狼と少女の物語   作:くらいさおら

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第65話

 六百人に及ぶ集団がグラザナイを訪れ、火の神殿に常軌を逸した数量の武器防具に対する祝福方儀式の依頼したのは、アービィたちがそこを発った四日後のことだった。

 火の最高神祇官は、精霊の加護によって授けられた遠見の術によって独立混成大隊の来訪を見通していたため、神祇官全てを召集していた。水の精霊から祝福されていた武器防具は、火の精霊を受け入れやすくなっているため、通常より儀式に掛かる時間も、一度に祝福できる数も遙かに多くなっている。

 それでも六百人分を一度で処理しきれるはずもなく、ラシアスにいる全ての神祇官を召集しても九日の時間を必要とした。

 

 その間、大隊は貴重な休暇を取ることができた。だが、それが最後の平穏であることを、羽を伸ばす全ての将兵は理解している。

 なにしろ、これから行くのは南大陸の法治が届かない北の大地だ。

 四百五十年の平和に慣れた南大陸ではなく、戦闘の規模は小さいとはいえ、常に戦乱渦巻く北の大地だ。

 

 安寧に慣れた南大陸の軍が、あまりにも呆気なく殲滅されたことは記憶に新しい。

 いや、南大陸の軍人にとっては、幾星霜経ようとも忘れられない恥辱だった。

 そこへ征く。

 これ以上軍人冥利に尽きることはなく、そして恐ろしいことはなかった。

 

 グラザナイで羽を伸ばす将兵は、ひとりの例外もなく娼婦を求めた。

 もちろん六百人が一度に押し寄せたら、娼館どころか街の機能が停止する。

 独立混成大隊は、グラザナイの城壁外に宿営地を造成し、小隊単位を交代で街に入らせて休ませていた。

 

 

 独立混成大隊が武器防具の祝福法儀式完了を待っている頃、アービィたちはウジェチ・スグタ要塞で特編中隊との別れの宴も佳境に差し掛かっていた。

 駅馬車で七日の行程を、中隊は五日で駆け抜けていた。

 アービィたちは馬車に乗せられていたのだが、余裕を持って行程を組む駅馬車とは違い、陽があるうちに行けるところまで行って、夕暮れになれば野営、そして暗いうちから起き出して日の出と共に出立を繰り返した結果だ。

 

 ウジェチ・スグタ要塞に着いたときに、アービィたちは真っ先にランケオラータ一行の動向を確認した。

 リジェストに立ち寄った際に、ギルドで手紙の受け渡しを確認したところ、レイからのメッセージが残されていたので、だいたいの動向は掴めてはいる。

 彼らはアービィたちに先立つこと三日で、このウジェチ・スグタ要塞を抜けていた。

 

「どうかな、今頃ワラゴさんの村かな、レイたち」

 ルティが誰とはなしに呟く。

 

「ルムさんがいるんだから案内人はいらないでしょ。もうパーカホに向かって山岳地帯を抜けてるかもよ」

 アービィが楽観的観測を元にした意見を言った。

 

「どうかなぁ、魔獣に備えて護衛を探してるかもしれないわよ。また、あんなのが襲ってきたら、ルムさん一人じゃどうしようもないもの」

 ティアが悲観的観測の立場から反論する。

 

 いずれにせよ、要塞到着が日没間際だったため、この夜のうちに地峡に踏み込むことは無理な相談だ。

 よく見知った道でさえ、街灯などないこの世界では月明かりがなければ漆黒の闇だ。

 それ故に誇り高き近衛師団から抽出された中隊といえど、慣れない道を踏破できたのは陽があるうちだけだった。夕暮れになれば野営していたのは、翌朝の早い出立に備えるためだけではなく、慣れない夜道を行軍する危険を避けるためでもあった。ましてや一度も足を踏み入れたことのない地域など、命さえ惑いかねない頻闇の世界が広がっているだけだった。

 その辺りはアービィたちも理解している。

 

 身を焼くような焦燥感と諦観がない交ぜになり、そのまま要塞内での別れを惜しむ宴が始まった。

 特別な儀式が存在するわけではないのだが、中隊としては勇気ある若者たちに惜別の情を感じていたし、アービィたちもここまで同行してくれた中隊に何もせずに別れることはできないほど感謝している。といっても軍など元はと言えば荒くれ男の集団だ。やることといえば女を抱くか、酒を飲むかしかない。ルティやティアがいるこの場で、全員でアービィを引きずって娼館に繰り出すわけにもいかず、ウジェチ・スグタ要塞の酒を飲み尽くすことで別れの儀式としていた。

