ニグンは、竜王国の城門をくぐった瞬間、胸の奥がわずかに熱くなるのを感じた。かつてはビーストマンの襲撃に怯え、血と煙の臭いが絶えなかったこの国が、いまは穏やかに笑い声を響かせている。城下町の石畳は整えられ、往来を行き交う人々の顔にはかつてなかった安堵が浮かんでいた。
あの地獄のような竜王国が、ようやく人が笑える国になった。
それは間違いなく、たっち・みー様の功績だった。国内のビーストマンはほぼ駆逐され、前線の混乱も収まりつつある。もちろん、六腕の残党が局地的にビーストマンに対して暴れているという報告はあるが、国が崩壊寸前だったあの頃を思えば、今は夢のような平和だ。
(もしたっち・みー様がいなければ……)
思わず足を止めかけ、ニグンは首を振った。感傷に浸る暇はない。彼は法国の使者として、いや、たっち・みー様の要望をこの国に伝える必要があるのだ。
「ニグン様、女王陛下がお呼びです」
兵士の声に頷き、長い回廊へと歩を進める。廊下は高い天井を持ち、外の光を取り込むステンドグラスから虹色の光が差し込んでいた。石造りの床に響く足音は、城内の静けさを際立たせる。
深呼吸を一つして扉をノックすると、中から宰相の落ち着いた声が返ってきた。
「入れ」
重い扉を押し開けると、広間には女王と宰相だけがいた。豪奢な装飾はあるが、必要以上に華美ではなく、戦乱の国らしい質実剛健さを感じさせる部屋だ。
「お久しぶりです、陛下」
ニグンが深々と頭を下げると、子どもの姿の女王は豪快に笑い、玉座から一歩踏み出してきた。
「うむ! ニグン殿も久しぶりだな! おぬしらのおかげで国も平和になった、感謝しているぞ!」
国を背負う者の言葉は重く、しかしその笑みはどこか解放感を帯びていた。ニグンは一瞬、あの地獄のような日々を思い出し、胸が痛む。
「いえ、人間を守るのは法国として当然のことです」
一礼し、声を落とす。
「そして、今回伺ったのは……法国の方針変更と、一つお願いがあってのことです」
宰相が身じろぎし、緊張をにじませる。
「方針の変更……そしてお願い、ですか。竜王国としてもできる限り応えたいところですが、正直、余裕はあまりありません」
「物資の話ではございません」
ニグンは静かに首を振る。そして一呼吸置いて、言葉を発した。
「まず、我々は――人間至上主義を捨てる予定です」
広間の空気が一瞬で凍り付いた。
「……何じゃと!?」
女王だけでなく、宰相も目を見開く。法国が掲げてきた人間至上主義。それは人類の存続を支えてきた思想であり、その放棄は裏切りと受け取られてもおかしくない。
「……理由をお聞きしても?」
宰相の声は低く、慎重だった。
「もちろんです」
ニグンは表情を引き締める。
「今回、竜王国への支援には、リ・エスティーゼ王国からガゼフ・ストロノーフも参戦しておりましたね?」
「うむ。最初は信じられなんだが……報告によれば、彼と、それ以上に強い何者かが前線を押し返したと」
「はい。その御方の名はハンゾウ様。そして私は、ガゼフ・ストロノーフに次ぐ指揮権を授かっておりました」
短い沈黙が落ちる。宰相が息を呑む音すら聞こえる。
「そして……ハンゾウ様は従属神様であらせられます」
「な……なんじゃと!?」
女王が声を荒らげる。思わず肩を震わせたようだ。宰相だけが感情を押し殺しているが、手がひざの上でわずかに震えていた。
「もうお分かりでしょう。竜王国支援の背後には、ぷれいやー様――たっち・みー様の御意向がありました」
「なんと……」
女王の表情が険しくなる。しかしそれは恐怖ではなく、王としての役目を全うしようとする者の顔だった。
「ぷれいやー様は、困っている者を助けるのは当然という信念をお持ちです。そのため、我々陽光聖典は上層部の命令を無視し、竜王国支援に回ったのです」
「上層部の命令とは……?」
