女王様と犬   作:DICEK

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こうして、雪ノ下雪乃は軽井沢を去る

『駅弁買ってきて。あ、私達はリムジンで先に行くから、タクシーでよろしくー』

 

 軽井沢について早々、八幡は置き去りにされた。駅弁を買うくらい待ってくれてもと思わないでもないが、のろのろ歩いて到着した売店は狙い済ましたように混雑していた。待たされることが陽乃は好きではない。おそらくそれを察して先に行ってしまったのだろう。

 

(それにしたって待ってくれてもとは思うけどな……)

 

 文句を言っても通じないのだから仕方がない。悲しき犬根性である。十分ほど待って自分を含めた三人分の弁当を買うと、ロータリーに向かう。

 

 タクシーに乗るのは初めてではないが、一人で乗るとなると緊張する。何しろ見ず知らずの運転手と二人きりだ。相手が沈黙になれているタイプならば良いが、間を持たせるのが自分の仕事と勘違いしているタイプだと地獄を見ることになる。

 

 放っておいてくれというオーラをいくら出しても、彼らは気付きもしないのだ。結果、客をもてなすために行っていることで客を苦しめるということになる。

 

 想像して気分が滅入った。簡単な地図は受け取っている。目的地まで歩いていこうかと本気で考えていた矢先、向こうから歩いてくる少女が目に入った。

 

「……お?」

 

 と、思わず声を挙げる。会ったことは間違いなくないが、八幡にはそれが誰なのか察しがついてしまった。

 

 あれは間違いなく――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 姉がこちらに来る。

 

 それを幸運にも察知できたのは、昨日の夕方のことだった。

 

 別荘の管理をしている初老の男性の動きが、どこかぎこちないのである。彼は雪ノ下雪乃の目から見ても善人だ。陽乃にしても自分にしても、お嬢さんと呼んで良くしてくれる彼がこちらの目を見ようとしないのである。

 

 何か隠していることがあるのは明らかだった。基本的に隠し事をしない彼が隠そうとする。それが姉の来訪を意味するのだと悟るのに時間はかからなかった。

 

 その日のうちに荷物を纏めると、予定を切り上げて明日帰ることを管理人に告げる。雪乃の急な行動に彼は溜息をつくと、わかりましたと素直に応えた。

 

 姉妹仲が良くないことは、雪ノ下家に深く関わる人間ならば誰もが知っていることだ。

 

 善良な彼の心を痛めてしまったことには申し訳なく思うが、背に腹は変えられない。

 

 姉と顔をあわせることを避けるためにやってきた軽井沢の別荘。静かなこの空間で読書をするのは何よりも充実した時間だったが、彼女がやってくるのならばそれも終わりにしなければならない。姉がいないのならば、都会の喧騒の方が何倍もマシだ。

 

 しかし問題もあった。

 

 姉がやってくることまでは察しがついたが、正確な時間まではわからない。彼女のことだから新幹線に乗ってくるのだろう。その到着時間を調べればおおよその時間はわかる。

 

 問題は雪乃も新幹線を使って帰ろうとしていることだ。予定がかち合うと、ホームに到着する前にばったりということだって考えられる。

 

 確実を期すならば、姉が駅を出たと確信してからホームに向かわなければならない。車に乗り込むことを確認し、車が発進するところまで見てから駅に入れば流石に安全だろう。姉が嫌がらせをしてくるのはいつものことだが、まさかそこまでしてから引き返してくることもあるまい。

 

 雪乃は新幹線の時間を調べ上げ、世の人々が朝食を食べ始めるくらいの時間から駅のロータリーが見える喫茶店の窓際に陣取り、陽乃が出てくるのを待つ。そこから待つこと実に二時間。昼も間近に迫った時間に雪乃の知らない女性を伴って現れた陽乃は、そのままリムジンに乗り込んで駅を後にした。

 

 リムジンが去ってからさらに五分待ち、車が引き返してこないことに確信を持ってから喫茶店を出る。

 

