狼と少女の物語   作:くらいさおら

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第76話

 「船を、作らせておくかな」

 アルギールからウジェチ・スグタ要塞に移り、武官専用室をあてがわれたパシュースは、私室に戻ってから呟いた。

 

 共同統治機構各国代表と立場を変えたベルテロイ駐在武官たちは、アルギールにヘテランテラを残し、他の三人はウジェチ・スグタ要塞に移動していた。

 当初は、ベルテロイに戻る予定だったのが、北の大地の現状を鑑み、その所在地を一時的にウジェチ・スグタ要塞に移すことになっている。

 ラシアス国内に統治機構本部を置くことで、身の安全を危惧する者もいたが、ベルテロイに置いた各国の近衛第二師団がアルギールに睨みを効かせている以上、ニムファ女王が機構本部に手出しすることは不可能だ。

 もちろん、統治機構本部要員だけがウジェチ・スグタ要塞に入ったわけではない。各代表子飼いの近衛第二師団は、二個大隊を擁する二個連隊を基幹としている。

 ベルテロイに第二連隊を置き、第一連隊がウジェチ・スグタ要塞防備と代表護衛の任のため、現在ラシアス街道を全力で北上している。

 

 各国の標準的な四個大隊を基幹とする四個連隊で編成される一個師団、約一万名の兵力に対して、ほぼ半数の兵力でしかないが、ウジェチ・スグタ要塞防備としては充分すぎるほどの戦力だ。

 万が一、北の大地掃討を制止されたニムファが短気を起こし、ベルテロイとウジェチ・スグタ要塞を同時に攻めたとしても、ニムファの手元には常備軍の生き残り一個師団と近衛第一師団を合わせて一万五千の兵力しかない。防備を固めた城や要塞を落すには、通常攻撃側は最低でも籠城側の三倍の兵力が必要だ。

 ラシアスが現在抱えている兵力は、アルギールの防備を捨てて、洗いざらいウジェチ・スグタ要塞を落すために突っ込んでも、その最低限の兵力でしかない。

 他の三ヶ国もほぼ同数の兵力を国内に温存しているので、インダミトとストラーがそれぞれベルテロイとウジェチ・スグタ要塞救援に、ビースマックがアルギール制圧に、それぞれ駆けつけるまで耐え切るには充分な兵力だ。

 

 ニムファがそこまで莫迦ではないと信じたいが、女王即位以後の言動が怪しすぎる。

 ラルンクルスの解任とラシアス師団の独断専行は、その表れだ。そのうえ、家臣の私財を徴発して、さらに一個師団を編成しようとしている。南大陸全土を巻き込むことが確実な、世界恐慌に発展することを承知の上でだ。

 例えニムファにそこまでの経済の知識はなくとも、閣僚たちが説明しているはずだった。

 

 へテランテラが統治機構全権として、ニムファに貴族の私財徴発と師団の編成を自粛するように要請するためアルギールに残ったが、どのタイミングでそれをするかは一任してある。

 弟殿下の要請など、女王の権威で蹴るかも知れないが、統治機構全権の要請であれば安易に蹴ることはできまい。統治機構の権威は、機構設置の合意書に四王の署名があることで裏付けられている。

 統治機構の要請を蹴ることは、他王の権威を貶め、かつ自らの権威を否定することに他ならない。

 それでも説得に応じないのであれば、専制の是正勧告が公式文書として記録に残る。

 その次には経済援助の即時打ち切りや、段階的に通商規制から期限制限付き交易停止、無期限無制限の交易停止までの経済制裁が待っているだけだ。

 

 連合軍派遣により、それまで対北の民の軍事的な対応を一手に引き受けていた見返りとしての無償経済援助は、段階的に打ち切ることに統治機構は決定している。

 即時停止としなかったのは、その間に国内産業を育成し、援助の消滅による経済の停滞を防ぐためだった。ラシアスとしては、たいした国内産業が発達していない現状では、経済制裁より援助の即時打ち切りが恐ろしいはずだ。

 他の三ヶ国にしても、経済制裁より援助打ち切りの方が、圧倒的に効果があることは理解しているし、僅かながらでも交易で食っている民がいる以上、経済制裁はやりたくないことではあった。

 