 ティアにしてみれば気遣いなどいらないし、久しぶりにエサを喰い放題にできるチャンスでもあったのだが、ルティの冷たい視線が痛かったため、心ならずも自重していた。

 

 だが、ルティとしては、後で知ったがそう思われたのは不本意で、搾り尽くして殺さないでね、くらいにしか思っていなかった。

 ルティは、ティアとは人のように付き合っているが、彼女が魔獣であることは忘れていない。

 差別や偏見ではなく、魔獣が持つ種特有の個性を尊重するがためだ。

 

 さすがに同室のときにラミア特有の食事はしてほしくないと思うし、見えなくともそれによって人が死ぬことは許容したくないとルティは常々言っていた。

 ましてや、死ぬことがないからといって、食事の対象がアービィになることは、何があっても許さない。当たり前じゃない、あれはあたしのもの。

 しかし、ルティはラミアの食事を一切否定する気も、全くない。

 ティアにとっての食事とは性交と半ば同義であり、食べ物だけではラミアが生きる上での必要条件が満たされないことは、重々承知していた。

 

 

 ティアは宴の最中、ある想いに囚われていた。

 特編中隊は、北の大地に渡ることなく、ここからベルテロイに戻る。確かに指揮官を始め、副官以下ラシアス中の精鋭が揃っていると言っても過言ではない集団だ。だが、彼らに人相手の実戦経験は、皆無だ。これで最北の蛮族と相対したとき、その戦闘力を十全に発揮できるかと考えると、その答えは否だった。

 自分を含め異形の者に対してであれば、彼らは躊躇いもなく剣を振り降ろせるだろうが、人の形を取る者に対しては剣に躊躇いを持たせずにいられるかは疑問だった。

 

 ランケオラータに付き従う軍の詳細は知らされていないが、おそらく南大陸の一般常識から導き出される精鋭が選抜されるのだろう。

 それは、まず間違いなくランケオラータの領地で近衛と呼ばれる立ち位置の者たちのはずだ。ティアはここまで見てきて、近衛の軍が実戦に通用するとは、到底思えなかった。彼らにできることは、威儀を正し、王族の権威の象徴であること。それ以上でもそれ以下でもなく、実戦に投入すべき軍ではないと、ティアは見ていた。

 独立混成大隊の下士官たちが抱いた危惧と同様の危機感を、ティアは感じていた。

 

 

 確かにティアが思った通り、独立混成大隊はハイグロフィラ領とカトスタイラス領の近衛に相当する私兵部隊から抽出した軍だ。

 当然、領主屋形の警護が主たる任務で、魔獣や野盗の討伐に出ることはほとんどなく、人を斬った経験は皆無に等しい。

 武芸には優れ、道場剣法ではない実戦スタイルの剣技を身に付けてはいるが、その剣が実際に人に向かって振るわれたことは、数えようと思えば片手にさえ余るほどだった。

 

 実戦経験がない軍が、極限状態に陥った際に脆いことは、指揮官の資質を差し引いても昨秋の恥辱が物語っている。

 おそらく、集団戦の指揮に長けたルムが相手でなくとも、実戦慣れした北の民に乱戦に持ち込まれたら、独立混成大隊には成す術はないだろう。訓練という予定調和の中でしか剣を振るう必要のない軍人と、毎日を戦乱と闘争に費やす戦人が相対したとき、どちらが生き残るかなど考えるまでもない。

 騎士や貴族の名誉ある戦いのような様式美に則った決闘と、何が何でも生き残ろうとして、そのためには手段など選ぶ余裕などあるはずのない戦いとでは、考え方からして大違いだ。

 

 独立混成大隊は、南大陸の常識が通用しないところで闘わなければならない。

 だが、それを理解できているのは、指揮官と一部の参謀たち、そして魔獣や野盗討伐の経験を積んだ後に、各領の近衛に相当する部隊に抜擢されていた歴戦の下士官たちだけだった。

 口煩く訓練と実戦の違いを部下に伝えようとする各級指揮官を、部下将兵たちは次第に疎ましく感じるようになっていた。

 

 

 爽やかな寂しさを残しつつ、アービィとルティ、そしてティアの三人は、ウジェチ・スグタ要塞からベルテロイへと引き上げる近衛第二師団特別編成中隊を見送った。

 そして、少しふらつく足取りで、南大陸と北の大地を隔てる地峡を渡り始めていた。

 ランケオラータ救出の際には、リジェストから間道を縫って北の大地へ渡ったため、早朝に出発してワラゴのいる集落に到着したのは夕刻近くだった。

 だが、今回はより北の大地に近い地点からの出発であるため、最も近い集落には昼前に到着できると聞いていた。さらに、そこを経由してワラゴのいる集落まで行くなら夕刻前に、直接目指すなら昼までには無理でも、まだ陽の高いうちにたどり着けるらしい。

