狼と少女の物語   作:くらいさおら

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第74話

 一夜が明けた。

 

 ルティは素肌にシーツを纏い、丸くなった巨狼の腹に埋もれていた。

 アービィが敢えて獣化した後、ルティはそのしなやかな毛皮の感触を素肌で楽しんでいたが、落ち着いてくるとあまりのくすぐったさにシーツにくるまっていたのだった。

 先に目を覚ましたルティは手早く服を着ると、この世にある全ての幸せを独り占めしたような表情で眠りこける巨狼をそのままに、そっと部屋を後にした。

 

 顔を洗っているところにティアが来て、黙ってルティの肩を叩いた。

 そして、驚いて振り向いたルティに向かい、無言のまま頷いて見せる。

 ルティの顔が、爆発したかのように真っ赤に染め上げられた。

 

「よかったね、ルティ」

 ティアが真っ赤なままのルティに声を掛けた。

 

「うん。でもね、最後まではしてないの」

 ルティは少々残念そうに言った。

 

「また途中で獣化?」

 額に指を当て、俯きながらティアが聞く。

 

「ううん、違うの」

 ルティは、まだやらなければならないことが山積している状態で、子供ができてしまうことを恐れた結果だと言った。

 まだ避妊具が普及していないこの時代、セックスはそのまま妊娠に直結していた。

 

 もちろん、女性の性周期についての知見もまだ蓄積されておらず、ルティは自分自身がどういう状態かを把握していなかった。

 もし、これでルティが妊娠したら、旅はここで終わりだ。

 最北の蛮族の脅威が迫っている状態で、妊娠したルティが北の大地に残ることは危険すぎた。

 

「でもね、獣化しなかったのよ、抱き合ってても。それに、えへっ」

 そう言いながらルティの顔は、また真っ赤に染まっていた。

 ティアは、満面の笑みで持っていたタオルを、床に叩き付けた。少しは照れなさいよ、もう、幸せそうなんだから。

 

 

 ラシアスの王都アルギールでは、しめやかに先王ロマリア=グランデューサの大葬礼が執り行われ、次いで翌日、盛大にニムファ女王の即位式が挙行された。

 即位式の後、アルギール城の貴賓室では、王たちの懇親を深めるための宴が行われている。

 

「お悔やみと、祝辞を同時に言わなければならないのは、複雑な気分ですな」

 インダミト王バイアブランカは、ラシアス女王に即位したニムファに軽口を叩く。

 

「申し訳ございません、バイアブランカ殿。ですが、国の、いえ、南大陸の危急時故、王位の空白による混乱を防ぐためのことと、お察しいただければ幸いです」

 軽口の真意を察することなく、ニムファは答えた。

 

 本来であれば、王の大葬礼の後に即位式は行われるものではない。

 大葬礼を取り仕切る者がそのまま即位するのが習わしであり、事実上の即位式になっていた。

 弔事と慶事を同時に行うことははばかられていたため、先王の喪が明ける一年後を目安に盛大な即位式が行われるのが慣例だった。

 

 だが、ニムファは待てない。

 今すぐ、認められたかった。

 既に各国の王たちは、先王ロマリアが病に倒れ、政が不可能になって以来、ニムファを実質の王として遇してはいた。

 だが、摂政はあくまで摂政であり、形式上ではあっても重要項目に即答は許されていなかった。

 そのフラストレーションが、前代未聞の大葬礼と即位式の連日挙行として表れていた。

 

「臣民を想う心根、敬服いたしますぞ」

 盛大な嫌味を込めてバイアブランカが言ったが、ニムファはその真意はついに解らなかった。

 

「ときに、カレイジャス殿、貴国の勇者殿には、一方ならぬ世話になった。この場を借りて礼を言わせていただきますぞ」

 ビースマック国王ブルグンデロットが、バイアブランカのファーストネームで呼びかけた。

 

「こちらもです。お陰様で我が国は、戦乱の引き金を引いたという汚名を被らずに済みました。いくら感謝しても、し切れませぬ」

 ストラー国王サウルルスが後を追う。

 

「いや、勇者殿は我が家臣ではございませぬ故、我が身には感謝など過分なこと。そうでありましょう、グランデュローサ女王」

 バイアブランカはニムファに話を振った。

 一瞬奥歯を強く噛みしめたニムファは、必死に笑顔を張り付けにこやかに頷いてみせる。

 

「そうそう、ニムファ殿にも礼を言わねば。我が国が騒乱になりかけた際、援軍を送っていただきましたな。幸い、国境到着以前に片が着きました故、お手を煩わすこともなく、胸をなで下ろしておりました。あのようなお気遣いをいただき、感謝の言葉もございません」

 ブルグンデロットはニムファの胸の内など知らぬとばかり、馬鹿丁寧に言葉を紡いだ。

 

「いえ、友邦の地が騒乱に渦中にあるなど、見過ごせるはずもございません。大したことはできませんでした故、お気遣いなどされては却って心苦しいといいものでございますわ」

 ニムファは慎ましく返す。

 

「友邦の地が騒乱の渦中といえば、北の大地もそうですな。最北の蛮族どもが、中央に住まう民を押し下げ、そして山脈地帯、平野部、山岳地帯と順繰りになっている様子。古来より、北の民の南下圧は貴国にとって最大の障害でしたな、ニムファ殿。ベルテロイの若者たちが諮って、最北の蛮族を討つ算段をしているようです。ここはひとつ、彼らにそれを任せてみようではないですか。勇者殿も北の大地でご活躍のご様子なれば」

