Ⅱ 令呪再臨
「
平穏な朝は、聞きなれた
「んんー……今、何時……」
「もう六時だ。そろそろ起きないと、一日の気分が締まらないぞ」
「はぁ……はいはい……」
昔からずっと、彼はこの調子だ。たとえ休日であろうとも、昼間まで惰眠を貪ることはしない。およそ怠惰と言ったものは彼の中には存在しないのではないか。
また、それは彼の職業にも表れている。魔術師(正確には魔術使い)として時計塔での研鑽を終えた後、彼はエーデルフェルト家に執事として正式に雇われることとなった。執事と言っても住み込みではなく、端的に言えば日帰りのお手伝いさんのようなものであるため、こうして凛を起こしたりもしてくれる。ルヴィアゼリッタも彼に対してはホワイトだ。そこにどういう感情が含まれているかは置いておいて。
「あははははは! ママ、おねぼうさんだね!」
「きゃっ!? ちょっと
続いて、娘の躬和も、ドアの脇からひょっこり顔を出した。親子そろって早起きとは、まったく嫌なところで似てしまったものだ……。
「早く支度してくれ。朝ごはんはもうできてるから」
「そうだよー。おなかすいたよー」
「ああー……んん……はいはい、起きればいいんでしょ!」
躬和に驚かされて目が覚めてしまった。仕方なく、掛け布団をかなぐり捨てるようにベッドから起き上がる。スリッパを探して……ん?
「やだ……どこかで、すりむいたのかしら」
少し手間取って見つけたスリッパを、揃えようとした右手の甲。そこに、大きなアザができていた。赤く固まった血は、何かのマークのようで
「!!!!」
瞬間、凛の脳裏に、遠い記憶がフラッシュバックした。午前二時、『もうひとりの彼』との初めての出会い、『彼』を助け、最強の英雄に圧倒され、『もう一人の彼』は裏切りの魔女の元へ反旗を翻し、図らずも英雄王に救われ、『彼』と『彼』の戦い、引き抜かれた心臓、聖王との契約、聖杯の破壊、最期の彼の笑顔、そして、そしてそしてそして
「りーん、早く起きてこいよ―。ベーコンエッグが冷めるぞ―」
士郎の声で、はっと凛は我に返る。
「士郎……ちょっと、来てもらえないかしら」
「んー? なんだ、何かとってほしいのか? しょうがないなあ」
特に面倒がる様子もなく、士郎は再び寝室へと戻ってきた。
そして、驚愕した。
「な……ど、どうして、そんなものが」
右手を掲げた凛。必然的に彼の視線は凛の右手に注がれることとなった。そこにあったのは、まぎれもない
「令呪が……令呪が、宿っているの」
悲痛な声で、凛は言った。
凛の右手に浮かび上がったモノを、彼女と士郎はよく知っていた。というより、かつて実際に宿していた。これは間違いなく、聖杯戦争の参加資格――『令呪』だ。
「そんな……聖杯戦争は、終わったはずじゃ」
「分からない……分からないの……ごめんなさい……ごめんなさい、士郎、躬和……」
凛はその場に泣き崩れた。令呪は、望んだ者のところにしか現れない。どこで聖杯戦争が行われるのか知らないが、ここのところ、心の奥底で、私は「あの頃に帰りたい」と望んでいた。それが間接的に聖杯戦争への参加の意思だと、聖杯にみなされてしまったのだ。
悪いのは私だ。私が、令呪を呼んでしまったのだ。
士郎は、しばらく唖然として凛の右手を見つめていた。が、彼は、突然我に返り、凛を抱きしめた。
「大丈夫だ、凛。俺がついてる。お前は、俺が全力で守る」
「違う……そうじゃなくて……違うの……」
そう、違う。彼は私が聖杯戦争におびえていると思っているのだろうが、断じてそうではない。戦争自体はへっちゃらなのだ。昔だって、自分と家の経歴に箔をつけるためだけに参戦したのだから。
あの時は、失うものなんて何もなかった。たとえ死んだとしても、遠坂のお家が断絶、お疲れさん、それで終わり。私なら勝てると信じていたし。自信に満ち溢れていた。
でも、家族ができてしまった今、愛する者たちがいる今、この『リスク』を生み出してしまったことが申し訳ないのだ。これは自責の涙なのだ。
「ママ、だいじょうぶ? だいじょうぶ?」
躬和も、心配そうにしゃがんで、凛の背中をさすった。
「ごめんね……ごめんね……」
凛は謝り続ける。殺し合いなんて構わない、そう信じている。それが真の魔術師としてのありかただし、そんなもの怖くない。それでも、私の喪失を悲しむ者たちの前で、そんな言葉が口をついて出るか? いや出ない。絶対に負けないなんて自信は、
「私が……願ってしまったことなの……平和ボケしたような日々が……どうにも、あの日々と比べて、単調すぎたの……いけないことだって、わかっていたけど……何度も自分に言い聞かせたのだけど……心の奥底では、ずっと、望んでいた……普通の幸せなんて、私にはやっぱり似合わないのよ……」
凛の告白に、士郎はひととき目を見開いた。しかし、
「……仕方ないさ。お前は悪くないよ。ただ、あの日々が濃すぎただけだよ」
すぐに優しく、彼は彼女に言葉をかけた。
涙声ながらも強い口調で、凛はそれに反論する。
「いいえ。私知っているわ、士郎が優しいこと。どう考えたって悪いのは私よ。でも、あなたは私の味方でいたいのでしょう。だから、慰めるのでしょう」
「ああ、そうさ。ただの気休めかもしれないさ。けど、それでも俺はお前の味方でいたいんだ、凛。たとえお前が、この世界全ての魔術師を敵に回したとしても、俺だけはお前の安らぎでありたい。
だから、再び聖杯戦争が俺たちの前に立ちはだかるというのなら、一緒に乗り越えていこうじゃないか。俺が全力で、お前を守るよ」
力強い声だった。昂った凛の
「……わかったわ。だったら、私も全力で戦うんだから」
不敵な笑みで、返した。元々気丈な彼女である。立ち直りは早い。
「よかった! ママ、もうだいじょうぶなんだね!」
気を揉んでいた躬和も、凛の自信のこもった声に、ぱっと顔を輝かせる。
「ええ、大丈夫よ。……ねえ、躬和。パパとママ、しばらく遠くへ行かないといけないことになったの」
「……えっ」
明るかった躬和の表情が曇った。
「でも、必ずすぐに帰ってくるから。それまで、ルヴィアおばちゃんのところで、いい子で待っててくれる?」
凛は、躬和の肩を抱いて問いかけた。
「ほんと? ほんとに、すぐにかえってきてくれる?」
上目遣いで問う躬和に、凛は力強い笑みで答えた。
「ええ、約束するわ。ママが約束破ったことなんて、ないでしょう?」
「……うん、そうだね! あたし、ちゃんとまってる!」
強がりだろう。躬和は強引に笑顔を作って、無駄に大きな声で誓った。
……思えば、自分が父を送り出したのも、躬和と同じ年頃だった。でも、私は父と同じ結末は迎えない。迎えてやらない。必ず、生きて、帰るんだ。
時計塔の朝は、いつものように明ける。ここにいる誰も知らない闘いに、今一人、新たな戦士が旅立つ。