狼と少女の物語   作:くらいさおら

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第77話

 平野部の南西に位置するラーラの集落で、アービィたちは懐かしい顔に再会した。

 

 当初、敵意を顕わにするラーラの人々と対峙したルムを先頭にしたアービィたち四人は、会話の糸口さえ掴めず困惑するばかりだった。

 両者が没交渉になったのは、比較的収穫が見込める土地の境界と、安全な水源を巡っての争いが膠着状態に陥っているからだった。感情の行き違いだけではなく、生きるか死ぬかの瀬戸際での攻防が続いただけに、そう簡単に水に流せる過去ではなかった。

 突然訪れた敵の主将に対して、あまりにも当たり前すぎる対応だった。

 

 

 ルムは、犬橇に積めるだけの食糧を始めとした物資を詰め込んできた。

 敵意のないことを見せるためだったが、ラーラの人々は毒でも仕込んであるのではと疑って掛かっている。敵対勢力が四人という少人数で乗り込んでくるからには、それなりの策を講じていると考えるのが当然の対応だった。

 ここまであからさまな敵意を向けられた経験のないルティは、既に涙目になっていた。

 

「どうして、信じていただけない。今は我らが争っているときではないと言っているのだ。あなたたちの土地を明け渡せなど、一言も言っていないではないか」

 ルムは、なんとしてもラーラの人々と手を結びたかった。

 平野の南西に点在する集落群を統べているのは、ラーラだった。武力で制圧しているのではなく、緩やかな連合の中でラーラが最も人口を多く抱えていた。

 ラーラがルムたちとの連合に同意すれば、他の集落は皆それになびく。

 

「過去を思い出せ、パーカホの人よ。我らはあまりにも互いの血を流しすぎた。今さら、それを水に流せと言われて、呑めると思うか。お前がそう言われたら、どう思う? 解ったら、その荷を持って帰るが良い。今なら命まで取ろうとはせぬ」

 ラーラの代表は、怒りを無理矢理飲み込んだ表情で言い捨てる。

 

「あなたの言いたいことはよく解る。私とて、いきなりであっては信じられぬだろう。だが、聞いてくれ。今、我々の集落には、中央を統べるプラボック殿が滞在している。中央は、今や死者の群れに席巻されている。最北の蛮族どもが、禁呪を使ったらしい。過去は水に流し、我らは手を結んだ。春が来れば、不死者の群れが平野に雪崩れ込んで来るだろう。もちろん、そうはさせないように、山脈に防衛線を敷いている。ここにいる三人を始めとした南大陸の住人たちも、我々に協力してくれている。今まで、冬は生きるか死ぬかの瀬戸際だった。南大陸の住人たちは、我らに食料と、畑を作る技術や暮らしを良くする技術をもたらしてくれている。あなたたちに、土地と水源を返そう。それで信じていただけまいか」

 ルムは必死だった。

 平野を一つに纏めなければ、最北の蛮族とは対抗は難しい。いくら南大陸の援軍があるからといって、北の民の諍いは北の民同士で決着をつけたいという思いが強い。

 現実問題として、南大陸からの恩恵に取り残されるという事態に、後々の火種を残したくないという気持ちも働いている。

 

「くどい。中央の民と手を組み、南大陸に尻尾を振った貴様の言など、信じるに値すると思うか。我々の怒りが抑えられているうちに帰れ。土地も、水源も、返してもらうのは当たり前だが、代償に貴様等の命も貰い受ける。さぁ、早く帰って戦の準備をしろ。貴様等が死ぬ準備をしろ!」

 ラーラの代表の、怒りが裂けた。

 見たところ、ルムより少々若く、ヌミフと同世代に見える。

 まだ歳若い彼に、柔軟な交渉などまだ無理なようだった。

 

 

「まあ、いきり立つでない。儂に任せていただけないかね?」

 歳若い代表の肩に手を置いた、この世界では老人の部類に入る南大陸の住人が前に出た。

 これでは、この場で戦が起きかねない。

 もし、ルムの身に何かがあれば、パーカホを中心とした民が大挙して押し寄せてくる。話を漏れ聞けば中央の民も大同団結しているという。戦力比は一対二では済まないかも知れない。

 この時代では知られていないが、ランチェスターの第二法則に従えば、実質の戦力比は一対四。

 こちらが全滅しても、相手は半数以上が残る計算だ。

 

 年の功か、いきり立つ若者を抑えて前に出た老人は、対峙する四人を見渡して目を見開く。

 同時にアービィとルティ、ティアも、その目を大きく見開いていた。

 

「勇者殿!?」

「ドーンレッドさん!?」

 両者から同時に驚愕の声が上がった。

 

 

「そのようなことに……」

 ドーンレッドは、がっくりと肩を落としていた。

 

