ONE PIECE《エピソード・オブ・アンカー》   作:蛇騎 珀磨

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秘め事

 アーロンとアンカーの一件は、タイガーの船長命令により一部の者たちにのみ伝えられ、その他の船員たちには、喧嘩が長引いている、と伝えられた。その多くが、アーロンとアンカーの痴話喧嘩だと思ったようだった。だからといって、2人の間に入って仲裁しようとする者はおらず、タイガーもそれを禁止させ、巻き込まれないように見守るよう命令を下した。特に船医のアラディンは、アンカーの体調や不安定な精神面のモニタリングが必須となった。無論、本人には秘密で。

 

 しかし、いくら敵視しているとはいえ、海軍や他の海賊が襲って来ればアンカーも加勢に入る。その際のアーロンとの連携は、今の状態を微塵も感じさせないほど見事なものだった。大柄な魚人たちの中にいる、一見か弱そうなアンカーに狙いを定め向かって来る敵を受け流し、すぐ近くで力を貯めて待つアーロンが止めを刺す。その逆も然り。『誰も殺さない』という船長命令に従い、殺さない程度にアーロンの攻撃を避けて油断した所を何度も殴りつけた。

 戦闘が終われば連携も終わる。アンカーはいつものように海の中に帰ろうと甲板の淵に足を掛ける。それを止めようともしないアーロンに呆れつつ、タイガーはアンカーを呼び止めた。

 

「......何?」

 

 返事はするものの振り返りはしない。以前の明るい声とは違い、怒りを含めた低い声にその表情かおを想像するのは容易かった。辺りの空気がピリピリとした殺気に包まれる。乗組員の何人かは、争いに巻き込まれまいと物陰に身を潜めた。

 

「この先は海が荒れる。しばらくは海に入るな。...それだけだ」

「......」

 

 アンカーは考え込む。いくら自分がコバンザメの体を持っていると言っても、荒波に揉まれて無事でいられる自信は無い。魚人島を出るまで“波”というものさえ知らなかったからである。

 それよりも理解出来ないのは、自分を特別バケモノ扱いする奴らの親玉がそんなことを言って来たか、であった。

 

「......なんでそんなことを?」

「俺の船に乗る者を心配をしただけだ。当然だろう」

 

 それが仲間だから。という考えが今の彼女には無い。タイガーの言葉を『仕方なく』と解釈してしまった彼女を咎めることは誰にも出来ない。

 呟くように「分かった」と答え、アンカーはそのまま自室へと引っ込んだ。

 

 

 

 

 

 

「あ、お姉ちゃん!」

 

 先程の戦闘中、ずっと隠れていたらしい少女──コアラがそう言って駆け寄って来る。しばらく見ない内に綺麗になったものだ、と辺りを見渡す。コアラの癖はまだ完治していないようで、床や壁の汚れが拭き取られていた。

 アンカーは、あからさまに嫌な顔をした。いくら子供とはいえ、人間だ。アンカーがこの世で一番嫌う人間なのだ。コアラは何か悟ったのか、一定の距離を保ったまま再び話しかけた。

 

「お姉ちゃん、私、お家に帰れるの!」

「へぇ...」

「この先の島を過ぎたら、次は私のお家がある島に着くって。ああ...早くお母ちゃんに会いたいなぁ」

 

 コアラの表情は、少し前までの張り付いた偽りの笑顔ではなく、ごく自然な可愛らしいものだった。正直どうでもよかったが、それほどまでに嬉しいのか...と呟いたアンカーは、次に少女の口から出た言葉に耳を疑った。

 

「だって、お母ちゃんは“特別”だもん!」

「............は?」

 

 会えることが嬉しいほどの母親が特別。

 アンカーなりに言い換えるなら、バケモノの母親に会えるのが嬉しい。

 

 ──変だ。

 今まで疑いようもしなかった母の教えに、初めてその考えが浮かんだ。特別とは──バケモノとは、忌み嫌われる存在なのではなかったのか?

