第1話
胸の奥がじわりと熱くなるような緊張感に、イビルアイは襲われていた。
これから、たっち・みー様に、ある人物を引き合わせなければならないからだ。
今は王都に滞在しているが、その名声の高まりは驚異的と言ってよかった。街を歩けば噂話が絶えず、酒場に入れば吟遊詩人が竪琴を鳴らし、彼の名を謳い上げる。とりわけエ・ランテルで共に戦った冒険者たち、そして救援に駆けつけた者たちが、あの地で築かれた新たな神話を語り継いでいるのだ。
もちろん、ただそれだけでは人々の心を掴むことはできなかっただろう。
だが、八本指の掃討、癒着していた貴族の抹殺。どれもがたっち・みー様の主導で行われたとされ、その成果が人々の眼に焼き付いている。正義の鉄槌を振るった英雄。民の願いを代弁する存在。だからこそ、その人気は空前絶後と言っても差し支えないほどだった。
その熱狂のなかで、ひとつの願いが人々の口にのぼる。
ラナー王女と結婚し、この国の王となってほしい、と。
それは夢物語ではなかった。実際、ランポッサ王自らが、その提案を口にしたのを私は耳にしている。しかも王族や貴族だけでなく、冒険者や民草までもが集う場でのことだった。王が一国の未来を託そうとするほどに、たっち・みー様の存在は大きかったのだ。
人々は誰もがその話を望んでいた。恐らくラナー王女に惚れているクライムもそれを許容しただろう。それだけの神話を作ったのだ。あの魔樹を打ち倒したのだから。彼はすでに王としての資格を持つ存在と見なされていた。
しかし、彼は静かに首を振った。
『自分にはすでに妻子があります。妻や娘を裏切ることはできません。それに私はただ剣を振るうしか能のない男です』
その言葉は潔く、誠実で、揺るぎない。それが、彼の人気をさらに高める結果となった。
この世界においては、浮気や不倫は珍しくない。強き者は女を集め、女は強き者に守られようとする。だからこそ、妻を裏切らない、家庭を大切にするという彼の姿勢は、特別な輝きを帯びたのだ。
恐らく、この大陸で最も強いのは彼かツアーのどちらかであろう。そしてツアーはドラゴンだ。人間種と限定すれば、間違いなくたっち・みー様が一番強いだろう。
私自身、魔樹との戦いの一端を目にして心を震わせた。ほんの一瞬、剣を振るうその姿に目を奪われた。もし吟遊詩人の歌のように、腕に抱えられ守られながら戦われたなら、抗えなかったかもしれない。
いや、仲間のラキュースに至ってはすでに堕ちているかもしれない。自覚があるかは知らないが、エ・ランテルで酌を申し出ている女たちを睨んでいた。だが、その後の言葉に胸を打たれた様子を、私は目にしている。
『私は飲食無効の指輪を装備しています。だから、限りある食料は他の者に分けてあげてほしい。それが私の願いです』
その一言に、酒場にいた多くの女性が同時に息を呑んだ。誰かのために己の欲を退ける。飢えに苦しむ者が大勢いるこの世界で、そんな言葉を口にできる者がどれほどいるだろうか。
ラキュースは本気で、彼に王座に就いてほしいと願っているようだった。もしそれが叶わないなら、どの国でもいい、王となり人々を導いてほしいと。
その思いは王国に留まらない。法国ですら、そう、ニグンが語ったように、もし彼が頂点に立つのであれば、人間至上主義を改める用意があるとまで言っているのだ。
ニグン自身も、もしかしたら彼に従いたいのかもしれない。たっち・みー様の願いが、元いた世界、ゆぐどらしるへの帰還だと理解していても、彼の下でならと。
私は深く息を吐き、宿屋の前に立った。
そこは王宮よりも居心地の良い場所だと、たっち・みー様が選んだ部屋。王の勧めを固辞し、民と同じ宿に身を置く。その姿勢がまた、人々の尊敬を集めていた。
私は背後の人物へ振り返る。
「ツアー、頼むから喧嘩腰はやめてくれよ。たっち・みー様は王国……いや、人類の英雄なんだから」
「分かっているさ、キーノ。私だって、世界に協力してくれるかもしれないプレイヤーと敵対したいわけじゃない」
その声音に険しさはなくとも、
私は緊張で汗ばんだ気がした。ヴァンパイアだからそんなことはないはずだが……一番高価な部屋の扉を叩いた。間を置かず「どうぞ」と声が返ってくる。
扉を開けた先、静謐な気配の中に、銀白の甲冑をまとったたっち・みー様が座していた。