 彼は、勇者の取り込みに失敗して以来、王宮内での権力闘争に敗れ、宰相コリンボーサから蟄居を命じられていた。

 当時は摂政だったニムファも、国家予算を食い荒らすだけの結果に終わった勇者召喚の責任者を庇いきれず、宰相の言うがままになってしまっていた。

 その後、ドーンレッドはリムノを連れて王宮を去り、政争や権力闘争とは無縁の生活を送るため、北の大地へと渡っていた。

 ラシアス国内に居場所はなく、他国へ流れても王宮の有力者だったドーンレッドを、各国の為政者が放っておくわけがない。

 ラシアスの機密の多くに彼が関り、その頭の中に収められていることは、子供にも解る理屈だった。

 ラシアスを追われたとはいえ、ドーンレッドは先王ロベリア、そしてニムファ女王に対する忠誠心は、ラルンクルスと優劣をつけることができないほどだ。

 何しろ彼は先王に見出され、現在の地位を築く基礎を固め、女王の相談役を務めることでその地位を確固たるものにしたのだ。

 そんな彼が、ラシアスに弓引くような真似をできるはずもない。

 そのようなしがらみを逃れるためには、南大陸の影響がない北の大地へ渡るしかなかった。

 物心付いたときには南大陸に連れて来られ、故郷を知らないリムノに安住の地を与えたいという気持ちも大きかった。

 

「お爺様、お気持ちは解りますが、どうぞお気を確かに」

 リムノが声を掛けた。

 主従という関係を越え、いまやリムノはドーンレッドを祖父と慕っていた。

 

 アービィから先王ロベリアの崩御と、ニムファの女王即位。そして暴走とその結果を聞かされたドーンレッドは、愛する祖国の行く末に暗雲が広がるのを見ていた。

 ウェンディロフ師団が、雪の中に壊滅したことはラーラでは気付いていなかった。虚しく雪に消えた軍の中には、ドーンレッドと顔見知りの呪文を使える将兵も多数含まれていたのだった。そして、ラルンクルスによる今後の見通しも、ドーンレッドは知らされた。

 ラルンクルスが王都を遠ざけられ、コリンボーサもニムファに疎まれ始めている。純真な民を思う気持ちから勇者を召喚しようとした行いは、倫理的な良し悪しは別として真っ直ぐなものだった。

 しかし、征服欲や権力欲という、覇権への欲求だけ真っ直ぐに育ち、民を思う気持ちをどこかに置き忘れた女王に未来はない。

 ドーンレッドは自分が側に仕えた十余年は何だったのかと、そればかりを自問していた。

 

 

「まずは、任されよ、勇者殿。当事者同士では過去の恩讐に囚われ、冷静な話し合いは難しかろう。儂からラーラの民に話しておく。ここは一旦引き下がられよ」

 ようやく衝撃から立ち直ったドーンレッドが言った。

 ドーンレッドにしてみれば、罪滅ぼしだ。

 アービィの役に立てるのなら、残りの人生を捧げてもいい。アービィを異世界に戻す方法がない以上、彼にできることは他にはない。

 平穏に暮らしていたい世界から、何の前触れもなくこの世界に連れ去った彼は、アービィに殺されても文句はいえないということを、北の大地で暮らしているうちに思い知らされていた。

 

「あの……」

 リムノはアービィたちを前にして言葉が出なかった。

 アルギール城の正門前で、ルティに剣を向けようとしたとき見たアービィの目が忘れられない。

 氷の地獄を思わせる冷たい目。

 

「久し振りだね、リムノ。元気だった?」

 屈託のない笑顔でルティが言った。

 ルティは、アルギール城でのリムノの行動は、自分に剣を向けたことを含めて理解できている。

 殺意はなかった剣に、リムノの悪意は感じられなかった。

 何の怨みも、怒りも残っていなかった。

 

「はい……」

 まだリムノは三人の目を見られない。

 

「今度、遊びにおいで。今、あたしたちはパーカホにいるから。待ってるわよ」

 ティアが言った。

 まだ二年と経っていないのに、随分と懐かしい気がした。

 

「うん、待ってるよ。でも、リムノ、今度は夜忍び込まないでね」

 アービィが笑いながら言う。

 ようやくリムノはアービィたちの目を見た。

 邪気の欠片もない、底抜けの明るい瞳が自分を見ている。

 

「きっと。遊びに行きます」

 初めて心の底から笑った気がした。

 北の大地に来て、裏の世界から解放され、命のやり取りから解放され、やっと安寧の日々を送ることができた。

 そして、リムノは生まれて初めて、友を得た。

 それから十日の後、ラーラからの使者がパーカホを訪れた。

 

 

「よくぞ無事に戻ったな。して、首尾はどうだったかな?」

 最北の蛮族を統べるグレシオフィは、疲れた浮かんだ顔色で目の前で俯く最愛の腹心オセリファに声を掛けた。

 

「猊下、首尾は上々にございます。あの忌々しきターバは既に吸血不死者の都と化し、破壊された魔法陣の修復も完了いたしました。新たにターバに三つ、さらにこの地まで『移転』で跳べる範囲の集落に、飛び石に魔法陣を描き終えてございます」

 オセリファは答え、最愛の主の顔色を窺う。

 その表情は、父から褒めてもらいたくて仕方のない幼子のようでもあり、くわえてきた獲物を猟師の前に差し出した猟犬のようでもあった。

 