 だが、どのような形でも派兵を諦めさせられたニムファが、どんな八つ当たりをするか判らない。

 ラシアス国内を通る北の大地へ送る戦略物資に、法外な関税や通行税を掛けないとは言い切れない。もちろん、経済制裁の場合は、ラシアス国内を戦略物資は通せなくなる。それに備えて、三ヶ国は輸送船の確保に動き始めているが、海路による輸送は未発達だった。

 一回に運べる量はそれなりでも、足が遅いうえに船舶の総数が足りないため、今からでも船を造っておくべきだと、パシュースは考えていた。

 

 船の需要は、これから増えることはあっても減ることはない。

 北の大地への物資輸送という、特需で終わることはないと考えて良いだろう。造船業に雇用が増大しても、今後数百年に亘り産業の発展は期待できた。それに、輸送航路がいくら発達しても、内陸まで船はモノを運べない。従来の陸路による輸送を生業とする者を、圧迫したり淘汰する心配もなかった。

 パシュースは従卒を呼び、フィランサスとアルテルナンテに酒の誘いをするように命じた。

 

 

「何やってるの、珍しいじゃない。寒い中にティアが出てきてるなんて」

 朝も早い時間から、窓の外で騒いでいる声に目を覚まして出てきたルティが、不思議そうな顔で訊ねた。

 その先では、ティアとバードン、そしてルムが二枚の板を雪の上に並べて、何やら話し込んでいた。

 

「やっぱり、気付いたね。ティアなら気付くと思ってたよ」

 遅れて出てきたアービィが声を掛ける。

 

「うん、ひと冬北の大地で過ごしてみてね、何か人を呼び込めるものはないか考えてたの。で、ちょっと前に見たこれを思い出して、今ルムさんにやり方を教わってたのよ」

 ティアが両足に板を装着しながら答える。

 

「それね、僕のいた世界にもあったよスキーって言ってたんだけどね。冬になると、休みの度にやりに行く人が多かったな。それで、スキーができる場所の近くは、でっかい宿とかいっぱいできたりしてさ、大きな産業になってたよ」

 アービィが言った。

 南大陸の雪上歩行器具は、かつて日本にもあったかんじきが主流で、スキーに相当する物は見られなかった。

 

「じゃあ、アービィもやったことあるんだ?」

 アービィの言葉に力を得たティアが、恐る恐るという感じで滑りながら訊ねる。

 

「うん、何回かね。僕は海に潜る方が好きでさ、冬は海ばかり行ってたから、あんまり上手にはならなかったんだ」

 異世界にいた頃のアービィは、スキューバダイビングを趣味にしていた。

 冬はプランクトンが減り、海水の透明度も透過度も高くなるため、ベストシーズンだった。魚の種類は初夏から晩秋が一番多くなり、水温は晩夏から初秋が最も高く潜りやすいが、海中も濁りやすく台風シーズンでもある。また、海水浴場が近いと混雑も激しく、磯周りでは釣り人との諍いも多い。そのため、天候が比較的安定し、釣り人も少ない冬から春に掛けて、アービィは休みの度に海に行っていた。

 水温は低いが、ドライスーツを着ていれば、一時間くらいは楽に潜っていられる。

 魚が少ない変わりに透明度が高く、ソフトコーラルの林に潜れば時間を忘れて眺めていられた。

 

 

「ちょっと待って、アービィ。冬に海に入るですって? 莫迦なの? 死ぬの? 頭大丈夫?」

 ティアから、異世界でもダイビングをやらない人と同じ反応が返ってきた。

 納得させるには、実際の海に潜らせなければ無理だ。百万の言葉を弄しても、海の世界の魅力は伝えられない。

 まだ製鉄技術が発達しておらず、圧縮空気を詰められるタンクはこの世界では無理だ。

 手動の送気ポンプくらいは作れそうだが、ヘルメット式の潜水器具の知識を、アービィは持っていなかった。

 

「まあ、ティアは生きてる内に潜る機会もあるだろうからさ、そのときは僕の言葉を思い出してよ」

 蛇に姿を変えれば、ティアはそれなりに潜れるはずだ。

 だが、この寒がりがわざわざ真冬の凍り付きそうな海に、潜りに行くとは思えない。この世界で、スキューバが開発され、ドライスーツが普及するのを待つしかない。それにはあと数百年は要するだろう。

 とりあえず、アービィはその話題から逃げることにした。

 

