アービィは閃光に包まれてから、目を覚ますまでの記憶が全くない。
魔法陣の線と文字のようなものを指でなぞり終えたとき、周囲が光に包まれたと感じた次の瞬間には、目に涙を溜めて自分を覗き込むルティの顔が目の前にあった。
わけが分からず、自分がベッドにいることだけを把握し、とりあえずおはようと言ってみたのだった。
ルティから、まる一日意識が戻らなかったことやルティ自身も意識を喪失したことを聞かされ、アービィは自身の迂闊な行動を死ぬほど悔いていた。
安易な行動でルティを危機に陥れた自分が許せなく、ルティやティアが見たことがないくらい落ち込んでしまった。
すぐにでも、北の大地へルムやランケオラータたちと行かなければならないのだが、全身から力が抜けたような感覚が続き、立ち上がってもすぐに座り込んでしまう。
心配したディアートゥス公爵が暫く逗留するように言ってきたので、心苦しくも厄介になることにしていた。
アービィがいくら大丈夫だと言っても、ルティとティアは頑として首を縦に振らない。
アービィは公爵やルティ、ティアの世話になることに申し訳ない気持ちで一杯だった。
同時に、言葉では説明しきれない違和感を、体内の其処彼処に感じている。
アービィが目覚めた頃、最北の地にある神殿の一室では、邪悪な波動を纏った魔導師に声を掛ける者がいた。
「グレシオフィ猊下、如何なされました?」
腰まで伸ばした北の民に共通する金髪を一つに纏めた女性が、これも北の民には共通の碧眼に憂いを湛えて訊ねている。
年の頃は二十代半ばだろうか、艶やかな表情は男たちを振り向かせるには充分な魅力に溢れ、少々吊り気味の瞳と適度な高度を持つ鼻梁、控えめな口元はそれぞれが整ったバランスを保っていた。
最北の地に多くの信徒を持つ神に仕える巫女の服装を纏った女性に声を掛けられた魔導師は、こちらも神官の服を纏っている。
紫を基調とした配色は神殿内にいる他の巫女や神官に同じ配色の者はいないことから、最高位の神官であることを伺わせていた。
魔導師は暫くの間、宙に描いた魔法陣を見つめていたが、手をかざしてそれを消し去ると巫女に向き直った。
「オセリファよ。どうやら南大陸の下賤な者共には、転生秘術を使いこなすことなど無理なようだ。せっかく魔法陣の描き方から教えてやったのに、まるで成っていない。不完全な詠唱などしおって、魔力を魔法陣に残しおった。あれでは数刻と生きられまいて。確かに、通常の武器や銀の武器では傷付けることすら適わぬが、自壊するじゃろうて。やはり、精霊呪文の如きたいして精神力を要さない、安易な呪文しか使えぬ下等な者共に、我が神の秘術は荷が勝ち過ぎだったようじゃ。おかげで面白いことも見られだがな」
神像を見上げていたグレシオフィと呼ばれた魔導師が、オセリファに向き直り答える。
その身が纏う邪悪な波動とは裏腹に、柔和という言葉を受肉化させたらこうなると思われる、穏やかな表情だ。
北の民の象徴である金髪は、白いものにほとんどが置き換わっているが、切れ長の眼窩に納められた碧眼には意志の力が溢れかえっている。
僅かな弛みに深い皺を刻んだ頬に支えられた高い鼻と、笑みを湛えた小振りな口元は、全体に漂う波動を中和する効果を持っていた。
グレシオフィが見上げていたその神の像は、台座を含めた高さが3mに達する巨大なもので、背後に後光のように魔法陣を背負った、黒山羊の頭と踵がない山羊の下半身を持つ人型の石像だ。
この部族が山羊を神と崇めていることが、見て取れる。
ただ、普通の黒山羊ではないことを、神像の背に生えている蝙蝠のような翼と、像の目に填められたルビーのような宝石が表していた。
プルケール邸の床に描かれた魔法陣と、ついさっきまで宙に描かれたそれと、神が背負う魔法陣は、大きさが違うだけの同じものだ。
魔力を残した魔法陣は、神が背負うそれが常に感知していた。この世界のどこであろうと同じ魔法陣の存在は、神が支配する力であるため常に感知されるようになっている。
神の背負うそれと、他の魔法陣との違いは二つあり、ひとつは前者が永続的に効力を持つことと、後者はたった一度の使用で効力を失うことだった。
もうひとつは、神が背負う魔法陣が神界への亜空間回路を開くためのものであり、他は神が背負う魔法陣への亜空間回路を開くためのものであるということだ。