 ラシアスの騎士団長であり、現ウジェチ・スグタ要塞の総指揮官ラルンクルスからは、昨夜そのように聞いていた。

 

 ラルンクルスは、アービィがいなければ、愛娘に対する愛情にも似た感情と敬愛を抱く摂政ニムファが、覇権欲に囚われることはなかったと思っている。

 その点でアービィに対して良い感情を抱けない部分もあるのだが、それはアービィの責任ではないことも充分すぎるほど理解していた。

 まずもって宮廷魔術師のドーンレッドが勇者召喚などしなければ、ニムファは国を想い民を想う優しい娘のまま、政治を学ぶことができたはずだった。

 そして、この若者がそれまでの生活を台無しにされることも、なかったはずだった。

 

 自分も召喚の場に居合わせた以上、アービィの人生を叩き壊した罪から逃れることはできない。

 例え、アービィがそのことを全く気にしなくなっていたとしても、ラルンクルスから罪の意識が消えることはなかった。今更それを言っても、十年以上の月日が取り戻せるはずもない。異世界とこの世界の時間の概念が違えば、もしアービィを元の世界に送り返せたとして、数百、数千の年月が過ぎていないとも限らない。

 最悪、アービィがいた世界は滅び、消滅しているかもしれない。

 ラルンクルスは自分にできることは、これから最北の蛮族を討つ若者に対し、全力で支援することだと思っている。

 そして、今は行方を眩ませているドーンレッドを探しだし、アービィを召喚した瞬間に戻す、つまり召喚しなかったことにする方法を探求させることしかないと思っていた。

 

 

 アービィたちは道に迷う危険性を避け、まずは地峡から最も近い集落に入っていた。

 そこでランケオラータたちの動向を確認したところ、この集落で一泊の後にワラゴの集落へ向かったということだった。護衛を雇ったかどうかも訊ねたが、この春から凶悪な合成魔獣が一切出ないことから、護衛というよりはポーターを五人雇っていったらしい。もともと北の大地の道は、馬車が通るほどには整備が行き届いていない。

 人が歩くには問題ない程度の凹凸でも、馬車の車輪を通すと耐え難い振動となってしまうからだ。

 

 このため、乗車用であろうと荷駄用であろうと、ウジェチ・スグタ要塞から最短の集落まで人と荷物を運んだら、魔獣がいてもいなくてもそこから引き返さざるを得なかった。

 そこからは三人と苗を担いだ五人の神父たち、そして荷役に雇った者五人たちだけで、徒歩でパーカホを目指している。

 家畜まで連れて行くことは不可能だったので、独立混成大隊が到着するまで家畜たちはリジェストの町の酪農家に管理を委託してきてあった。

 

 ランケオラータやルムが危惧していた合成魔獣のほとんどはアービィが殲滅していたのだが、その事実に気付いた者はほとんどいない。

 合成魔獣を使役していた最北の蛮族でも、グレシオフィと高位の幹部数名以外には、そのことは伏せられていた。

 小さな集落で昼食を取った後、アービィたちはワラゴのいる集落を目指して、足早に山道を進み始めた。

 

 

「久しぶりだな、南の住人たち」

 ワラゴが懐かしそうに言った。

 まだ百日と経っていないが、ずいぶんと時間が過ぎ去ったように思えていた。

 

「まだひと季節しか経ってませんよ。これでも急いできたつもりなんですって」

 アービィが苦笑交じりに答える。

 

「お前たちの連れは、先日パーカホに向かって行ったぞ。女連れだし、運ぶものも多かった。急げば途中で追いつくのではないか。狼が走ればすぐだろう?」

 ワラゴがランケオラータたちの状況を教えた。

 

 男所帯や冒険者稼業に慣れた女性であれば、行った先で適宜必要な物を買い集めて済ませてしまうが、つい先日まで貴族の家庭で育っていたレイはそうもいかなかった。

 ラガロシフォン領の建て直しで多少の苦労を知ったとはいえ、不足した物資はボルビデュス領からすぐに送り込むことができたため、生活必需品の不足という状況など想像すらできないことだった。

 いくら後から追ってくる独立混成大隊が生活必需品を運んでくるとはいえ、それまでにも着替えや化粧品等、細々と使う物をいろいろと持ち込んできている。北の大地の状況をランケオラータから聞いて、それなりに荷物は厳選したのだが、それでも通常の旅人の荷物とは比較にならないほどの量に膨れ上がっていた。