 次の新幹線が出るまで大分待つ羽目になってしまったが、これで安全が買えるのならば安いものと無理やり思うことにする。

 

 待つのは好きではないが、行く先に姉がいないことに確信が持てるのなら、それも幸せな時間だった。

 

 駅に入り、道を行くことしばし。

 

 何となく、向こうから歩いてくる少年が目に入った。

 

 少年は、こちらを見ている。

 

 人に見られることは良くあることだ。誰かに誇ったことはないが、自分の容姿は平均よりもかなり高い位置にあることは自覚している。少年もその類なのかと辟易しながら顔を見返すが、その視線が雪乃の癪に障った。

 

 少年はこちらを見ているが、こちらを見ていない。自分を通して別のものを見ている。

 

 それは雪乃が今まで感じたことのある視線の中で、最も不快なものだった。

 

 彼は雪ノ下雪乃を見ながら、雪ノ下陽乃を思っている。雪乃にとってこれ以上の侮辱はなかった。

 

 敵意をもって、少年を見返す。

 

 少年とは言うが、年上だろう。少なくとも雪乃には彼が高校生に見えた。

 

 身長はそれほど高くない。姉は女性の平均よりは高い方だから、彼女と並べば頼りなさが際立つだろう。猫背なのもそれに拍車をかけている。

 

 腐った魚のような目は好みの分かれるところだが、それなりに整った容貌をしている。75点くらいはあげても良いかもしれない。姉の周りには容姿の良い人間が集まる傾向があるが、その中においても容貌だけならば埋没しないだろう。

 

 それだけに服装がいただけない。他人に見られることをあまりに意識していないコーディネートは服装に無頓着であることを感じさせた。避暑地にあってさらに地味な色合いの服を着ている辺り、目立つことを嫌う性質なのかもしれない。

 

 そう言えば、陰気そうな雰囲気をしている。きっと友達がいないのだろう。彼のことは何も知らないが、それだけは何故だか確信が持てた。

 

 その確信を持つまでに数瞬。

 

 そこまで察すると、今度は別の疑問が持ち上がってくる。

 

 この男は一体、姉の何なのだろうか。

 

(まさか……恋人?)

 

 ありえない話ではない。そうであれば態々別荘のある軽井沢までこの男が足を運んでいる理由にも説明がつくが、そこまで真剣に交際している男であれば、母の耳にはいれたくないはずだ。管理人の男性は善人だが職務には忠実である。陽乃が男を連れ込んで別荘で不埒なことに耽っているとなれば、必ず実家に報告する。それは陽乃にとっても面白くない。

 

 管理人の報告が前提になるとすれば、この男と姉は大した関係でないと考えるのが妥当である。泊まりで異性と出かけているというのも問題であるが、管理人に『健全な関係であった』と証言させることができれば、母も五月蝿いことは言わないだろう。

 

 深くもなく、さりとて浅くもない相手。友達以上恋人未満とでもするのが妥当か。

 

「何か?」

 

 姉の関係者であるのならば、自分にとって味方とは考えない。険のある口調で問う雪乃に、少年はびくりと身を震わせた。そのまま、言い訳をするように少年は口を開き――はぁ、と大きく息を漏らした。

 

「すまん。不躾だった」

 

 口から出てきたのは謝罪の言葉だった。軽く頭まで下げる少年に、雪乃は僅かに眉根を寄せる。姉の関係者にしては殊勝な態度である。姉の友人は総じてリア充気質が多いものだが、少年の態度にはどちらかと言えば自分に近しいものを感じた。あまり姉の周囲には見ないタイプである。怪訝に思いながらもそれは顔には出さないようにして、雪乃は言葉を続けた。

 

「そう。ならいいわ。一応確認するのだけど、貴方、雪ノ下陽乃の知り合い?」

「そうだ。新幹線で一緒にここまで来たんだが、弁当買ってこいっておいていかれた。別荘まではタクシーで来いってさ。実は外で待ってるとかないか?」

「残念ね。あの人は確かにさっき、車で別荘に向かったわ」

「だよな。まぁ、期待はしてなかったんだけどな……」

 