転生の秘法は、まず任意の場所に描いた魔法陣と神が背負う魔法陣の間に亜空間回路を開き、然る後に神の背負う魔法陣が神界から秘法の効力を引き出す。
そして任意の場所に描かれた魔法陣へ亜空間回路を通じて効力を送り、力を受け取った魔法陣が光というエネルギーに転化させ発現させるというものだった。
魔法陣の使い方にはもう一つあった。亜空間回路で通じ合っているためか、任意の二つの魔法陣の間では周辺に存在する人や魔獣の持つ固有の波動が伝わるということに気付いていた。
魔法陣を使用している者の魔力が高ければ、魔法陣周辺の光景すら覗き見ることができた。
秘術を発現させずにいれば、一種の監視装置としての活用法もあったのだ。
グレシオフィは、プルケール邸に描かれた魔法陣に魔力が残っていることは、神が背負う魔法陣に反応が残っていることで分っていた。
どれほどの魔力が残っているか確かめるために、自身の執務室の空間に魔法陣を描いたところ、亜空間回路を通じて人狼の波動を感じ取った。
そして、その人狼の波動がフォーミットや北の大地の避難小屋で、自身の邪魔をした者と同じものであると感じ取ったグレシオフィは、プルケール邸の魔法陣に残った魔力で人狼に対して転生の秘法を叩き付けたのだった。
もちろん、予想されたことではないため、秘法が発動するかどうかの確証はなかったが、上手くいけば儲けものという程度の気持ちではあった。
人狼が立っている魔法陣は、プルケールたちが使い残した魔力しかないため、もし魔法陣が発動しても不死者になるが転生の秘法が完成することはない。
つまり逆に言えば、プルケールたちのように数刻で身体が崩れ始め、死を迎えるであろうことが期待できた。
残念ながら人狼が持つ呪文への抗堪製が不死者への転生を防いだが、魔力というエネルギーを直接叩きつける結果となった。
そして、グレシオフィは一つのことに気付いた。
つまり、術者がそこにいなくても別の魔法陣を通して、秘法を発現させることができるということだ。
これはどういうことかというと、敵対する部族や民族の城や町を魔法陣で囲み、転生の秘法を発動させればその中にいるもの全てを転生させることができるということだ。
どの程度の規模まで効力を及ぼさせることができるかは、今後実験してみないと分らないが、城ひとつ、町ひとつを壊滅させられるのであれば、核に相当する戦略兵器として使うことができる。
私兵を増やすためであれば完全な不死者に転生させる必要はなく、ヴァンパイアのように夜しか活動できないミディアンでも充分だ。
完全な不死者にしてしまってはグレシオフィ自身と同等の力を得てしまうため、これを従わせるには多大な労力が必要になってしまうからだ。
殲滅のために使うのであれば、プルケールたちが犯した失敗をわざとすれば良い。恫喝や駆け引きにも使える。
偶然が生んだ結果にしては、充分すぎるほど使える兵器を手にすることができた。
魔獣を飼い慣らす実験の結果を一瞬で食い殺し、合成魔獣を殲滅したあの人狼は、殺しても飽き足らないほどの憎しみがあるが、この結果をもたらした点に関しては感謝してもいいだろう。グレシオフィは、そう考えていた。
オセリファは、自分同様に影を持たないが陽の光を避ける必要のない主人が強大な力を得たことを、その笑みから感じ取っていた。
アービィたちがディアートゥス公爵邸に逗留し始めて、三日が過ぎた。
公爵は、事の顛末をシュットガルドに向かっているはずのフィランサスと、ベルテロイを守るパシュースに知らせるための早馬を出している。
あと五、六日もすれば、両者に伝わるはずだ。
現在アービィは、長時間歩くことができない。
どこにも傷はなく外見は健康そのものに見えるのだが、立っているだけでも極度に疲労を感じてしまい、五分と歩いていられない。体力が落ちているというのとも違い、心拍数が必要以上に上昇し、力が抜けてしまっていた。
さすがに下の世話まで頼むのは矜持が許さず、死ぬ気でトイレまでは行くのだが、それが却って疲労度を増してしまい、アービィはほとんど寝たきりの状態になっている。
「ごめんね、ルティ。僕がしっかりできないから……」
アービィがベッドの上で呟いた。
「いいのよ、アービィ。ずっと走りっぱなしだったんだもの。少しは休めってことよ。今は、ちゃんと治して、ね」