 馬車に乗っているときには気付かなかったその量に、ルムは半ば呆れ顔になったものの、ヌミフに少し分けてもらえないかとレイに頼み込んでいた。

 

 

 アービィはリジェストで南大陸の酒と茶をワラゴへの土産として買い込んでいたので、それぞれの酒を酌み交わしながら話し合っていた。

 既に陽は沈みかけ、これから山岳地帯を降りることは無謀だった。馬車ではないので、松明でもあれば暗闇ではないのだが、それはそれで面倒な話だ。一本の松明が明朝まで燃え続けるわけでもないし、危険を冒して徹夜で走ってまで追いつくほどのことはない。

 今夜はこの集落に腰を落ち着けて、明日の朝早くに出れば、それで充分だとアービィたちは判断していた。

 

「なんでも六百人近い軍を連れてくるそうだが、その食料をどうするのか聞いたのだよ。北の大地でいきなり六百人分の食料は購えないからな。そうしたら運ぶと言うじゃないか。どういうつもりか、分かるかい?」

 ワラゴが心配する点は、そのような大人数を連れてきても食糧不足で自壊するのでは、という点だった。

 

 運ぶと言われても、北の大地の道は大量輸送には向いていない。

 兵一人一人が運べる量など高が知れている。

 そのうえ現在の平野部には、勢力圏を追われた中央部の民までが犇めいている状態だ。

 そのような状況で、六百人の腹をどうやって満たすのか、ワラゴには想像も付かなかった。

 

「多分ですけど。後から来る軍は、しばらくこの辺りの集落に、分散して滞在するんでしょう。精鋭部隊を抽出して、ランケオラータ様を追わせる。残りが何分割かになって、ウジェチ・スグタ要塞とこの辺りを往復して食糧なんかの輸送を担当して、他が道の整備をするんじゃないでしょうか。それで荷馬車が通れるようになったら、一気に進むんじゃないかと思いますよ」

 ティアが答えた。

 

 ほぼ間違いなく、その通りだろう。

 そうして戦略拠点を山岳地帯と平野部に築く。互いに距離がある集落や村を連結するように宿営地を恒久化し、南大陸から商人を呼び込んで、軍だけではなく民間も戦略物資の輸送に活用するつもりだ。

 その過程で山岳地帯の集落は、物資の集積基地化されるだろう。

 

 当然カネが落とされ、それを原資にして軍や南から来る商人相手に商売を始めることは、充分可能だ。

 今のうちから南大陸から食料を輸送する段取りを付けておけば、軍はその戦力を道の整備に集中できるし、山岳地帯の集落には巨額のカネが落ちる。

 既に南大陸との交易で貨幣経済が確立されつつある山岳地帯の民たちに、不都合な要素はほとんどない。

 だが、もうちょっときちんと説明しておいてほしかったと、ティアは思っていた。

 

「さすが慧眼だな、蛇の女神殿。では、我らは今のうちから、軍相手の商売を準備しておけばよいと?」

 ワラゴもそれなりに目端が利くためか、すぐに話を理解している。

 彼は集落の指導者層ではないが、それなりに各方面に顔が利く。暫く待たれよ、と言い残し、彼は住居を出ていった。

 暫くして彼は、集落の指導者と商に敏い者たちを連れて戻ってきた。

 

「話を詳しく聞かせていただけるかな? もとより我らは南大陸と事構えるつもりなどありはしない。それに、ここで恩を売っておけば、後々移住もしやすくなろうて。いや、我ら年寄りはもう動く気はないが、若い者たちに道を示す義務があるからな。もっとも、若いもの全てが移住されては困るがの」

 壮年から老境へ差し掛かろうかという男が、連れてこられた一団を代表して言った。

 

 ティアは、ワラゴが集落の指導者たちを呼びに行っている間に纏めた考えを、南大陸の商習慣も交えつつ説明する。

 なによりも、この集落を含め山岳地帯を、蛮族討伐の軍事拠点に作り上げなければならない。今のところ最北の蛮族たちは中央部を席巻はしているものの、山脈地帯を越えて平野部に雪崩込む気配はないとはいえ、そうなったら次はこの山岳地帯が狙われることは考えるまでもない。

 南大陸に尻尾を振るのではなく、協力してこの難事に当たる。指導者はそう考えていた。

 

 商に敏い者たちといっても、商人として日々の糧を得ているわけではなかった。

 狩猟を主な生業としているが、それができないときに南大陸との交易で糊口を凌いでいたに過ぎない。

 だが、他の集落にはそれを生業とする者もいるので、いきなり商業ルートの構築から始めるというハンディは山岳地帯の民全体で考えればないと考えてよい。

 