「寂しいこと言わないでよ。それはまあいいとしましょう。それより、このスキー? の話を聞かせてちょうだい」

 ティアは話題を戻す。

 北の民が雪の上を移動する際、二枚の板を足に装着し、二本の杖でバランスを取りながら滑っている様を見て、ティアは何となく直感で面白そうだとは思っていた。いずれにせよ、アービィには聞いてみるつもりだったのだ。

 ティアに問われたアービィは、日本でのスキーの話をし始めた。

 

 

「あたしの直感は間違ってなかったのね。娯楽産業にするなら、山岳地帯とか、山脈地帯向きのようね。じゃあ、とにかくみんなでやってみましょうよ」

 アービィの話に、この世界でもスキーが産業として成立すると確信したティアが提案する。

 五人は板を担いで移動し、近場にある小高い丘の頂上に登った。

 バードンは乗り気ではなかったのだが、南大陸の一般的な感覚を聞きたいということで、ティアが拝み倒して同行してもらっていた。

 

 

「便利なものだな。見るだけでは解らんものだ。ルム様、良い経験をさせていただきました」

 暫くスキーに興じていたが、生来の運動能力からか、バードンの上達は目を見張るものがあり、既にほとんど転倒することはなくなっていた。

 バードンは、素直に面白さを認めていた。

 

 さすがに日常の足に使っているだけに、ルムは華麗にターンを切っていく。

 アービィは、二〇年以上前の記憶を手繰りながら滑っているが、苦手意識があったせいか、バードンほどは上達していない。

 ようやくボーゲンで転ばずに、前に進めるようになった程度だ。

 

「アービィ、これ楽しいわぁっ! 絶対、人を呼べるわよぉっ!」

 ティアが叫びながら、転倒したアービィの横をすり抜けていく。

 

「登るのが面倒ねぇ。何かいい方法はないかしら。それがないと、ちょっと厳しいかもね」

 アービィの横まで来たところで、盛大に転倒したルティが雪を払いながら言った。

 

「燃える石で雪を溶かして、その水を流して水車を動かして、それでロープを巻き上げて……」

 アービィは、簡易リフトを作れないか考えている。

 蒸気機関が実用化できれば、リフトを動かすくらいは造作もない。

 しかし、この世界の製鉄技術は、それに必要な圧に耐え得る強度を持った鉄を、作れるほどには発達していなかった。

 

「犬橇とか、カリブーに曳かせるか……」

 ルムも娯楽にするには、それが弱点になることを予見していた。

 

「問題点はあるにせよ、娯楽としては充分な可能性はある。いっそ、人力でも良かろう。冬の間の良い収入源にならないか? だが、もう一つ弱点があるな」

 バードンは、登るくらい自力でやれと思うが、裕福層にそれを求めることは厳しいことに気付いていた。

 スキーが普及すれば、ラシアス北部でもできてしまう。どう付加価値をつけて北の大地に人を呼び込むか、それも考えておかなければならない。

 当初は産業保護の観点から南大陸にスキー場を作ることを禁じてしまう手もあるが、いずれは自由競争になって然るべきだ。

 

 

「ルムさん、滑るのって他にもありましたよね? 氷の上を滑るやつが」

 アービィはスケートも娯楽化して、観光資源に結びつけようとしていた。

 

 北の大地では、遙か昔から凍った川や湖、湿地帯を移動するために、スケートが発達していた。

 動物の骨を削り、木靴の底に打ち付けた物がスケート靴として普及しているが、この世界の製鉄技術でも、剣が作れるのであればエッジも充分に作れるはずだ。

 アービィが皮と鉄を使用したスケート靴の説明をした。ルムもそれなら可能と判断したのか、鍛冶屋に相談してみようということになった。

 

 南大陸北部でも場所によっては川も湖も結氷するが、期間が短く、氷もそこまで厚くは張らないため、スケートが発達する余地がなかった。

 スキーよりは手軽にでき、道具も作成は楽そうだった。

 そしてアービィは、もう一つ北の大地ならではにできそうな、冬の屋外での娯楽を思い付いていた。

 

 

「ルムさん、小魚が獲れる湖ってありませんか?」

 アービィは、ワカサギの穴釣りができないか、それを考えていた。

 

「あるにはあるが、こんな真冬にどうしようというんだ?」

 ルムは場所こそ知っているが、結氷した湖で何をしようとしているのか理解できなかった。

 スケートに利用しようというのなら解るが、わざわざ魚が獲れると言っている。

 

