女王様と犬   作:DICEK

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雪ノ下陽乃は絶対である

 

 

 

 

 

 総武高校にも生徒会はある。その執行部は会長を中心に副会長、総務がいて、書記と会計が二名ずつ。後は庶務がいる時もあればいない時もある。

 

 会長は六月に行われる選挙によって選出される。生徒会が代替わりするのもこの時だ。選挙で選出された会長が残りのメンバーを選出するため、生徒が選ぶことができるのは会長だけというシステムである。イマイチ納得がいかない、という生徒も少なからずいるが、それを変えるために立ち上がろうという人間はいなかった。

 

 比企谷八幡もその一人である。

 

 そんな八幡の周囲の生徒たちはどちらの候補に投票するか密やかに、しかし熱を込めて議論を交わしていた。

 

 午後の最後の授業を潰して行われる、生徒会長立候補者の演説会である。夏も近い六月の体育館には全校生徒が集まっていた。暑いの一言につきる。だらだらと汗をかきながら、八幡はそれを拭うことができない。お洒落になど気を使ったこともない高校生男子が、ハンカチなど持っているはずもない。近くの女子が汗をかきっぱなしの八幡を気持ち悪いものでも見るような目で見てくる。他にも汗をかいている男子は大勢いるが、目の仇にされているのは八幡ただ一人だった。

 

 理不尽であるが、いつものことであるから腹も立たない。

 

 女子の刺すような視線を受け流しながら、時間が過ぎるのをただ待つ。生徒会長が誰になろうが、八幡にはどうでも良いことだった。考えているのは早くこのイベントが終わること、そしてさっさと家に帰ることだった。

 

 司会進行役の生徒がイベントの開始を告げる。ひそひそ話を続けていた生徒たちは、それで一度静かになった。

 

 会場が静まるのを待って、イベントは進行していく。壇上に上がる立候補者二人と、その推薦者。そこで八幡は候補者が二人しかいないこと、そのうち一人が女子であることを初めて知った。

 

 男子の方は、絵に描いたような『優等生』である。きっちりした黒髪に、黒ブチメガネ。いまどきこんな男子がいるのかと八幡が疑うほどに、見た目において、彼は何一つ外れたところがなかった。

 

 対する女子の方は――絵には描けないような美人だった。

 

 見た目の勝負ならば、それだけで勝敗は決していただろう。立っている。ただそれだけなのに、人を惹きつけて止まない。他人に何も期待しないと心に決めていた八幡だったが、その女子には目を奪われていた。肩の辺りで切られた黒髪も、スカートから伸びる細く長い足も、豊かに実った胸元も、その全てが男子の理想を体現しているかのようだった。

 

 その女子はそれなりに有名人だったらしい。彼女が壇上に上ると、歓声をあげる生徒までいた。進行役の生徒が静粛にと声を挙げるが、声援を受けた女子は笑みを浮かべて手を振り返す。その態度も実に堂々としたものだった。二年生。自分と一つしか違わないのに、彼女にとっては声援を受けるのが当たり前になるのだろう。住む世界が違うというのはこういうことを言うのか。今までいけ好かないリア充を何十人も見てきた八幡だったが、その女子のレベルが他の連中と圧倒的に違うことは一目で解った。

 

 候補者はその二人だけである。今日はその二人が演説を行い、その後に投票が行われ会長が決まる。

 

 この時点でまだ会長は誰になるか決まっていない訳だが、会場に、結果がどうなるかを確信できなかった人間は一人もいなかっただろう。

 

 事実、その女子は十倍の得票差という圧倒的大差で勝利し、当たり前のように会長に就任した。

 

 ただのリア充クイーンの女子からリア充会長クイーンとなったその女子は、就任後、最初の仕事となる所信表明のために再び壇上に立った。

 

 マイクを前に、女子はぐるりと体育館を見回す。

 

 体育館には全校生徒と教師がいる。その数は千人を越えていた。壇上から見たらまさにゴミのようだろう。一々顔など認識していられない。新会長就任によって会場の熱気は更に高まり、不快指数は上がっていた。知っている人間だってその中で見つけるのは骨が折れる。ましてや顔も名前も知らない人間など視線が素通りするのが当たり前だ。

 

 八幡は何となく壇上の女子を見ていた。

 

 その視線がぴたりと止まる。壇上の女子は確かに、比企谷八幡を見ていた。

 

 いつもの勘違いでは絶対にない。確かな意思を持って、その女子は八幡を見ていた。顔が認識できるかも怪しいその距離を経ても、視線に強烈な意思を感じる。

 

 視線に込められた感情を何と表現すれば良いのか解らない。八幡は背中に汗が流れるのを感じた。

 

