私、島村卯月は『あれ?』と思った。
『ここはどこだ?』と思った。
目の前に広がる光景はおそらくどこかの部屋の天井だった。背中から感じる感触や耳の奥で感じる平衡感覚によって自分が今仰向けに倒れているらしいことがわかった。しかし会社のキーボードをひたすらに叩いていたはずの私は自分の身に何が起こっているのかわからず目をパチクリとさせた。なんだこれ。
「卯月ちゃん大丈夫?」
見覚えがあるようなないような女性の顔が覗き込んでくる。初対面で、下の名前で、"ちゃん付け"されていることは妙だった。
「大丈夫。それよりここは……あー」
私は立ち上がって辺りを見回すと、気づいた。ここはレッスンルームだ。それも346のような大きな場所ではなく、中学から通いつめていた養成所、その年季の入った板張りの上に卯月はいた。そして鏡を見てさらに気づく。
「昔の私だ」
何も知らない馬鹿な昔の私だ。戻ったのか。そう言うことか。こういうのをタイムスリップというのだったか。私の頭の中はぐるぐると混乱していた、しかし年相応に冷静でもあった。
「なぜ今更?」
「ど、どうしたの?卯月ちゃん」
後ろの…そう、狼狽えているこの人は大昔、養成所にいた頃のトレーナーだったと思い出す。だけど、もうここには用はなかった。
「ああ、大丈夫です。もう頑張る必要はありません」
トレーナーは唖然としている。まあ仕方ないことだろうと私は思い、部屋の隅に置いてあった荷物をとった。とっくの昔に捨てたカバンだった。どうせアイドルになったって私は失敗するのだ。
「う、卯月ちゃん!?」
それに答えず私は出口に向かった。途中、柱に写真が貼り付けてあった。確かこの時点ではもう辞めていった養成所の仲間だった子達だ。私は笑顔で真ん中に写っている。
「………」
別に何も思わなかった。そのまま歩いて、養成所から出た。
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私はアイドルを辞めた後、適当な大学に進学し、適当な会社に入ってその間は一人暮らしだった。だから家に帰るのに少し手間取った。もう履くことはなくなっていたスニーカーの感触になんとも言えない感覚を抱きながら昔の街を歩いた。
「…………」
家に着いた頃には結構な時間が経っていた。恐らくレッスンが終わって既に帰っているべき時間だったのだろう。玄関から母さんが顔を出していた。家の前でぼうっとつっ立っていた私と目が合う。
「あら、卯月おかえり」
私の母さんは2年前。私が25の時に死んだ。
意外にも、いや、当然。私が受けた衝撃はかなりのものだった。私は眼前の元気そうな顔を見て口をぱくぱくとさせた。何を言えばいいのかわからなかった。最後に見た火葬場の横顔がフラッシュバックする。
呼吸が苦しくなった。
涙が出ていた。後から次々と出てくる涙を堪えるのは何年ぶりだろうかと思った。そして母が死んだのが最後だろうから2年ぶりだと思った。
改心が早すぎると自分でも思ったがまあそこはやはり実の親なのだ。
母さんは私がアイドルを辞めた後もずっと私のことを心配して、だから支えて、信じてくれていた。何の気力もない私を応援してくれていた。
「どうしたの卯月?入ってらっしゃい」
不思議そうな顔をしている。もう辺りが暗いので音もなく私が泣いていることはわからないようだった。その優しい声は私の胸の奥を焦がした。深呼吸をした。吸って、吐いてもう一度吸った。
「母さん、ありがとう」
母さんはもちろん首を傾げた。よく考えてみるとこのころの私はお母さんと呼んでいたし、状況的にも不可解だろう。まあそれはよくて、私にはやるべきことがある。
「私ちょっと忘れ物したから!」
それだけ言うと、私は元来た道をまた走って戻った。そんな大したことではないが、とりあえずトレーナーには謝らなければならないと思った。頬に残っている涙を振り切って走る。
そして道に迷った。家に帰る時も迷ったのだから当然といえば当然だった。しかも息切れが激しい、体力ないな私。大人の私よりはあるけど。膝に手をつき立ち止まったのはあるお店の前だった。