「それは行ってからのお楽しみ。道具を作りますので、昼ごはん食べたら竹藪の場所を教えてください。あと、赤の染料を分けてもらえませんか?」

 アービィはそう言って、スキーを履いたままパーカホへと戻り始めた。

 

 

 昼食後、アービィは竹藪からよくしなる細い若い竹を切り出し、手バネ式のワカサギ用釣竿を記憶を手繰りながら作り、糸を巻けるだけ巻きつけた。

 もともと釣りはこの地でも発達しており、手ごろな糸と針はすぐに手に入った。

 本来の穴釣りであれば紅サシやアカムシをエサとして使うが、厳冬期にその入手は望めない。アービィは散々考え、まだ魚たちが擦れていないことに期待してウドンを食紅で染めることにした。染料を分けてもらえるか聞いたのは、このためだった。

 竿を作った後は小麦粉を練り、暫く寝かせ、その後は踏み込んで腰のあるウドンを打ち始めた。

 

 夕食合わせて多めに作ったウドンを、干魚の出汁と白ワイン、塩、胡椒で味を調えた和洋折衷風に仕上げていた。

 幸い、この世界では、南北両大陸とも極端に広い大陸というわけではなく、四方を海で囲まれて入り浜式製塩が盛んになっているうえ、造山活動の結果隆起した地面も多く、塩湖の数にも恵まれていた。アービィが知る、この世界と雰囲気が似た中世ヨーロッパと違い、塩や香辛料の入手で四苦八苦するということは少なかった。

 ただ、アービィにしてみれば、充分な大豆に相当する豆の収穫が確保できず、醤油と味噌がないことが、この世界最大の不満だった。

 

 南大陸ではパスタ様であったり、中華麺のような縮れ麺も普及していたが、ウドンのような太い麺は珍しい。

 思ったより多くできてしまったので、ルティとティアがそれぞれ周囲に食べに来るように声を掛けに行っていた。

 アービィは、具材を多くしたタンメン風のウドンにするつもりだったが、思ったより多くの人々が集まりそうだったので、掛け汁を濃く調味し直し、具材も副食として作り足し、薬味用にワサビをおろし始めた。

 

 

「ウドンだけだと足りなくなっちゃいそうだったんで、野菜とは別々に食べてね。で、ウドンは一口分ずつ取って、グラスに入れたスープにつけて食べて。これを少しスープに溶くといいかもよ。ルティ、溶く量には充ぅ分っ気をつけてね」

 ウドンは氷水で締め、ザルに大量に盛り上げてあった。

 

「珍しい喰い方だな。これも異世界の知恵か? 鼻に抜ける刺激が堪らん」

 バードンは、アービィが作った料理を初めて食べる機会に遭遇していた。

 冷製パスタはインダミトやストラー南部では珍しくない夏の食べ物だが、ザルウドンのように付け汁に付けながら食べる麺類は聞いたことがない。

 別口で温かい食べ物もあるため、体の芯から冷えてしまうようなこともなかった。

 

「ええ。今はこういう食べ方にしてますけど、温かいスープに入れても良いです。副食に出している野菜炒めをその上に乗せても良いし、肉をがっつり乗せても良い。以前、バードンさんが山脈地帯で見つけた山菜を煮て入れても良いし、そのフライを乗せるのもありです」

 もちろん、フライではなく天麩羅だ。

 春が来たら山菜の天麩羅で一杯やろうと、アービィは心に決めている。

 

「これさぁ、北の大地の名物にしちゃったら? 宿の食事で充分使えるんじゃない?」

 ティアが言い出した。

 

「これね、もう一つ食べ方があるの。ちょっと待っててね」

 そう言ってアービィは、鶏肉主体の寄せ鍋のようなものを作ってきた。

 

「まずは、中の野菜と肉食べちゃって、残ったスープにウドン入れて煮込んじゃうんだよ。鍋にする材料は季節のもので良いし、準備も片付けも楽でしょ。お客さんは自分で作りながら食べる楽しみもあるし。僕が住んでた国では、冬の定番だったなぁ」

 アービィの言う通りにして鍋を囲み、なんともいえないほのぼのとした空気が広がった。

 

 