 はっ、と皮肉げな笑みが様になっている。実に陰気な仕草だ。

 

「俺は比企谷八幡。総武高校の一年で陽乃……さんの部下になるのか? 生徒会で一緒に仕事をさせてもらってる」

 

 陰気な少年――八幡というらしい――が勝手に自己紹介を始める。別に名前を知りたかった訳ではないが、自己紹介があったことで知るつもりのなかった情報まで仕入れることになった。

 

 影で呼んでいるのがつい出てしまったという感じではない。常日頃からそうしているのだろう。あの姉が男性に呼び捨てを許すなど、雪乃にとっては驚天動地だ。親しげな雰囲気ではあっても、姉が他人を自分の領域に踏み込ませることはほとんどない。同性だって、彼女を呼び捨てにできる人間は少ないはずだ。信頼……というものがあの人間にあるのか知れないが、呼び捨てを許すということは、あの人間がそれなりに相手を信頼しているということでもある。

 

 こんな男が……と雪乃は改めて八幡を眺めた。何か姉を惹きつける要素があるのかと観察するものの、見ただけで答えは出なかった。

 

「そう。私は雪ノ下雪乃。あの人の妹ということになるのかしら。中学二年よ」

「別荘にいたらしいが、これから帰るのか?」

「ええ。あまりあの人と同じ空間にいたくないものだから。貴方はこれから別荘に?」

「そうなるな。妹が逃げなかったら紹介してもらう予定だったんだが、手間が省けて良かった」

 

 さて、と八幡は歩みを進める。

 

「それじゃあな。あまり遅れるとお姉さんにドヤされるから、俺は行く」

 

 あくまで雪ノ下雪乃に関心のなさそうな態度で、八幡は行く。

 

「ねぇ」

 

 その背中に、雪乃は反射的に声をかけてしまった。八幡が肩越しに振り向く。死んだ魚のような視線を受けて、何故だか雪乃の背中に僅かに緊張が走った。

 

「……あの人と付き合っていくのは大変でしょうけど。気をしっかりね」

 

 口の端をあげて、八幡は苦笑を浮かべた。

 

「陽乃の妹にしては優しいな。ありがとう。雪ノ下こそ、気をつけて帰れよ」

「雪乃」

「ん?」

「雪ノ下だとあの人と一緒だもの。あの人が陽乃で良いなら、私も雪乃で……どうしたの?」

「いや、あまりにも話がデキ過ぎてるんじゃないかと。カメラとか、最悪陽乃がその辺りに潜んでるんじゃないかと疑ってる」

「……私があの人とグルだと?」

「それはないな。あの人と相性良くないだろ、あんまり」

「良く解ったわね」

「そりゃそうだ。俺もそうだからな」

 

 一通り辺りを見回して気が済んだのか、八幡は大きく安堵の溜息を漏らした。

 

「名前の件だが別にあの人に合わせる必要ないだろ。呼び捨てにするのもされるのも、結構ストレスが溜まるもんだ」

「貴方もストレスを?」

「もう慣れた。じゃあな。今度こそ俺は行く」

 

 足を止めずに、八幡は去っていく。その背中が見えなくなるまで見送ってから、雪乃もホームに向かって歩き始めた。

 

 断られた。そのことに怒りがないではない。

 

 しかし、暗い気持ちで予感する。

 

 雪乃は姉からお下がりを受け続けてきた。望んだ場合もある、望まなかったこともある。 姉の歩いた路を辿っていく人生。姉を通り過ぎたものは全て、自分の元に一度はやってくる。

 

 さっきの男もいずれ、自分の元にくるのだろう。名前はその時に呼ばせれば良い。

 

 怒りが喉元を通り過ぎ、穏やかな気持ちになる。

 

 別荘を出た時よりもずっと、静かな気持ちで雪乃はホームに立った。

 

 新幹線は、まだ来ない。

 

 


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