 今はその者たちと共同で、一刻も早くリジェストに食料の仕入れルートを確立する必要がある。

 後から来る軍にしても、部隊を分けるよりは戦力を集中したいであろうし、リジェストに商業ルートを確立するなら軍が来る前でなくては、弱小な北の民が食い入る余地がなくなってしまう。

 まずは保存の利く主食類の購入確保だ。

 

 幸いなことに、ストラーの商人たちにとってラシアスは御得意様だ。

 ストラー国内が食糧不足にでも陥らない限り、発注すればしただけ商品を送り込んでくる。ラシアス王国にしても、食料を始めとする商品が国内にはいることは関税や通行税の増収に繋がるため、歓迎することであり過剰に税率を上げて妨害する要素など微塵も見当たらない。

 今までであれば間道を使って細々と通商するしかなかった。

 だが、ウジェチ・スグタ要塞総指揮官がランクルスに代わっている今、彼がアービィに抱く罪悪感が北の大地への輸送に最大の助力となることは間違いない。

 

 酒を飲みながらではあったが、これからの生活に希望を見いだした山岳地帯の民たちも、ランケオラータたちを支援する方策に見通しが付きそうなアービィたちも、次から次へと考えが湧き出し、酔う暇などまるでなかった。

 結果として、明朝を期してアービィたちはウジェチ・スグタ要塞に集落の者を連れて逆戻りし、ラルンクルスと交易の利便について交渉することになり、ワラゴは他の集落との連絡に走ることになった。

 

「今って、パーカホまでの行程で、食べ物は採れてます?」

 アービィがワラゴに聞いた。

 以前来たときは、角を持った大型の草食獣が狩れるとのことだったし、橇が使えたため、ある程度食糧の携行が楽だった。

 現在の状況によっては、この集落でどれほど食料を調達していかなければ行けないか、それを確認しておかなければならなかった。

 

「草は少ない。下手に取って喰うと腹を下すからな。慣れないことは、しないことだ。獣は、結構採れるぞ。お前たちなら、雑作もなかろう。だが、水には気をつけろ。平野部に出ると、いきなり腹を下す水ばかりだ」

 南大陸でも馴染みのあるウサギや、鹿といった小型から中型の獣たちが、今こそ次世代を残す時とばかりに山野を駆けている。

 それを狙うキツネや熊も彷徨いているため、狩猟ができるならそれほど食料に困ることはないだろう。ワラゴが言うとおり、アービィとティアが獣化して狩りをすれば、三人が十日間喰うには充分すぎる獲物を狩ることは雑作もないことだ。

 しかし、平野部に出ると泥炭層を染み透った水か、細かい泥を大量に含んだコーヒー牛乳のような水がほとんどだ。

 飲料に適した水は、普段からそこを行き来している人間しかそのありかを知らない。

 

「じゃあ、パンを十日分買えますか? それと、ワラゴさんにパーカホまでの案内をお願いしたいんですけど、いいですか?」

 ルティが訊ねた。

 

 いっそアービィは狩った獲物を丸ごと食えば、栄養バランスはほぼ完璧だ。

 この時代、まだ栄養学などは発達していないが、それでも経験的な食べ合わせや、単食の危険性は認識されている。肉しか口にしない十日間は、間違いなく便秘を引き起こし、改善策がなければそのまま体調不良が続いて、いざというときの命取りになりかねない。

 もちろん短期の便秘で即命の危険が出るというわけではないが、体調不良による判断力や反射の低下が恐ろしかった。

 

「それくらいなら大丈夫だ。カネでもいいし、明日何か狩ってきてくれてもいい。案内は了解した」

 ワラゴは少し思案の後答える。

 売ることに問題はないが、在庫に不安があった。

 カネは食えないので、短期的には何か狩ってきてくれた方がありがたいと考えていた。

 

「解りました。明日、狩りしてから出掛けましょう」

 アービィが答える。

 そういえば、最後に獣化したのは、ビースマックでメディ一家が危機に陥って以来だ。

 何かをするためでなく狼を解放したのは、一年以上も前にビースマックでメディと出会う直前に、ギーセンハイム近くの川で水浴びして以来だ。

 今まで獣化の必要がなかったからなのだが、特編中隊と同行していてはおいそれと獣化はできないという理由もあった。

 しかし、シュットガルドを出て以来、平穏であったことは確かだ。

 闘争のためではない獣化も悪くないと、アービィは水浴びした夜を思い出しながら考えていた。

 

 

