「『
その魔法はミリアの意識に、濁流のように流れ込んだ。元より他人の思いに敏感で、彼我の壁が薄いミリアに、その絶対的意思に逆らう術は無かった。
服従の呪文特有の『繋がり』を感じ、闇の帝王は成功を確信した。
「ミリア・セルウィン。俺様がホグワーツを掌握せし後、サラザール・スリザリンと俺様の意思に従い、ホグワーツを浄化せよ」
「はい」
ハリー・ポッターのように抵抗し、破る気配はない。
「磔の呪文が苦しかったのだったな。ならば休むがいい」
「はい……」
小さな返事が聞こえたかと思うと、そのまま眠りこけてしまった。その様子が余りにも情けなく、心の底から嘲った。
闇の帝王は、知らない。
服従の呪文が、相手の『心』を眠らせ、自分の『心』で塗り替える術。心と心の間に道を作る術だと。
知る術は無かった。ミリアの力は『心を読む』能力。その能力は、脳への負担が加味され無意識が意図的にセーブしていた能力だと。
条件は揃った。
閉心術ごとき、何の障害にもならない。
*
少女の意識は、真っ暗な海の中を漂っていた。海、というのもおかしい。そこには生き物の姿も、水も無いから。
(なんにもない)
海面には、たくさんのモノが渦巻いていた。
マグルへの侮蔑、マグルに肩入れする魔法使いへの憎しみ、たった一人自由にならない少年への苛立ち、理想の世を目指すただ一人の自分――それらが激しく海面をかき乱していた。どんな船であろうと侵入を阻むうねりを見せつけているが、“迎え入れられた”彼女はゴーストが壁を通り抜けるように内側へ進んだ。
(闇の帝王――ヴォルデモート卿という仮面)
その仮面は、神話の呪いを宿しているように、持ち主から決して離れない。外そうとしても外れない仮面だった。
彼の場合、仮面が呪われているのではなかった。仮面の下にあるはずの素顔が、無い。
それが、虚無の海。なんにもない海は、彼の素顔。
(本当の彼はどこにいるんだろう)
少しだけ、暗闇に目が慣れてきた。彼女は海中をぐるりと見渡す。目の端に、何かが映った。
(ごみ……じゃない。死体だ)
男の死体が、寂しく漂っている。目鼻が整った、四十くらいの男。遠い遠い記憶を辿ると、……炎のような赤毛の少女が見た彼の姿と酷似していた。
(お父さん――)
彼の、同じ名を持つ父親。ずっと彼が魔法使いだと思っていた。偉大な、立派な、尊敬できる父親だと信じていた。
(でも、違った)
父は、彼の存在を認めなかった。なら、こっちだって認めなくていいじゃないか。
(だから殺した)
もっと強い父親が、欲しかった。
どこかから悲鳴に似た叫びが聞こえた。彼女が振り返ると、父の死体はどこかへ流れて行った。
きょろきょろ叫びの主を探すと、海月のように炎が揺れていた。
(熱いの、冷たいの?)
それが分からなかったのは、炎を燃やしているのが熱ではなく、失望、幻滅、憎しみ――それら負の感情だからだ。
この炎のことはよく憶えている。サラザール・スリザリンの研究室の中で燃え続けていた感情だ。
(信じてたものじゃなかった。だから、一番崇拝していたスリザリンも、信じられなくなった)
彼はその地下の寮で、初めて居場所を得た。蛇と話せる類稀無き“力”が、居場所を作ってくれた。
自分は特別だ。マグルとは違う。力を持つ特別な存在だ!
(だから、許せなかった)
信奉の対象であるスリザリンは、敗北者だった。あろうことかマグルを恐れ、マグル好きのグリフィンドールに敵わず、もっと戦うべきだったのに追い出されて逃げ出した。
自分が敬拝する『スリザリン』はそんな弱者ではない!これは偽物、あってはならないニセモノだ!
ホンモノの『スリザリンの継承者』が、あるべき姿を見せてやる!
……初めて魂を砕いた、動機だ。
ガラスが割れたように甲高い音が爆発し、身を縮めた。
恐る恐る目を開いても、割れた何かは見当たらなかった。憎しみの炎もどこかへ消えていた。その代わりに、また新しいモノがゆっくりと近づいてきた。
次に彼女の元に赴いたのは、女の死体。先の男と違い、穴が空いているようにぼやけて、顔が見えない。これが誰なのかすぐに分かったのは、別に不思議でも何でもない。
(お母さん――)
彼を生んで、死んだ母。残したモノというと名前だけ。人間は、なんて弱いものなのだろう。
(なぜ、死んだの?)