「アービィ、あれ作ってよ、あれ。冷たくて、甘いやつ」

 粗方食べ終わったところで、レイがアイスクリームをアービィにねだる。

 ルティの暴走から数日は、アービィに対してよそよそしい態度になってしまったレイだが、ようやくいつも通り接するようになっていた。

 

「レイ殿、冷たくて甘いものが欲しければ、表に砂糖を撒くと良いですぞ」

 ルムとプラボックがレイをからかっている。

 この中で最も歳若いレイは、からかい甲斐のある可愛い妹分として、皆から愛されていた。

 

「ルムさん、プラボックさんも。そうじゃなくて、柔らかくないとダメです。表のは、ガチガチに凍ってるじゃないですかっ」

 からかわれているのを理解して、望まれた反応を返すレイは、やはり頭が良いとランケオラータは思っていた。

 

 バニラビーンズと鉄の容器を密かに持ってきていたレイからそれを受け取り、アービィは表から氷を取ってくる。

 南大陸から持ち込んだ乳牛から取った乳と砂糖、バニラビーンズを容器に入れ、氷の上で転がし、アイスクリームを作る。

 

「貴様、これは信徒を堕落させる悪魔の食べ物だ」

 そう言いながらもバードンのスプーンを止めなかった。

 

 何故、バードンが、アービィとティアに対してだけ、ぶっきらぼうな口調なのか不思議に思っていた面々は、この夜初めてその理由を聞いている。

 その割にはアービィとティアに危害を加えようとせず、アービィの作った物を何の疑いもなく食べているバードンに、皆は温かい視線を送っていた。もちろん、すごい速さでアイスクリームを食うバードンが、どうなるかという期待も込めて。

 そして当然のごとく、頭痛に見舞われたバードンが、悪魔の食べ物だとアービィを非難し始め、思った通りの展開に、皆の笑いがはじけた。

 

 

 皆が帰り、静かになった家の中でアービィは、再度ウドンを打ち始めた。

 思ったより好評だったので、明日釣りに行くときのエサにするため作っておいた分まで食べてしまっていた。

 一握りほどのウドンを打ち、茹で上げた後水で締め、染料で赤く染めた。

 寝る前に夜空を見上げたアービィは、この平和な時間が、このうえなく大切なものだと思っていた。

 

 何故、最北の蛮族は不死者など作って侵略を始めたのか。

 あれでは世界を征服したところで、誰も幸せになれない。当の最北の蛮族だって、不幸なままだ。力による統治は、反乱を招く土壌でしかない。民心の離反に怯え、密告が常態となる社会は自由すらなくなり、国家は破滅へとひた走る。それは、第二次世界大戦の大日本帝國やナチスドイツ、ファシストイタリアが証明している。反乱や自由を求める欲求は武力による鎮圧を招き、死者の遺族は互いに憎しみだけを抱いていく。その統治をひっくりかえすにも武力が必要になり、それが次の反乱の種を残し、永遠に繰り返される。

 今からでも遅くないから、両大陸共同統治機構に参加を表明して欲しい。

 アービィはそう願わずに入られなかった。

 

 

 翌朝、晴れ渡った空の下、アービィたちはスキーを履き、犬橇に風除けになりそうな板や釣り道具を積み込んで、ルムの案内でパーカホ近くの小さな湖を目指した。

 同行者はルティ、ティア、ルム、プラボック、バードン、そしてランケオラータとレイ、ラルンクルスも同行している。スキーに慣れていないランケオラータとレイ、ラルンクルスは、犬橇に乗ってもらうことにした。

 太陽が頭上に来る前に到着し、アービィは氷の上に剣で穴を掘り始める。

 ルムやプラボックも同様に穴を掘り始め、程なく全員が自分用の小さな穴を作り上げた。

 

「氷の下って意外と暗いん――」

「なんで、氷の下が暗いって知ってるの? やっぱり潜るの? 莫迦なの? 死ぬの?」

 案の定皆まで言わせず、ティアがアービィに聞く。

 流氷ダイブの経験からだとアービィは説明したが、ティアには信じられないことだった。

 

「とりあえず、ティアは放っといて。この穴から太陽の光が差し込んで、そこに小さな動物が集まります。それを追って魚たちが集まってきますので、それを狙って釣るわけです。僕が狙っている魚がいればいいんですけど」

 アービィは簡単に説明すると、昨晩作った仕掛けとエサを穴に垂らした。

 

