夏の梅の子ども*   作:マイロ

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――生きているだけで、周りに迷惑をかける。



どんなことをしてでも生きたいと思う。

しかし、周りから生きている価値がないといわれて、平気な訳でもないのだ。


『みんなで行けば』

 到底かなうはずのない相手を前にした。

 地面に倒れている人たちが、自分のせいで傷ついていることを知った。

 

 

 

 中島敦は治療室のベッドのうえで目を覚ました。ことのあらましは国木田から聞いた。動揺を隠すことのできていない様子に、不安が伝染する。と同時に、居た堪れず、申し訳なさを感じずにはいられない。

 自分の首には70億もの賞金が掛けられている。誰からも見放され、何の価値もなく、何の利益も生み出さない自分は、無害どころか、救ってくれた人にも害を与える人間だったのだ。

 

 自分に出来ることを、と国木田に言われた。

 正直、自分のような人間が、何かを成すことができるとは思えない。その自信もない。

 そんな自分は、いるだけでも社会の迷惑なのだ。知っている。でも、こんな自分でも、生きていてもいいという何かがあればと思っていた。

 

 そんな自分が考えたすえ、辿り着いた結論。

 

 出来ること――いや、自分がやらなくてはならないことは、これだと。

 

 厄介でしかない自分のような存在を受け入れてくれた人たち。少々強引な成り行きに巻き込まれたような形だった。けれども、そんな人たちが自分のために傷つけられていいはずがない。

 

 振り払え。振り向くな。このまま自分が去ることで、ここにいる彼らの憂いを払うのだ。

 

 変わりなく声をかけてくる国木田の脇を俯いてすり抜け、走り出す。

 戻るつもりはなかった。

 

 耐えがたい飢えのなかで、罪を犯しても生きたいと思った。そんなとき、奢ってもらった茶漬けのおかげで、人様の財布を奪う、なんてことをせずにすんだ。

 虎の影におびえて、人々が安心して家のなかで眠る夜を、ひとり孤独に星を見あげながら浅い眠りについた。それが、屋根のある場所で眠ることができた。久しぶりの深い眠りで、布団に横たわりながら薫った畳の匂いが、人間としての生活を思い出させた。

 ずっと着たきりだった自分に、新しい服を用意してくれた。

 

 食事を、住居を、衣服を与えてくれた。

 人心地つくことができた。束の間の平穏だった。

 

 生きていて楽しいことなどなかった。けれども生きていたかった。

 生きることしか、考えていなかった。

 

 電話はもうした。

 自分がするべきことをした。でも、どうしてだろう。心が晴れないのは。

 

 

 これから自分はどうなるのだろうというわが身の憂いよりも、これで探偵社のみんなが救われるのだろうかという不安が付きまとって頭を離れない。

 

 そうやって街中を歩いていたところで、顔をあげてしまったのはどうしてだろう。

 

 初対面で「おにいさん」と親しげに声をかけてくれた、細い首に格式ばった詰襟が窮屈そうな制服姿の少年は、自分を見つけると目を細めて口許で微笑む笑顔を向けて来た。それははじめて会った時と何ら変わらない、含みのない笑顔だった。たしか、入社試験の日は、午後から学校の用事があるということで、太宰と少し話した後はもう行ってしまったらしく、会うのは今で二度目だ。

 

 その後、ポートマフィアの襲撃に遭った。谷崎潤一郎とナオミは大怪我を負った。誰かが死んでもおかしくない状況だった。

 この少年がそこに巻き込まれなかったのは本当に良かった。

 彼は何も聞いていないのだろうか。こんなところにひとりでいては危ない、と。

 他の人たちは探偵社に集結しているらしいというのに。

 

 そういえば、太宰、織田作の姿は探偵社に見当たらなかった。どうしたのだろう。

 

 ……いや、自分がいなくなればすべて解決する。むしろ、ここにいる方がこの少年を危険にさらすことになる。

 

 

 鞄の肩紐を握りしめて、すぐ脇を通り過ぎようとしたとき、

 

「たすけてください」

 

 あと一拍遅ければ、駆け出しかけた足は止まれなかった。あと少し早ければ、固めたばかりの決意から何も聞かずに振りきれたかもしれない。

 しかし、耳を傾けてしまった。自分に出来ること。国木田の言葉が、耳に蘇った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結果、立ち止まり、何故か走って離れたはずの探偵社に、そう重くない買い物袋を持って戻ることになった。

 

 助けてくれというからには見かけに反してとても重いものを持っているのだろうと思ったのだが、拍子抜けするほど軽かった。まさか、自分をからかっているのではないだろうかと少年の顔を見るも、ちょうど持っていた手に息を吹きかけているところで、その指には赤いビニールの跡が残っていた。

 

 見ているだけで痛々しい。

 

 もしや、この少年が持つときにだけ重くなるような、何か特別なものが入っているのではないかと勘繰ったほど。

 

「たすかります。おにいさん」

 

 たすかった、などと。この少年は言うのか、自分に。こんな他人に迷惑しかかけていない自分に。

 