 バイアブランカが徐々に話題を核心へと導き始めた。

 

「南大陸として、各国がそれぞれに動いては、最前線が混乱しますな。統一の指揮系統は必要でしょう」

 ブルグンデロットが相槌を打つ。

 

「過日、カレイジャス殿のご発案として、娘より聞かされていた共同統治機構ですか。まず、北の民との問題を解決するという場で、試そうと仰るか? 民の総数も増え、それぞれの国が抱える問題も増える一方。事によっては我が国の愚か者どもがご迷惑をお掛けしたような事態が、またないとは言い切れませぬ。この機会に各国が常に話し合える場を設けようというわけですな?」

 サウルルスが訊ねた。

 

「左様にございます、オキプス殿。いくつかの考えがありましたが、駐在武官を通して以前お知らせしたような形を考えておりました」

 バイアブランカがサウルルスにファーストネームを呼びかけ、旧の構想から説明する。

 

「統治機構の第一人者は、どのようにお決めになるおつもりでしょうか? また、どれほどの権限を付与されるお考えですか?」

 ニムファが訊ねた。

 

「誰が第一人者になるか、ということでしたら、各国の代表者、これはそれぞれお決めいただくとして、その者たちで一年毎の持ち回りとしましょう。当然、危急時や継続すべき懸案事項があれば、協議のうえ継続もあり得ること。権限ですが、懸案事項の決が割れたときの決定権程度で、あとは、決議があれば代表して発表といったところでしょうか。統治機構の機能としては、各国間の紛争があった場合の調停、紛争まで至らなくてもですな。何処かの国において専制政治の兆候があれば、これの是正勧告、懲罰まで含めましょうか。まだいろいろとありますが、重要な部分はこの二点です」

 バイアブランカがあらましを説明する。

 

「その程度で第一人者といえるのでしょうか? もう少し、権限を強化して、例えば連合軍の指揮権なりまで付与すべきではないかと思いますわ」

 見事に、ニムファは墓穴を掘った。

 バイアブランカはもう少し小出しにして誘うつもりだったが、軍事力の集中を求められたなら、これで充分だった。

 

「さようですな、そのような権限は第一人者を南大陸の、いや、両大陸の覇者としましょう。危険。危険すぎます。かつての大帝国が、どのような道を歩み、どのように滅びたか。愚者は己の経験に学ぶことで精一杯ですが、賢者たらんとしている我々は過去の歴史に学ぶべきでしょう」

 バイアブランカがニムファの発言を斬り捨てた。

 

「当初はそこまでを考えておりました。力なき正義は無力でしかない。軍事力を背景とした、強制力を持たせた統治機構とするべきと、私も愚考したものです。ですが、今は違う。連合軍は組織しましょう。それは常備の軍ではなく、必要に応じて各国の常備軍から抽出する形でなくてはなりません。軍事力は、第一人者の力としてはいかんのです」

 バイアブランカの説明は明確だった。

 

「そこで、私は構想を練り直しましてな。ベルテロイの駐在武官の私的な集まりを、公式に認めてはいかがでしょう。各国の内政は、それぞれの専任事項です。これに干渉することは、何人たりとも許されざる行為と、私は考えます。ですが、国内において、君主は何をしても許されるというわけではないことは、聡明な皆々様におかれては今更説教するまでもないところ。国政を、外から一歩下がって眺めれば、どこに歪があり、どこで道を違えたかは、内政を見る者より冷静に判断できましょう。また、駐在武官は王族でありますので、それぞれの国に対する責任感も強い。いかがでしょうな、駐在武官たちは、特にベルテロイの防備に忙しいというわけではない。ここを侵さないことは、各国の了解あってのことですがな。彼らに、今後はひと働きしてもらうというのは」

 ブルグンデロットとサウルルスは、二国間での騒乱を起こしかけた過去から発言力が低下しているため、バイアブランカの提案に乗るしかない。

 ニムファは、唇を噛み締め、バイアブランカの提案に賛意を示すしかなかった。

 

「いずれ、北の民からも代表が送られてきます。現在ベルテロイに滞在中のヌミフ殿の兄上であるルム殿か、オンポック殿の伯父上であるプラボック殿のどちらかかと思われますがな。その際には、統治機構はウジェチ・スグタ要塞に移しても良いでしょうな」

 バイアブランカの一言で、両大陸を治める統治機構の骨子が固まった。

 後は、当事者であるベルテロイ駐在武官たちに詰めさせれば良い。

 いますぐ発足できるとは思えないが、向こう二、三年のうちには形になっていくだろう。

 

 最北の蛮族が矛を収め、これに参画する意志があるのであれば、バイアブランカはそれを拒む気はない。

 それだけ市場が増えるからだが、将来の市場を血で汚して恨みなど買いたくないというのが正直なところだ。

 

 

「ところで、勇者殿は我が国が召喚致しました。所有権は我が国のものと考えますが、いかがでしょう?」

 ニムファは第一人者の地位を手に入れることができない口惜しさから、思わず言わでもがなの事に触れてしまう。

 

「過日、勇者殿にお会いした際伺ったところによれば、この地に足を踏みしめた最初の地は我が国の南にあるフォーミットという村だそうです。これは我が国の国民として生まれた、そう解釈もできますな」

 平然とした顔で、バイアブランカはいなした。

 

「勇者殿は、どの国にも隷属はせぬと言っておられた。仕官の意志はないようですな。であれば、無理に縛り付けようとすれば逃げるのが道理。ましてや、魔王すら倒すという力の持ち主を、我々が飼いこなすなど無理と言うもの。せいぜい、冒険者として依頼をこなしてもらうのが関の山でしょうな」