「そうか、それは重畳。これで我にまつろわぬ最北の民も手を挙げるだろう。オセリファよ、また行ってもらうぞ。雪が去ったら山脈まで半日行程の範囲に、方法は一任するが、できるだけ多くの陣を描け。だが、護衛に合成魔獣は付けてやれぬ。夏前に、平野に屯する憎き民どもに鉄槌を下す。遅れは許さぬ」

 満足げに頷いたグレシオフィだが、すぐに厳しい顔になっていた。

 グレシオフィに従わぬ最北の蛮族にとって、逃げるとなれば最も近い集落はターバだった。

 これが陥落し、不死者の集落の魔法陣が修復された今、山脈までの道のりは、遠すぎるといっても良い。そこに住んでいた中央の民は、不死者に転生させられた後、アービィたちによって安息の死へと誘われていたが、新たに吸血不死者となったターバの民がそこに入っている。

 強い日光さえなければ日中でも活動可能な吸血不死者は、グレシオフィに従わぬ最北の蛮族が逃げようとする道に立ち塞がる障壁となっている。

 

「もう一つ、猊下。ターバにてお知らせを受けた想念の持ち主は、私と遭遇する前に息絶えてしておりました。僅かに手遅れにございました。申し訳ございません」

 今度は怯えたような表情になったオセリファが、頭を垂れたままグレシオフィに目を合わせられずに報告する。

 

「ターバからは遠すぎた。仕方のないことだ。そなたを責めるつもりはない。それにしても、軟弱どもが冬の我が大地を踏破など、思い上がりも甚だしい」

 一瞬苦い物を噛み潰したような不快な表情を浮かべたグレシオフィだが、オセリファを責める事由ではない。

 平野の民の目を掠め、山岳地帯の麓まで『移転』を繰り返したオセリファに、グレシオフィは労うような視線を投げ掛けた。

 

「して、いかがいたしましょう。死体は持ち帰っておりますが、早く処理せねば腐り始めましょう。暫くは、屋外に放置しておけば腐りはしませぬが」

 オセリファが最後の報告を上げ、指示を待つ。

 

「いかが致そうかのう。聞くところによれば、かなりの猪武者とのこと。軍を預けるなど無理そうだな。それにしても、あの者が今際の際に放った怨みを込めた想念は凄まじいものがあったな。そなたも感じたであろう? あれは、良い狂戦士になれる。吸血不死者として蘇らせ、そなたに預けよう。先陣を切らせるには、充分役に立つだろう」

 しばし思案に耽っていたグレシオフィは、死者の使い道を決め、オセリファに伝えた。

 

「南大陸からの情報は、その後入ってまいりますでしょうか? 此度の侵攻は、一国の独断専行とのことですが、再度来るのであれば一網打尽にして、全て不死者の兵と転生させてしまえば、平野に屯する主にまつろわぬ民を根絶やしにできましょう」

 オセリファが訊ねるが、グレシオフィは首を縦に振ることはなかった。

 

「あれ以降、彼の者は鳴りを潜めておる。それにな、平野の民にしろ、南の住民にしろ、根絶やしにしてどうする。我等を虐げた過去の罪は、一瞬で殺してしまって許すほど、生易しいものではない。生きることを呪うほどの苦痛を与え、死に掛ければまた生き返し、肉体が滅びるまで永劫の地獄に落さねば、我らの怨みが晴らされることはない。既に人の食物など不要な我々でも、生者の生血や肉は必要だ。そなたを含む吸血不死者は、生者から直接啜らねばならんし、不死者どもには生者の肉を食らわせねばならん。平野から南大陸は、我らの牧場にしなければならんのだよ、オセリファ」

 不死者にも等級があり、グレシオフィは現存する唯一の完全な不死者だ。

 完全な不死者であれば、日光を嫌うこともなく、銀の武器も弱点にはならない。魔界最強の悪魔を力の根源としているが、霊的な存在に転生しているために神の祝福を受けた武器すら、その身を傷付けることは適わない。唯一精霊の祝福を受けた武器がその身を切り裂くことができるが、グレシオフィが手に入れた不死の肉体は、その傷すら癒してしまう再生能力を持っていた。

 生者の生血を啜る限り、その肉体が滅びることはない。吸血者同様、生者から直接啜ることも、杯に受けた生血を飲むことも可能だった。

 不純物を含む生者の肉など、差し迫った状況でなければ必要ない。

 

 付き従うオセリファは、不完全ながらも最もグレシオフィに近い存在だった。

 自我や感情を持ち、自らの意志でグレシオフィに従っている。

 日光は決定的な弱点ではないが、嫌悪の対象だ。銀の武器も、神の祝福を受けた武器も通用せず、精霊の祝福を受けた武器のみがその身体を傷付けることが可能な点はグレシオフィ同様だが、彼のような再生能力は備えていない。

 中央に溢れかえる吸血者の最上位に位置する存在で、生者の生血さえあれば肉体が滅びることはない。もちろん、オセリファに血を吸われた者は、吸血不死者に転生し忠実な彼女の下僕と化してしまう。