「ガゼフ・ストロノーフの抹殺。そして帝国による王国併合の後押しでした。しかし、ぷれいやー様は王国の膿を自ら切り取り、そして竜王国を守ると決断なさった。ゆえに我々も従ったのです」
ニグンは女王と宰相を順に見た。二人の顔には驚きと困惑、そしてほんのわずかな期待が入り混じっていた。
「ぷれいやー様の信念は人間だけにとどまりません。エルフ、ドワーフ、ひいては亜人や異形種すら含まれます。我々はその理念に倣い、人間至上主義を捨てる改革に踏み切りました」
「……法国の上層部も認めているのか?」
「はい。すでにエルフに対しても、エルフの王の抹殺に協力するなら、エルフを奴隷ではなく共闘者として遇する方針が決定されています」
「……そうか」
女王は長く息を吐き、玉座にもたれかかった。その横で宰相が静かに頷く。
「そして、法国は竜王国から報酬を求めません」
ニグンは一歩前に出て、声を落とした。
「ただし――ぷれいやー様から、陛下に一つだけお願いがございます」
「お願い、じゃと?」
女王の目が鋭くなる。
「はい。今回私は法国の代表としてではなく、ぷれいやー様の意を汲んでここに参りました。ですが、このお願いは竜王国にとっても大きな意味を持つでしょう……上手くいけばぷれいやー様の恩人として法国以上に、ぷれいやー様に近くなり、その武力で守って頂けることが確定するのですから」
部屋に再び沈黙が落ちた。燭台の炎が揺れ、影が壁を這う。
女王は視線を逸らさずに言った。
「……それで、ぷれいやー様は何を求めておる?」
ニグンは深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
「はい、それは――」
☆ ☆ ☆
夜、アンティリーネと一緒にたっち・みー様の寝床に襲い掛かったら……途中までは上手くいっていたと思う。彼女がたっち・みー様を逃げられないように、押さえつけて私が鎧を外していく。だが鎧を外していこうとしたところ、何らかの技で二人とも吹っ飛ばされた。
その後正座させられて二人とも説教された。冷たい夜気の中、たっち・みー様の低い声が響く。私の膝は痺れて、床の感触が痛いほどに伝わってきた。それでも不思議と心は穏やかで、むしろその叱責の一つ一つが自分を大切にしてくれている証拠だと感じられて、胸の奥が温かくなる。
「自分の体をもっと大切にしなさい」
そう言った彼の瞳は、怒りよりも心配で曇っていた。あの眼差しを思い出すと、今でも背筋がじんわりと熱くなる。
さて冗談はここまでにして……現在、私たちはエルフの国に来ている。森の中はしんと静まり返っており、月明かりが枝葉を透かしてまだらな影を作っている。湿った土の匂いと、遠くで鳴く夜鳥の声が耳に届く。本当はたっち・みー様とアンティリーネの二人で来るつもりだったらしいが、私もついてきたいと志願した。
アンティリーネは真剣な顔で言った。
「私の母親を無理やり犯したくそったれな父親に拷問をかけて殺すけど邪魔をしない?」
そのとき、私の瞳には迷いと決意が同居していた。非常に悩ましかったが、最終的には私は拳を握り、邪魔をしないと明言した。アンティリーネの肩がほんの僅かに震えていたのを私は見逃さなかった。
そして今、法国部隊がたった一人の少女に足止めされている場所の近くにまで来ている。そこは鬱蒼とした木々が壁のように立ち並び、見通しが悪い。焚き火の煙が漂い、湿った苔の匂いが鼻に残る。法国兵たちの鎧が太陽の明かりを反射して鈍く光り、息遣いと鎧の擦れる音が重苦しい緊張を際立たせていた。
特殊部隊の副リーダーがこちらに近づいてきた。落ち葉を踏むたび、かさりと乾いた音が響く。五歩ぐらいのところになると止まり、たっち・みー様に頭を深く下げた。その姿勢は恭しいというより、畏怖の念すら含んでいるように見えた。
「よくぞおいでくださいました……ぷれいやー様!!」
たっち・みー様は肩をすくめ、少し困ったように微笑んだ。
「そんなに畏まる必要はありませんよ。私は神官長たちの依頼で来たわけですから」