 脳が全力で警告を発している。アレは危険な生き物だと。関わるべきではない最たるモノだと。青春を謳歌しているだけのリア充が発することのない、明確な意思がその時、その女子には確かに漲っていた。今までだって強烈だった存在感が、さらに増していく。

 

 熱気はいつの間にか、静まっていた。声一つ発することなく、その女子は全校生徒を黙らせた。

 

 思い通りになった現実に、その女子は満足そうに微笑む。

 

「皆さんのご好意により新しい生徒会長となりました、雪ノ下陽乃です。投票してくれた人、ありがとうございまーす。あちらに投票した人、残念でしたー。でもこの借りは総武高校をより良い学校にしていくことで返していきます。期待していてくださいね!」

 

 そこで言葉を区切ると、間髪を居れずに歓声があがる。手を振るとぴたりと止む。存在感だけで現実を捻じ曲げるその女は、既に聴衆を意のままにコントロールしていた。できすぎた演劇のような会場の熱気に、八幡の心は逆に冷えていく。

 

「ちなみに私の政権のメンバーは私と他一人以外、まだ決まってません。私と一緒にやりたい、と思う命知らずは是非生徒会室まで足を運んでください。私の厳正な審査の結果、相応しいと思った人にのみ加わってもらいます。ただし――」

 

 女子の目が細められる。対象を狙う狙撃手の目だった。

 

「私が指名した人間については、拒否権はありませーん。審査なし、テストなし、とにかく問答無用でメンバーに加わってもらいます」

 

 傲岸不遜そのものの発言であるが、陽乃が言うとそう聞こえない。現に生徒たちはおー、と歓声をあげるだけに留まっていた。

 

「そこの、死んだ魚みたいな目をした男子」

 

 陽乃の視線が改めて八幡を射抜いた。『死んだ魚みたいな目』という言葉もある以上、陽乃が自分を指しているのは疑いようがない。今がどういう状況下など考えるまでもなく、八幡がクラスメートを掻き分けてでもこの場から逃げようと走り出すよりも早く、人並みはあっさりと陽乃の意思に従って綺麗に割れた。

 

 周囲全ての視線が、八幡に集まる。様々な陰口が聞こえよがしに囁かれていた。注目を集めることになれていない八幡は、ただそれだけで意識を失いそうになるが、ここで倒れたらそれこそ人生の終わりと何とか踏みとどまる。冷や汗の止まらない体を強引に振るいたたせ、壇上の陽乃を見返す。

 

 せめて弱みを見せてはならない。元々の目つきの悪さも相まって、睨むような顔になっていただろう。反抗的なその態度に、陽乃のシンパである生徒から非難の囁きが漏れるが、そんなものを気にしている余裕は八幡にはなかった。

 

「きみ、名前は?」

「……比企谷、八幡、です」

「もっと大きな声で!」

「比企谷! 八幡です!」

 

 なんだこれは、と自分でも思う。全校生徒の前での自己紹介など、バツゲーム以外の何ものでもない。自分の名前が全校生徒に知られることで、得られるものなどデメリットしかない。名前が割れればクラスも割れる。これで明日といわず今日から、悪意の視線に晒されるのは決定的だ。自身の陰鬱な未来について暗い気分で思いを馳せながら、これが夢オチであることを期待する八幡だったが、悪夢のように笑う陽乃は確かに現実に存在していた。

 

「よろしい。比企谷くん、これが終わったら生徒会室まできてね。逃げたら酷いからね。お姉さん、泣いちゃうから」

 

 それでさりげなく泣き真似をする。嘘泣きであるというのは誰にも解ったが、もしかしたらという思いを喚起させるのも忘れていない。

 

 もしもあの人が泣くようなことがあったら。そういう思いを男子に抱かせるには十分だった。好奇心を含んだそこそこの興味だけだった周囲からの視線に、八幡の慣れ親しんだネガティブなものが加わる。始末の悪いことに、それらの感情はいつもよりもずっと攻撃的だった。

 

 良くない兆候である。無視されるだけならばまだしも、ここまで攻撃的だと排除に動きかねない。今更いじめられることに恐怖を覚えたりはしないが、主導したのが壇上の悪魔であるだけに根は深そうだ。

 

「それではこれで所信表明演説を終わりにします。ご清聴、ありがとうございましたー」

 

 言いたいことを言いたいように言った陽乃は一礼し、勝手に壇上から降りていく。司会が機械的に対応をし拍手を促すと、会場にまばらな拍手が広がった。逃げるなら今しかない。周囲の視線が一瞬壇上に逸れた瞬間、八幡はその場から逃げようと踵を返した――が、身を翻したそのずっと先に、白衣を着た教師の姿があった。

 

 逃げるのを見透かされていたらしい。白衣の教師は人差し指を口に当て、小さく動かす。『戻れ』というその仕草に、八幡はどっと肩の力を抜いた。

 


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