 翌朝、不必要に早く目覚めたアービィは、多少酒が残った頭を振りつつルティとティアを起こし、手早く支度を済ませると集落を出た。

 宿のような気の利いた施設などないため、三人にあてがわれた小屋で昨晩打ち合わせした結果、獣化はアービィのみでティアは弓矢で狩りをすることになっていた。

 

 集落が見えなくなった所で、アービィは茂みに潜り込む。

 服を脱ぎ、バッグにしまい込むとひと息ついた。辺りの枝をへし折る音が響き、茂みの中から巨狼が姿を現した。

 

「久し振りね、元気になった?」

 ルティが愛おしそうな表情で、巨狼の鼻面を抱えながら言う。

 

――うん、もう大丈夫――

 アービィが念話で答える。

 

――じゃ、行ってくるよ!――

 そう言い残すと、巨狼は音もなく茂みに姿を消していった。

 

 

 北の大地は、短い夏を謳歌している。

 日差しはそれなりに強くなっているが、乾燥した風が熱さをあまり感じさせず、南大陸のじっとりとした夏に比べ、はるかに過ごしやすい。ルティは、この気候は南大陸の住人にとって、避暑地として大きな価値を持つと思っている。多くの人が訪れるならば、そこには少なくないカネの動きと、雇用が生まれる。

 獲物を追いながらも、ルティの思考は北の民が自立した生活を送るにはどうすればいいか、そのことで占められていた。

 

 アービィは獣化した後、獲物を狩りつつ山を駆けた。

 短時間のうちに鹿二頭に熊と猪をそれぞれ一頭ずつ狩っていた。念話でルティとティアを呼び、自分の背に獲物を括り付けて集落の近くまで運ぶ。ワラゴは自分の正体を知ってはいるが、わざわざ騒ぎを起こすことはないと思ったからだ。

 背から獲物を下ろし、集落に運び込んでワラゴに渡す。

 

「これでパン十日分くらいになります?」

 アービィが聞いた。

 

「ああ、充分すぎるな。干し肉と合わせて、二十日分くらい持っていくか?」

 ワラゴが笑いながら答えた。

 

「ワラゴさん、ちょっと時間ありますか? 誰かに鹿を捌いておいていただけると助かります。その間に、ちょっと一緒に来ていただきたいんですが」

 狩りの間に、アービィは望んでいた物を見つけていた。

 

 清冽な清水が流れる底床が小砂利の川に自生していた、丸みを帯びたハート型の葉を持つ抽水性の植物。

 砂利の中に伸びる節くれだった地下茎は、間違いなくアレだった。試しに葉を齧ってみたが、鮮烈な辛味が鼻を突き抜け、アービィは思わずその場で鼻をピスピス鳴らしてしまった。

 南大陸では見ることのなかった山葵を見つけたとき、これは良い商売になるとアービィの直感が告げていた。

 記憶の中にあった知識ではここの冬を越せない植物だと思っていたが、異世界なので多少耐寒性も違うのだろうとなんとなく納得する。

 集落から出て再度獣化すると、ワラゴを乗せてワサビの自生地へと向かっていった。

 

――これです。これは、北の大地の特産物にできますよ――

 アービィがウキウキしながら言う。

 狩りの際にツルマメも見つけていたので、醤油と味噌の当ても付いていた。

 

「ダメだ、狼。これは、毒草だ。辛いだろ、危ないぞ」

 ワラゴの答えは辛辣だった。

 

――誰か、これを食べてお腹下した人っていますか?――

 アービィが聞く。

 

「いや、辛くてな。毒に当たるほど大量に食った者はいない。腹を下したという話も聞かないな」

 実際のところ、初めてこれを食べた人は、葉を一口食べて辛さのあまり吐き出してしまったらしく、それ以来食べられるものではないという認識になっていただけだった。

 地下茎を摩り下ろして薬味として使うということは、まだ誰も試していないらしい。

 

――じゃあ、ちょっと良いこと教えますよ。帰ったら、食べてみてください――

 そう言うとアービィは、手ごろなワサビを数本引き抜いてもらった。

 

 半信半疑のラワゴを乗せて集落に戻る。

 鹿は捌き終わっていたので、適当な固まり肉に切り分け塩を塗りこんだ。

 タマネギとハーブを何種類か刻み、浅い大きな鉄鍋を熾き火で熱してから肉の六面全てを焼き固め、火から距離を取ってとろ火の火加減にする。

 肉の周囲にタマネギとハーブを散らし、小さな鉄鍋を被せて暫く放置した。

 串を刺して中まで火が通ったことを確認してから、肉を火から下ろして冷まし、肉汁を落ち着かせる。

 その間に鍋に残った肉汁に酒を加えて煮詰め、塩コショウで味を調えた後、目の細かいザルで漉してグレービーソースもどきを作った。

 ワサビの地下茎の皮を剥き、摩り下ろしてグレービーソースと薄く切った鹿肉のローストに合わせて試食してもらう。

 