「だとしてもぷれいやー様に感謝をしないものはおりません!!」
短いやり取りの間にも、兵士たちの視線が一斉に彼に注がれているのが分かる。尊敬と畏れとがないまぜになった眼差し。人間でありながら神話の存在を前にしたような緊張が、辺り一帯を支配していた。
「そう、ですか。一つ質問です。私はエルフの扱いを変えるように要請しておりますが、不満は出ておりませんか?」
「……全くないとは言いません。ですが、神が降臨されて、困っている人を助けるのは当たり前という信念を持っており、人間種全体が含まれていると話したところ、一応は小康状態です」
「ふむ、何か、私も考えた方がいいかもしれませんね……まずは陣取っている子どもを制圧しましょう、その前にリーネ」
「何、たっち・みー?」
リーネの声は夜風に紛れるほど小さいが、耳に残る真剣さがあった。
「私が見たところ、隠れている者がいます。恐らくあなたの父親と思わしき者でしょう。なので、こういうのはどうでしょう――」
たっち・みー様が提案を口にすると、リーネの口元に冷たい笑みが浮かんだ。
「――いいね。じゃあ私は先に行っておくね」
そう言うとたっち・みー様は一本の杖を取り出し、リーネに渡した。月光がその杖に反射し、紫がかった魔力の光が一瞬だけ走る。リーネが魔法を唱えた瞬間、彼女の輪郭が溶けるように消え、足音も気配も完全に消えた。まるでそこに存在していなかったかのように。
……と思った瞬間、尻と胸をつつかれた感覚が走り、思わず飛び上がる。
「アンティリーネ! 何するの!?」
怒鳴ったが、返事はなかった。森のざわめきだけが虚しく返ってくる。
「ぷれいやー様? 先ほどの杖は一体?」
「これは第九位階魔法、
副リーダーの表情が凍りつく。その目が計算するように細められ、周囲の兵士たちもざわりと息をのんだ。
確かに、この魔法が悪人の手に渡れば、国家一つを転覆させることすら可能だろう。私も背筋に冷たい汗が伝うのを感じる。
「あなたが何を考えているかは想像がつきますが、リーネは法国の切札。何か間違いが起こることはありませんよ」
その言葉に副リーダーは深く頭を垂れ、息を吐いた。
「はっ、申し訳ありません」
「さて。では、エルフの娘を倒し、エルフの王には重傷を負ってもらいましょうかね」
たっち・みー様が森の奥を見据えた瞬間、空気が一層冷たく張り詰める。遠くで狼の遠吠えが響き、月が雲に隠れて一瞬あたりが暗くなる。心臓の鼓動が耳の奥でやけに大きく響いた。――嵐の前触れのような、危うい静寂だった。
「ラキュース。あなたはここで待っていてください」
「……たっち・みー様はあの少女を殺すのですか?」
「いえ、父親が近くにいる以上、何かあれば助けに入ると思いますし、そうでなかった場合無力化してあなたに預けます、良いですか?」
「もちろんです!」
☆ ☆ ☆
「それにしても私の血統、いや父の血統を受け継いでいるくせに、なぜ失敗作しか生まれないのだ?」
エルフ王デケムは、深い森の巨木の根元に身を潜めながら、唇を噛みしめた。湿った苔の匂いが鼻を刺す。背中には冷たい夜気がまとわりつき、月明かりに照らされた森の道をじっと見つめる。あの娘——自らの血を引く存在が、果たして成功作かどうか。父の偉大な血統を広めるために自らが選び、母親から引き離した存在だった。
法国の侵攻は一時中断している。人間どもが陣を張り、態勢を立て直している間に、娘に足止めをさせているのだ。本来ならばこの時間を利用して敵を殲滅したいところだが、今は見極めねばならない。この娘が強者かどうかを。
道の奥から、音がした。落ち葉を踏みしめる規則正しい足音。やがて現れたのは純白の鎧を纏った男だった。月光に照らされ、まるで夜の森に落ちた一筋の光のように輝いている。手には長剣と盾。たったそれだけの装備で、この森の支配者たる自分に挑もうというのか? 父の遺品を防げると本気で思っているのか?
