氷結の大地に静けさが広がっていた。
水晶のように透き通った氷壁は凍りついた光を反射し、仄暗い輝きが室内に漂う。美しくも見えるが、それは同時に、外界から切り離された閉ざされた牢獄のようでもあった。そこは誰も立ち入らぬ場所――コキュートスが己の心を封じ込めるために選んだ、孤独の座である。
部下たちはすべて遠ざけた。忠実なる配下は主である自分を心配していたが、彼らの眼に自らの揺らぎを晒すことなどできぬ。武器であるべき己の姿を、弱さに染めてはならぬからだ。
だが、孤独は慰めにならなかった。瞑想に耽ろうと目を閉じても、心の奥底には氷の裂け目のような軋む音が鳴り響き続ける。
「……モモンガ様……武人建御雷様」
声に出すたび、胸が軋む。
至高の御方の気配が途絶えて、どれほどの時が過ぎたのか。時の流れそのものが、凍りついた虚無の中で歪んでしまった。
「ワタシガ……間違ッテ……イタノダロウカ?」
低く重い声が氷壁に反響し、何度も虚しく返ってくる。
コキュートスは長きにわたり、至高の四十一人の「武器」であろうと努めてきた。刃を研ぎ澄まし、戦場に立ち、命を賭して彼らに仕えることこそが存在の意味だと信じてきた。
だが今、その道を悔いていた。もしも、ただの武器ではなく、一人の存在として御方々に縋りついていたなら。
「どうか去らないでください」と、武器の矜持を捨ててでも哀願していたなら――。
あるいは、この地獄のような未来を回避できたのではないか。後悔は鋭い氷刃のように胸を抉り、心をずたずたに裂いていく。
「……捨テラレタノカ……?」
その思考が脳裏をよぎるたび、全身から力が抜けていく。至高の御方は、ナザリックに訪れない。ナザリックを――我らを置き去りにされたのではないか。ただのNPCに過ぎぬ我らを。
――いや、それはあってはならぬ。
必死に己を奮い立たせるように、声を絞り出す。
「イ、イヤ……モモンガ様ハ……必ズ……オ帰リニナル……。武人建御雷モ……キット……」
そうでなければならぬ。そうでなければ、我らNPCは存在理由を失う。存在理由を失えば、我らはただの虚ろな器。魂を持たぬ人形に過ぎなくなる。しかし、その言葉はあまりにも脆かった。
ナザリックは崩壊しつつある。デミウルゴスは友として必死に策を巡らせ、アルベドは守護者統括として全てを繋ぎ止めようとしている。
だが、その努力は、深い亀裂を覆う薄紙に等しい。ひとたび風が吹けば、すぐに破れてしまうだろう。すでに――シャルティアは壊れていた。
誰の言葉にも応じず、ただ配下と共に色欲に溺れ、己を保とうとするかのように虚無に身を委ねているという。
アルベドもデミウルゴスも、シャルティアがそうなった原因を直視することを避けている。理由を直視してしまえば自分たちも壊れてしまう恐れがあるから。
シャルティアの姿は、彼女だけの問題ではない。崩壊は全ての守護者に、そしてナザリック全体に広がっているのだ。
壊れ始めたのは、シャルティアだけではない。小さな軋みは確実に、すべての者に及んでいる。
――我々は至高の御方々の意志によって造られた存在。
その意志を失えば、空洞となり、ただ「造られた形」を保つだけの虚ろな像へと堕ちる。氷の瞳を閉じても、幻のようにモモンガ様の背中が浮かぶ。あの背は、もはや振り返らないのか。至高の御方は我らを忘れられたのだろうか。
「……モモンガ様……武人建御雷様」
祈るように呟く声は、氷壁に反響して幾度も返る。
だが、それはただの残響に過ぎない。返答はどこからも届かない。
氷の壁に映るのは、自らの姿。だがそこに映るのは忠実な守護者でも、誇り高き武器でもない。ただ空虚な骸のような姿だった。
「我ラノ存在ニ……意味ハアルノカ……?」
その問いに答える者はいない。
氷結の静寂は変わらず、ただ死のように冷たい虚無だけが広がっていた。やがてその冷気すら、コキュートスの心を覆い尽くす。そして――残されたのは、絶望の色だけであった。
☆ ☆ ☆
広大な第十階層、ナザリック大墳墓の玉座の間へ続く道。その荘厳な空気は、いつもであれば畏敬と忠誠に満ちていた。だが今は違う。