 情けない。

 情けないとは思ったが、この何気ない言葉を大事に思った。

 

 この言葉に、今だけは自分が存在してもいい気がした。

 

 そしてその言葉の後に、「あ、探偵社までおねがいします」という台詞が続いても、断ることができなかった自分のヘタレ具合に、全自分が泣いた。これでは本末転倒……。

 

「――どうかした?」

 

 目を離すとどこかへいってしまいそうな、ふわふわとした足取りに不安を覚え、道路側を歩くようにしていると、大きな目がこちらを見あげて来ていた。

 大きな瞳をしているので、彼が今どこを向いているのかというのはすぐに分かってしまう。表情にあまり出ない分、目線の動きによって彼の興味関心がどこへ向かっているのかを知るのは手がかりになるかもしれない。

 

「……ううん。なんでもないよ。えっと、夏梅くん」

 

「はい」

「いいにくいんだけどね、僕が付き合ってあげられるのは探偵社の前までなん、」

 

 路地から腕が伸びてきて、それを何とか避ける。はっとした。ここは自分だけではない。

 その手には拳銃が握られていた。白昼の日差しを浴びて、ぎらりと光る銃口。それが向いているのは自分にではなかった。

 

「やめ……やめろおおおおお」

 

 自分の発する大声にびくりと肩を震わせたまま、こちらに見開く大きな瞳。

 状況について行けず、表情が変わらず固まった少年。

 

 少年の大きな瞳の中に、手を伸ばし必死の形相の自分が映っている。それを目にして更に焦りで息が乱れる。

 

 傷つけさせて堪るか。死なせて堪るか。

 

 手を伸ばす。虎になっていなくても、素手でもいい。手がちぎれても、この身の痛みなど、どうでもいい。

 

「うおおおおおおおおおお」

 

 絶対に。

 

 絶対に。

 

 建物の壁の側面を蹴って、一気に距離を詰める。

 

「……敦おにいさん?」

 

 

 絶対に、だ!

 

 少年の、思ったよりも軽く細い体を抱えて、放たれた銃弾の雨を潜り抜けるようにして上に上にと建物の間を跳躍する。ぐわんと腕のなかの身体がしなる。

 ビルの屋上にまで跳びあがって着地。高所を吹きすさぶ強い風に耐える。

 

 屋上に倒れ込んで、どっと心臓が音を立てるのが聞こえた。思わず胸を押さえる。自分にこんなことができたことに驚愕し、動転し……そしてうひゃあと情けない悲鳴をあげる。

 両脚が虎のものになっているのを目にしてしまったのだ。

 

 いや、いや、今は足の一本や二本が虎化してしまったことは放っておいてもいい。

 

 中島敦少年の頭は、それとは違った焦りで占められていた。

 

 先ほどの黒服の――おそらくポートマフィアの黒蜥蜴とかいう集団に襲われたことに対してだ。

 

 彼等の前で、少年を庇い、逃亡……。

 自分は、もしかしなくとも最悪手を打ってしまったのではないか。こうして探偵社の少年と共にいるところをみて、まだ手を切っていないと思われでもしかねない――いや、そうとしか思えない状況を作ってしまったのではないか。

 

 手足が震える。ざっと顔から血の気が引き、屋上を吹きすさぶ強風に煽られるまま倒れそうになる。

 どうすれば、どうすれば……。自分に出来ること。国木田の言葉が、頭のなかを――

 

「敦おにいさん、だいじょうぶですか」

 

 柔らかそうな赤味のある髪が強風であおられている。それを両手で押さえようとしていたが、その努力はあまり実を結んではいない。一緒に倒れ込んでしまったものの、少年の方は体を起こしていた。その手にはまだ痛々しいビニール袋の跡がついていた。

 

 ゆっくりとゆったりとした口調は、聞きようによってはとても単調に聞こえる。そのため、感情の浮き沈みが少ないように感じられた。

 

 突然、抱え上げられて高層ビルの屋上にまで急上昇させられる人の反応は、いったいどんなものが普通なのだろうと、この状況を作った元凶である自分が思わず考えてしまうくらい、この少年は落ち着いていた。

 

 いや、そうじゃない、今は。

 

「怪我はない!?」

 

「………ないよ?」

 

 

 怪我をしているかどうかを聞いているだけなのに、返答に間があるのは何故だろう。怪我をしているのを隠そうとしているのではなかろうか。

 

「本当に?」

「ほんとうに」

 

 疑わしそうな目をしていたのは自覚している。けれども、少年はそれには気づいていないのか、周りをきょろきょろと見回して、ゆったりと「ここはどこですか」と尋ねてきた。

 

「どっかの、ビルの屋上かな」

「ふうん。あ、買い物袋みっけ」

 

 重みのある物が入っているせいか、風に飛ばされずにあったのを、少年が取りに行って中身を確認していた。そして、ちゃんとあったのか頷く。

 

「ねえ、おなかすきませんか」

 

 そういって少年は、ビニール袋のなかから猫缶を取り出していう。

 

 食い物なら何でもいい。そう思ったことがあるのは認める。

 残飯でも何でもいいと。

 