 ブルグンデロットが後を引き取る。

 

「所有権などと、人を人とも思えぬ発言ですぞ、ニムファ殿。私も、勇者殿に我が国に滞在していただこうとしましてな。アマニューク騒動の解決の褒賞として、王都に家を用意したのですが」

 サウルルスが懐かしげな目で言った。

 

「孤児院として風の神殿に寄付されたそうで」

 バイアブランカが笑いながら続けた。

 

「さよう。ああされては、不敬などとも言えませんでした。見事な逃げっぷりです」

 釣られたようにサウルルスも笑う。

 

「とにかく、勇者殿を所有しようなど、最悪国を乗っ取られますぞ。彼の者がそのような非道を働くとは思えませぬがな。付かず離れず、せいぜい上手く利用することを考えればよろしい」

 この話題はここまでだとの意思を込めて、バイアブランカは言い終えた。

 王たちの懇談会は、このあとサウルルスの巧みな話術で、終始和やかなまま終了した。

 だが、ニムファの心にどす黒い影を残していたことは、当人を含め誰も気付いていなかった。

 

 

 珍しく吹雪かない日が十日ほど続いた、ある晴れた日の朝のことだった。

 ウジェチ・スグタ要塞から行軍を開始しようとしている、一個師団規模の軍勢があった。

 ラシアス女王ニムファの命を受け、騎士団長ラルンクルスの解任状を胸に、パーカホへ向かう指揮官ウェンディロフ・ラティフォン・ドン・テネサリム子爵は、ほころぶ表情を隠せなかった。

 

 国軍の総司令官は国王だが、実際は軍務卿が国王の信任の下その任に当たるはずだった。

 本来、騎士団長など、国軍の指揮系統のなかでは、下位ではないが一個師団規模の指揮を委ねられるほどの地位ではない。

 それが、現騎士団長ラルンクルスはその働きぶりと実直さ、比類無き忠誠心が先王の目に留まり、第一王女の信が厚いというだけで、貴族階級ではないにも拘わらず、軍務卿に匹敵する地位を獲得していた。

 

 宰相や、今は行方が分からなくなっている先代の宮廷魔術師などは、それを当たり前と受け止め、閣僚とは違う政治勢力になっている。

 貴族の暴走を止める一種の冷却装置として機能していたが、当然それを快く思わない貴族たちも多数存在していた。

 

 しかし、勇者の召喚と抱き込みに失敗した先代の宮廷魔術師ドーンレッドが失脚して以来、摂政への影響力を一手に収めようとした宰相コリンボーサによって、騎士団長ラルンクルスはウジェチ・スグタ要塞勤務に遠ざけられていた。

 新任の宮廷魔術師にコリンボーサ子飼いの若者を抜擢するに及んで、貴族の暴走を止める冷却装置は、完全に瓦解していた。

 

 ベルテロイ駐在の第三王子へテランテラからの要請で、騎士団長ラルンクルスを総司令官とする南大陸連合軍が、最北の蛮族を討ち果たすために北の大地へと赴いている。

 だが、駐在武官たちが描く長期持久戦略を唯々諾々と受け入れ、ラシアスの勇名を北の大地に示す機会はまだ得られていない。

 そのことを快く思わない貴族たちは、ウェンディロフを筆頭に多数存在していた。

 しかし、インダミト王バイアブランカが裏で糸を引いていることは公然の秘密であり、一国の王に対してその怯懦を非難するような真似をするわけにはいかなかった。

 

 そして、ラシアス兵と北の民の軋轢が原因で、ラシアス部隊が連合軍から事実上切り離されてしまった。

 光輝あるラシアス軍がウジェチ・スグタ要塞防備にその任を限定されたことで、女王に即位していたニムファを始めとした対北の民強硬派の不満は頂点に達していた。

 その結果、それまで最もラルンクスルを信頼していたニムファが掌を返し、コリンボーサの反対を押し切って解任を決めてしまった。

 

 コリンボーサは権力欲こそ強いものの、無闇に戦乱を引き起こすほどに愚劣ではない。

 それどころか最低限の政に関するバランス感覚を有する、それなりに有能な政治家だった

 だが、それがニムファの不興を買い、ラルンクルス解任に勢いを足すことになってしまっていた。

 

 ニムファは宰相解任をちらつかせて、ラルンクルスの更迭と、ラシアス軍独自の最前線展開をコリンボーサに求めていた。

 コリンボーサは、せめて春の泥濘の時期が過ぎ去るまで、指揮官更迭と軍の展開を留まるように懇願していた。

 だが、ニムファは軟弱者の一言で、それを退けてしまっていた。

 

 ラルンクルスの解任後に充てる騎士団長の後任人事は、当初難航した。

 騎士階級からは絶大な信頼を集める彼に、解任状を突きつける役を誰もが引き受けたがらなかったためだった。

 北の大地の実質的な最高権力者が、インダミトの侯爵であることも多少影響している。

 

 どう見てもラシアスの独断専行でしかない独自の最前線展開を、騎士階級の者が侯爵に対してねじ込むなど、国が違うとはいえ気が引けることだった。

 後々国同士の諍いに発展し、詰め腹を切らされては堪らないという心理が働いていたことも、無視できない事情ではある。

 

 騎士階級ではいざというとき、侯爵相手に強く出られないということは、ニムファも理解できていた。

 軍の実質的な指揮官は騎士階級の古強者に任せるとしても、それなりの立場の者を送り込む必要もあった。

 従って、騎士団長の職責は、あくまでも騎士団統率という狭い範囲に抑え、貴族階級の者を連合軍総司令官として送り込むことに決していた。

 