 

「特別って、どういう意味...?」

「んーとね...。お母ちゃんは“すごく大事”とか“大好きだから”とか言ってた」

「どんな顔で?」

「すっごく優しい顔!『コアラはお母ちゃんの特別よ』って、言ってくれたの! 私、お母ちゃんのあの顔が大好きっ!!」

 

 ──違う。全然、違った。

 ワタシの記憶とは、母の教えとはまるで違う。

 

 アンカーは困惑していた。

 特別の言葉の意味も、母親の表情もまるで違う。彼女の母は優しい顔なんてしなかった。涙を流しながら鬼の形相で、罵声を浴びせながら拳と共に振り下ろされる言葉の内の1つに過ぎない。どんなに痛めつけられようとも大好きな母だったが、その時の顔だけは好きにはなれなかった。

 だが、少女の言うことが本当なら、母から聞かされていたのはなんだったのだろうか。嘘?...偽り?

 しかし、アンカーには覚えがある。

 今まで見たことのない優しい顔で、自分を特別だと言った者がいる。その時は深く考えず、“特別”だと言われたことによるショックが大き過ぎたために、本人に尋ねる余裕もなかった。

 

 もしも、あの時の“特別”がコアラの言う“特別”なら......。

 

「お姉ちゃん? どうしたの?」

「なんでもない...」

「でも、お顔が真っ赤だよ。熱があるんじゃ......」

「寝れば治る。うつされたくないなら、早く出て行け」

 

 困惑した様子のコアラを見送って、アンカーは久々に自分のベッドへと体を沈み込ませた。自身も混乱したまま、頭の中のぐるぐるが目の前で起きているように錯覚してしまい、気持ち悪さに耐えながら眠りについたのだった。

 

 

...

.........

 

 

 

「気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い!

なんで、お前はそんなに醜いんだ!小さい体!少な蹼みずかき!目立たないエラ!」

 

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 

「こっちを見るな!その姿で、私を“お母さん”と呼ばないで!」

 

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 

「近寄らないで!お前の作った物なんて食べたくない!」

 

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 

「泣きたいのはこっちよ!お前の醜い顔を、更に醜くして...私を見ないで!」

 

 ごめんなさい。

 もう、泣かないから。

 ......ごめんなさい。

 

「お前の笑った顔はもっと醜い!」

 

 ごめんなさい。

 もう、笑わないし泣かないから。

 でも、どうして、そんなことを言うの?

 

「......それは、お前が特別だから」

 

 特別? 特別って、なあに?

 

「バケモノよ!この世で、最も忌み嫌われる存在!お前は特別だッ!!」

 

 どうして?

 お母さん。ワタシは、お母さんが好きだよ。

 嫌われるようなことはしない。

 

 ワタシからは近寄らない。

 ワタシからは口も聞かない。

 お母さんのご飯は作らない。

 自分の分は自分で作るよ。

 

 たくさん殴られても嫌がらない。

 泣かないし、笑わない。だから......。

 

 だから、特別だなんて言わないで。

 

 

 

 

 お母さんは、最期の最後まで、ワタシを特別だと罵った。

 特別だと言われても、お母さんは好きだった。

 肩を並べて歩きたかった。たくさんお話したかった。手を繋ぎたかった。一緒にご飯を作りたかった。同じテーブルで同じご飯を食べたかった。笑い合いたかった。頭を撫でられたかった。

 特別扱いしないで、大好きって言ってほしかった。でも、もう無理。お母さんは、もう、いない。

 いるのは、気持ち悪い笑顔の男だけ...。ワタシは、この男が大嫌いだった。

 

 

 

 

 

「君にも名前を付けなきゃ」

 

 どうでもいい。

 

「そうだなぁ...。彼女の意思を汲んで、海底に留まる者......よし!君は今日からアンカーだ。よろしくね、アンカー」

 