空気そのものが鉛のように重く、冷たい。光を放つ巨大なシャンデリアの輝きさえ、まるで冷笑を浮かべるかのように白々しく見える。
セバスは胸の奥で深く息を吐いた。
静かに、ひたすらに自分を律する。己の感情を抑えねばならない。彼が崩れれば、その影響は間違いなく直属の部下たち、プレアデスに波及するのだから。
視線を巡らせれば、彼女らの表情は絶望に覆われていた。唇を噛み、瞳を潤ませる者。うつむいて肩を震わせる者。さらには震える声で「私たちは……捨てられたの?」と呟く者までいた。
至高の存在が訪れぬこの空間で、彼女らの心を繋ぎ止めていたものは、すでに細い糸にすぎない。
まずい。非常にまずい。
セバスは重苦しい思考に沈みながらも、内心で自らを叱咤した。否定できるのか? 本当に、彼女らの捨てられたという考えを否定できるのか?……モモンガ様が姿を現さなくなって、どれほどの月日が流れたのだろう。
暦を数える意味も次第に薄れ、もはや待ち続けるという行為そのものが拷問のようになっていた。少なくとも、プレアデスたちの眼差しにはそう映る。
セバスは目を閉じ、胸に手を当てた。思い出すのは、メッセージで聞いた惨状。シャルティアが心を壊し、アルベドとデミウルゴスが必死に残された者たちをまとめようとしている様子。
その努力の果てに築かれているのは均衡ではなく、脆い仮初の平穏にすぎなかった。至高の四十一人が存在しないナザリックに、果たして価値があるのか。
己の心がそう囁く。だがセバスは即座に、その声を心の奥底へ押し込めた。
否。否だ。
それだけは決して認めてはならない。
もし――もしも、たっち・みー様が自分と同じ立場に置かれたなら、どうされたであろうか。
脳裏に蘇る、かつての言葉。『誰かが困っていたら助けるのは当たり前!』
そう、たっち・みー様の信念。それはセバスの魂に深く刻まれ、今もなお彼の中で燃え続けている。ならば、この暗闇に沈んだ者たちを救うのは――自分の役目ではないか。
だが、どうすれば救える?
ナザリックを救う存在は至高の四十一人か、その後継者のみ。だがそんな存在はいない。我々は、このまま絶望に飲まれ、朽ちていくしかないのか。セバスは瞼を開き、もう一度プレアデスたちを見た。
全員が泣いていた。声を殺して。涙を流しながら、唇で繰り返すのはただ一つ。
――モモンガ様。どうかお戻りください。
モモンガ様の名前を叫び、己の創造主の名を呼び、震える声で乞う彼女らの姿に、胸を締め付けられる。
選択肢は二つ。
ここに留まり朽ち果てるか。あるいは、至高の四十一人を求め、ナザリックの外へと旅立つか。
その考えが浮かんだ瞬間、心の奥に影が差した。――それは反逆ではないか?
禁忌の二文字が重くのしかかる。自分だけの思考ではない。アルベドも、デミウルゴスも、同じ疑念を胸に抱いているに違いない。
だが彼らが実行しない理由はただ一つ。もし探しても見つからなかったとき、我らはどうすればいいのか。そのさらなる絶望を恐れているからだ。
セバスは唇を結んだ。彼自身もまた、決断したくはない。
だが――それでも。
「……私だけは絶望しません」
低く、しかし確かな声で自らに誓う。
ナザリック全てが絶望に飲み込まれようとも、自分だけは希望を失わない。モモンガ様を、そしてたっち・みー様を信じ続けよう。
必ず帰還してくださる。
その瞬間まで、己は決して折れぬ。
セバスの瞳には、深い闇の中でなお消えることのない光が宿っていた。
誰かが帰ってきたら、ほとんどのNPCがモモンガ様たちを監禁しそうですね(小並感)もう二度とナザリックから去られないように。もしくは泣きながらすがりよって捨てないでくださいと叫び続けそうですね!
これで第三章は終了です!
次章の開始は活動報告で報告します!
ちなみに詳しくは描写していませんがアルベドはメッセージの魔法を使えないはずなので、メッセージはセバスのところに来て、ナーベなどに使ってもらうなどの手間がありますが、省略しています('ω')重要なことじゃないからね!ここで重要なのはナザリックは崩壊しつつあるということだけです!