 だが、王都や領地での安穏とした生活に慣れきった貴族の中に、わざわざ厳しい自然が待ち受ける北の大地へ行こうという者は多くない。

 そこへビースマックの政変時に派遣され、国境でヘテランテラに厳重な叱責を受けて送り返されていたウェンディロフが名乗りを上げた。

 

 ビースマックの一件以来、女王の寵愛著しいこの子爵を、当初は侯爵に叙爵のうえ北の大地に送り込むことをニムファは画策していた。

 しかし、さすがに伯爵を飛び越しての叙爵は、多くの貴族たちの反対に遭っていた。特に自らの地位を脅かされるという危機感を抱いた軍務卿の反対は激烈で、他の閣僚たちの眉を顰めさせる程だった。

 だが、反対派の貴族たちを纏めた軍務卿の意見は無視できないうえ、他の閣僚たちにしてみてもウェンディロフのような武辺一辺倒の政治センスに欠ける者の台頭は看過できるものではなかった。

 

 結局、他の閣僚や反対派の貴族たちは軍務卿を煽て上げ、悪役を押し付けてウェンディロフを侯爵叙爵の阻止に成功する。

 それでも言ってみれば見習い貴族ともいえる子爵では、インダミトの侯爵に太刀打ちできるはずもない。

 ニムファの思惑とは別に、コリンボーサはウェンディロフに伯爵の地位を用意していた。

 

 そして、ラシアスの前線派遣師団が行軍を開始しようとしたそのときに、見送りに来ていたニムファの名代から、ウェンディロフ司令官の伯爵への叙爵が仰々しく告げられる。

 軍の志気は天に届かんばかりに上昇し、ウェンディロフはそのとき得意の絶頂にあった。

 最北の蛮族を討ち果たし、返す刀で北の民全てを平定しての凱旋ならば、ニムファの婚約者へ立候補しても誰が文句を付けられよう。

 彼の頭の中には、両大陸の覇者として、全ての民に君臨する自分の姿しか見えていなかった。

 

 

 パーカホでは、短い晴天の間に雪掻き作業が盛大に行われていた。

 牛馬を利用し、鋤を応用した除雪機が活躍し、集落の外に雪の山を築いていく。

 派遣軍の中から黒呪文の使い手を選抜し、積み上げられた雪を片っ端から火の呪文で溶かしていた。

 

 ルティの直感では、あと数日もすれば牛馬すら吹き飛ばされかねない地吹雪がやってくる。

 村の古老も同意見で、ルティの見解を支持していた。

 いかにヴァンパイアといえど、物理的に吹き飛ばされては死なないまでも行軍は無理だ。

 暫くは雪に閉ざされるとはいえ、平穏な日々が続くと思われていた。

 

 

 山岳地帯に、再びラシアス軍が足を踏み入れた。

 前回は連合軍の一部隊であり、現地との融和が最優先されていたため、それなりに紳士的に振る舞っていた。

 だが、今は北の民への蔑視を隠そうともしない、傍若無人な集団に成り下がっている。

 

 ワラゴは集落を代表して、ウェンディロフに面会していた。

 天候が優れないことの危惧、ラシアス軍の装備が厳冬期の活動には、あまりにも軽装であることへの危惧を伝えるためだった。さらには部隊の一部に、パーカホまでは目印ができているはずという、楽観的な予測により厳冬期の北の大地を甘くみる雰囲気が見て取れたからでもあった。ワラゴは、思い上がった南大陸の住人が、いくら凍死しようと知ったことではないが、命令を盲信させられ何故死ななければならないか理解できずに死に行く者を、少しでも減らしたいだけだった。

 勝手に死ぬのはどうでも良いが、死体が春以降に疫病の温床にでもなったら、目も当てられない。

 最後の本音を隠し、せめてパーカホまで道案内をすると申し出たワラゴに返ってきた言葉は、耳を疑うものだった。

 

「余程、カネが欲しいのか? 見ろ、この晴天を。我らは知っておるぞ、貴様等がカネを欲していることなど。道案内にどれほどふっ掛けるつもりだったか、言えまい。我が精強なる師団に、北の民のような薄汚れたモノは必要ない。食料だけ供出していれば、殺さずにおいてやる。ありがたく思え」

 師団の下級参謀に言われ、ワラゴは呆れ返るしかなかった。

 死ぬなら誰にも迷惑を掛けずに死ねと、腹の中で毒づいて司令部を後にした。

 

 数日の間、ラシアス軍は山岳地帯の食料を食い荒らし、平野部へと降りていく。

 ルティが予測した吹雪を運ぶ天候の急変が、牙を研いで待ちかまえていることを、全能感に酔いしれたウェンディロフに見通すことなど、無理な相談だった。

 短い間とはいえ北の大地に滞在した兵も、軍隊という集団生活の中で命令に従って行動していただけであり、北の大地での生き方を身に付けていたわけではなかった。

 後に『死の彷徨』と呼ばれることになる、無謀と無策の見本市とも評される行軍が始まった。

 

 

 最初から躓きの連続だった。

 パーカホを避け、一気に山脈地帯まで進出する計画を立てたのは、ランケオラータやラルンクルスの鼻を空かしてやるつもりだったからだ。

 まず、山脈地帯の哨戒拠点を占拠し、そこに展開する部隊を指揮下に収めた後にパーカホへ赴き、ラルンクルス解任と、ウェンディロフの連合軍総司令官就任を宣言するつもりだった。

