劉玄徳率いる義勇軍は、許昌への道のりを急いでいた。師である廬植の口添えを得て、黄巾賊本隊の討伐に参加するためである。
主に河北、幽州の中で戦功を挙げてきた劉備の名は、残念ながら河南では殆ど知られていない。武官に関羽・張飛、文官に諸葛亮、鳳統を抱えて人材面に於いては上質でありながら、彼女自身の政治的見識の低さや愚直とすら言える正直さによって、また、筵売りから義勇軍の大将になったという身の上から来る資金力の欠乏によって、未だ決定的な戦功を立てられてはいなかった。
「この乱で功績を稼げるかと思ったんですが、思ったようにいかなかったですね」
「許昌には、黄巾賊首領の張三姉妹が立て籠もっているようです。これを討ち取る事が出来れば、功績としては十二分だと思います……」
諸葛亮と龐統も、はっきりと表情に表さないだけで焦りは感じている。想定よりも、河南で本隊と戦っていた官軍や討伐軍が優秀かつ迅速だったのだ。
孫策率いる揚州軍の動きが、予想よりも遥かに早かったのも誤算の一つだ。どこから情報が齎されたのかは分からないが、彼女達が長江以北に進出するのがもっと遅いと考えて、諸葛亮は戦略を構築していたのだ。その前提が崩れてしまった以上、少数兵力の劉備軍にとって軌道変更は非常に難しいのだ。
安全に戦功を重ねるための諸葛亮の策ではあったが、周囲からの評価は官軍の兵を師から借り受けて戦功を立てる義勇軍、つまり借り物の戦功を重ねているという程度のものでしかない。その辺りに気付かない彼女も、まだ一流の軍師たるには経験が不足していたという事なのだろう。
ともあれ、現在与えられた状況を最大限に活用して戦略を構築し直さねばならないという点については変わりようがない。そして、ここまで煮詰まった状況に於いて諸葛亮が構築しうる戦略と言うものは、限られていた。
「一にも二にも、ここは張三姉妹の首を取らなければいけません。でなければ、この乱を機に飛躍する芽は摘まれたという事になりますから」
「確かに。我々は、未だに目立った戦功をあげて居ないからな」
諸葛亮の言葉に応じるのは、義勇軍における武官筆頭の関羽、字を雲長という少女だ。張飛と共に劉備の義妹となった彼女は、劉備を理想実現が可能な土俵にまで引き上げることを至上命題としている。劉備の理想である『皆が笑って過ごせる国』の実現は、国土統一の末に考えるべきことだと思っているのだ。その点において、諸葛亮とは意見の一致を見ている。
一方で関羽の義妹である張飛と龐統、そして劉備の考えは関羽達のそれと異なる。建国の前から理想を追い求め、建国の段階に至った時点で完成している事を目標としているのだ。
関羽と諸葛亮は言葉どころか表情にすら出さないとはいえ、主である劉備の考えに否定的であった。甘すぎる、現実的では無いと考えていたのだ。
確かに理想の追求は人を動かす原動力となることであったし、彼女の理想は多くの人を惹きつけて止まないだろう。だが、その理想を語る為には力が必要不可欠なのだ。それも並大抵のものではなく、一国の主として割拠出来る程の力が。
その前提があったればこその理想実現である。大義無き力が最大の暴力として忌避されてきたのは歴史から見ても明らかだが、一方で力無き正義が世を統べる事など有り得ないということも歴史が証明していた。非攻と兼愛を説いて一時は儒教と並ぶまでに勢力を拡大した墨家思想ですらも、戦闘力を以てその存在感を世に示していたのだ。
言うなれば力無き墨家である劉備軍の言うことを聞く群雄など、どこにも存在しはしない。よしんば話を聞いてくれる群雄が現れたとしても、聞く態度は上辺だけで、結局は劉備軍を消耗品として使い潰す意図を持って近付く者が殆どだろう。何しろ、人材だけは一線級なのだから。
「使い潰されて戦場で散るなど、桃香様とて本意ではないだろう。――かといって、手段を選ばないのも桃香様の本意ではない」
「桃香様が、その事を知る必要はありません。――泥を被るのは、我々配下の務めなのですから」
「然り。……ともあれ、今は目の前の戦場を切り抜けねばな。後の事は、またその時に考えればいい」
「そうですね。勝つための算段は、私と雛里に任せてください」
許昌の城砦は、間近に迫っていた。
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孫策率いる楊州軍は、許昌の攻囲に加わっていた。攻囲に加わっている武将は中郎将である朱儁と皇甫崇、西園八校尉である曹操と袁紹、袁術。執金吾でありながら黒山族十万を殲滅した呂布、雍州、凉州方面の叛乱を鎮圧して攻囲に加わった董卓。そして先の叛乱で官軍相手に大打撃を与えた韓遂。