 どうでもいい。

 

「アンカー。こっちにおいで。一緒にご飯を食べよう」

 

 嫌だ。

 

「アンカー。こっちにおいで。一緒にお話しよう」

 

 嫌だ。嫌だ。

 

「アンカー。こっちにおいで。一緒に寝よう」

 

 嫌だ。嫌だ。嫌だ。

 

「アンカー。こっちにおいで。一緒に、気持ちいいことしよう。...大丈夫。痛いのは最初だけ。時期に気持ちよくなるから...」

 

 嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。

 

「俺の言うことを聞かねえなら、お前なんかいらねぇ!拒まれてから10年も待った!10年も我慢したんだ!お前みたいな特別な存在は、人間に売り飛ばしてやる。最初で最期の親孝行だァ!!」

 

 イヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだいやだいやだいやだいやだ......あああああぁぁぁッ!!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 目を覚ましたアンカーの目に映り込んだのは、大きな男の掌。それが、自我のコントロールを壊す引鉄となった。

 

「わあああああぁぁぁッ!!!!」

「っ! ア、アンカー!?」

「く、来るな!来るな来るなぁ! ワタシに触るな!構うな!」

 

 大きな掌を払い除け、部屋の隅に逃げ込む。もうそれ以上、下がれはしないのに、まだ体を壁の方へ押し付けていた。

 騒ぎを聞き付け、乗組員のほとんどがアンカーの部屋の前に集まる。それが、更なる悪化の原因となった。今の彼女には、目の前の男たち全てが育ての親にしか見えていない。常識的に分かっていても脳がそう認識してしまい、幻覚となって彼女を襲う。

 

「アラディン! これは何の騒ぎだ!?」

「コアラから、アンカーの具合いが悪そうだと聞いたんで様子を見に来たんだが...」

「それが何故、こうなっている!?」

「それは分からない......」

 

 タイガーも駆け付け、アンカーの変わりように硬直しているアラディンに声をかける。そんな2人のこの会話も、歪んで聞こえている。心配する表情さえ歪んで、嘲り笑う表情や、邪な想いが滲み出た表情に見えてくる。

 アンカーの口からは、もうずっと「ごめんなさい」と繰り返されていた。

 部屋の隅で膝を抱えてしゃがみ込み、頭を細い腕で抑え付けながら、僅かな隙間から見える男たちの様子を伺っている。男たちの誰かが体を大きく動かす度に、小さく悲鳴を上げて体を震わせた。

 

「アンカー落ち着け。俺たちはお前に何もしない」

「ごめんなさい...」

「大丈夫だ。俺たちは仲間だろう?」

「ごめんなさい。ごめんなさい...」

 

 その必死な態度に、皆が感じた。

 初めて会った頃のコアラに似ている...と。

 

「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

こんな姿で生まれてごめんなさい。変な言葉を使ってごめんなさい。醜くてごめんなさい。近寄ってごめんなさい。殴られて泣いてごめんなさい。笑ってごめんなさい。ご飯作ってごめんなさい。床に落ちたご飯を残してごめんなさい...。特別で...バケモノでごめんなさい。ご......ごめんなさい............ッ!」

 

 遂に、アンカーは泣き出してしまった。

 子供のように大声を上げて、顔をぐしゃぐしゃにして、何度も「助けて、助けて」と叫んだ。

 誰も手が付けられない。体が動かない。初めて見る仲間の一面に、誰もが釘付けになっていた。

 

「痛いのは嫌だ。気持ち悪いのは嫌だ。誰か、助けて...!誰か...たす、助けてよぉぉぉぉッ!!うわああぁぁぁッ!!」

 

 落ち着く様子も無い。だからといって、放っておくわけにもいかない。

 困り果てている乗組員たちを掻き分け、1人アンカーに近寄る男。アラディンから「刺激するな」と注意されたが耳に届いてはいない様子の男は、そのままアンカーを抱き寄せた。