ルティは、少しでもアービィを安心させようとしていた。
「アービィ、これなら食べられそう?」
ティアがリンゴやナシ、ブドウに相当する果物を持って部屋に入ってきた。
ルティが少しでもアービィの側に着いていられるように、ティアが食事から何からの雑事を引き受けていた。
「ありがとう、ティア。水っ気が多いと飲み込みやすいんだ。助かるよ」
アービィは上体を起こしながらティアに礼を言った。
あれほど頑健だったアービィが、ルティの手を借りなければベッドから起きることも儘ならなくなっている。
ティアが買ってきた果物をルティと手分けして切り、アービィに渡す。
だが、アービィは一切れずつ食べたところで戻しそうになってしまった。
食欲はあるのだが、胃が受け付けない。水なら飲めるが、酒はもちろんのこと、茶やコーヒーのような刺激の強いものは戻してしまっていた。
かろうじて果物を絞ったジュースやすりおろしたものであれば飲み込めたので、ティアは果物そのものを勧めてみたのだった。
「ごめんね、せっかく買ってきてくれたのに」
「ごめん、無理させちゃって……」
口を押えてむせ返るアービィとティアが、同時に謝罪の言葉を口にする。
「気にしないでね」
「気にしないでね」
また同時に、今度は同じ言葉を口にしてしまい、沈鬱な空気に支配されていた寝室に、珍しく笑いが零れた。
アービィは、この異常は不死者への転生邪法と人狼の能力が反応した結果だと感じていた。
もともと不死性を持つ人狼が邪法を浴びた。何らかの力同士が干渉し合い、身体に異変を起こしたのだろうと感じていた。ベッドから置きあがれないことも重要だが、ルティとティアには言っていないもう一つ重要なことに気付いていた。
獣化ができなくなっていた。
力が抜け落ちているのは、人狼の力が失せたからかもしれないと、アービィは考えている。
もし、このまま永遠に獣化できないのであれば、それ自体は歓迎できることだが、力が抜けてしまったままで一生ルティに面倒をかけることは絶対に許容できないことだった。その不安は刻一刻と大きくなっている。それともう一つ、別の不安がある。
もし、突然獣化の能力が戻り、予期せぬときに獣化してしまうかもしれないという不安だった。
ルティやティアだけといるときであれば心配はないのだが、公衆の面前で突然獣化してしまったら取り返しの付かないことになる。
今、この時だって、いつ獣化してしまうか判らなかった。以前であれば自分の中にいる巨狼をいつでも引き出せたし、封じ込めることができた。
だが、今は巨狼の気配を全く感じられなくなっていた。
「アービィ、今は眠りな。何にも心配しなくていいから。寝ちゃいなさい、ね。ルティもよ」
不安に押し潰されそうなアービィに、ティアはそう言葉をかけて部屋を出た。
ルティはこの三日間、入浴とトイレに行く以外の時間全てをアービィの側で過ごしている。
睡眠もアービイの横に簡易ベッドを持ち込んでいた。食欲はあっても食物を受け付けないアービィに気を使って、食事の内容は果実のすりおろしやパン程度の簡単なものだった。ティアにはルティまで体力を落としてしまわないか、それも心配でならなかった。
せめてしっかり食べて睡眠も取るように言っているが、ルティはティアに気遣いつつも、判ってはいるが食は細くなってしまうし、睡眠も何かあったらと思うと浅くなってしまっていた。
「北の大地へは、後から行けばいいじゃない。ちゃんと治さないと、あっち行ってからもっと大変だよ」
ちょっとだけごめんね、と言ってルティは部屋を出た。
ふと、側にいることが重荷になっているのではないかと、それが気になってしまったのだった。
「うん……」
そう答えたアービィは、ルティの気配を感じなくなると同時に、眠りに落ちていった。
「ティア、アービィ大丈夫かなぁ?」
ティアの部屋に来たルティが不安げに言った。
「大丈夫よ、ルティ。あの狼がこんなことでくたばるわけないじゃないの」
ティアは答えるが、やはり心配だった。
「そう、だよね? 大丈夫だよね?」
ルティは目の下に隈を浮かべた疲れ切った表情で、再度問いかける。
アービィの前では気丈に振る舞っているが、限界は近かった。
