていく。考えようによっては、最も利が厚いかもしれなかった。何より、北の民への備えとしてのウジェチ・スグタ要塞の維持が必要なくなる。交易が軌道に乗った後は、アマニューク同様観光資源として活用することも可能だ。
唯一心配されるのは、急激に人の交流が活発化することによる治安の悪化だが、その程度は抑え込めるだけの軍備は持っている。
問題は、どの時点でインダミト以外の三国家に、北の大地への参入を許すかだ。
バイアブランカ王は、今回のビースマックでのクーデターを片付けた後、ストラーとビースマックの国際的地位が相対的に低下した時点でインダミトが北の開発に乗り出し、ある程度の利権を確保するつもりだ。
その後、南大陸の共同統治機構を発足させると同時に、インダミトの優位性を確保しつつ、他の参加国の参入を徐々に解禁するシナリオを描いていた。
ニリピニ辺境伯領での一夜が過ぎ、いよいよベルテロイへ向けて出立した。
ベルテロイに近付くにつれ、メディの口が重くなり、ルティとティアにも伝染する。昼過ぎにベルテロイの城壁が見え始め、メディの旅は終わりを告げた。
爽やかな寂しさの中、レヴァイストル伯爵の待つ宿へと向かう。
今夜はそれぞれの行く末に幸多からんことを祈って、ささやかながら宴席を設けてあると聞いている。
もちろん、ランケオラータの生還祝いとアービィたちへの慰労、ルムの歓迎の意味も込めてのことで、レヴァイストル伯爵が手配していた。
宿にはレヴァイストル伯爵の他、ファティインディ、レイ、セラスが待っていた。
アービィたちの姿を認めた伯爵とファティインディが深々と頭を下げ、ランケオラータの姿を見つけたレイが飛び出した。
涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、公衆の面前にも拘らずレイがランケオラータにしがみつく。
貴族としてあるまじき振る舞いだが、誰一人それを責める者はいなかった。
セラスは嬉しそうにティアに纏わり付き、パーティ会場へ手を引いていこうとするが、荷物すら置いてない状態であることをファティインディに突っ込まれ、慌てて部屋へと案内しようとする。
微笑ましい光景に、アービィはようやく肩の荷が下りた気持ちになっていた。
伯爵はメディとルティの手を取り、感に堪えないという表情で何度も感謝の言葉を繰り返していた。
嵐のような再会のひと時の後、それぞれの部屋に荷物を置き宿の広間に集まると、そこには宴の支度が整えられている。伯爵の音頭で宴は始まった。
「婿殿、この度は、我が莫迦息子のせいで多大なご迷惑をお掛けした。心からお詫びを申し上げる」
伯爵がランケオラータに詫びる。
もちろん、ランケオラータに伯爵に含むものはない。岳父になる人物から頭を下げられ、彼は慌てて取り成そうとする。
「義父上、そのようなお言葉は勿体無く存じます。無事帰ってくることができましたし、もう水にお流しいただけますようお願いいたします。それも、何もかも、ここにいるルム様と、アービィ殿たちのお陰です」
ランケオラータは、既に父に対する物言いになっている。
そして、いくら身内だけの集まりとはいえ、一国の王に相当する人物を自国の貴族に紹介するのだ。
それなりの対応に変えていた。
「ルム様、この度はなんとお礼を申し上げてよいやら。どうぞ、心行くまでお楽しみいただき、旅のお疲れを癒していただきたく存じます」
レヴァイストル伯爵も一国の王に対する言葉遣いだ。
だが、ルムにはそれがくすぐったくてしょうがない。
特にランケオラータとは、さっきまで俺お前で話していた間柄だ。
「伯爵、お心遣いには感謝するが、私は教えを受けに来た身。どうか対等のお立場でお話いただきたい。ランキーも、いいじゃないか。さっきまでと同じで」
ルムの言葉で座が一気に和やかになる。
レイは、ランケオラータとルムに北の大地での生活に付いて、事細かに聞いている。
セラスはティアから離れようとしなかった。ルティとメディが最後の夜とばかりに話し込む。明日は王都へ向かう者たちと、ビースマックへ帰る者に分かれるのだ。いくら話しても話し尽くすということはなかった。アービィと伯爵は、北の大地との交易に付いて意見を交換している。
一般的な就寝時間を過ぎても、宴は終わる気配を見せず、セラスは途中で眠気に負けたかファティインディによって部屋に連れ帰られていた。
セラスがいる間は涙を堪えていたメディだが、堰を切ったように涙が溢れ始めた。
半年以上の時間を、ほぼ毎日一緒に過ごしていたのだ。名残惜しくないわけはない。ルティもティアも涙を両目一杯に溜めている。アービィの目にもうっすらと光るものが見えていた。
四人の心を察した伯爵たちが宴の終わりを告げ、アービィたちに広間を譲ろうと席を立とうとしたときのことだった。
突然、広間に入って来る者がいた。
既にほとんどの人々が眠りに付いている時間だ。何事かと訝しむアービィたち。伯爵も一瞬事態を把握できなかったが、広間を照らす光の中に浮かぶ闖入者の顔を見て、その場で臣下の礼を取った。アービィたちも慌てて伯爵に続く。
ルムだけがどうしていいか判らず、そのまま立ち尽くしていた。
インダミト王国ベルテロイ駐在武官パシュース・アローマンシュ・インプラカブル・バイアブランカ第二王子だった。
王家の次男が一伯爵を訪ねてくるなど、前代未聞の出来事だった。当然のことながら、伯爵を呼び出せば済むことだ。それが何の報せもなく突然の来訪。
何かあったと伯爵は臣下の礼の姿勢のまま考えている。
「突然の来訪、驚かせて申し訳ない。ルム様、ご無礼の段、平にご容赦いただきたく存じます」