 しかしそれは、人の食べ物ではないのでは、と妙な抵抗を覚えたのが自分でも衝撃だった。

 

 何かを言う前に、少年は猫缶を開けていた。

 

「ほんとうはこのあとおゆうはんの買い物も手伝ってもらおうと思ってたんですけど」

「ちょ、ちょ、ちょ! 食べちゃうの? 本当に?」

「意外といけるかなって。敦おにいさんも、いる?」

 

 これはとんだ食いしん坊か、と以前の自分の行動を棚にあげて思ってしまう。

 

「ぼ、僕はいいかな」

「えー、いっしょに食べましょうよ。ひとりだと渡れない信号も、みんなで行けば渡れるよっていいますよ」

「それ赤信号のことかな!? 駄目だよ、渡っちゃ!」

 

 もしかしたら、この少年、そうとう変わり者なのかもしれない。マイペース、我が道を行く……あれ、何だか最近よく関わりあった人たちにけっこう共通しているような。

 

「ちなみに君も、異能力者なのかな?」

 

 猫缶のふたを開けようと、指を引っかけているのを眺めながら尋ねると、少年は事もなげに頷いた。

 

「うん……じゃなかった、はい」

「敬語じゃなくていいよ。そんなに年も違わないだろうし」

 

 敬語を使い慣れていない様子に、そう口にすると、細い首をひねって大きな瞳を細めた。

 

「年すごくちがう、とおもうけど」

 

 ひねっていた首を戻して、「じゃあ、そうする」とほほえんだ。その幼げな表情に、三、四歳くらい下かなと思った。

 

「おにいさん、これ開けてくれる?」

 

 猫缶を差し出されて、本当に食べる気だったのかと驚く。指を引っかけたまま静止していたので、このまま食べないつもりかと思っていたのだ。しかし、差し出された猫缶のタップ部分から真っ赤な痕が指についているのに気づいて、うわあ……と頬が引き攣る。

 

「ちょ、ちょっと待って。もう少ししたら、ここを降りて、何か食べに行こう……ちゃ、茶づけをご馳走するよ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

❂❂❂ ❂❂❂

 

 

 

『夏梅』とはマタタビの別名で、「なつうめ」と読む。そして猫はマタタビが好きである。

 

 

 

 補講が終わった日にたまたま見かけた三毛猫と顔見知りになった夏梅。どうしてか夏梅についてくるようになった。何か思い当たる節も何もない。

 

 ペットショップから出た夏梅は、猫缶がいくつか入ったビニール袋を手に提げて探偵社への道のりを行く。

 

 

 谷崎兄妹と新人の中島敦がポートマフィアという集団に襲われて大怪我をしてしまったので、急遽、学生の本分である勉学――テスト週間中の夏梅が代打で出勤することになりましたとさ。

 給料は増えるけれども、夏梅の目の前は真っ暗――いや、父のように未来を予知してむしろ赤点減点おめめはまっかっかである。

 

 猫缶を買ってから探偵社に向かう途中で、中島敦にばったりと顔を合わせた。

 入社試験日以来、話す機会がなかったなと夏梅はにこりと笑顔を作って、話しかけた。

 

「たすけてください」

 

 幸か不幸か、この中島敦少年には、こうした他に誰もいないといった助けを求める呼びかけが有効だとは知らない夏梅だったけれども、今にもどこかへ駆けだそうとしていた少年は、「た、助ける? な、何を?」と振り向いた。

 

「腕が……ええっと、びりびり? して、うごかない」

「え!? 怪我? さすがに僕はお医者さんじゃないから、与謝野さんとかに……」

 

 途端に、気弱な顔になっておろおろし出す少年。

 夏梅はああ、そうじゃなくてとちょっと目を伏せてから、少年の顔を見あげた。

 

「荷物、もつの手伝ってください? 敦おにいさん」

 

 夏梅は、ペットショップにある八種類の猫缶を一つずつぜんぶ買ったのだ。指にビニール袋が食い込み、白くなるくらい。めちゃくちゃ重いということはないだろうが、夏梅の筋力は脆弱なので、既に痙攣している。

 もっとも、夏梅は、八種類の猫缶が陳列した下の棚二列と、上の棚一列にも種類の違う猫缶が並んでいたのを見落としていた。合計すると、だいたい三十種類くらいあっただろう。それらをすべて買おうとしていたら、持てずに右往左往する羽目になっただろうから、良かったのかもしれない。

 

 こんな風に、らしくもなく張り切って猫缶なんてものを買ってしまった夏梅。動物に後ろをついて回られるほど懐かれるというのは生まれて初めての経験だった――という浮かれ要素があったというのも理由の一つだろう。

 

 まあ、そもそも三年しか生きていない夏梅にとっては何もかもがだいたい真新しくはじめてのことばかりだ。

 

 この三年の間、まま経験したことのある事柄も、あるのだけれど。

 

 

 

 

 拳銃を持つ男が不自然に宙に浮いてから地面に落ちる。

 妙な格好で止まった白い手には、ビニール袋の跡がついていた。

 

「だいじょうぶですか」

 

 

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