――徐州・
陶謙は、常になく頭を抱えていた。軍事費が足りないのである。無論自分の蓄えを切り崩せば捻出できるが、彼にとって漢王朝はそこまでする義理のある対象ではなく、どうにかして自分の蓄えを崩さずにこの局面を切り抜けるかということに腐心しているのだ。
「ふむ、どうしたものか……」
今のところ、この件に関する明確な解決策は見つかっていない。金策は得意だが、黄巾の乱発生に伴う動乱によって、肝心の金の貸し手が徐州に居ないのだ。
「陶謙様、
「――む。何用か?」
「何でも、娘の曹操が治める陳留に引っ越しをしたいとの事でございまして、別れの挨拶に参られたそうです」
「お通ししろ。仮にも嘗て太尉にまで上り詰めたお方だ。粗略にも出来まい」
従者が礼をして退出して暫く後、曹嵩はゆったりとした足取りで陶謙の前に現れた。宦官の息子とも思えぬその所作は、陶謙の心に一種の緊張感をもたらした。穏やかな表情からは何を考えているのかすら読み取れないが、裏表の無さそうな実直さを醸し出す雰囲気自体が、陶謙にとって居心地の悪いものだった。
「娘がこの度陳留の太守に任じられましてな。……こう言っては申し訳ないのですが、徐州は非常に治安が悪い。折角なので、娘の下で余生を過ごすのも良いと思いまして、この地を去ろうと考えた訳です」
「――致し方ありますまい。私の手腕では、この地の豪族を抑えるのに手一杯で御座いましたからな。自らの不徳を恥じるばかりです」
「いやいや、陶謙殿の実力は私も認めておりますよ。――時間が足りなかった、という事でしょう。そう御身を責める事もありませぬよ」
「お心遣い、痛み入りまする。――せめてもの礼と言っても大したことは出来ませぬが、徐州を出るまでの間、張
「これはこれは、有難い事です。正直な所、どうやって陳留まで行こうかと悩んでいた所なのです。渡りに船ですなぁ」
その後しばし歓談を楽しんだ曹嵩は、出立の日取りなどを伝えて陶謙の許を辞した。疲れ切ったように溜息を吐いた陶謙だったが、ふと思いついたかのような表情をすると、従者を遣って張闓を呼び出した。張闓は陶謙が子飼いにしている武官の一人で、陶謙がやろうとすることの裏まで読み取ることの出来る、彼にとって信頼できる数少ない手駒の一人であった。
「陶謙さま、お呼びで御座いましょうか?」
「うむ。――貴様には、曹嵩殿の警固役として、徐州の境まで護衛を任せたい」
「御意に」
「――徐州には、遺憾ながら黄巾賊が多く跋扈している。故に、曹嵩殿を守れぬという事もあるやもしれぬ」
「はっ」
「或いは、財物を狙った賊が出るやもしれんな」
「……賊が出るのは、徐州に居る間だけでしょう」
「そうだな。財物は貴重なもの故、高値で売れるだろう」
「――この張闓めにお任せあれ。必ずや、陶謙様の意に沿うように事をお運び致しましょう」
張闓が拝礼して出て行った後、陶謙は再び政務に取り掛かった。曹嵩に恨みが有る訳ではなかったが、彼の巡りあわせが悪かっただけなのだろう。自分には金が足りず、彼はそれを補い得るだけの財物を持って徐州を発とうとした。故に彼の財物を奪い、自身の資金源にするだけの事だった。
特に罪悪感は感じていない。陶謙の頭の中では、洛陽に於いて如何に立ち回るかに関しての算段だけが、組みあがり始めていた。
――――――――――――
前線で指揮を執っていた曹操は、その知らせに思わず自らの得物を取り落した。思わず震えそうになる声音を必死で統御し、伝令の兵に復唱を命じる。
「もう一度、言ってくれるかしら?」
「はっ。――徐州より陳留に向かっていた曹嵩様一行が、賊に襲われて壊滅した模様。警固に就いていた張闓という武将は行方不明となっているそうです」
「――ッ」
思わず握り締めた拳は、行き場もなく自らの太腿に振り下ろされた。噛み締めた唇から、一筋の血が滴る。
父の事は、尊敬していた訳ではなかった。売官の制度によって太尉にまで上り詰めたという事も気に入らなかったし、腐れ者の家計にあって平然としていることも気に入らなかった。しかし、曹操が穎達するために必要な心構えや処世の術を教えてくれたのは彼であったし、曹操が危地に陥ったときに財物を惜しげもなくばら撒いて救ってくれたのも彼であった。泰然と振る舞う父の事を、一面では気に入っていたし、数少ない自分の本心を曝け出せる相手として親愛していた事も事実だった。
その父が死んだ。俄には信じ難い話だったが、生き残った小間使いが連れてこられ、顛末を聞かされた事によって、信じざるを得ない状況に追い込まれてしまった。
ただでさえ、従妹の曹仁を失ってそれ程の時が経っていないのだ。曹操はこめかみに鋭い痛みを覚えて、表情を一層歪ませた。
「秋蘭、戦況はどうかしら?」
「呂布軍が暴れてくれたお陰で、我々にとっては非常に有利です。もう一日も有れば、この辺りの賊徒は片付くでしょう」
「半日で片付けなさい。掃討が終わったら、我が軍は徐州に転進するわ」
夏侯淵は深く理由を追求しようとはせず、一礼して幕舎を出てゆく。夏侯惇に命令を伝達しに行った事だろう。彼女は主君の気を察するに敏であったからこそ、曹操の信任も得られているのだ。
「陶謙――貴方を許さないわ。絶対にね」
父が死んだと聞いた時、曹操は陶謙が裏で手を回している事を瞬時に悟った。確証は無かったが、そう信じでもしなければ自分が自分でなくなってしまうような気がしていた。
「父、様……」
不思議と涙は出なかったが、頭痛は一層酷くなっていた。この頭痛は消える事はないだろうという確信が、曹操の胸の内に去来し、直ぐに消えてゆく。
――徐州大虐殺。曹孟徳最大の汚点として後世に語られる事となる凄惨な事件は直ぐそこまで迫っていた。その事を知るものは、現時点では僅かしか居なかった。