それは、強く在れなかったから。強くなければ、惨めに、惨く、死んでいくしかない。
(だから、ひとりぼっち)
孤独を埋めるために、彼は物を集めた。他人から奪って勝ち取った物、自分を恐れて差し出された物。彼は“強く在ろうとして、強かったから”トロフィーは次々に集まった。
だが、いくら物を溢れさせても、孤独は一向に慰められやしなかった。
(どうして?)
満たされない思いの名が、孤独だと分からなかったから。虚無を明るく照らし、暖かく包んでくれる唯一のモノの名を知らなかったから。
(なんで……?思いだせない……)
彼女は海の中で途方に暮れた。その名を知っていたはずだ。彼女は確かに持っていた。孤独の中の道しるべを。
(なん、だっけ……?)
思考はまとまらず、とめどない思いが流れるばかり。意識は遠くなったと思えば、ぼんやりにじみ、自らの形もあやふやとなった。
(わたし、は……僕は……?)
誰?
*
(死への飛翔を名乗る男――全く年甲斐も無い美意識だ。他人に心を配り過ぎ、自らの形成が疎かとなっている宿主殿以下の心力を、持つ訳だ。仮面の下は、思想も野心も無く、生への渇望と言う原初の欲望のみ。大人に成れていない自称大人は、これだから質が悪い)
(しかし、呪文の威力自体は強力。宿主殿もすっかり呑み込まれたか。全く有害にも程がある。そうだろう、ミリア)
(自らの名にも反応出来ないか。空虚な心と未発達の心が、共鳴し合っている。これは呪文から解放されたとして、元に戻れるかも曖昧だな)
(時間は有限、意思は薄弱、自由は皆無。だが、やってみせる。“彼ら”からホグワーツを守ろう)
ミリアのものでもなく、ヴォルデモートのものでもない……無意識の中で息をひそめていたのは、サラザール・スリザリン。遺稿に心を注ぎ心で受け入れた結果、出来上がってしまった人格だった。
『スリザリン』は束の間の“主導権”を、じっくりと確かめた。
*****
ミリアは数時間屋敷で休んだ後、すぐに家の焼け跡に戻った。そこで調査していた魔法省の職員に保護され、夏休み期間は魔法省に衣食住を借りた。
何度か訪れた役人の誰も、この家族の死にショックを受けている少女が、まさかヴォルデモートに『服従の呪文』をかけられているとは気づかない。寡黙さも丸一日の空白も、全て家が襲われたからだと片付けられていた。
『スリザリン』はその間表に出なかった。家族の死に取り乱す演技をするより、操られてぼうっとしている主人格の方が不自然でないからだ。
待て、という命令に忠実過ぎるほどのミリア。何もできない主人格に代わり、『スリザリン』は仕方なく(雑に)世話する。それが自暴自棄に見えたのか、女性役人に何度も希望はあると諭された。
それでも身の回りの雑さは変わらず、すっかり不健康な容姿となってしまった。その容姿が、家が無くなった事実と合わさり、人を寄せ付けなくなった。時が来るまで潜むことしか考えられないミリアにも、どう人付き合いすればいいのか分からない『スリザリン』にも、好都合な結果となった。
新学期、学校でも寡黙に、人を寄せ付けずに過ごした。健康や成績を維持し、暇があれば『秘密の部屋』で本を読み漁る。以前と違うのは、本を読む目的が不安定な『スリザリン』の意思を補強するためという点。生徒を守るどころか『服従の呪文』に抵抗することだけでも四苦八苦だ。
ミリアではなく、人知れず苦闘する『スリザリン』に、客が来たのは秋の終わり。
地の底に、かすかに重低音が届いた。この音は『秘密の部屋』の入り口が起動する音。誰かが蛇語を使って、女子トイレの仕掛けを起動させた。
今の学校で、あの仕掛けを突破できるのは恐らく三人。研究室に隠れて、招かれざる客人を待った。
『最終防衛口』を突破し、客はまっすぐ研究室に向かって来る。研究室の扉たる石壁を叩いて、その人は待った。きちんと訪問の手順を踏んでいるので、『スリザリン』は客を迎え入れた。
「こんにちは、ミリア」
「……校長先生」
ヴォルデモートの思念に呼応して襲い掛かろうとする主人格を抑えつつ、警戒した声音を作った。
「調子はいかがかの?」
「良く無いです」
操られてボロボロな主人格と、本来体を動かすまで強くない『スリザリン』と、ケアが行き届いていない体。どれを見ても絶好調とは程遠い。
ダンブルドアは青い瞳をミリアの瞳にぶつけてきた。開心術で何を探ろうとしているのだろう、素直に読まれてやる気は無く閉心術で防いだ。
「何か分かりましたか?」
「色々と、の」
「良ければ聞かせて下さい」
「その前に、一つ。きみの名を聞かせてくれんか?」
作っていた虚ろな顔をはがした。この老人は、何を読んだ?