 後は軍事力を背景に、ランケオラータから北大陸総督の地位を奪い取り、切り取り放題に利益を貪る気でいた。

 

 しかし、山岳地帯を降り、二日目の行程に差し掛かったところで、早くも北の大地は牙を剥いた。

 それまで晴れていた空に、西の彼方から暗雲が広がっていく。あっという間に薄暗くなっていく周囲を見て、ラシアス北部出身の兵が吹雪の到来を告げた。

 いかに精強を誇るとはいえ、生身の人間が吹雪の中を行軍できようはずもない。早速雪洞造りが始まった。

 

 ウェンディロフの指揮下、下級兵が一斉に雪を掘り始め、見る見るうちに雪洞が作られていく。

 雪がちらつき始め、焦りの色が見え始めたウェンディロフが兵を急かす。

 兵たちは、氷点下に下がり始めた気温と風の中、汗みずくになって雪を掘り続けていた。

 

 やっとのことで師団全員が待避できるだけの雪洞が完成し、部隊の掌握もそこそこにウェンディロフは雪洞に潜り込んだ。

 しかし、汗に濡れた衣服を交換する間もなかった下級兵たちには、一度下がった体温を上げる術がない。

 司令部や騎士階級の者が待避するための雪洞が優先されたため、下級兵が自らのために掘った雪洞は、横穴を掘る余裕もなく、ただの垂直な穴でしかない。

 

 頭上からは雪を巻き込んだ冷風が吹き込み、兵士たちの体温を奪い去っていく。

 煮炊きをしようにも、踏み固められただけの雪の床は不安定で、火を熾せばたちどころに溶け始め、溶け出した水に火は消されてしまった。

 冷え切ったレーションを辛うじて腹に収めた兵たちは、寒さを凌ぐため身を寄せ合い、立ったまま足踏みを続けることで強制的に体温を維持しようとしていた。

 

 兵たちが寒さと戦っている最中、ウェンディロフと幕僚は、狭いながらも快適な雪洞の中にいた。

 こちらも充分な火を熾すことは適わなかったが、風が吹き込まないだけでも兵たちの雪洞とは天国と地獄の差がある。

 辛うじてウェンディロフのレーションを温める程度の火は維持できたが、幕僚たちのレーションは冷えたままだった。

 

 熱いほどに温めなければ、もしかしたら全員の分を仄かに温めることくらいはできたかもしれなかった。

 だが、大勢に傅かれる生活に慣れたウェンディロフに、部下への気遣いを求めるなど、雪の中に炎を求めるより無理な話だった。

 

 体内時計では夕刻を過ぎていたが、熱く垂れ込めた雪雲と吹き荒れる吹雪で、外の明るさからは時間を推し量ることは不可能だった。

 突然吹雪く風の音がやみ、一気に雲が晴れていく。月が顔を出し、辺りを白く染め上げる。

 兵たちは、これでようやく一息つけると安堵の表情に変わり、雪洞の横穴を掘る作業に取り掛かった。

 

 吹雪の中では横穴を掘ることはできても、掻き出した雪を縦穴から外に排出することはできない。

 風避けもない吹雪の中に出て行けば、あっという間に吹き飛ばされるか、雪に埋められるかの二つしか選択肢はない。

 絶望的な状況から一転し、快適な塒を手に入れられるという希望は、兵たちに見えない力を与えていた。

 やがて、雪洞が完成し、一夜を快適に過ごすには充分すぎるほどの空間を、兵たちはやっとの思いで手に入れた。筈だった。

 

 

 夜気を切り裂き、ウェンディロフの号令が響きわたった。

 彼は、行軍の遅れに焦りを感じていた。

 半日以上雪洞で過ごしていたため、睡眠も充分取り、気力も体力も完全に取り戻したウェンディロフは、天候が快復したこの状況で行軍を再開しようとしていた。

 

 幕僚の一部は兵たちの体力回復が先であると進言したが、下級兵の状態など想像すらすることのないウェンディロフには一顧だにされず、却って叱責を受けただけだった。

 ウェンディロフにとって、平民階級の下級兵など、命令すればその通りに動く駒程度の認識でしかない。

 そこには感情もあれば、体力も消耗する人間という認識すらなかった。

 

 庶民階級から見れば雲上人である貴族の命令に逆らうわけにもいかず、兵たちはようやく手に入れた快適な雪洞から這い出し、隊列を組んでいく。

 月明かりの下で行軍が再開され、以前兵站任務に就いていた部隊を教導に隊列は進んでいった。

 だが、このとき、舗装工事の際に目印になることを期待して建てられた雪除けの壁は、南大陸の常識レベルの高さと強度しか持っておらず、厳冬期の風雪に埋め尽くされるか破壊され尽くしていた。

 兵站任務に就いていた工兵たちは万が一を考えて、壁の他に高い柱も立てており、それが辛うじて雪原に頭を覗かせているだけだった。

 

 ラシアス部隊は壁の建設までしか北の大地におらず、柱については計画を聞かされていただけだった。

 雪除けの壁が見つからず道を失い掛けていたが、柱について思い出した兵が、雪原に頭を覗かせる柱の列に気が付いた。

 だが、月明かりの下での視界では、場所によっては二本目の柱を目視することは困難だった。

 夜間の移動など、端から考慮する必要もないため、日中の視界しか意識していない感覚で、道標となる柱は建てられていた。

 

