転移の感覚が終わると、足元の石床が確かな重みを持って私の存在を受け止めた。冷たい空気が肌を刺す。ここは墓、遺跡だろうか?
たっち・みーはためらいなど一片も見せず、まるでここが自分の庭であるかのように迷いなく歩を進めていく。私は息を殺し、その背を追った。後ろでは番外席次とラキュースが足並みをそろえている。二人とも武器に手をかける仕草はないが、私と同じく全身が緊張しているのが分かる。
通路は不気味なほど静まり返り、私の本体は鱗を伝う汗で水につかりたいと思った。壁に埋め込まれた何かが淡く光り、床に長い影を落とす。
やがてたっち・みーは立ち止まり、重厚な扉の前に立つ。息を整え、拳で扉を三度、軽く叩いた。
内側から聞こえたのは――声。女の喘ぎ声。私は思わず鎧をわずかに動かした。
ここは何のための従属神なのだろうかと考えた。
(……罠? いや、心理的揺さぶりかな?)
冷静に分析する一方で、わずかに顔を赤らめるラキュースたちを見逃さなかった。ラキュースは分かっていたが番外席次も純情らしい。
扉が開き、現れたのはヴァンパイア・プライド。異形種だ。死んだような瞳をしていたが、たっち・みーを見ると一瞬にして表情が変わった。頬を紅潮させ、喜色をあらわにした。
次の瞬間、彼女は走り出し、奥へと声を張り上げた。
「シャルティア様!! シャルティア様!! お喜びください! たっち・みー様が、たっち・みー様がお帰りになられました!!」
――シャルティア? 私はその名を知らないが、声の調子で理解する。ここの主だ。
「たっち・みー……プレイヤーならわかるだろう? 従属神をこんなふうに放置しておくなんて危険じゃないか」
私は思わず声を荒らげていた。放置された従属神は不安定になる。暴走する可能性がある。最悪、魔神に変じることすらあるのだ。
「なに、全てのNPCを集めたらあなたにも事情を説明しますよ。世界の安寧を守るやり方でね」
彼は落ち着いた口調で答えた。まだ彼への疑念は尽きないが、今この場で殺してしまっては、取り返しのつかない事態になりかねない。
ひとまず追及はやめるしかない。
そしてヴァンパイア・プライドの声が響いてからあまり時間もたたずに、扉の奥から裸の少女が現れた。白い肌、狂気じみたほど純粋な笑み。最初はゆったりと最後は彼女は走りながら、たっち・みーに抱きついた。
「ああ……たっち・みー様!! よく、よくお帰りになられました!! もう、もう私たちは至高の四十一人に見捨てられたのかと……!」
泣きじゃくり、嗚咽混じりの声で彼女は言葉を続ける。
私は冷や汗をかいた。この少女。危険だ。存在そのものが災厄のようだ。強さは、たっち・みーに匹敵するか、あるいはそれ以上か。
(これほどの存在を長く放置してたのか……正気の沙汰じゃない)
だが同時に理解もした。これで少なくとも彼の言葉が嘘ではないことは証明された。ここは間違いなく強大な拠点であり、一撃で破壊することなど到底不可能だ。
「――シャルティア、悪いけど話は後ででいいかい? 全NPCを玉座の間に集めてほしい。普段、領域を出ることを禁じられている者も全員だ。重要な話がある。なぜプレイヤーが全員いなくなったか、あなたたちに話す必要がある」
「それは妾の創造主であるペロロンチーノ様のご消息もお聞きになれるんでありんすか!? 畏まりんした!!」
シャルティアと呼ばれた少女は一礼し、急ぎ配下を呼び集める。残った者たちは皆、たっち・みーを前に深々と頭を垂れていた。
「君ね……いったいどれぐらい従属神を放置していたんだい? 危険だよ。どれぐらい経ってるんだ。魔神になる一歩手前じゃないか」
「さて、どれほどの月日でしょうね。実は私もよく分かっていないんですよ」
「君の恋の行方がどうなるか気になっていたけど、少なくとも君の恋人は時間管理ができる者じゃないとだめだね」
私はそこまで言ってから視線を横にやった。番外席次とラキュースを見た。二人は心のメモ帳に時間管理が必須と書き込んだようだ。それでいい。
(手綱を握る者が必要だ。もし暴走すれば、評議国どころか、この世界そのものが滅ぶ)
私の決意は固まった。今のところ、たっち・みーを殺す理由はないのではないかと天秤は傾いてきた。それ以上に殺しては世界の安寧を壊すことになりかねない。