「たっち・みー様。こちらは評議国の――」
「ああ、キーノ。私が話そう」
白金の鎧を纏った青年の姿が一歩前へ進む。
「私はツアー。
「……まさか、私の望む人物が来てくれるとは。では――」
「――ああ、君の願いも聞いている。だがその前に問わせてほしい」
ツアーの眼差しは鋭く、重い。
「君は、この世界でどう生きようとしているのかな?」
その問いに、たっち・みー様は深く思索するように沈黙した。やがて低く、しかしはっきりと答える。
「私の指針は――『困っている人がいたら助けるのは当たり前。』それだけです」
「……素晴らしい」
ツアーが頷く。だが、すぐに追及が入る。
「では重ねて問おう。困っている人とは、人間種だけなのか?」
「いえ。私にとっての人は、亜人種も異形種も含まれます」
「……では、なぜ人間絶対主義の法国に協力する?」
空気が凍ったようにかんじた。嘘偽りを許さない竜王の気迫。いや、殺気。私の背筋に冷たいものが走る。だが、たっち・みー様の声は揺るがない。
「簡単です。この世界で最も困っていると判断したのが人間だからです。他意は……いえ、ユグドラシルへ帰りたいという思いはありますが」
「ユグドラシル? リアルではないのかい?」
その一言に、たっち・みー様が息をのむ。
「……私が帰りたいのはリアルです。ですが、この世界の人々はリアルを知らないので、便宜的にユグドラシルと呼んでいました」
「なるほど」
ツアーは腕を組む。
「だが、私の聞いた話ではリアルは環境破壊が進み、富裕層以外が生きるのも困難な生き地獄だと。……それでも帰りたいのかい?」
「――ええ。妻子がいるのです。守れなかった主君の遺体を弔う役目もある」
「その姿でかい? 確かプレイヤーはアバターだっけ? 自分たちが理想とした姿の分身でユグドラシルで遊んでいたと聞くよ? 君もそうだろう……? それより、リアルの事は忘れて、この世界で生きて世界の安寧に、私に協力してほしい」
「……だとしても、妻を忘れることはできません」
沈黙が落ちる。兜に隠された表情は読めない。だが、二人の言葉が刃のようにぶつかり合っているのは、痛いほど伝わった。
「それなら仕方ないね」
そして二人の会話が終わった。どちらも兜をしているから表情が読み取れない。
「単刀直入に聞きます。あなたの持つ始原の魔法でリアルとこの世界を繋げることは可能でしょうか?」
たっち・みー様の声は落ち着いていたが、その黄金の瞳の奥には鋭い光が潜んでいた。部屋に張り詰めた空気は、まるで透明な刃で喉元をなぞられているかのように感じられる。私は無意識に息を呑み、横に立つツアーを見上げた。
「可能か、不可能かなら……恐らく可能だよ」
低く、それでいて静謐な声。その響きに、部屋の空気がさらに重くなった気がした。
「なら!!」
たっち・みー様の声が一瞬だけ熱を帯びる。その巨体が前ににじり寄ったように錯覚して、思わず私は一歩下がってしまった。
「だが、私は父の失敗を見ている。故にリアルとこの世界を繋げることはしない」
きっぱりとした言葉。そこには微塵の迷いも感じられない。
「――もし私が力ずくでも、あなたに協力させようとしたら?」
刹那、空気が張り裂けそうなほど冷え込んだ。たっち・みー様の声音は柔らかいはずなのに、背後から氷の刃を突き立てられたような錯覚を覚える。部屋の窓から差し込む夕陽の赤が、まるで血の色のように見えた。
「その場合……君を私の、世界の敵と判断するしかない」
ツアーの返答もまた静かだったが、そこに込められた覚悟は岩のように揺るがない。二人の間に、火花が散るかのような緊張が走る。
私はたまらず声を上げた。
「ちょっと待てツアー!! たっち・みー様は王国を救った存在なんだぞ!! それに法国に人間至上主義を改めさせるように働きかけて、法国はエルフを奴隷身分から味方として扱うまでにしたんだ!! お前は世界を守るんだよな!! たっち・みー様も世界を守ろうとしてるじゃないか!! 本当に協力はできないのか!?」
声が震えていたのは恐怖のせいか、それとも焦りのせいか。自分でも分からなかった。
「キーノ……そうだね。性急すぎたね。すまないたっち・みー殿」
ツアーが小さく息を吐くと、張り詰めていた圧力がわずかに緩んだ。だが、その目の奥に宿る警戒は消えていない。