 一本の柱を起点に斥候が次の柱を探し回り、それが確認されてから全軍が行軍するという尺取り虫のような前進と予定外の休憩が繰り返される。

 しかし、吹雪が止んでいるとはいえ、凍り付くような気温の中での立ったままでの休憩は、兵たちの体力を気付かないうちに確実に奪っていた。

 

 山岳地帯からパーカホを中心とする集落群までの間に、道標となる雪避けや柱をくまなく設置する計画ではあったが、雪に妨害され総てを繋げるまでには至っていない。

 柱か建てられていない部分もまだ多く、ラシアス軍は徐々に道を失い始めていた。

 

 

 夜間行軍で疲労を溜めていたラシアス軍に、さらなる試練が課される。

 夜が明けたとき、彼らが見たものは、何の目印もない一面の雪原だった。

 それは、全ての命を飲み込もうとする、白い地獄と言い換えても良かったかもしれない。

 

 夜の間は安定していた天候が、日の出とともに崩れ始め、太陽の方向を見て進軍の方位を求めることもできなくなっていた。

 突き刺さるような風雪は、ラシアスの冬を過ごせる程度の防寒着をあざ笑うかのように、兵も将官もひとしなみに凍り付かせていく。

 天候の急変に対処が遅れ、雪洞を掘る暇もなく、全ての将兵は吹雪に晒されることになってしまった。

 

 ウェンディロフが作業の遅れを大声で罵るが、声は吹雪にかき消されるだけだった。

 兵たちは督戦されるまでもなく、雪洞を掘るという自然との闘いに没入している。

 しかし、それは既に上官たちに快適な雪洞を提供するための作業ではなく、自らの生き残りを賭けた戦いとなっていた。

 

 辛うじて風の直撃を避けられる程度に掘り下げられた雪洞に、兵を押し退けてウェンディロフと上級幕僚たちが潜り込む。

 縦穴だけとはいえ、吹き曝しよりは遙かにマシだが、それでも寒気を凌ぐ役には立っていない。

 

 兵たちは、絶望的な面もちで自らのための雪洞掘りに勤しむが、できる側から上位の者が縦穴を奪い取っていく。

 昨夜無理な行軍を行わず、朝まで雪洞で過ごしていれば、この吹雪もやり過ごせたものをという怨差の声があちこちから上がり始めた。

 だが、その声は既に雪洞に潜り込んだ上級指揮官に届くことはなく、虚しく吹雪の轟音にかき消されるだけだった。

 

 吹雪が小康状態になった隙に、兵たちが潜り込んでいる雪洞では、一斉に横穴掘りが始まった。

 だが、自らの身体を使って何かを作り出すなどという発想が皆無のウェンディロフを含む上級将校は、舞い込んでくる雪を踏み固め続けるだけが精一杯の対応だった。

 横穴を掘る余裕がないだけでなく、横穴をどのように掘れば良いかという、根本的な知識の欠落もあった。

 やがて、吹雪はまたその牙を向き始め、徐々に浅くなる縦穴に篭もって震えている上級将校を、あざ笑うかのようにその勢いを増していた。

 

 

 犬橇を駆るワラゴを始めとする山岳地帯の民たちは、気が気ではなかった。

 暴言を残して去っていった軍が、吹雪の中に潰え去ろうが、そんなことに良心の呵責はない。

 忠告を無視し、北の民ですら外出を躊躇う天候の中に踏み出して遭難するなど、自業自得以外の何物でもないからだ。

 

 だが、一万の死体が春の訪れとともに腐敗し始め、野生動物に食い尽くされるならまだしも、水源を汚染するような事態でも招いたら目も当てられない。

 せめて引き返させるか、パーカホまで導くかしなければ、北の大地に余計な災厄を招きかねなかった。

 六日間吹き荒れた吹雪が去り、晴れ渡った空の下、ラシアス軍を追いかけることになったのだった。

 

 

 山岳地帯を抜け降りて、平野部に入ったワラゴたちは、雪原をさまよう小規模な集団を発見した。

 今にも全員が倒れそうで、足取りが覚束ない。甲冑や剣、槍といった武具はとうに捨て去られ、死者から剥ぎ取ったと思われる外套を重ね着している。

 一見すると遭難した旅人のようだが、紛れもなくラシアス軍の生存者だった。

 

 何故なら、この時期に好き好んで白い地獄に足を踏み入れる北の民がいるはずもないからだ。

 そして、正常な判断力を有する南大陸の住人であれば、そもそも北の大地をこの時期に訪れようとするはずがない。

 パーカホや山岳地帯に展開し、兵站任務に当たる連合軍も、この数日は吹雪をやり過ごすために駐屯地に篭もって動いていなかった。

 

 犬橇を見つけたことで安心したのか、ラシアス兵たちがその場にへたり込む。

 中には雪の中にのめり込んで、動かなくなる兵も遠望された。

 慌てたたワラゴたちが犬橇を急がせ、動くこともままならなくなった兵たちに駆け寄る。

 そして、救助された兵たちの口から、ラシアス軍の遭難が告げられた。

 

 

 ワラゴたちが駆け寄ったとき、雪の中にのめり込んでいた三人の兵は、既に息を引き取っていた。

 へたり込む六人の兵も気息奄々の状態で、まともに口を利けた者は二人だけだった。

 誰もが酷い凍傷を負っており、生きて戻れたとしても軍への復帰どころか、日常生活にも大きな支障が出ることは確実に思われた。

 