目の前のシャルティア。彼女こそ、最も危険な存在だと私は悟った。
(この少女を制御できるかどうかで、この世界の未来が決まるかもしれない……)
冷たい空気が、ますます重く感じられた。
☆ ☆ ☆
「諸君、集まってくれて感謝する」
デミウルゴスの低い声が第六階層の広間に響いた。暗い石造りの部屋、天井から下がる燭台が揺らめき、影が守護者たちの顔を歪ませる。彼の尾がゆらりと揺れ、いつも以上に緊張した雰囲気を漂わせていた。
本来ならば、彼が守護者たちに命令を下すのは防衛戦時のみ。だが、今回はそれを破るほどの事態だと誰もが察していた。
「ここにいるのは階層守護者とセバスだけだ。後で部下たちに伝達してほしい」
その言葉に、アウラが小さく眉を寄せる。
「それで……いったいどうしたのデミウルゴス? わざわざ第六階層に私たちを集めて」
広間に一瞬の沈黙が落ちる。私はゆっくりと眼鏡を押し上げ、静かに告げた。
「……周知の事実だと思うが、シャルティアが壊れたのは知っているね?」
全員が黙って頷いた。あの吸血鬼は、快楽に溺れて誰からの言葉にも返答を返さない。
「さらに、アルベドが壊れた」
その言葉が落ちた瞬間、広間の空気が一層重くなる。マーレが不安げに指先をもじもじさせ、コキュートスでさえわずかに顎を引いた。
「いらっしゃらないモモンガ様の幻影を見て、話しかけている。……もう、私の声も届いていない」
自分の冷静な声に、全員が息を呑んだ。
原因はエクレアだ。彼から聞いた話によれば、我々が、捨てられたことを、受け入れましょうと言って、アルベドは壊れたらしい。
ああ、確かに。彼の創造理由を考えれば、その結論に達しても仕方ないのかもしれない。
だがそれを認めることはできない。それを認めてしまえばシャルティアやアルベドのように自分たちは壊れてしまう。
――認められるものか!! モモンガ様が我々をお捨てになるはずがない。きっと何かにナザリックに来るのを邪魔されているのだ!! そうでなければならない!!
「だから諸君に問いかけたい。シャルティアが壊れた理由は未だ分からないが……恐らく第一階層にその原因があると私は考えている。そして私もアルベドも、今まで見ないふりをしてきた。しかしもう限界だ」
一拍置き、視線を守護者たち一人一人に向ける。その宝石の瞳が炎のように揺らめいた。
「このままでは、我々自身が壊れてしまう。だから――完全に壊れ切ってしまう前に、至高の御方々を探しに行こう」
広間がざわめいた。アウラとマーレが顔を見合わせ、コキュートスは黙して腕を組む。セバスの目には一瞬だけ哀惜の光が走った。
「ここにいるのはシャルティアとガルガンチュアを除いた階層守護者とセバスだけ。……私たちだけで決めていいの?」
アウラの声は震えていた。至高の御方々の意思を無視する行為――それがどれほどの重大さを持つかを、彼女も理解しているのだ。
「良くないとも」
苦く笑った。
「だが、至高の御方々がいない今、決断すべきなのは我々だ。本来なら守護者統括たるアルベドが決断するべきだが……彼女はもう壊れてしまった。ならば防衛時の指揮権を持つ私が決断する」
それは半ば詭弁であることを彼自身が一番理解している。彼は心の奥底で呟いた。
――これは責任の明確化だ。もし再び至高の御方々と再会したとき、反逆を問われたとしても、罪を負うのは私だけだと示すために。
ゆっくりと眼鏡を外し、深く息を吐いた。
「諸君、どうか力を貸してほしい。至高の御方々を、我々の主を取り戻すために」
広間を支配していた沈黙が、少しずつ決意へと変わっていくのをデミウルゴスは感じた。
そして広間に漂う決意の気配を断ち切るように、空間転移の光が瞬いた。
「――報告するでありんす!」
現れたのはシャルティアだった。瞳には再び忠誠と誇りの光が宿っている。守護者たちが驚きに目を見開いた。
「シャルティア……回復したのか?」
「はい。たっち・みー様が――帰還されんした」
その一言で広間の空気が爆発した。アウラが歓声をあげ、マーレは涙を浮かべ、コキュートスの四本の腕が音を立てるほど握り締められる。
自分だけ、わずかに息を吐いて眼鏡の奥で目を細めた。間に合ったのだ。私が暴走する前に。
ああ。我々は捨てられていなかった!!