そう言ってパシュースは片膝を付き、頭を下げた。伯爵同様、一国の王に対する態度だった。
「ですが、今は火急のとき。このままで話をさせていただくご無礼をお許しください」
パシュースは椅子に座り、再度ルムに頭を下げた。
ルムに嫌があるはずはなく、また、状況は理解できないが一国の王子が慌てている様子から、どうぞとしか言えなかった。
では、失礼ながら、と前置きし、パシュースはアービィに向かって話し始める。
ビースマックでクーデターが起きる。
フィランサスがベルテロイに潜伏する間諜を捕らえ、事の仔細を吐かせていた。
ビースマックの主要閣僚と大きな発言力を持つ政務参議官を君側の奸臣として誅し、政務を乗っ取る計画だ。
実行日は今日から十五日後。既にガーゴイルは王都を囲むように配置され、ビースマック街道の要所にも、フィランサスの妨害のためにかなり数が配置されている。
宰相を始めとする主要閣僚や政務参議官の屋敷周辺にも、巧妙に隠蔽して配置されていた。
もともとビースマックは職人気質のものが多く、貴族と庶民の距離は近い。
特権意識も余り強くなく、その領地の元締めくらいの気分でいる者すらいた。
だが、一部貴族は外交や婚姻などで、ストラーの文化に触れる者がおり、その中には貴族が特権階級であるという一種のカルチャーショックを受けてしまった者たちがいた。
貴族と庶民の距離の近さに我慢ができず、政治を壟断して一気に自分が特権階級として君臨したい。
そんな欲望が、他国を影響下に収めたいストラーの一部貴族と結びついた。
ストラーでは王家傍流の新興公爵家が国内ではほとんど発言力がなく、ストラーこそ大帝国の末裔という自尊心を満たすため、他国への影響力を欲してビースマックのクーデター勢力に手を貸していた。
王朝を倒すほどの度胸はなく、王の権威の下に自己の権勢を誇示したいという、いかにもスケールの小さな欲望だが、ガーゴイルという対人兵器を手にしてからは無視できなくなっていた。
既にクーデター計画や首謀者は露見していたが、決定的な証拠にかけるため下手に手を出しても小物がトカゲの尻尾切りにされるだけで、首魁は闇に潜ってしまうと考えられたため、ある程度決起させてしまおうということになっていた。
だが、決起の日が判らなくては対応の仕様がなく、泳がせているつもりが自由に泳がれてしまっていた。
ようやくフィランサスが間諜を捕らえて尋問してみれば、決起の暇では余りにも短かく、それが判明したのがついさっきだった。
軍がベルテロイから王都シュットガルドまではどう急いでも十八日だ。明日取るものもとりあえず急行したとしても、間に合わない。そこで、ちょうどベルテロイに到着したアービィたちに馬車を提供して急行させ、その間に早馬で王都には知らせておく。
主要閣僚と重要人物の警護を近衛第一師団が固め、アービィたちには到着次第国外から嫁いだ者たちを連れてベルテロイに戻ってもらい、四国家の駐在武官が責任を持ってそれを守り切る。
同時にフィランサスとアルテルナンテは、それぞれが近衛第二師団を率い、ビースマックおよびストラーの王都に戻り、クーデターの首謀者捕縛に走る。
ヘテランテラは、ラシアスの摂政ニムファが混乱乗じて兵を起こさないように、ラシアスとビースマックの国境の町ソロノガルスクに赴き国境を固める。
そして、ベルテロイの防衛にはパシュースが備えることになっていた。
本来の計画では、アービィたちは王都へ行った後はボルビデュス領に滞在するだろうから、そのときにレヴァイストルにクーデターをリークし、ハーミストリア救出に託けて動かすつもりだった。
だが、クーデターグループに焦りでもあったのか、決起の日はすぐそこだった。
事ここに至っては、レヴァイストルを利用するなど回りくどいことはしている余裕はなく、異例中の異例だがパシュース自らアービィに依頼に訪れたということだった。
アービィにはパシュースの説明から、インダミトの意図を察知することはできた。
できれば国家間の謀略などには、関わり合いを持ちたくない。
クーデターはもちろんだが、それを利用しインダミトの立場を優位にしようと企むのも、立派に謀略だ。
アービィとルティはインダミト国民である以上、パシュースが命令の形で言ってきたら断りようがない。
だが、パシュースは依頼の形を取っている。これは強制的に命令に従わせようとして、アービィが国を出てしまうことを恐れているということだ。
そこになんとも言えない厭らしさを感じてしまっている。
しかし、アービィは快諾した。
即答だ。
レヴァイストル伯爵の顔色が、みるみる蒼褪めていくのを見てしまったからだ。以前レヴァイストル伯爵の長女ハーミストリアが、ビースマックに嫁いでいることは聞いていた。
伯爵の目が懇願の色に染まるのが、手に取るように判ってしまったのだ。
もう一つ理由がある。メディだ。
メディが故郷と思っているギーセンハイムは、ビースマック街道上の要所だ。このままではギーセンハイムが戦場になってしまうかもしれない。それを見過ごすわけにはいかなかった。
見ればメディも、あっという間に真っ青になっていた。
「メディ、もう暫く付き合ってもらうからね」
全てを察したルティが、涙混じりにメディに言った。
アービィもティアも、頷いている。
「ありがとう、みんな」
溢れる涙を拭うことなく、メディが答えた。
故郷が戦乱に巻き込まれようとしている。
アービィたちにそれを救う義理はないはずなのに、些かの逡巡もなく行くことにしている。
メディには、感謝の言葉しか言うべき言葉は見つからなかった。