 元から体の小さいアンカーは、男の太い腕や厚い胸板に覆われて身動きが取れなくなる。

 

「──大丈夫。大丈夫だ、アンカー」

「っく......ひっ...。特別は嫌だ。バケモノは嫌だ。...ごめんなさい。特別で...バケモノで、ごめんなさい」

「誰も、お前をバケモノだなんて思っちゃいねぇ。俺も、お前に“特別”だなんて言って悪かった」

 

 大きな手でアンカーの小さい頭を撫で、落ち着かせるように背中を軽く叩く。次第にアンカーに落ち着きが見られ、最終的にはそのまま眠りに落ちてしまったが、乗組員たちの動揺は見るからに明らかだった。タイガーによる船長命令で、このことを口外することを禁止し、本人が落ち着きしだい話をさせると言ってその場はなんとか治まったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 

 アンカーは夢を見る。

 目の前には、幼い頃の自分がうずくまって顔を隠している。その存在はとても幼く、とても小さく見えた。震える肩になんとなく懐かしさを覚えたが、他人事のようにも思えた。この不思議な感覚に戸惑っていると、目の前の自分が「ねぇ」と語り掛けてきた。

 

「今、しあわせ?」

 

 その言葉に、アンカーはただ「わからない」と答えた。実際、アンカーに幸せの定義は存在しない。それを教えてくれるはずだった両親は、全く別の感情を押し付けるだけ押し付けて死んでしまったからだ。幸せを知らないのに、答えられるわけがなかった。

 

「今も、特別はイヤ?」

 

 嫌だ。今度は声に出すことも出来なかった。

 嫌なはずなのに、あの日のアーロンを思い出すと、嫌だと声に出せなくなった。アンカーは、俯きながらも「よくわからない」と答えた。

 

「そっか......よかったね」

 

 晴れ晴れとした声に、子供の自分が顔を上げたのだと気付いた。

 しかし、その顔を見ることは叶わず、アンカーは夢から目覚めようとしていた。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 あの騒動から、早くも一週間が過ぎた。

 落ち着きを取り戻したアンカーは、乗組員全員を呼び出し、その面前に立っていた。

 

 アンカーは、全てを話した。

 母親に虐待されていたことも、育ての親に貞操を奪われそうになったことも、それを拒んで人間に売られそうになったことも、その時に育ての親を殺したことも...。

 蔑まされても、罵られても、当然だと思った。

 アンカーは、正面を見据えて決意を声にする。

 

「“僕”は、母さんの言い付けを守って生きた。自分のことを“僕”なんてみっともないって言われて、ずっと封印してきたけどもう吹っ切れた。今なら、母さんが間違ってたって分かるから。僕は、本当の世界が見たい。だから、何でも教えてほしい。お願いします!」

「そういう時は、頭を下げろ」

「あっ、そうなんだ」

 

 相変わらずの仕草に、全ての乗組員が爆笑した。

 誰一人としてアンカーを蔑む者も、罵る者もいない。普段と変わらない笑顔に、アンカーもつられて笑顔になる。少し子供っぽい笑顔に、全員が「笑ったー!」と歓喜の声を上げた。

 

 

 

 

 

 それから冬島付近の海を抜けて、次の島で食料や武器の調達が終わって、ようやくコアラの故郷がある島へと辿り着いた。

 ボサボサだった頭は綺麗に散髪され、ボロボロだった服も新調されて、見違えるような姿になったコアラとも別れの時が来たのだ。

 短いようで長かったような、長いようで短かったような...。

 コアラが船に乗ると決まった時のギスギスとした空気は今は少なく、別れを惜しむ声すらも聞こえた。アーロンやアンカーの人間嫌いは変わらず、皆よりも離れた場所で見送っている。もちろん、見送る対象はコアラではなく、それに付き添うタイガーである。

 

「1人だけ“魚人にもいい奴がいる”と言って何になる。何も変わらねえさ」

「アーロン! テメェ!」

 