「それと……たっち・みー様より命令がありんす」
シャルティアが跪き、声を張る。
「全NPCを玉座の間に集めよ、と。なぜ至高の御方が誰もおられなかったのか、その事情も含めてお話ししてくれるらしいでありんす」
その場にいた全員が息をのんだ。至高の御方々の不在という、ずっと口にすることすら憚られた禁忌の真実が、ついに明かされる。
ゆっくりと立ち上がった。尾が静かに揺れ、眼鏡の奥で瞳が燃える。
「……そうか。ならば、至高の御方の御言葉を一言も聞き漏らさぬよう、全員を集めよう」
彼の声はいつも以上に低く、しかし確固たる力を帯びている。
セバスが深く一礼し、アウラとマーレが顔を見合わせて頷いた。
階層守護者たちはそれぞれに転移魔法や伝令を用い、部下たちに急報を伝え始める。
最後にシャルティアの肩に手を置いた。
「……よく知らせてくれた。君が取り戻した忠誠は、今この瞬間、我ら全員の希望だ」
☆ ☆ ☆
アルベドは、玉座の間で自分の声が反響するのを聞いていた。大墳墓の空気は重く鬱屈を払うことはできない。すべてが灰色に沈み、時間だけがゆっくりと流れていくようだった。だが彼女の前には、確かに微笑むモモンガ様の幻影が座っている――そう、アルベドは己に言い聞かせた。これは夢だ。現実ではない。モモンガ様が、我々を見捨てるはずがない。
「モモンガ様……」
小声で呟くと、その声は冷えた空気に溶けてゆく。夢の中の私は、デミウルゴスと共に崩れかけた規律を取り戻そうともがいていた。だがどうにもならなかった。食卓はひっくり返り、掃除の行き届いたはずの廊下には埃が積もっていた。メイドたちの笑顔は消えうせている。他のNPCたちも絶望の表情をしていた。
至高の御方がいないナザリックは、まるで心臓を失った身体のように動きを止めていた。
その時、エクレアの声が夢の奥から冷たく響いた──彼は、私たちが見て見ぬふりをしてきた現実に、正面から向き合う者だった。
「全NPCを集めてください。ナザリックは、このエクレア・エクレール・エイクレアーが餡ころもっちもち様の理念に従い、占拠したと――」
アルベドの胸を掴む言葉だった。夢の中の理性が揺らぐ。モモンガ様は隣で微笑んでいる。そんな矛盾が、頭の中で枝のように絡み合い、抜け出せない。彼女は必死に否定した。目の前の光景を否定するために、笑ってみせた。
「アルベド!! このままではナザリックは駄目になります! ……受け入れましょう。我々は至高の四十一人に捨てられたのだと。――その上で創造主の理念に従って生きましょう!」
声が高まり、夢は歪む。アルベドは叫んだ。連呼のように、同じ名前を何度も何度も口にした。
「――いや、いや、いや!!!! モモンガ様、モモンガ様、モモンガ様!」
その絶叫と共に、夢の膜が裂けるように、薄膜が剥がれ落ちる。アルベドの意識は、断続的に実在へと戻ろうとした。守護者統括の精神は、夢の世界では一つの例外以外、表に上がることを許されない。それは至高の四十一人が実在し、帰還するという確証がある時だけだ――だが、そんな事実は今はないはずだった。
どれほどの時が過ぎただろうか。暗闇の中で、アルベドの頬に冷たい衝撃が走った。誰かの手が、確かに彼女の顔を打ったのだ。痛みで目が覚める。周囲がざわつき、足音と低い囁きが広間を震わせる。目を開けると、眼前に慌ただしく動く影──シャルティアだった。
シャルティアは一番初めに壊れたはずではと、消えかけた理性が言っている。
「何をしてるでありんす、アルベド! たっち・みー様がご帰還されたでありんすよ!!」
その一声が、濁った空気を切り裂く。アルベドは立ち上がれずにただ呆然とする。胸の奥で、何かがきしむように折れそうになるのを感じた。目の前には、集合したNPCたちの列。普段は領域を離れることもできない、領域守護者たちが整列し、そして──信じがたいことに、デミウルゴスが微笑んでいる。彼の表情は、かつての冷徹さとはどこか違っていた。