 だが、不純物を多く含む生者の肉は受け付けず、生血のみが彼女の肉体を瑞々しく見せていた。

 

 ターバを壊滅させた吸血不死者も、自我や感情、意志を持つが、たった一つ自らの意志ではどうしようもないことがあった。

 転生の際にグレシオフィへの忠誠は強制に植え込まれている。あり得ないことだが、逆らう意志が芽生えるようなことがあれば、肉体は崩壊し始める。

 オセリファ同様銀の武器も神の祝福を受けた武器も通用せず、生血を吸った相手を吸血不死者に転生させ下僕とすることに変わりはない。日光を受ければ灰になるが、月光を浴びれば復活できる。だが、月光を受けるまでに水に濡れたり、風で吹き散らされてしまえばそれも適わない。そして、白木の杭を心臓に打ち込まれてしまえば瞬時に灰化して爆散してしまう。さらには精霊の祝福を受けた武器で切断されてしまえば、傷口から瞬時に腐敗が進み、その身体は崩れ去り、復活することはできない。

 生者の生血を必要とすることはオセリファ同様で、不純物を含む肉は受け付けなかった。

 

 不死者たちも、吸血した相手を転生させる能力こそないが、ほとんど吸血者に準じた能力を有する。

 しかし、日光を受ければ身体は灰化して崩れ去り、精霊に祝福された武器で斬られれば、低位の吸血者と同様の運命を辿るしかない。血を啜ることはできず、生者の肉を生きたまま喰らうことでその肉体を維持していた。

 自我などはなく、恐怖と歓喜の感情だけを持ち、破壊衝動だけに突き動かされる。

 グレシオフィやオセリファ、上位の吸血不死者には絶対服従が定められていて、逆らうなどということはあり得なかった。

 

 最下級の不死者たちはそれこそ使い捨ての尖兵で、自我も感情も意志も持たず、日光で灰化し、精霊の祝福を受けた武器で斬られればその場で爆散してしまう。

 生者の生血も肉も摂取することは適わず、予め設定された時間が過ぎれば肉体は腐敗し始め、最後は腐臭を放つ液体と化し消滅してしまう。

 いずれの者たちも、光の下で影を形成しないことで、不死者の一族と見分けることができた。

 

 遥かな昔、両大陸に文明が生まれた頃に勢力争いに敗れ、最北の荒野に押し込められた彼らの怨みは、数千年の時を越え、今全世界に襲い掛かろうとしていた。

 オセリファを下がらせたグレシオフィの背後には、黒山羊の頭と踵がない山羊の下半身を持つ神像が、妖しく両目を輝かせていた。

 

 

 ラシアスのアルギール城の一室で、朝も早い時間から男女が激しく言い争いをしている。

 男は語気こそ激しいものの理路整然と理を説いているが、女は言葉こそ丁寧だが頑なに聞き入れようとしていない。

 

「姉上、いや、陛下。何故、民を苦しめてまで、己が欲望を満たそうとされるのか。今、ここで一個師団規模の軍を編成しなおすなど、国庫を空にしても追いつきませぬ。増税など、言語道断。民に、何の利があると仰られるか。現在、共同統治機構軍が最北の蛮族を抑え、和戦両面から打開を図っております。そこへ軍を雪崩れ込ませるなど、両大陸を戦乱の渦に叩き込むおつもりか?」

 語気激しく迫る男は、ラシアス第三王子にして共同統治機構ラシアス代表ヘテランテラだ。

 

「女王に対して、その口の聞き方は不敬でしょう。弟といえど、許しませんよ。だいたい、北の民に何を遠慮しているのです。所詮、戦に明け暮れる蛮族どもです。さっさと征服してしまえば、二度と南下などしようとは思いません。服従するというのであれば、特に従順な者については褒美として南に迎え入れ、奴隷として使役してあげましょう。それのどこに不満があるというのです?」

 ニムファの目に狂気が宿っていることに、ヘテランテラは気付いていた。

 

「とにかくです。共同統治機構は、ラシアスの独断専行を許しませぬ。また、貴族たちから私財を徴発するというのであれば、女王が専制を行っていると判断し、これを是正するよう勧告を出す用意があります。私としては、祖国が最初に是正勧告を受けるという恥辱は避けたい。陛下におかれましては、何卒お考え直しいただきたく、お願い申し上げます」

 共同統治機構の代表は、南大陸の利害調整の役割を果たすと同時に、祖国の利益も守らなければならない立場だ。

 

 是正勧告が出されれば、その後の国の立場は低下し、四国家間での発言力は低下する。

 もし、ビースマック騒乱以前に共同統治機構が成立していたならば、ストラーとビースマック両国に何らかの懲罰動議が出されていたかもしれない。結果的に駐在武官たちの間では、アルテルナンテとフィランサスの発言力は一段低くなっている。当然、それを政治的に利用することは当然のことであり、パシュースは遠慮などする気はさらさらない。二人はこれから長い時を掛けて発言力を取り戻す努力を重ねなければならず、それが両国代表としての重要な仕事になっていた。