 それどころか、壊死した四肢を切断しなければならない者も多く、その処置中に命を落とす確率も決して低くはない。

 凍傷を負ってすぐであれば、治癒呪文で治療することも可能だったのだろうが、完全に壊死してしまっていては、それも適わなかった。

 軍には白呪文の使い手がいたはずだが、極限状態で睡眠不足ともなれば精神力の消耗も激しく、一度も呪文を行使しなくても使用回数限界を超えたと同様の状態に陥っていた。

 

 六人の生存者を乗せた二台の犬橇が、最も手近な山岳地帯の集落目指して駆けて行く。

 それとは別に一台の犬橇が、救援を求めるためパーカホに急行する。

 現場に残ったワラゴを含む十二台の犬橇は、生存者の証言を基に捜索の輪を広げ始めていた。

 

 

 三日間の捜索で、ワラゴたちは五十名近い生存者を救出していた。

 そして、その百倍以上の死者の群れも、深い雪の中から発掘している。

 生存者は一人の例外もなく酷い凍傷を負っており、そのまま死んでいた方がマシだったと泣く者すらいた。

 

 発見された死者のほとんどは、山岳地帯と平野部の境界付近に集中している。

 道を失って、同じ所を堂々巡りしていたことを窺わせた。

 飢えていたはずなのに、その背嚢からは手付かずのレーションが発見されたが、全ては凍り付き、食用の役には立たない状態だった。

 

 師団としての統率は、最初の吹雪に襲われ野営した辺りから徐々に失われ、遭難が確定した頃には既に軍としての体裁は失われていたらしい。

 生存者の証言から、ウェンディロフが命令の発令と撤回を繰り返し、思いつきの対処命令に終始したため、可及的に兵の被害が重なり、ついには指揮系統が崩壊する様が生々しく伝えられた。

 ある程度雪に慣れているはずのラシアス兵が、なぜ雪原で遭難したのか誰もが疑問に思った。

 しかし、基本的に冬季の軍事行動は想定されておらず、雪中行軍のための装備も経験も、全てが不足していただけだった。

 

 せっかく雪洞を掘り、吹雪をやり過ごそうとしても、天井が薄いために降り積もる雪の重さに耐えかねて潰れ、そのまま生き埋めになった者が多数いる。

 充分な厚さを確保したが、中で過剰に火を熾し、雪洞の崩落を招いた例も多数見られた。

 中には充分な広さと強度も確保し、火の使用も最小限に留めたにも拘わらず、疲労が限界を超え全員が眠り込んだ隙に、雪洞の入り口が降雪で塞がれ、窒息死した集団もあった。

 

 さらには、幻覚に惑わされ、雪原の真っ直中で狂死したと見られる遺体も多数見られ、中には極寒の中で全裸になった遺体すらあった。

 死者に対して甚だ不謹慎ではあるが、雪中の遭難で見られる死に方の見本市の様相を呈していた。

 

 現在ウェンディロフは救出も遺体の発見もされていないが、おそらくはその生存は絶望的とみられている。

 一万名に及ぶ師団が雪原に消え、約半数に相当する遺体が発掘された今、残る半数における生存者の割合が劇的に上昇するとは思えなかった。

 

 ワラゴたちは各集落を結ぶ街道上にある避難小屋で起居しながら、天候の具合と相談しつつ捜索に奔走していた。

 いくら後足で砂を蹴って出て行ったとはいえ、目の前で死なれては目覚めが悪いという心理と、生存者の惨状を見るにつけ、このまま放置するには忍びないという憐憫の情が彼らを動かしていた。

 もっとも、身の程知らずの自業自得のせいで、疫病が発生したり、貴重な水源を汚染されては堪らないという現実的な理由がワラゴたちを突き動かす最大の動機だったが。

 

 雪の中から掘り出された遺体のほとんどは、芯まで凍結しており、手荒に扱うと首や間接部が簡単に砕けてしまっていた。

 だからといって解凍するような場所も燃料もないため、避難小屋の近くの雪原に大きな雪濠を掘り、ひとまとめにして雪をかぶせ、春まで凍結保存するしかなかった。

 少なくとも、水源の上にある遺体だけは、全て回収しないことには、春以降にどんな災厄が訪れるか分かったものではなかった。

 

 

 さらに数日が経過し、山岳地帯の駐屯地やパーカホ周辺の駐屯地から、連合軍の兵が遺体回収に到着し、ワラゴたちは引き上げていた。

 ラルンクルスの命令で、ワラゴたちには必要以上の日当と、ラシアス軍が食い散らかしていった食料に対する賠償金が支払われていた。

 

 その後連合軍の兵たちは時折襲う吹雪を避難小屋や雪洞でやり過ごしながら、生存者の捜索や遺体の回収に努めたが、十五日ほどで作業は打ち切られ、約千人が生存絶望の行方不明とされていた。

 現場のことなど知ろうともせず、適切な判断を放棄した片や国軍の最高司令官、片や現場の最高指揮官という二人の指導的立場の者がもたらした悲劇は、こうして幕を閉じようとしていた。

 

 ラシアスの女王ニムファは、全ての責任をウェンディロフを補佐する立場の幕僚に押し付け、強引な命令を下した自らは何の責任も取らずにいる。

 それどころか無能な騎士階級の幕僚たちのせいで命を落とす羽目になったとして、ウェンディロフに贈侯爵位を追贈し、その功績を讃えることまでしていた。

 もちろん、功無く雪原に軍を潰え去らせたウェンディロフに対して、腸が煮えくり返る思いだが、彼に責を負わすことは自らの任命責任を問うことになり、これを避けるがためだった。

 騎士階級や庶民階級に、怨差の声が静かに広がり始めたことを、ニムファが気付くことはなかった。

 

 