「アルベド、喜びなさい。たっち・みー様が帰還された。その上、何故至高の御方々がナザリックに訪れてくれなくなったか、お話になるそうだ」
それは、言葉というよりも宣告に近かった。デミウルゴスの笑いに含まれる何かが、アルベドの胃を重くする。周囲のNPCたちは、口々に歓喜の声をあげている。泣いている者、額に手を当てて安堵する者、誰の目も光を取り戻しているかに見える。
だがアルベドには理解できない。至高の四十一人の不在という事実が消えるわけがない。なぜ、モモンガ様を見捨てたはずの者たちのはずのたっち・みーという帰還者に熱狂しているのか。彼女の中で、怒りと嫌悪と悲しみが混ざり合い、吐き気に似た不快感が膨れてゆく。
こいつらはおかしいのではないだろうか。何故モモンガ様が去ったのに、たっち・みーに笑顔を向けるのだろう。
思考は冷たく、刺すように速い。守護者統括という役割が、感情の表出を抑えさせる。だが内心では、ある種の策略が芽生えた。もしモモンガ様が戻らない理由があるのなら、私が解を見つければいい――そして私が、モモンガ様を独占すればいいのではないか。
たっち・みーが帰還したというなら、まずモモンガ様がどこにいるか聞かなくては、そう思い笑顔を作る。自分の思惑は誰にもばれてはならないと思いながら。
笑顔は完璧でなければならない。玉座の間に仕える者として、決して弱みや焦燥を悟られてはならない。そう自分に言い聞かせながら、心臓が早鐘のように鳴るのを必死で押し殺した。
エクレアが自分を追い詰めたことを謝罪していたが、それはいい。そんな事よりモモンガ様だ。
やがて、重苦しい沈黙――というにはNPCたちは高揚を隠せないが――破るように空間が歪み、転移が行われた。まばゆい光が収まった時、そこに現れたのは四人の人影だった。
一人は間違いなく、たっち・みー。少しだけ自分たちを捨てた者が我が物顔でいることに怒りが覚えたが、その傍らに立つ、白金の鎧を纏った存在を見た瞬間、背筋を冷たいものが駆け抜けた。
レベルは八十から九十ほど……いや、それ以上かもしれない。直感が告げる。この男は、ナザリックの守護者である自分たちでさえ殺し得る。
――なぜ、たっち・みーはこんな危険な存在を連れてきているのか。
思考が空回りし、答えは見つからない。
視線を横に滑らせると、鎧の男の背後に二人の女が立っていた。一人は我々に匹敵するような力を持っていそうだが、警戒感はわかなかった。何故なら額に汗を滲ませ、明らかな恐怖を顔に浮かべているからだ。
……たっち・みーの妾、なのか? そんな想像が一瞬脳裏をよぎるが、すぐに打ち消した。今はそんなことを考えている場合ではない。
「……まさか、これほどとは」
鎧の男が低くつぶやいた。声は驚嘆と畏怖が入り混じっている。
「たしかに、たっち・みー。君の言うことは真実だった。始原の魔法の使い方も……君が語った通りだと、嬉しいんだけどね」
「安心してください。嘘をつくつもりはありませんよ」
たっち・みーの声は落ち着いていた。その穏やかさが、逆に緊張を際立たせる。
鎧の男たちが言葉を交わしている間、私はもう限界だった。
自分の創造主が現れたセバスでさえ驚きに目を見開いているが、冷静さを崩さぬよう努めているのが分かる。
だが私は違う。
胸の奥で渦巻いていた焦燥と不安が、もう抑えきれなかった。
踏み出した一歩の音が、やけに大きく響いたような気がした。
「たっち・みー様!!」
声がわずかに震えるのを感じた。
「モモンガ様は……モモンガ様はどちらに?」
一瞬、時間が止まったように思えた。
たっち・みーの兜の奥で、視線がこちらを見た気がした。沈黙が、刃のように鋭く張り詰める。
「――亡くなりました」
ちなみにナザリックのNPCが外に目を向けないようにしたのは、日々あとむ様の作品との差別化のためでした!
なので、私が一人旅を知らなければ、たっち・みー(偽)VSナザリックという地獄絵図にもなり得ました!
なおその場合、聖王国編とかもあったかもね! 時間切れでBADEND濃厚ですが!