「だが協力できないのには訳がある。先ほど言ったようにリアルは地獄のような世界なのは知っているだろう? そして世界にはそれぞれ法則がある。元々この世界では位階魔法は使えず、始原の魔法だけが使われていた。だがそれを、プレイヤーが
ツアーの言葉は論理的でありながらも、そこには強い恐れがにじんでいた。未知を前にした賢者の本能的な畏怖。その真剣さが、かえって私の背筋を凍らせる。
「――なら私だけをあなたの魔法でリアルに飛ばしてもらうことはできませんか?」
たっち・みー様の言葉は静かだが、その一語一句に揺るぎない決意がこもっていた。
「それも難しい。リアルに飛ばすには何かリアルと繋がっていた証? いや繋がりが必要だと思う。何も目印がない状態で行うのは危険だと思う。確かにリアルとユグドラシルが繋がっていた以上、間接的にはつながっている。だが、私は挑戦したいとは思わない」
ツアーが首を振ると、その白銀の鎧がわずかに揺れ、光を散らした。
「――そうですか。つまり私はリアルへあなたの力を借りて帰ることはできないということですね」
「申し訳ないけど、そうなるね。だから第二プランを君に提案したい」
再び沈黙。時計の針の音すら聞こえそうな静寂の中で、たっち・みー様が考え込む。その姿は岩壁のように動かず、ただ思考の深淵に沈んでいるかのようだった。
「第二プランとは?」
「たっち・みー殿が法国の人間至上主義を変えてエルフと共存できるようにした。これを大規模に行なってほしい。キーノに聞いたが、陽光聖典の隊長が君が法国で立つなら、法国は人間至上主義を改めてもいいと言っているらしい。スルシャーナの例もあるしね。そして君も知っていると思うが、この世界にはタレントがある」
「ああ。確かいろんな能力があるとは聞いています……まさか」
「そのまさかだよ。世界を渡るタレント。そんなものが生まれてもおかしくはない。だがタレントは人間だけではなく亜人種や異形種も持っている。君が法国を変えて、そんなタレントを探す。亜人種等と融和的な国家を建築してくれるなら、私も可能な限り世界を渡るタレントを持つものを探そう」
ツアーの言葉に、未来を描くような力が宿っているのを感じた。
「……できれば妻子が生きている間にリアルに帰還したいのですが」
「たとえリアルで亡くなっていても亡骸をこちらの世界に持ち帰ることができれば、私が必ず蘇生する。これは
たっち・みー様が再び沈黙する。私はその横顔を見つめながら、胃が締め付けられるような思いを抱いた。ここで交わされている言葉はあまりに重すぎる。私の存在など本来不要なのではないか、そう思えてならなかった。
「――今、法国からエルフと共存するために、エルフの王を殺害してほしいと依頼を受けています。その点についてはどう考えますか?」
たっち・みー様が口にした瞬間、室内の温度がさらに下がった気がした。
「エルフの王か……正直、私も持て余しているというのかな。何がしたいかわからない。彼をたっち・みー殿が殺害するなら、私は止めないよ」
ツアーの答えは淡々としていたが、その瞳の奥に一瞬だけ憂色が差した。まるで、この世界の未来を憂うかのように。
☆ ☆ ☆
「ふぅ……。なんとか無事に会談を終えられたか」
私は深く息を吐いた。胸の奥に張りつめていた緊張が、ようやく解けていくのを感じる。窓から差し込む西日が私の兜を焼き、長い影が床に伸びていた。
――あの一瞬でも、もし言葉を誤れば剣が交わる事態になっていたかもしれない。そう考えるだけで背筋に冷たいものが走る。
「すまなかったね、キーノ」
傍らに立つ彼女に声をかける。仮面の下には安堵の色が浮かんで言えるようだ。先ほどまでの張りつめた場の重さを物語っていた。
「本当だよ、ツアー。正直、私には二人が何を話しているのかよく分からなかったが……ひとまず無事に終わってよかった」
彼女の言葉に私は小さく頷いた。無理もない。いま交わされたやり取りは、この世界の根幹や法則にかかわるものだった。彼女の理解を超えていて当然だ。だが一つだけ、彼女も正しく感じ取っているだろう――決裂していたら、この場は修羅場と化していた。
私は心の中で再度、確認する。たっち・みー。あのぷれいやーは、ただの強者ではない。世界を滅ぼすことも救うこともできる立場にありながら、後者を選んだ稀有な人物だ。リーダーと同じように協力者となってくれるのならば、これ以上の幸運はない。