 ヘテランテラは、二人の肩身の狭さを間近で見ているだけに、ニムファが暴走した結果が祖国にどんな不利益をもたらすかを痛感している。

 

 もちろん、祖国の面子や自らの立場だけのためにヘテランテラは動いているわけではないが、共同統治機構の目的とラシアスの安定の方向性は同じだった。

 それだけに、ヘテランテラは是正勧告を出すことなく、ニムファに独断専行を思い留まらせたかった。

 パシュースたちが自分だけアルギールに残してくれた恩に報いるため、ヘテランテラは全力を尽くすつもりだった。

 

「貴族が所有する金を国のために供出するなど、臣下として当然の行いではないですか。それを誰から聞きました?」

 ニムファの目が険しくなる。

 頭の中では情報を漏らした者を、どうしてくれようか考え始めているようだ。

 

「そのご下問にお答えする必要は認めませぬ。それより、今は私財の徴発は専制に当たるとの、共同統治機構の見解を申し上げているのです。万が一にも、これが行われてしまえば、我々は是正勧告を出さねばなりませぬ」

 犯人探しなど、くだらないことに時間を費やす気は、ヘテランテラにはない。

 

 

「我々と言いましたが、あなたは我が国の第三王子なのですよ。そんなくだらない仲良しの馴れ合いなどより、祖国の利益の方が重要なのではありませんか?誰から聞いたのか、今すぐ言いなさい」

 ニムファの目が狂気だけではなく、怒りにも染まっている。

 ヘテランテラは、その怒りの根源が私財徴発を漏らした者へと向けられていると思っていたが、ニムファはそれももちろんだが目の前にいる物分りの悪い弟にも、その怒りの矛先を向けていた。

 

「私は我が国の第三王子ですが、それと同時に、陛下を含めた四王のご署名で権威を保障された、共同統治機構のラシアス代表でもあります。私には、第三王子としての立場においても、ラシアス代表の立場においても、祖国の利益を守る義務がありますが、祖国の名誉を守る義務もあります。是正勧告などという恥辱は、受け入れることはできません。そして、機構が目的とする両大陸の安寧と、ラシアスの利益は同時に成り立つ、いえ、両大陸の安寧なくしてラシアスの利益は確保できませぬ。何卒、お考え直しを」

 ニムファが癇癪を起こしては元も子もない。

 ヘテランテラはひたすら低姿勢に努めているが、徐々に我慢の限界へと近付いている。

 

 ニムファは共同統治機構の設立は認めたが、せいぜい親睦クラブ程度の認識でしかなかった。

 自分が第一人者になれば有益な組織にできると思っていたが、駐在武官などという下級の者たちに何ができるという思いしか持っていない。それが四王の署名が保障する権威を振りかざして、偉そうなことを言ってくるなど片腹痛い想いだった。是正勧告を出すなら出せばよい。

 それ以上のことなどできるはずもないのだから、どうせ聞く必要などないとニムファは考えている。

 

「先程から是正勧告などといっていますが、それに強制力などありますまい? 出したいのであれば、お出しなさい。それまでのことです。それより、大方、私財が惜しくなったのでしょう、あなたに金の供出の件を話した人物は誰か、言いなさい」

 ニムファの頭の中は、機構への嘲りと、私財徴発を漏らした犯人捜しに占められていた。

 

「何度も申し上げますが、その人物を教える必要を認めません。陛下におかれましては、何卒ご懸命なご判断を下されますよう、お願い申し上げます」

 限界だ。ヘテランテラは悟り、一旦言葉を途切る。

 呼吸を整え、ニムファが口を開く前に、最後通告と言って良い言葉を投げ付けた。

 

「もしも、是正勧告を無視された場合ですが、通商規制や交易の完全停止、通商上の優遇措置や経済援助の停止といった経済制裁が待っております。確かに是正勧告に強制力などございません。何故、強制力を持たないか、お考えになっていただけませんか。国が、自らの力で正道に戻る、自浄能力がまだ残されていることを期待するからです。是正勧告を無視することは、即ち、国に自浄能力がないことを、満天下に示すことに他なりません。そうなれば、あとは、どうなるかくらい……その莫迦な頭でもわかるだろ、姉貴。それともあれか、目より上は帽子を飾る台か何かか?」

 周囲に人がいないとはいえ、一国の女王に向かって言って良い言葉ではない。

 弟とはいえ、臣下としてあるまじき振る舞いだ。

 それでもヘテランテラは言わずにはいられなかった。

 一国の面子、いや一個人の欲望のために、世界が戦乱の渦に巻き込まれて良いはずがない。

 

「あなた、それが女王に向かって言う言葉ですか。不敬ですよ。弟でなければ、この場で手打ちにしてもおかしくないことです。解りました。あなたたち駐在武官は南大陸を乗っ取るつもりのですね? 下がりなさい。バイアブランカ王、サウルルス王、ブルグンデロット王と協議します。追って沙汰があると思いなさい」

 そう言うとニムファは席を立つ。

 既にヘテランテラの姿は目に入っていない。

 有害な共同統治機構を廃止にする協議の場を設けることを三王に伝える手紙を書くため、ニムファは書斎へと向かおうとした。

 