見るものが見ずとも、尋常ならざる武将が集まっていることを肌で感じるだろう。それほどに許昌を取り巻く空気は緊張しきっていた。
「まさか、アンタまで来てるとは思わなかったけどね」
「これでも今は漢王朝の臣だからな。御命拝したとあれば、許昌までだって出兵するさ」
「白々しい口ぶりね。――まあ、敵じゃないっていうなら構わないけど」
「それはどうも。――ところで、軍議の時間はとうに過ぎているようだが」
「ここにいない連中が遅刻してるのよ。全く、中朗将が二人も居るっていうのに、とんだ胆の太さよね」
「袁紹と袁術か。袁家の頭領ともなれば、肝っ玉の太さも人並み以上と言うわけだ。――まぁ、胆力という点では、私も人のことは言えそうも無いがな」
韓遂の視線の先には、ありったけの殺気を込めた視線を送る曹操の姿があった。自身の従妹を殺した直截の原因がそこに居るというのに、平静を保てる人間はそう居ないだろう。
「随分と楽しそうね。叛乱を起こしておきながら平然と凉州刺史の勅旨を奉戴するような女は、神経の構造から違うのかしら」
「さてはて、どうなのかは判りかねますな。生まれてこの方、他人と比べるということをしてこなかったものでね」
「――そう。貴女にも、復讐が必要みたいね」
「ご随意に。むざむざやられる積もりもありはしませんがな」
「どうかしらね。後の楽しみに取っておかせてもらうわ」
「お前ら、いい加減にやめねえか。姶良が涙目になってんじゃねえか」
二人の静かな諍いを納めたのは中郎将の一人にして、許昌包囲軍の総指揮官を務める朱儁、字を公偉という壮年の境に差し掛かった男性だ。彼の怒鳴り声に流石の曹操も口を噤み、韓遂は呆れたように溜息を吐いた。
「さってと。袁家の嬢ちゃん二人が来てねえけど、時間が勿体ねえから軍議をおっぱじめちまうぞ。――議題は言うまでも無いが、許昌に篭ってる黄巾賊をどう引き摺り出すかってところだ。篭城決め込まれちゃあ兵数が足りねえが、野戦なら十二分に勝算があるってなもんだ」
「兵の質、将の質共にこちらが有利だからな。野戦で負けろという方が難しかろう」
野戦でなければ、騎兵中心の我々は出番が有りませんからな。韓遂はそれだけ言って、再び聞く側へと戻る。策を提示する気は無いようだ。
「廬江の時みたいに、焼き討ちでもしましょうかね?」
「これだけ厳重に囲まれてたら、敵の警戒心も盧江の時とはダンチでしょ。上手くいくはずが無いわ」
「まあ、それもそうですね」
「――偽装退却というのはどうかしら。敵もこのままでは緩やかに追い詰められるだけなのを理解しているはず。そこにこそつけ込む隙が生じると思うのだけれど」
曹操の言葉に、反応を見せたのは皇甫崇だった。
「しかし、その名分はどうする?偽装にせよなんにせよ、それなりに説得力のあるものにしないといかんだろう」
「不敬は承知で、陛下の死を装うというのはどうかしら?」
「孟徳!いくら貴様とて、言って良い事と悪いことがある位弁えたらどうなのだ!」
「長期化させれば、何れにせよ陛下の御身に降りかかる危険は大きくなると思うのだけれど。それが賊の手によるものか、宦官共によるものかは分からないけれど」
「ああ、確かに陛下の命が脅かされてるって状況には違いねえな。状況が長引けば、確実に十常侍の連中が新帝擁立に動くだろう。それは分かってるよな?姶良」
「その位、分かっている。だがこれは、余りにも不敬な立案じゃあないか……」
皇甫崇の表情は、涙を堪えているようにも見える。勤皇の志が強い彼女は、たとえ形式だけであっても皇帝を玩弄するような事を決して許せなかったのだ。
「――ともかく、この状況を打開しねえ事には勤皇の志も果たせはしねえんだ。オレは孟徳の案に賛成だ」
「私も賛成だわ。反乱は長引けばそれだけ被害が増すんだから、速やかに鎮圧するためにあらゆる手を尽くすべきよ」
「うむ。――私としても異論は無い。樊稠殿も、それで問題なかろう?」
「構いませぬぞ。我々は中郎将殿の立てた作戦に従うのみだ」
「――よし、ならば使者を送って陛下に動いて貰うとしよう。姶良も、それで構わねえな?」
「ええ、構わないわ。陛下の御為ならば是非もなし、よ」
皇甫崇の賛成を得て、曹操の提案は可決された。伝令が洛陽に辿り着いて皇帝の勅書が届くまでは各自の持ち場を守備すること。これだけが攻囲側に通達された。