 暫く糸の長さを変えてタナを探るが、やがて微かな魚信が竿に伝わり、アービィは少し待ってから糸を手繰り始めた。

 程なく七本針全てにワカサギのような魚が喰らいついた仕掛けが、全員の前に引き上げられた。

 アービィは手早く針を外し、エサを付け替えてから仕掛けを垂らす。

 氷の上に掘られたくぼみに放り込まれた魚たちは、あっという間凍り付いてしまった。

 

「深さは、七尋くらいで、糸巻きから二十一巻き解いたくらいです。時間によって少しずつ魚がいる深さが変わりますから、魚信がなくなったら深さを少しずつ変えてみてください」

 そういう間にもアービィはまた釣り上げている。

 この世界のワカサギも、異世界同様水質への耐性は広いようだった。

 

「面白いわ、これ。魚が喰い付いた感覚がなんともいえないのね。で、釣ってどうするの、これ。食べるにしても、どうやって食べるの? 凍ってるから持って帰るのも大丈夫だろうけど」

 ルティが聞く。

 

「釣るだけでも充分楽しいけど、それだけじゃ足りないでしょ。どうやって観光産業に結びつけるかなんだけどね」

 アービィは考えていたことを説明し始めた。

 

 ワカサギが釣れる湖が近くにある集落があれば一番良いのだが、もしないようなら湖の近くに宿を建てる。

 朝一番から釣りができるようにして、昼くらいで釣りは終了。資源保護の観点から丸一日釣りしていたら、資源の枯渇を招きかねない。

 湖の近くに小屋を建て、そこに簡易調理施設を作りつけ、釣り人が自分でワカサギをフライか天麩羅にできるようにする。もちろん、釣り人全てが調理できるわけでもないだろうから、料理人も配置する。ワカサギだけで腹いっぱいになるのも大変だから、パンやウドンのような主食や、他に副食も提供する。集落から遠く離れ、宿を建てるのであれば、調理施設は宿が兼務すればよい。午後からはスキーを売りにしても良いし、スケートが売りになっても良い。

 そう言ってアービィは、持ってきた鉄の器に石炭を入れて火を熾し、道具や材料を並べ始めた。

 

「みんなは釣ってて。ちょっとまだ準備に時間掛かるから」

 アービィは手早く人数分の天麩羅やフライの材料を用意し、必要な分量を容器に取り分け始めた。

 人数分小さめの鉄の容器に熾きた石炭を分け入れ、小さな鍋に油を入れ熱する。

 その間、アービィ以外の全員は、繊細な魚とのやり取りを楽しんでいる。

 ほとんど擦れていないからか、技量の差が出るほどに個々の釣果に開きは見られなかった。

 

「じゃあ、みんな釣った魚を持って、鍋の前にそれぞれ立ってください」

 アービィが衣の作り方、フライの下味のつけ方、油の温度の目安、揚げ方を説明し、それぞれは楽しげにおしゃべりをしながら天麩羅やフライ作りに取り掛かった。

 

「いいんじゃないか、アービィ。これは楽しいぞ。普段、私たちは厨房に入ることなどないが、こうすることは楽しいと思う。特に、屋外ということが良い貴族の間でも、抵抗なく受け入れられるんじゃないか」

 ランケオラータは楽しげにフライを揚げている。

 もともと貴族階級の者が食事を作るなど、極一部の趣味人を除いてあり得ないことだった。

 もちろん、信念を持って食事作りなどしない者や、その発想すらない者もいるだろう。強制してしまっては、楽しめるものも楽しめない。それに、料理の勘が鈍い者だっている。ちょうど黒焦げのフライを量産したレイとルティのように。

 そのような者のためにも、料理人は配置する。

 野外で野趣溢れる食事をする。

 これが主眼であり、調理を自分ですることは、オプションの一つと考えるべきだった。

 

「アービィ殿、武辺一辺倒の私でも楽しませていただきました。普段、食事など身体を作るための材料程度に考えておりましたが、これを家族でやったら、さぞ楽しいだろうと思います」

 ラルンクルスも肯定的に受け入れていた。

 

「あたしたちは、食べられないの?」

 黒こげフライ量産班と化していた、レイとルティが不貞腐れる。

 

「お嬢様方、ご安心ください。こちらにご用意いたしましょう。どうぞ、お座りになってお待ちください」

 アービィが即席で対面式の調理台に並べ直し、レイとルティに天麩羅とフライ、パンをサーブする。

 