「まぁ、お前の言うことだから、大丈夫とは思――なんだ、この……喰ったことのない鮮烈な味はっ!?」

 ワラゴは、この世界で初めてワサビを堪能した男になった。

 

「ちょっと、あたしの分は?」

 ルティがすかさず皿とフォークを持って肉を奪う。

 アービィが止める暇もなく、ルティはワサビをたっぷりと付けてから口に放り込んだ。

 

「ティアにもあるよ。集落の皆さんの分も。ワサビは、ちょっとだけですよ。多すぎると、ああなりますから」

 指さした先には、涙と鼻水どころかだらしなく口を開いてよだれまで駄々漏れにして立ち尽くし、声も出なくなったルティがいた。

 

 この他にも、茎の塩揉みを刻んで炙った干し肉を薄く切ったものとパンに挟んだサンドウィッチや、鶏わさ、テンプラもどきを作ってみたところ、どれも辛味が新鮮で好評だった。

 再生産の難しい作物といえるワサビは、大量に採取してしまうとその年限りになってしまう。もともと消費量が少なくて済む商品でもあるため、採取量に気を使い自生地の保全と新規のワサビ田の開墾を進めれば、山岳地帯にとって有力な交易の材料となるだろう。

 この他にもテンプラにできる山菜なども多種見つけられたため、季節によっては大きな収入源を確保できたことになる。

 大量栽培が可能なものは少ないため、持続可能な資源として利用規制は厳しくしなければならないが、そこは山岳地帯の民に任せるしかない。

 

 このまま酒盛りが始まってしまい、アービィたちがランケオータたちを追って山岳地帯を下るのは、なし崩しに翌日にずれ込んでしまった。

 さまざまなワサビ料理を集落の若者たちに教えながら作っていたアービィは、ツルマメを使った醤油の作り方を考えている。平野部ではかなりの量が取れるらしいので、醤油だけでなく豆腐やモヤシなど、新しい産業が興せると思っていた。えんどう豆があれば水耕栽培で豆苗も作ることができる。土地が痩せている北の大地にはうってつけだろう。

 ほかにも水耕栽培できるものはないか、アービィは記憶の底を漁っていた。

 

 

 翌朝、十日分の食料を担いで集落をたったアービィたちとワラゴは、ランケオラータたちの後を急ぎ追った。

 確かに地峡を渡って以来魔獣の気配は感じないが、警戒を怠るわけにはいかない。

 

「ねぇねぇ、僕が獣化して荷物全部担いじゃえば、少しは早く進めるんじゃない? 多分、獣とか魔獣も寄ってこないだろうし」

 アービィが提案した。

 

「そうね~。今更隠す必要もないもんね。じゃ、お願いしようかしら」

 ルティが同意した。

 アービィはそそくさと茂みに消えると、獣化して戻ってくる。

 

――いいよ~、括り付けてくれるかな――

 手が使えないため、荷物の固定はルティやティアの役割だ。

 

「相変わらず、心臓に悪いが……改めて見ると、いい毛皮だな。これなら寒さも心配なかろう?」

 ワラゴが頬を引き攣らせながら言う。

 

 左右に二人分ずつの食料や荷物を振り分けて背負い、アービィは歩き始めた。

 さすがに荷物から解放されたルティとティアの足取りは軽く、それまでとは比べ物にならない速度で道を進んでいる。

 四日後、前方を十五人には満たない集団が、大荷物を担いで歩いているのが見えてきた。

 

――ねぇ、あれランケオラータ様とレイたちじゃない?――

 遠くまで見通せるアービィがまず気付き、ルティに知らせた。

 

「うん、そうよ。一気に追いついちゃいましょう」

 アービィの背に飛び乗って遠くを見渡したルティが答える。

 

――じゃあ、獣化解くからちょっと待っててね――

 アービィは、レイにまだ正体を知られていないことを思い出し、一行の足を止めようとした。

 

「いいわよ、そのままで。レヴァイストル様も言ってたじゃない、レイがどんな顔するか見てみたいって」

 もちろん、ルティとしては悪戯心というわけではない。

 いずれ事があれば知られてしまうのだし、重大な局面で混乱を引き起こすよりは今のうちがいいと考えていた。

 