「宰相に命じます。ウェンディロフ侯爵の弔い合戦です。至急兵を集め、北の民を討ちなさい」

 決然としたニムファの声が、謁見の間に響きわたった。

 このままで済むと思うな。これがニムファの思いだった。

 寵愛の忠臣を無惨に殺され、おとなしく引き下がるほどラシアスは怯懦の国ではない。

 

 既にニムファは、冷静な思考力を失っていた。

 あのウェンディロフがむざと殺されるはずもなく、また雪道などで遭難するとも思えない。

 待ち伏せにあったか、案内人が裏切ったに違いないと、ニムファは決めつけていた。

 

「お待ち下さい、陛下。お怒りの程は解ります。ですが、生還した兵からの報告では、北の民は此度の惨禍に一切係わり合いがないとのこと。それを弔い合戦と称して討つなど、他の三国家が見過ごすとは思えませぬ。そのための共同統治機構なのではございませんか。不興を承知で敢えて申し上げます。兵を集めることに異存はございませんが、再度北の大地へ兵を進めるのは、お考え直しいただきたく存じます」

 必死の形相でコリンボーサが諌める。

 こうなっては、左遷など覚悟の上だ。

 

 いくら権勢を振るおうにも、民が疲弊しきっては税収も期待できず、現在の豪奢な生活など適わなくなる。

 それ以上にラシアス軍が北の大地に侵略したら、他の三国家がどう動くか判らない。現在の連合軍の派遣や北の民への支援は、文書化された成分条約や協定ではなく、暗黙の了解の内であり、尊守義務がないといえばそれまでだ。だが、ラシアス単独での派兵の矛先が、山岳の民や平野、山脈、中央の民に向けば、他の三国家はラシアス懲罰に動くことは想像に難くない。

 交易ルートがラシアスをバイパスする程度ならまだしも、今まで受けていた食料を始めとする援助の打ち切りや、武具などの物資購入に係る優遇措置の撤廃など、ラシアスを締め上げる方法はいくらでもある。

 

 しかし、それで済めばまだいい方かも知れない。

 万が一にでも北の大地に展開する連合軍と干戈を交えるような事態でもあれば、三ヶ国から宣戦布告を言い渡されかねない。

 そうなれば、ラシアスは南北から挟撃され、亡国の憂き目にあうだけだ。

 女王の八つ当たりの代償としては、あまりにも大きすぎる。

 

 百歩譲って派兵を黙認されたとしても、現状に追加してさらに一個師団を編制するなど、国庫が持たない。

 カネなど民から搾り取ればいくらでも湧いてくると思っているほど、コリンボーサは莫迦ではない。

 だが、ニムファはそれを理解したうえで、金貨の増産で対処しようとしていた。

 

「陛下、他の三国家がどう動くか以前に、新たな一個師団規模の増設は、国庫を破綻させます。今回犠牲となった上級指揮官の遺族への保証や、兵の家族への一時金だけでも莫大な予算を喰っており、多くの公共投資が先送りになりました。その状態で増設など、国が破産いたします。このような国情で、国債を引き受ける国など、あろうはずもございません」

 財務卿が悲鳴に近い声で訴えた。

 

「誰も彼も腰抜けぞろいですか、この国は。あのような統治機構など、私は認める気はありません。そのような体たらくでは、泉下の贈侯爵が嘆きましょう。あなたたちが抱える金を、金貨に鋳造すれば済むことです。足りなければ金山に増産を命じなさい」

 ことも無げにニムファは言った。

 

「冗談ではございません! 必要以上の金貨が市場に流れ込めば、カネの価値が下がり、物価の急上昇を招きます! そうなればラシアス一国の問題に留まらず、南大陸全土で経済が崩壊、戦乱への引き金となりますぞ! どうか、それだけはお考え直し下さい」

 暫く真意を掴みかねていた財務卿が、事態の深刻さに悲鳴に似た叫びを上げる。

 貴族たちは、自分の権勢を誇示するために、装飾品としてやインゴットのままで多くの金を保有していた。

 それを供出しろとニムファは言っている。

 正当な対価を払った結果、その金が市場に出回るのであれば問題はないが、無償で供出された金が金貨として出回れば、恐ろしいほどのインフレーションが起こることは火を見るより明らかだ。

 

「戦乱渦巻くならば、我が国にとっては結構なことではありませんか。各国の常備軍は、北の大地。であれば、南大陸は我らが切り取り放題。王に対して反論は不敬と思いなさい。これ以上は許しません。従えないのであれば、職を辞し、国を去りなさい。私に必要な人材は、私の政策を忠実に実行する、行動力に溢れた人物だけです」

 そう言うなり、ニムファは席を立つ。

 取り残された閣僚たちは、ある者は暗澹たる面持ちで、ある者は深い懊悩に悩む面持ちで、ある者はさらなる利権獲得に舌なめずりしながら、女王の背を見送っていた。

 

 

「財務卿、私はとんでもない化け物を、育ててしまったのかな。あの国を想う少女の純真な面影は、今は欠片も見えはしない」

 コリンボーサは思わず声に出して呟いた。

 

「宰相、滅多なことを仰いますな。私は職を辞し、抗議といたします。宰相には、まだまだ歯止めとしてお働きいただかなければ……」

 財務卿は寂しそうに肩を竦めた。

 

「卿は狡いな。私に全てを押し付けるお積もりだ。ま、命あっての物種。毒を喰らわば、か」

 宰相と財務卿の会話の裏では、女王と軍務卿が組織した親衛隊が着々と権力を握っており、財務卿捕縛に向けて動き出していた。


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