「これなら、料理なんてしないっていう貴族様も安心ね」

 ルティがレイに言う。

 

「そうね、下手くそでも大丈夫かも」

 レイがルティに負けじと言い返した。

 

 

 問題は夏の間の売りだが、避暑がメインであればそれほど多くのオプションは必要ないだろう。

 バカンスが一般的に普及していないこの世界この時代で、避暑に来ることを期待できる顧客層は、貴族や騎士階級、大商人や大地主といった裕福層だ。大勢に傅かれ、大勢を使うことに慣れた人々を相手に、接客の概念がまだ発達していない北の民に執事やメイドの真似をしろといっても、それは無理な相談だろう。

 かといって、生産的労働をしない貴族階級の家庭において、主人家族が長期に家をあける期間は、使用人たちにとっては里帰りができる貴重な休暇の期間だ。

 わざわざ好き好んで主人のバカンスに付いてくる莫迦はいない。

 

 南大陸から執事やメイドの技術を持った人間を雇い入れるにも、供給源がほとんどない。

 どこかの屋敷を首になるような人物ではどうしようもないし、暇を出されるにしても改易や商家の破産でもない限り大量に人があぶれることはあまりない。

 

 暑さを逃れてくるのだから、遊びのオプションはそれほど多くなくても良いが、世話ができる人間の確保はかなり重要な売りだ。

 家にいるのと変わりない生活ができ、なおかつ目先の変わったものが食べられる、という点を売りにできないと集客は見込めないだろう。

 湖での舟遊びや川遊び、ハイキングやトレッキングは南大陸でも充分できることだが、あまり突飛なことばかりを揃えても、それか何だか解ってもらえなければ集客には結びつかない。

 当たり前に見えて、それは南大陸とは違うということを見出してもらえなければ、観光事業が長続きするとは思えなかった。

 

「ランケオラータ様、南の各国にいる北の民の娼婦を身請けして、メイドの教育をしたうえで雇えませんか? 彼女たちであれば、南大陸の習慣も熟知していますし、接客という概念も完璧です。もちろん、希望者に限りますし、一定の教養や常識は身に付けていることも条件で」

 アービィがランケオラータに提案した。

 ランケオラータ個人で身請けするか、共同統治機構が身請けするかはこれから相談すべきことだが、望まずして娼婦に身を落としたものの救済にもなる。当然、金銭のやり取りがあった以上、不正がないのならば娼館から正式に身請けする。救済を名目に娼館から娼婦を取り上げてしまえば、娼館の経営が成り立たなくなり、裏で人攫い等が横行するだけだ。

 もちろん、人攫いによって供給された女と判れば、背後を洗い、娼館側の立場により身請けか保護かを決めればよい。

 

 娼婦や娼館、人身売買組織をいくら摘発しても、その背後にある貧困を解決できなければ、いつまで経っても身売り人買いはなくならない。

 貧困に喘ぐ人々が、最後の最後に売り払える唯一の財産が、己が身体だからだ。

 人類最古の職業といわれている売春婦を、自らの意志で選び、生き甲斐を感じているものが皆無とは言わない。だが、ほとんどは貧困から家族を救うために、カネを得ることを目的としている。

 身売りというだけでなく、自らを切り売りし、その売り上げで家族を養っている者だっているのだ。

 

 人権を無視した売春はいけない、そういうことは簡単で、法で禁じることも簡単だ。

 だが、それだけでは売春は失くせない。そのためにも、継続的な収入を得られる方法を用意しておかなければ、一度救い出したとしても、また売春窟に舞い戻る羽目になってしまうだろう。

 簡単な解決方法はないが、北の大地に産業を根付かせることで、少しでも身売りが減らせるならとアービィは考えていた。

 

「それは良い考えだな。早急にパシュース殿下に諮ってみよう」

 ランケオラータは、私財では限界があることを理解している。

 もちろん、私財が惜しいのではない。南大陸にどれほどの娼婦がいるのか、人頭税の統計を見てもはっきりしない。娼館側が節税のため正確な数字を出さないし、査察の際には娼婦を隠すからだ。全てを救いたいという気持ちはあるが、どこかで息切れするのは目に見えているし、そうなっては不公平だ。

 国がすべき事業だろうと、ランケオラータは判断した。

 同時に、人身売買の旨みをなくすために、公娼制度も考えるべきだと考えている。

 