「推測じゃよ。きみが本当にミリア・セルウィンなら、先ほどの質問は謝罪の上で取り消させてもらう」
『スリザリン』は黙った。記憶をこじ開けられた感覚は無かったはずなのに。
「わしの人生経験は捨てたもんじゃなくてのう、ちいと観察すれば、その人間が『服従の呪文』で動いているか否かが分かるのじゃ。ミリアの様子を見ると、あの術の影響を確かめられた。術者ははっきり分からんが、大方『ヴォルデモートがホグワーツを乗っ取った後、送られてくる者らの支援をせよ』とかいう命令じゃろう」
「大体合っています」
「そして今、きみの目を見て分かった。術に抗い、自らの意思でここにいると。じゃがミリアは心と能力の性質上、『服従の呪文』に呑み込まれてしまう。ならば、今ミリアの身体を動かしているのは誰じゃろうか」
「誰だと思いますか?」
彼なら、正体に気づくかもしれない。
「可能性は二つあった。一つは守護霊たるカラス。しかしここにいるということは、二つ目じゃろう。三年間ミリアが心を注ぎ続けた、この部屋の主――サラザール・スリザリン」
「その通りです。正確にはスリザリンのまがい物……宿主殿がスリザリンの筆跡から無意識の領域に記憶した、書から抜け出たコピーです」
主人格が眠りに落ちなければ、決して出ては来なかっただろう、スリザリンの心の欠片。
「やはりそうじゃったか……。会えて光栄です、スリザリン卿」
ダンブルドアは畏まって、礼の形を取った。
「私は彼本人ではありません。立場は貴方の方が上だ。……私は敬語が慣れない故、これで行くが」
ダンブルドアは腰を伸ばし、破顔した。
「わしもそうじゃ。歳を取ると皆敬語でなくとも許してくれるからのう……。さて、スリザリン卿。『服従の呪文』は破れそうか?」
『スリザリン』は首を横に振った。
「今は『待機』と言う命令が出ている故、私が表に出て口を動かせている。動き出す時――ヴォルデモートが学校を掌握した後は、体の主導権は操られし宿主殿に戻るだろう」
「動き出す時は、いつになると考えられる?」
「来年。ヴォルデモートは来年の夏には魔法省を陥落させる腹積もりだ。その時には貴方もいない」
二人はダンブルドアの黒くしなびた右手に目を向けた。強力な呪いが封じられており、封印を食い破ろうと徐々に蝕んでいる。
「その時には、きみはどうなるのじゃろう?」
「命令は『ヴォルデモートとスリザリンの意思に沿って』。奴は無知だ。思い通りにはならない」
『スリザリン』は不敵な笑みを浮かべた。カラスではなく『スリザリン』が上位意識となったのは、その命令が大きく影響した。
ダンブルドアは向けられた笑みを、曇り顔で受けた。
「一つ提案がある。わしの保護下に入らんか?きみも、ミリアの命が危険にさらされるのは避けたいじゃろう。監禁という形になるじゃろうが、この際仕方あるまい」
「断る」
一蹴。
「貴方は死に行く者。あてにはならない」
「わしが死んでも、わしの意思を継ぐ者たちが残る」
「貴方の意思を継ぐ者達の中心は誰だ?ハリー・ポッターだろう。彼は死すべき者だ」
ダンブルドアの表情が、一瞬揺れる。
「貴方は死の烙印を押されたハリー・ポッターを、ヴォルデモートに宛がう戦士として育てた。私も遠くから彼の成長を見た。成功と言って差し支えないのではないか?」
「ハリーは……確かにそうじゃ。ヴォルデモートの魂と共に生きている。あやつを止めるには、ハリーの死が不可欠……」
本当は生存する可能性が大いにあるが、ヴォルデモートの服従の呪文にかかっているミリアの耳には入れられない。
「じゃがミリアは違う。まだ生きる道は残されている。ミリアはきみの道具ではないのじゃ」