「ルティ、少しでもいいから寝なさい。あなたが倒れたら、アービィが心配しちゃうよ。そしたら良くなるものも治らないからね」
ティアはルティの気持ちは解るが、休息が必要なことも解っていた。
今はとにかくルティを休ませなければ、共倒れになってしまう。
ルティには周りが見えなくなっていると、ティアは気付いていた。
ティアは、でもでもだってでなんとかアービィの部屋へ戻ろうとするルティを、無理矢理自分のベッドに寝かせた。
荷物からラミアのティアラを取り出し、髪に飾ってからルティに向き直る。
本来は使い道が違うんだけどね、と呟いてからルティに『催眠』を掛け、深い眠りに突き落とした。
「アービィ、起きてる?」
そっとアービィの部屋に入ったティアが問いかける。
「うん、起きてるよ」
ティアの気配を感じ取ったアービィは、既に目を覚ましていた。
疲れを感じている割には眠りが浅い。ちょっとしたことで、すぐに目が覚めてしまっていた。
それがまた疲れを誘っているのだが、アービィにはどうしようもない。
「ルティは、あたしの部屋で寝かしてきたわ。安心して。散々駄々捏ねて子供みたいだったけど、『催眠』掛けちゃったから。明日まではぐっすりよ」
アービィを安心させるため、口元に笑みを作りながらティアが言う。
「ありがとう、ティア。ルティが心配でさぁ。ね、ちょっと聞きたいんだけどさ、いいかな?」
それはルティにはとても聞けないことだ。
「なに? あたしで答えられること?」
訝しげにティアが聞いた。
「うん。ティアじゃないとダメかな」
そう言ってアービィは続けた。
「ねぇ、もしティアがラミアに戻れなくなったらどう思う? 嬉しい? 悲しい? もし、人間と同じ寿命になったら、それはどう? 五、六百年生きるんだよね、ラミアって。それが百年も生きられなくなっちゃったら、どうかな?」
「ひょっとして、アービィ、獣化できなくなったってこと?」
ティアが驚愕の表情で聞いた。
「うん……狼の気配を身体の中に感じなくなっちゃったんだ」
アービィが答えた。
ティアは、しばらく腕を組んで考え込む。
ラミアに戻れなくなったことは、一度あった。アービィたちと出逢ったときだった。ラミアのティアラをギルドに提出し、変化の能力を手放したときだった。
それを悲しいとか嬉しいという感情で考えたことはなかった。
いずれティアラを買い直すつもりでいたからだ。
それが永遠に戻れなくなったとしたら。
今まで考えたこともなかった。
アービィは獣化しないほうが幸せなのだろうと、ティアは漠然と思っていた。だが、自分はどうなのだろう。この一年というもの、ラミアの姿に戻ったのは数えるほどしかない。片手で足りるだろう。それを悲しいと感じたことはなかったが、嬉しいと感じたこともない。
いつでも蛇の気配は身体の中に感じているからだ。
自分のアイデンティティでもあるラミアとしての姿を、簡単に捨てられるかどうかは解らない。
今、現在であれば、アービィやルティと過ごすこの時間に、ラミアの姿も能力も必要ない。
能力に関しては、あれば便利という程度の認識だ。
あれば便利はなくても平気ということだろう。
寿命が短くなると言うことも同様だ。共に時間を過ごしたいという者がいなければ、寿命などいくら長くてもたいした差ではなかった。
それ以上に、アービィやルティ、メディという大切な者たちを見送るばかりというのは、悲しいかもしれなかった。
余生が数百年であろうと、数十年であろうと、ティアにとってそれはたいした差ではなかった。
「あたしには、よく解らないわ。ラミアとして生きているわけじゃない今はとても楽しいし、ラミアの姿に戻る必要性は感じないわ。永遠に戻れなくてもいいかも、ね。でも、自分の本来の姿をなくしちゃうのは悲しいかも。寿命なんて関係ないわ。長すぎるっていうのも考え物よ」
ティアは曖昧な答えに終始する。
アービィに対し、狼の能力を失ったことを喜ばしいことだと言い切るのも憚られるし、同情というのも違う気がする。もともとアービィは異世界人であり、別人格であったはずの狼に封じ込められていたといってもいい。それと決別できるのだから喜ばしいことだろうとは思えるが、それで元の世界へ還ることができるというわけでもない。
ティアの思考はループに陥っていた。