「おい、莫迦姉貴、まだ間に合う。是正勧告が出される前に、考え直せ。俺は、少しでもそれを遅くできるよう努力はするが、このままじゃ間違いなく是正勧告は出されるぞ。心して置けよ」

 ニムファの背中に向かってヘテランテラは言ったが、返事は返されることなく扉は閉められた。

 

 

「おい、誰かいるか」

 ニムファの背中を見送り、へテランテラが声を上げる。

 

「これに」

 音もなく背後に男が姿を現し、床に膝をついて頭を垂れる。

 

「周囲に影は?」

 へテランテラは子飼いの間諜に訊ねた。

 

「お引き取りいただいております。既に周囲は我らが固めております故。第一師団にも、話は付けてございます」

 間諜の答えにヘテランテラは満足げに頷き、財務卿の保護について命令を下す。

 予め打ち合わせてあった通り、間諜たちは事を運び、財務卿は夕暮れに紛れ城外の師団教練場に匿われた。

 

 

 へテランテラが命令を下してすぐに、間諜は財務卿私邸に向かった。

 応接室で財務卿の妻に面会し、へテランテラからの命令書を手渡し、家族と使用人をそれぞれ一室に集めるよう依頼した。

 

 妻と娘が別室に入り、数十名の使用人が応接室に入った。

 財務卿には息子と娘が二人ずついたが、今家にいる次女以外は既に新たに家庭を築いている。

 間諜は、使用人たちに解雇を告げ、夕方までに私物を纏めて屋敷を出るように申し渡す。

 突然の出来事に使用人たちは狼狽えるが、財務卿からの解雇通知を見せられ、渋々それを受け入れた。

 そして使用人たちがそれぞれの居室に戻り、私物の整理が始まると同時に、間諜たちの仕事が始まった。

 

 使用人のうち、既に内偵で判明していたニムファの手の者に内通した者たちが、他の者に気付かれないうちに半数ほどが始末され、物置に放り込まれる。

 財務卿を慕う使用人には間諜たちが囁き、女性は妻と娘の入る部屋へ、男性は応接室へと急がせた。そこでは女性の間諜が、妻と娘に使用人の服を着せ、暖炉の煤で顔を汚し、髪を乱雑に整え直していた。

 使用人たちが部屋に入ると、女間諜は使用人たちにも着替えと顔や髪を汚すことを命じる。

 使用人たちは状況が理解できないが、妻に急かされ言うとおりに着替え、煤で顔や髪を汚していく。

 応接室でも同様に男性陣が着替えを行い、煤まみれになっている。

 

 やがて、屋敷の一室から火の手が上がり、叫喚が沸き上がった。

 妻と娘、そして使用人たちは貴金属や宝石を詰めた鞄を抱え、用意されていた馬車に乗り込まされる。

 内通者が片っ端から斬り倒され、中には強姦される者もいた。そして、数人が命辛々屋敷を転がり出る。それを追うように妻と娘、数人の供回りを乗せた馬車が炎を突っ切り飛び出し、財務卿と落ち合うため師団教練上へ向かって走り去った。

 僅かな手荷物を抱え、十数名の使用人が炎から逃れ裏口を飛び出し、後も振り返らず逃げ去っていく。

 炎が渦巻く屋敷の中では、物置から財務卿や妻と娘に年格好が似た死体が引きずり出され、男の死体は首吊りに、女の死体同士は互いの喉を剣で貫かせる。

 死体に燃える水をかけて火を放つと、間諜たちは煙に紛れて姿を消した。

 二人の息子の屋敷と、長女の嫁ぎ先の屋敷でも同様のことが行われ、財務卿の一族はアルギールから消滅した。

 

 焼け跡からは、金属製の小箱の中に納められた、ニムファ宛の遺書が見つかった。

 遺書を検分した者たちには、当然箝口令が出されたが、へテランテラの意図を悟ったコリンボーサやエウステラリットの手の者により、財務卿一族は女王による私財徴発に対する抗議の自害を遂げたと、王宮には噂が広められていった。

 明らかに殺害された使用人たちや、私財が消えていることは火事場泥棒の仕業と断じられていたが、貴族たちは疑心暗鬼に陥っていた。

 則ち、ニムファの命で私財徴発に異を唱えた財務卿は粛正され、私財は強奪されたという噂も、王宮内に静かに広がっていった。

 

 

「気に入らんな」

 プラボックは自分にあてがわれた家で、ルムと二人酒を酌み交わしていた。

 かなり酒が回り始め、プラボックは心の声を抑えることができない。口にする気はなくても、低い呟きは止められない。

 

「気に入らん」

 今度はかなり大きな声だ。

 

「ああ、俺もだ」

 やはり、ルムも心に鬱屈した思いを抱えている。

 

「お前もか。どう思う、俺たちの、この体たらくを。すっかり南大陸の犬だ。奴らは、俺たちをどうしたいんだ。次から次へと送られてくる食糧。それだけじゃない、様々な便利な道具。そして、もたらされる技術や知識。俺たちは、いったい何なんだ」