「そうよ~、ちょっとおどかしちゃいましょうよ」

 ティアも同じ考えだ。

 ティアはそう言うなり、ラミアのティアラを取り出すと獣化した。もちろん、ルティの視線が冷たいので、上半身には服を纏ったままだった。既にアービィもティアも、ランケオラータとルムには正体を見せている。

 大きな混乱はないだろうと思っていた。そのときは。

 

「それにさ、あの人たちの分も背負ってあげたら、アービィ」

 ルティは最初からそのつもりでもあった。

 

――はいはい、僕は馬か――

 完全に諦めた表情でアービィが伝えてきた。

 

 

 遠くから自分を呼ぶ、聞き覚えのある声にレイは振り向いた。

 

 その後が大変だった。

 まず、狼と妖蛇の姿を認めたレイが卒倒し、次いで風の神官が『暴風』や『雷電』を繰り出す。ランケオラータとルムは、狼と妖蛇の正体にすぐ気付いたがレイの介抱から手が放せず、彼らを止めることができない。ポーターたちは完全に腰を抜かし、その場にへたり込んでいる。

 ティアに『暴風』や『雷電』が命中すれば大怪我になってしまうので、アービィが片っ端からその身で受け止めていた。

 ルティとワラゴは近寄るに近寄れず、ランケオラータとルムが止めに入り、神官たちの呪文使用回数が尽きるまで、風の刃と雷光が舞い続けていた。

 

 

――ごめんなさい~、脅かすつもりだったんですぅ~――

 情けない念話がランケオラータとルム、目の焦点がまるで合っていないレイに届いた。

 ティアの姿を認めたルムが、顔面蒼白になり地べたに平伏する

 

「私が付いていながらティア様に刃を向けるなどという狼藉、誠に以て申し訳なく――」

 気のせいか声が震えている。

 

「あの、悪いのはこちらですから、どうかお顔を上げてください」

 恐縮したティアが取り成した。

 

「ごめんなさい。こんな大事になるとは思わなかったんです……」

 発案者であり主犯のルティが、決まり悪そうに続いて謝った。

 

 アービィは騒ぎが一段落したところで、傷口を舐めている。

 神官たちが『快癒』を掛けようとしたが、既に傷口は塞がり始めていたため、念話で丁重に断り、届く範囲の傷口を丁寧に舐めていた。

 

「アービィ殿でしたか。知らぬこととはいえ、大変なことをしでかしてしまい、申し訳ございません」

 アマニュークの一件で顔見知りになっていた神官が謝るが、アービィも悪ノリしていたので自業自得だ。

 

「もう、あなたたち、勘弁してよ……本気で死ぬと思ったわ。いきなり大きな狼とラミアが近付いてくるんだもの。荷物背負った狼なんて変だなとは思ったけど、やっぱり怖かったんだからっ。でもね、アービィが人狼で、ティアがラミアだったなんて……。今まで全っ然、気付かなかったわ。それに、アービィ、何よ、脅かすつもりだったって」

 半泣き状態でレイが言った。

 

「言っておいて良いものかどうか悩んだのだが、な。当人たちからじゃないと、良くないと思って言わなかったんだよ」

 ランケオラータが困ったような顔で言う。

 そのときのレイの恨みがましい視線に気付き、後で夫婦喧嘩の原因にならなければいいがと思うルティだった。

 

「ごめんなさいね、レイ。ちょっと悪ノリしすぎたわ。お詫びといっては何だけど、荷物は全部アービィに括り付けちゃって」

 獣化を解いてからティアが言った。

 

――それ、僕が言うならともかく、何でティアが……そのつもりだけどさ……――

 アービィが抗議するが、ルティが率先してレイの荷物をアービィの背中に括り付けていた。

 

「どう、重くない?」

 一応、表情だけは心配そうにしたルティが聞く。

 

――うん、全然平気なんだけど、もう乗らないかな?――

 アービィは平然とした表情で答える。

 まだ少し積み残しているが、これ以上は荷物が安定しそうにもなかった。

 

「アービィ、それくらいは持てるわよ。ありがとう」

 一度死ぬほど驚いた後は、レイはすっかり狼のアービィに馴染んでいた。

 

「パーカホに着いたあとは、滅多のことでは獣化しないでくれよ。あそこには、ごく普通の南大陸の住人も多いからな」

 ランケオラータが一応釘を刺す。

 

――解りました。近くまで行ったら元に戻ります――

 アービィとしても、安心して獣化できる環境があるならいいのだが、余計な混乱を引き起こしたいとは思っていなかった。

 

 やがて十六人と一頭の集団は、パーカホの村を目指して再び歩き出す。

 アービィの毛並みが夏の日差しを反射して、美しくきらめいていた。


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