「そうだよね、いきなり聞かれても。それに、まだ戻れる状態で聞かれても解らないよね。でもね、僕は嬉しい。でも、寂しい。なんていって言いか解らないけどね。ごめん、ティアに無理矢理答えを聞きたかったわけじゃないんだけど」
アービィはどうしたらいいか解らないという表情で言った。
「いいのよ、アービィ。気にしないで。今は、気が弱くなってるんじゃない? もともとはどうなの? 神殿巡礼も、呪文の修練も。何のため? 狼と決別するためだったの?」
ティアには、アービィは同意が欲しいだけだということが理解できた。
だが、自分の力で狼と決別したわけでも、封じ込めたわけでもない。もし、この後唐突に狼の本性が現出してしまったら、今のこの状況を喜んでいるとしたらアービィは壊れてしまうかもしれない。狼が失せたのではなく、一時的に姿を隠しているだけだと思っていたほうがいいだろう。認め難くても、自然に狼から離れていくことはない。十年以上に及ぶ時間を共有したアービィの中の狼は、既にアービィと同一人格と言っていいだろう。
ティアはそう考えている。
アービィが獣化をコントロールして狼を封じて生きるのではなく、いつでも好きなときに獣化できる世の中。
それは人と人狼が和解できた世の中だ。
だが、アービィ以外の人狼が人と和解できるのか。両者の間で紡がれた千年以上の血塗られた歴史を、これからたった数十年でこの人狼が変えていけるのか。
類稀な、人の側に立てる人狼。この存在は、これから先両者が和解し、共に歴史を刻むためには必要だと思われた。
唐突にティアは残酷なことに気付く。
そのためには、アービィは人狼でなければならない。
人狼として生を歩み、人狼として死んでいかなければならない。
「うん、そう言われると……そうだね、決別とは考えていなかった、かな」
アービィは答えた。
それはそうだ。狼が消えるなどと考えたこともないからだ。
同一人格であり、自分自身である狼と、決別するということは考える必要はなかったからだ。
今、狼の気配を感じられなくなって、初めて気付いたとこだった。
アービィは、正直なところ迷っていた。
狼の圧倒的な力が惜しいわけではない。
だが、十年以上の時間を共に過ごし、互いに人格を占有しようということもなく、折り合いよくやってきた。もし、人狼が生来凶暴で、冷酷で、残虐な生物であるとしたら、それは無理な相談だっただろう。だが、アービィという存在は、人狼であろうとも育った環境が人格形成に与える影響があるということを証明していた。であれば、凶暴、冷酷、残虐といったサガは、後付けの性格なのだろう。いつかバードンが言っていた通り、憎み憎まれ合う境遇が造り上げているものなのだと想像できた。
改めて考えると、人と人狼が和解できるというのであれば、狼を消し去ったり決別する必要などないのだった。
「ねぇ、アービィ、良く考えてみて。ルティもだけども、あたしもメディも、伯爵も、ルムさんや、ランケオラータ様とその護衛に付いていた人たちだって、ハイスティさんだって、あなたが人狼って知った瞬間から掌は返していないでしょ? 今までにだって、誰かそれでアービィに石を投げつけた人っていた? いいんじゃないかなぁ、狼がアービィの中にいても」
敢えてバードンは外すティア。
ティアにとって、アービィはある意味希望だった。人と魔獣が共存していた、ティアの中に眠る原始の記憶がそう言わせているのかもしれなかった。アービィに余計な使命を負わせることに心苦しさを感じつつも、ティアはアービィから狼が消えうせるのは、損失だと思うようになっていた。
もちろん、それを言葉にも表情にも出すことはしなかった。
「そうだね。いいなぁ、いつでも好きなときに獣化できたら」
アービィの言葉に、一瞬内心を見透かされたかとティアは動揺してしまった。
「起こしちゃっといて、こんなこと言うのもなんだけど。アービィも、今日はぐっすり寝ちゃいなさい。試しに『催眠』掛けてみようか?」
内心の動揺を誤魔化しながらティアが言う。
「うん、試してみようか。『誘惑』はルティに殺されるからダメだよ」
苦笑しつつアービィが答える。
「じゃあ、ちょっと待ってて」
そう言ってティアラを取りに、ティアは部屋を出た。
暫くして、わざと時間を掛けて戻ったティアは、穏やかな表情で眠るアービィを見て、安心したようにまた部屋を出て行った。