 吐き捨てるようにプラボックは言った。

 彼は、劣等感に苛まれ、北の民の誇りを失いかけていた。

 

「あなたの考えている通りだ。我らは蛮族と見下げられていた。何故だ。血も通っていれば、心もある。ただただ暖かい、雪に閉ざされることのない土地を欲しただけだ。だが、南大陸は受け入れなかった。たまたま、そこに先に住んでいたというだけで、我らを北の大地に押し込めた。何故だ。今、我らは食うに困っていない。南大陸から運ばれてくる食い物があるからだ。ならば、何故。我らが移住しても、食うに困らないではないか。そうまでして、我らを雪に閉じこめたいのか、南大陸の住人たちは」

 ルムの言葉は、血を吐くかのようだった。

 二人には、南大陸の戦略が見えている。

 北の民を以て最北の蛮族への障壁と成し、精鋭を以てこれを討つ。北の大地に巣くう、南大陸を脅かす脅威を討った後は、北の民は北の大地に押し留めたまま、経済によって支配する。文化的後進地である北の大地は、南大陸で時代遅れになった不良在庫を吐き出すには都合が良い。捨てるしかなかった物がカネに換わり、そのカネで南大陸はさらに発展し、北の大地との差を広げる。

 下手をすれば、北の大地は南大陸の巨大なゴミ捨て場と化してしまう。

 

 

「おいおい、穏やかじゃないな。また、我々の悪口かい?」

 ランケオラータがレイを伴い、酒瓶とつまみを抱えて入ってきた。

 ランケオラータは、北の民の不満は理解していた。

 二人がやるせない思いを抱えていることも、充分承知している。

 

 だが、南大陸の住人として、住処を明け渡すわけにもいかないし、そんな気は更々ない。

 北の民には北の大地を開発し、発展させてもらわなければならない。南大陸の住人も、楽に今の生活を得たわけではないのだ。

 北の大地に比べ、危険な野生動物や魔獣の生息数は遙かに多い。大型の動物ばかりでなく、昆虫類や果ては病原体まで、圧倒的な数量だった。

 それに対抗するために、身体に抗体を作らせ、精霊と契約して白と黒の呪文を手に入れていた。大帝国成立前に南大陸の中心に居を構えていたベルテロイという名の錬金術師が、その研究の過程で精霊と交信することに成功した。そして、精霊との何代にも亘る試行錯誤と、多くの人々の協力と犠牲の上に、現在誰もが契約だけで行使可能な呪文がある。いつしか、彼が居を構えていた地は、彼の名からベルテロイと呼ばれるようになっていた。

 呪文の力と人々の叡智がなければ、肉体的に脆弱な人間など、野生動物や魔獣の餌となり、早晩絶滅していただろう。

 父祖が勝ち取ってきた地を、おいそれと明け渡すわけにはいかなかった。

 

「そうはいってもな、ランキー。我らの悲願は暖かい土地だ。こんな地は、人の住むところではない」

 最近は愛称で呼びかけるようになったプラボックが、レイから酒瓶を受け取りながら言う。

 

「まだ、お二人はアービィから異世界の話を聞いてないんですか? 異世界でも雪に閉ざされる国は多いそうです。でも、燃える石や燃える水、燃える空気のおかげで、暖かい冬が過ごせてるらしいんです。馬を必要としない車や、鉄でできた大蛇に鳥。そして鉄の船。旅が、この世界の何分の一、いえ何百分の一の時間でできるんですって。私たちみたいに歩きや馬車で五十日も掛かっている旅が、アービィの異世界では半日も掛からないの。アービィの世界も、五百年くらい前までは、ここみたいだったんですって。だから」

 レイが一気に言った。

 少女らしい純真さは、すぐにでも南北地峡を開放してしまえばいいのにと思っている。

 しかし、レイの聡明さは、急激な開放がどのような混乱を両大陸に引き起こすか、それを見通していた。

 間違いなく南大陸に人が溢れ、北の大地は荒廃する一方だ。

 

 今後産業革命が必ず起き、人口の爆発的増加は避けられないと、アービィは言っていた。

 そのときに、北の大地は必ず花開く。いや、増えた人々を養えるのは、北の大地しかない。南大陸のキャパシティは、せいぜい今の三、四倍といったところだ。現代日本の建築技術があれば、高層ビル群でかなりの住居を確保できるが、おそらく人口増加に科学技術の発展が追いつかない。

 人口が増えれば、単純に耕地面積は減っていく。

 

 

「待て、と言うのか? 餌を前にして、主人から命じられた犬のように?」

 プラボックは険しい目つきのままだ。

 

「今、移住を解禁したとします。北から南へ、人々は殺到します。そして、住みやすい場所を巡って諍いが起きるでしょうね。それが先住の南の住民とあなた方なら、また昔に逆戻りです。あなた方の間でも、足の引っ張り合い、潰し合いが起きるのでは? 南大陸の住人の中には、北の大地に新天地を求めようとする人々もいます。そうすればアービィの同業者がそれに続き、ギルドが入り込んでくるでしょう。そうなれば、南大陸に隙間ができます。段階的に移住は認める方向に持って行きます」