 余程コアラのことを気に入っていたのか、涙を流しながら見送っていた魚人が殴りかかる。しかし、傍にいたアンカーに薙ぎ倒され「ふぎゅ」と声を上げて気絶した。

 

「チッ......。余計なことを」

「そんなこと言って...実は気に入ってたクセに」

「......フンッ」

「僕は、気に入ってたよ。あのまま大人になってくれたら...ってね。ま、無理だろうけど」

 

 アンカーの表情は明るい。自ら人間の話を出来るのは、皆に全てを打ち明けたからであろうか?

 しかし、人間嫌いが無くなったわけはなく、付け足すように「無理だろうけど」と呟いた声は低く冷めていた。その時──

 

 

 ドドン! ドン! ドドドド......!!

 

 

 ───複数の銃声が響いた。

 

 

「な、なんだ!?」

「おい! 海の方を見ろ。海軍だッ!」

「囲まれてる!?」

 

 気付くのが遅すぎた。タイヨウの海賊団の船の周りには、何隻もの海軍の船が迫って来ていた。その内の1隻から放たれた砲弾が直撃する。

 ジンベエの指示の元、数名はタイガーの救出、残りは船を捨て海の中から海軍を襲撃する。アンカーは、ジンベエと共にタイガーの救出に向かった。

 

「くそっ! これだから、人間は嫌いなんだ!」

 

 海軍を呼んだのは、おそらくコアラを送ってほしいと頼んだ奴ら。もしくは、ここに来るまでに立ち寄った島の人間たち。罠にハメられたのだと、アンカーは怒りを憶えた。

 

 未だに止まない銃声を頼りに、タイガーの救出に向かう。他の船員たちも、海軍に、人間に怒りを爆発させていた。

 ようやく見えてきた人間の姿。「タイヨウの海賊団です!」という声に、奴らが海軍だと確信する。

 

「おのれーーー!!」

 

 ジンベエを筆頭に、次々と海軍に襲いかかる。むろん、アンカーも。

 

「タイガーから離れろっ! 僕たちが相手になってやるよ!」

「なっ!? 人間が魚人を!?」

「僕は、魚人だあぁぁッ!!!!」

 

 アンカーは武器を構えた。鎌の刃が付いた長い棒を振り回し、周りの海兵たちを振り払う。刃に四肢を切り裂かれ、大半は起き上がれなくなった。しかし、海兵はまだいる。その中には、正義を背中に掲げる者も当然臨戦態勢で待ち構えていた。

 アンカーの攻撃を耐え、討伐せんと向かって来る。

 

「アンカー! 奴は、海軍少将じゃ。お前さん1人では力不足...。ここは、わしに協力せい!」

「分かった!」

 

 迷わず了承し、武器の形態を変える。ジャラジャラと出てきた鎖を、向かって来る少将に投げつけた。そんな攻撃には当たらず、簡単に避けてみせる。もちろん、わざと避けやすいように投げたに過ぎない。そこに待ち受けるのは、正拳突きの構えをしたジンベエ。

 

「魚人空手...“五千枚瓦正拳”!!」

「くっ...!!」

 

 海軍少将とはいえ、名の知れた魚人の攻撃に真っ向から受ける気は無い。反撃のために構えていたが、ジンベエの鋭い正拳突きに、咄嗟の判断で腕を上げガードを構える。

 

「させるか!」

「なにっ!?」

 

 アンカーは鎖を操り、それを少将の体に巻き付ける。周りにいた他の海兵たちも巻き込んでしまったが、返ってそれが功を奏した。避けてしまえば、後ろの部下たちに攻撃が当たってしまう。その迷いが判断を鈍らせた。

 結果、ジンベエの正拳突きが直撃する。

 殺さないように手加減されてはいたものの、その威力は凄まじく、少将と数名の海兵たちはまとまった状態で吹っ飛ばされた。

 