「それで、ツアー。本当に始原の魔法でリアル……その世界へたっち・みー様を転移させることはできないのか?」
キーノの問い。私はしばし目を閉じる。瞼の裏で、過去に見た父の失敗の影がよぎった。あれと同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。
「無理だね」
そう短く告げる。石を水面に落とすような言葉。議論を封じる響きをあえて込める。
本当は……可能性が全くないわけではない。リアルに繋がる媒介……つまりぷれいやーがそれに準ずる何か、例えば拠点が存在すれば、届く可能性は高い。しかし、それを語ることはできない。語れば彼は必ず試みるように私に迫るだろう。そしてそれは取り返しのつかぬ災厄を呼びかねない。
だから私は嘘を吐いた。いや、嘘ではない。ただ、真実のすべてを明かさなかっただけだ。
「キーノ? 君は、たっち・みー殿をどう思う? 恋愛感情とかはないのかい?」
私の問いに、彼女は驚いたように目を瞬かせ、声を裏返した。
「変なことを聞くな。確かに素晴らしい人格者であることは認めるし、私より強いのも分かっている。だが……たっち・みー様には奥方がいるらしいし、それに……ラキュースが恐らく惚れているからな」
彼女の言葉は半ば照れ隠しのようで、しかし核心を突いている。私は口元に笑みを浮かべた。
「そうなのかい? だったらラキュースを、君には全力で応援してほしい。それが世界のためになる。冗談じゃないからね? 頼んだよ」
柔らかな声音でそう告げる。しかし胸の内には別の重さを抱えていた。彼が八欲王等の存在にならないように楔が必要だ。それに現地の人間であるラキュースがなってくれたら最高だ。ラキュースがリアルの奥方たちを忘れさせてくれればなおいい。
ただの恋愛話に留まらない。この世界に彼を繋ぎとめる楔にラキュースがなってくれればたっち・みーは、世界さえ守り得る存在なのだから。
最後に心の中でつぶやく。たっち・みーを監視しやすくなるしね。と呟いて。
☆ ☆ ☆
「……世界の法則が違う。なるほど――」
「ですが逆に言えば、リアルにさえ辿り着ければ――」
「たとえ……どれほどの年月がかかろうとも、必ず」
「……ですが、なぜ? もしリアルが地獄のような世界なら? なぜ、モモンガ様たちはユグドラシルに移住されなかった? たっち・みー様のように、リアルに妻子がおられたとしても、一緒にユグドラシルへ移住すればいいはず」
「いえ、それよりも重要なのは『自分たちが理想とした姿でユグドラシルで遊んでいた。』この言葉が事実なら、私は何か重大な勘違いをしている。あの冒険譚が遊びだと? 何か、何かを私は見落としている。それは何だ?」
「……ユグドラシルへ移住しなかったのではなく、リアルに何らかの要因があり移住できなかった?」
「リアルが地獄なら、何を犠牲にしてもユグドラシルへ移住してもいいはず」
「それができない……課金アイテム……金銭を払う行為。ナザリックには大量の金貨がある。それで購入しない。恐らくあるであろう、リアルの金銭でしか課金はできない? それを誰に払う?」
「上位の者に。つまりモモンガ様たちを管理する何者かがいた? 至高の御方ですら従う相手がいるのか?」
「『リアルで夢を叶えた人もいた。』モモンガ様は確かにそう言っていた。リアルでの生活こそが、要だったのか? 待て、自分たちの理想の姿の分身と言っていた。ならモモンガ様たちはリアルで生きているのか?」
「モモンガ様は死ぬと明言された……。それが間違いだとは思えない。いや仮にリアルで生きていると仮定した場合、何故ユグドラシルを去ることになった?
「……情報が不足していますね。かといって下手に
「恐らく、それは正しい。私のこの行動も、暴走の一端と言われてもおかしくはない」
「
「たっち・みー様のロールプレイを捨て、全ての至高の御方の力を使えば勝ち目はありますが、今の立ち位置を失うのは惜しい――」
ツアー「リーダーのような世界に協力してくれるぷれいやーに会えてうれしいよ」
たっち・みー(偽)「仲良くしましょうね!」
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