「失敗作か成功作か……成功作であればいいが」
デケムは息をひそめる。次の瞬間、娘が弓を引いた。矢が空を裂き、男に殺到する。しかしそれは全て盾に弾かれ、甲高い音を響かせて地面に落ちる。男は一歩も動じず、淡々と矢を弾き続ける。
ふむ、少し敵を過小評価していたか。あの娘の矢は、森の戦士たちの中でも鋭いはず。だが目の前の男はそれを玩具のように防ぐ。中々できる。女なら、自分の子を産ませる母体にしても良いと一瞬考えたが、どう見ても男だ。残念だ。世界を席巻するには強い母体が必要だが、そうそう都合よくは見つからない。
矢が尽きる前に、男は踏み込んだ。盾の縁が閃き、娘のこめかみに直撃する。鈍い音と共に娘は地面に倒れ込んだ。動かない。気絶しているらしい。
「……忌々しい」
喉の奥で唸り、舌打ちする。失敗作か。これほどあっさりと地に伏すとは思わなかった。娘を守るはずの弓が、今は泥にまみれて転がっている。男は剣先を地面に突き立て、こちらを見据えた。その目は氷のように冷たい。人間のものではない。感情の揺らぎがまったく見えない。
デケムは身をひそめ、森の奥へと気配を消す。だが怒りは消えない。木の枝を蹴り、音を立てぬように樹上を移動しながら、次の手を考える。エルフこそが世界を統べるべき種族だ。父が築いた道を継ぎ、種を広げ、世界に君臨する。それが自分の使命のはずだ。だが現実は違う。成功作は一人として現れず、いまや人間ごときに森を荒らされている。
耳を澄ませると、重い地響きが近づいてきた。森の奥からベヒーモスが現れる。大地が震え、木々がざわめく。デケムは心の中で命令を下す。あの男を引き裂け、と。だが男はわずかに首を傾げるだけだった。その落ち着きに背筋が凍る。
今だ――。
デケムは地面に飛び降り、失敗作のもとへ駆け寄る。弓を回収しようと腕を伸ばした瞬間、閃光のような衝撃が走った。
「ぐ……ぁあああっ!!」
左腕が、肘から先ごと消えていた。血が噴き出し、森の床に黒い染みを作る。鉄臭い匂いが鼻を満たす。たっち・みーは剣を振った姿勢のまま、冷たい目でこちらを見ていた。
「なぜ……見えた? 私の気配を感じ取れたはずは……!」
「私があなたの父親と同郷だからですよ」
その言葉がデケムの思考を吹き飛ばす。父と同郷——つまり父と同じ存在、ぷれいやー。
「馬鹿な……!」
絶叫と同時に、彼は森に響き渡る声で叫んだ。
「ベヒーモス!」
巨獣が吠え、ぷれいやーに突撃する。轟音が森を揺るがす。その隙にデケムは踵を返し、全速力で森を駆け抜けた。心臓が焼けるように痛む。左腕の断面から血が滴り落ち、足跡が赤く染まる。
(逃げろ、まずは逃げろ……! 父と同じ強さを持つなら、奴はベヒーモスを倒すはずだ。その倒すまでの時間で、奴がどれほどの力かを見極める……!)
だが、背後から再び森が沈黙した。ベヒーモスの咆哮は一度きりだった。嫌な汗が首筋を流れる。
(まさか……もう倒されたというのか!? あのベヒーモスを、こんなにも早く……!)
足を止める暇はない。木々を抜け、森の出口が見える。王城の尖塔が月光に輝いている。そこまで行けばまだ間に合う。宝物殿にある父の遺産をすべて持ち出し、遠くに逃げればいい。この地では失敗作しか生まれなかったのだから未練はない。
ニグンが何をドラウにパンドラズ・アクターの命令で頼んだかわかる人はいるかな('ω')
次話11月19日19時19分に投下予定です!