 プラボックの目つきに合わせ、レイは口調を改めた。

 言われてみればその通りで、急激な開放は北の民の間にも諍いを起こすだけだ。

 

 ただでさえ、住みやすい場所、作物が多く取れる土地を巡って、殺し合いを続けてきた民だ。

 その常識を南大陸に持ち込めば、たちどころに排斥の対象だ。

 やはり、北の民と南大陸の住人が、北の大地で緩やかに混交し、互いに浸透するように入り交じるまでの『待て』は、間違いではないのだろう。

 

「レイ、ランキー、それは解っているんだ。移住は慎重に開放するべきってな。いまでこそ、俺とルムは酒を酌み交わしているが、それは最北の蛮族のお陰だ。本来なら、顔を合わせたら、どちらかが死ぬまで剣を収めぬ相手だ。間違いなく、今は戦と背中合わせだが、平穏なときだ。だが、多分、移住を開放すれば、南大陸で、俺たち同士の殺し合いが起きることは確実だな」

 プラボックは解っている。

 わざと南大陸の住人に、不満をぶつけてみただけだった。

 

「今は、地均し、か。いつになるんだろうな、両大陸を自由に人々が行き来し、好きな場所に住めるようになるのは。子か、孫か。それとも、もっと遠い未来の話か」

 ルムは遠い目をして呟いた。

 

「そう遠くないことだと、俺は思う。もともと、南大陸には両大陸の民を両親とする子供は多数いる。そして、北の大地にもそう言った子供たちが生まれ始めている。その子供たちが大人になる頃は、今よりずっとマシな世界にしたいな。それが俺たちの世代の仕事だろうよ」

 ランケオラータは北の大地に捕らわれて以来、貴族然とした立ち居振る舞いが影を潜めている。

 その後、北の大地で生活するようになってからは、一層その傾向が顕著になっていた。

 インダミトの王宮にいた頃は、良くも悪くも因習に囚われた考え方しかできなかったが、北の大地での生活は、彼に幅広いものの見方と、柔軟な考え方を身に付けさせていた。

 

「そうよね。アービィが言うような、そんな早さで旅ができるなら、北の民も南大陸の住民も自由に行き来ができるようになりますね。もう、南大陸も北の大地も関係なくなるんですよ。鉄の鳥が飛び始めたら、国境や地峡なんて、意味ないですもん」

 レイは、この世界にもそんな時代が来るなら、そこで生きてみたいと思っていた。

 

 

「ルティなの? 開いてるわよ。どうしたの?」

 同じ夜、ティアの部屋のドアが叩かれた。

 

「ティア。あたし、どうしたらいいの?」

 ルティは真っ赤に目を泣き腫らし、ティアに縋りついた。

 寝巻きは乱れ、まるで今慌てて身につけたようだった。

 

「どうしたのよ? アービィがなんかしたの?」

 ティアがただならぬ雰囲気に語気を強めて聞く。

 

「アービィがね……寝言で『ショーユ、ショーユガホシー』って。この世界の言葉じゃなかったわ。きっと、きっと、異世界においてきた女の名前よ」

 そこまで言ってルティは泣き崩れる。

 

「ねぇ、ルティ。他に『ミソ』って言ってなかった? それ、異世界の調味料だから。って言うか、あんた、なんでアービィの寝言を聞いてるのよ」

 暫く考えてから、ティアは訊ねた。

 

 前日、翌春の作付けに付いて相談した際、アービィが大豆に似た豆の増産を力の限り主張していた。

 栄養価も高く栽培も容易なのだが連作障害の不安があるため、畑を替えつつ作付けする必要があり、安定供給には手間が掛かることで皆が消極的になっていたのだった。それでもアービィは輪作や新たな開墾など、なかなか主張を収めずにいた。とにかく、来春はある程度の作付面積を確保することになり、輪作をどうするか、次はどこの畑を使うかなどの検討が行われていた。

 その後、たまたまルティがレイに呼ばれて席を外していたときに、ティアはアービィにしては珍しい我儘にも似た主張の理由を聞いていた。

 

「え? 何で知ってるの? いや、あの、ほら、きゃはっ」

 ティアから思いもよらぬ質問を返され、ルティは顔を赤くしている。

 あの夜以来、二人は時々抱き合って眠るようになっていた。もちろん、妊娠の可能性を考えて最後まですることはなかったが、互いの肌の温もりを確かめ合う夜が増えている。

 この夜も、二人で眠っていたときに、突然アービィがはっきりとした寝言を呟いたのだった。

 

「きゃはっ、じゃないわよ。まぁ、いいけどね」

 ティアは別に責めているわけではなく、からかっていただけだった。

 ティアとルティの寝室が並び、廊下を挟んでアービィの寝室がある。

 アービィとルティは足音や扉の開閉の音を忍ばせているつもりだったが、ティアには充分すぎるほど気配は伝わっていた。

 

「お願い、ティア、聞かなかったことにして」

 ルティは、赤くなった顔をさらに真っ赤にして、ティアに懇願した。


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