『スリザリン』の目が、僅かに細まった。
「私がヴォルデモートに抗うのは、ミリア・セルウィンの意志だ。彼女は望んで険しい道を選んだ。その覚悟は若干足りなかった様だが……。私は宿主殿の意志に反する事が出来ない」
「ならばこういうのはどうじゃ?ミリアの意志でもきみの意志でもなく、わしが無理やり監禁するというのは」
「それも止めて貰おう。――私は来年も、その次も、ヴォルデモートが生きる限り奴に抗い、ホグワーツを守る為に動く。貴方とは同志だろう?ハリー・ポッターを尖兵として育て上げた冷徹さを持つならば、何が一番好都合か分かるだろう」
ダンブルドアは目を伏せた。心を読むまでもなく、葛藤しているのが分かった。冷徹さと優しさの戦いを、彼は何度繰り返したのだろう。
「すまない……わしが最初の接触を止められていれば……クラウチの影響に、もっと早く気づいていれば……」
ミリアがこんな有様になった原因も、お見通しだった。どれだけ先を見通せても、ダンブルドアはたった一人。一人の人間がやれることには限界がある。
「分かった。わしはきみを止めぬ。じゃが、きみが進む道の中で出来得る限り、ミリアのことを慮ってはくれんか?」
「ああ、死なせはしない。……保障は出来ないが」
「男ならば出来ぬ約束でも結ぶものじゃよ」
「生憎今の私は女だ」
「女々しい奴め」
冗談を交わし、お茶を濁した。
軽い笑いの中ふと、ダンブルドアは面差しを上げた。
「ミリアは分霊箱の存在に気づいたのか?」
ハリーはヴォルデモートの不死を補助する一因だ。ミリアは魂の在り様を感じることができ、スリザリンの遺稿にも分霊箱の記述があった。
「ああ。見つけた分霊箱は二つ。ハリー・ポッターと蛇のナギニ」
「ナギニ……?ヴォルデモートが飼っているという?――そうか、それであれほど強く操って……」
ぶつぶつと、狭い部屋を歩き回り、立ち止まったかと思うと力強い笑みを向けた。
「貴重な情報ありがとう。これで我々はまた一歩進めた」
「お役に立てたなら何より。――宿主殿が自分を取り戻す望みがあるのは、奴の死後だからな」
自分が人格の表に出られる状況は良くないと、やはりそう思っているようだ。
「本当に、このままヴォルデモートの影響下で動いておって、いいのか?」
「奴は宿主殿を簡単に手放す真似はしない。宿主殿の力の一端を、既に嗅ぎついている」
安全に保護されたとして、追う者がいる。ヴォルデモートに会った時点で、後戻りはできない段階まで進んでしまった。
「もう話す事は無い。そろそろ読書に戻る」
つっけんどんに言って、椅子に座って遺稿を開いた。自分の作業に入って、早く帰れと暗に示した。
ダンブルドアは意を受け取り、背を向けて――言葉を紡いだ。
「スリザリン卿……。今のホグワーツは、古の四天王が夢に描いたホグワーツと、なったじゃろうか?」
振り返らず、『スリザリン』はただ笑みを深めた。
「まだ道半ばではないか」
「可能性は未来に、か。余命僅かじゃが、その未来を少しでも引き寄せんとの……。わしは贅沢者じゃ。この有様になって、まだ未来を語るというのか」
「語るは自由。それこそホグワーツが求めし物」
「わしは……余りに罪深い。より大きな善の為に、どれだけの者の犠牲を強いたじゃろう……。愛の為に、どれだけの過ちを犯したのじゃろうか……」
「それが貴方の歩いた道。罪悪感に苛まれながら死を迎えるか、未来を想いながら生を完結させるか――残されし者には些少も影響無いな」
「あくまで自らの道を貫け、そう申すか。……ありがとう」
ダンブルドアは簡潔な礼を呟いて、壁を開いた。
「貴方の死が、安らかなる事を」
背中にかかった言葉を、頷いて心に留めた。