言い方を被せてみるなら、前の人生でもこの日この時間、ここに来たのだから必然といえば必然だった。そう、おそらくここは始まりの日だった。
お花屋さんの奥にはつまらなそうな顔をして頬杖をついている彼女がいた。
渋谷凛がいた。
私は突然走ったこと以外の理由でよたよたとしている足をお花屋さんの中に踏み入れた。
アイドルとお花屋さん、そういえば幼稚園の頃はそんな夢を語っている友達が大勢いた。
私もその中の一人で嬉しそうに夢を見ていた。
そしてそれは17の春まで続き、現実になり、冬に過去になった。
"凛ちゃん"がこちらを見た。そして驚きと困惑が入り混じったような顔をした。
「お、お客様どうかなさいましたか?」
今日はよく人を心配させてしまう日だと思った。凛ちゃんはかしゃん、と椅子を立つとカウンターを回ってこちらに歩いて来た。
「えと、とりあえず涙を拭いた方がいいかと」
「ああ、すみません。お見苦しいところを…」
ぐいぐい、と手の甲で涙を拭った。凛ちゃんは不思議そうな顔をしている。泣いている高校生が突然入ってくればそりゃね。
「何か悲しいことがあったんですか?」
「えぇ!?ええと、そうですね。はいありました悲しいこと、色々」
「……」
「でも今は前を向いています。未来に希望を持っています。……ええと、ではなにかそれっぽい花ってありますか?」
凛ちゃんは真剣な顔をして聞いてくれたが、花を要求すると少し笑った。
「お客様は少し変わっていますね」
「ええぇ、そうですかね」
「はい、なんていうか"大人っぽくて子供っぽい"です」
「それは…そうですね」
凛ちゃんはにこりと微笑むと少し私から離れて店内の花を見渡しました。
「……白のアネモネなどいかがでしょう」
「一度目と同じ」
私は小さくつぶやいた。感慨深く、凛ちゃんがいつか言っていた言葉も記憶の底から引き上げられた。
「「真実、期待、真心、そして希望」」
凛ちゃんがおや、という顔をした。言葉がそっくり重なった。流石に偶然だった。あるいは運命だった。
「白のアネモネの花言葉、知ってたんですか」
「ええと、昔、誰かさんに教えてもらったんです」
「誰かさん?」
「誰なんでしょう…?」
私たちはお互いに困ったように笑った。初対面で再会しないであろう関係特有の適当で気軽な雰囲気があった。
彼女の優しい声は私をゆっくりで穏やかにした。
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アネモネを買ってお花屋さんを出ると店の前でプロデューサーが待っていた。挨拶と名刺を渡してくる。
「いや、なんで?」
「笑顔です」
「いやいやいや、違うでしょ。なんでここにいるの、いや、なんでここにいるんですか?」
そういえば口調はあの頃を真似た方がいいのか、もしかしたら笑顔もあの頃に戻さないと捨てられるかも。
「ああ、それは偶然です。先に養成所に挨拶をさせてもらったのですが、島村さんは帰ってしまわれたということでしたので私も帰社するつもりでした。しかしたまたま通り過ぎた店の中で店員と話す島村さんを見つけましたので」
「はぁ〜そうなんですか」
私が気の抜けた返しをすると、プロデューサーは微笑ましそうな顔をした。なんでそんな顔をされたのかはよくわからないがこの微妙な表情の変化を読み取れるようになったのは昔の経験があるからだろう。この頃には私はプロデューサーのことを無表情の鉄仮面巨人としてしか見れていなかったが、意外と最初の方から表情のレパートリーはあったのかもしれない。
「立ち話で話すことではありませんので、どこか喫茶店に入りますか?」
「あー、わかりました。親に連絡しておきますね」
私からすると10年前のスマホでなんとか母にメッセージを送る。
「ところでプロデューサー……さん」
「はい、なんでしょうか」
「さっき私と店員さんが話しているのを見たって言いましたけど」
「はい」
「店員さんはアイドルにスカウトしないんですか?」
プロデューサーは大きく目を開いた。そしてやはり他の人にはわからないであろう小さな微笑みを浮かべた。
「もちろん、スカウトさせていただきます。彼女の笑顔は我々に必要ですから」