「よし!今の内にお頭を運べ!」

「なんで!? コイツら全員殺さないの!?」

「殺しはせん!それが海軍であろうと! それよりもお頭を運ぶのが先じゃ。早く治療してやらねばっ!!」

 

 ジンベエの言う通り、タイガーは瀕死の状態だった。思った以上に血を流し過ぎたのだ。全員で運び出す頃には、ぐったりとした様子でピクリともしなかった。

 

「アンカー! 早うせんかっ!!」

「チッ...」

 

 殺してやりたい。しかし、それをタイガー自身が阻む。そのタイガーの命が危ない。アンカーは、ジンベエに促されてその場に背を向けた。

 

 ドンッ! という音の直後、アンカーの体は地面に吸い寄せられるように倒れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ジンベエさん、お頭は!?」

「重症じゃ。すぐアラディンを呼べ! 患者は2人じゃ!」

 

「──2人?」

「アンカーが撃たれた。血が止まらん! 早く!」

 

 ジンベエの腕の中には、胸から血を流しぐったりとするアンカーの姿があった。呼吸は荒く、油汗も酷い。

 駆けつけたアラディンはどちらから治療するべきか迷った。どちらも重症で、今すぐにでも輸血を必要としていた。しかも、2人が必要とする輸血の血液型は全く同じだったのだ。幸いにも、海軍から奪った船には大量のストックがあったため、すぐ輸血の準備に取りかかった。

 

「入れるなっ!」

 

 大声で訴えたのはタイガーだった。海軍の船にあったということは、その血液のストックは人間の物。「そんな血で生き長らえたくない!」と頑なに拒む姿に、皆、疑問を感じた。

 同じ血液型のアンカーも輸血を必要としている今、人間の血に頼るしかない。しかし、タイガーはそれを強く拒絶したのだ。今までに見たことのない鬼のような形相に、全員が息を呑む。

 

 最後の旅が長かった理由。誰にも話さなかった過去。奴隷となって過ごした日々。天竜人という『人間』への憎悪、恐怖。

 やっとの思いで逃げ出したが、他の奴隷たちを放ってはおけなかった。そして起きたのが『聖地マリージョア襲撃事件』。奇しくも、それによりタイガーは奴隷解放の英雄と呼ばれるようになったのだ。

 長い旅で心の優しい人間がいることも、コアラのような人間がいることも知っていた。頭では理解出来ている。それでも、心の中に住み着いてしまった“鬼”がそれの邪魔をする。

 心が、体が、人間の血を拒絶するのだ。

 

 人間を愛せない、とボロボロと涙を流し、途切れ途切れになりながらも悲痛な叫びを上げる。そして、その視線をアンカーへと向けた。

 

「こいつも、人間の血なんかで生き残りたくはないだろう。──俺の血を...使え......」

「そんなこと出来るわけないだろう!分かっているのか!?それは、あんたの“死”を意味するんだぞ!!」

「ははっ......このまま死ぬよりは...いい...」

 

 アンカーのような小さな体に必要な分の血液を失えば、タイガーは確実に死に至る。そうでなくとも死にかけているというのに、タイガーは笑っていた。最期に、仲間を救うことが出来るのが、何よりも嬉しいのだ。

 アラディンは涙を流しながら、輸血の準備に移った。

 タイガーの血液を、アンカーの体に移すために。

 

「お頭っ!!あんたが何と言おうと、解放してもらった全ての奴隷たちにとって、あんたは一生の大恩人なんだ!偉業を成した“魚人島の英雄”なんだよっ!!!」

 

 血を失い過ぎて朦朧とするタイガーに告げる。ずっと言いたかった。面と向かって「ありがとう」と告げるには年を食い過ぎていて、こんな言い方しか出来ない。それでも、皆が涙を流し、名前を呼び続けた。タイガーのその息が絶えるまで......。

 

 アンカーがそれを知るのは数日後。意識を取り戻した時だった。

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