「うまく行くと良いけどね」

 ティアが醒めたような口調で言った。

 

 売春婦が人類最古の職業ということは、人類最古の需要ともいえる。

 セックス産業が現代日本でもなくなっていない以上、この世界から娼館を失くすことは事実上不可能だ。日本に比べてまともな部分もあるとはいえ、人権意識は比べ物にならないほど低い。一気に娼館を廃止するなどしたら、下手をすれば暴動が起きかねない。

 男の精を喰らい続けていたティアには、その欲望は理解できていた。

 人間の三大欲求だ。

 なくなることはない。

 それを目当てに手早くカネを欲する女が、自ら進んで春をひさぐ。

 奇麗事だけで世の中は片付かない。

 悲しいことだが、それが現実だった。

 

「うん、それは解るんだ。でも、自分の意志じゃない人を救う努力は、してみるべきだと思うんだ」

 男の欲求をなくすことはできない以上、人買いはなくならないだろう。

 しかし、だからといって何もやらないより、可能性のあることは試してみても良いはずだ。

 

「そうよね、アービィ。あたしだって、ああいう生活だったから解るの。でも、そうよね、やる前から諦めることはないわよね」

 ティアとて意地悪で言ったわけではなかった。

 

 

「アービィ、例えば南大陸の商人たちを呼び込むとしたら、彼らの泊まる場所も用意しておかなければならんのだよな?」

 ルムが言った。

 これまで南大陸の商人たちは、山岳地帯以北に足を踏み入れることはなかった。

 商用の際の宿は、山岳地帯のなじみの民家に求めていた。それは好意であり、商売ではない。当然、宿泊費が掛かるようになれば、商品の売価に転化され、商品の単価は上がってしまう。しかし、いつまでも好意だけで片が付く話ではない。

 商業活動が活発になり、北の大地を訪れる商人の数が増えれば、それを好意で泊める北の民は食費だけで破産してしまう。

 北の大地にも正当な価格の宿という概念を植え付けなければ、まともな商業が根付かなくなってしまう。

 

「そうですね。避暑と冬以外は、そういう商人宿として営業すれば良いですね。当然ですが、常時商人宿として営業する宿も必要です。山岳地帯や、パーカホ、他の集落にも宿は必要ですし、避難小屋をそういった施設に変えていくことも必要だと思います」

 途中が野営になる輸送業務や交易は、南大陸でも普通にある。

 全ての日程が宿である必要はないが、あまりも野営が続くようだと交易の足が遠のいてしまう。

 ラシアスの駅馬車路線を、アービィは意識していた。

 

「そうだな。パーカホだけでなく、だな。平野の民といっても、我々とあまり交流のない集落もあるんだ。無理に我々と統一歩調を取る必要もないが、そういったところが取り残されても困る。放っておくわけにもいくまい。後々格差が出て恨まれては適わん。一度、そういった集落を回ってみる必要もあるな。もし、こちらと共同でできるのであれば、仲間が増えるということだ。追い返されるかも知れんが、それはそれでいいだろう。ランキー、構わんか?」

 最後の一言は、ルムが自ら行っても良いかという意味と、アービィたちを連れて行って良いかという二つの意味だった。

 

「構わんよ、ルム。留守は預かる。安心していって来い」

 ランケオラータも、二つの意味で承諾の返事をした。

 

 

 ワカサギ釣りからパーカホへ戻った数日後、ルムとアービィ、ルティとティアは、山岳地帯との境界に近い集落を目指した。

 山岳地帯が北西に張り出し、なだらかに続く裾野にその集落はある。平野の南西部の一角を占める勢力だった。ワラゴの集落への道とは違い、別の山岳地帯の集落へ続く道だ。およそ五日の行程ということだが、スキーで距離を稼ぎ、天候が崩れなければ、三日で到着できるだろうとルムは言った。犬橇を使ってもだいたい同じくらいで、到着できるらしい。

 その集落群とは過去に諍いがあったこともあるし、手を取り合うこともあったが、今はほとんど没交渉になり、交流も抗争もなくなっている。

 北の民がそれぞれの地域ごとに分かれているだけでなく、地域内でも殺し殺されしてきた歴史の証だ。

 つまり、最北の蛮族とて、一枚岩ではない。

 

 アービィは、まだ見ぬ集落の人々に、希望を見出していた。


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