麦わら帽子を深くかぶった夏梅を見て、中島敦は、まだ桜について落ち込んでいるのかと思ったのか、代わりに供える花について夏梅に話しかけていた、
「菊とかどうかな」
黄色くて、花火みたいな大きな菊を見たことがある、と両手でその大きさを示す仕草をする。夏梅は思案気な顔をしていた。
大きな花頭を細い茎で支えきろうとぐらぐらする、大輪の菊を思い浮かべる。
まさしく夏梅の頭は今、桜と菊という天秤でぐらんぐらんと揺れていることだろう。
その様子を見たのだろう眼鏡を直しながら国木田が、そして口許の辺りで握っていた拳を解いた宮沢が、考えるような顔になる。墓参りの花で、菊というのは妥当だと思ったが、
「……ありきたりだな、無難すぎるぞ」
「じゃあ向日葵とかどうでしょう? 明るい気分になりますよ!」
「ひまわり……いいなあ」
「母御の墓前なら――
夏梅に向けた中島敦の言葉に、国木田と宮沢も乗って、そこは集まっているのが男児とは思えない、花の話題に和気あいあいと盛り上がっていた。田舎から来たという宮沢が草花の種類を多く知っているのはともかく、国木田も花の名をよく知っているのは、何というか意外だった。
「それもきいろいの?」
「いや、黄色は避けた方がいい。花言葉が『軽蔑』というからな。特に色に拘らないのなら、赤が適しているだろう。………白もまあ」といって、国木田は眼鏡を直し、言葉を切る。
夏梅は、中島の大輪の黄色い菊、宮沢が黄色い向日葵……と来て、国木田の挙げた
花に疎い織田作とその話題に加わらなかった太宰とは、その和やかな輪から外れていた。
すると、太宰が背中で両手を組み、何気ない調子で話しかけてきた。
「――それにしても、織田作は、横浜の前は奥さんの実家で過ごしていたのかい?」
「いや、実家というのは少し違う、か?」
「横浜ではなかったんだね」
「うん? そうだが……言ってなかったか?」
「まあね。それでどこにいたのさ」
じっと見てくる黒い双眸を不思議に思いながら答える。
大した情報でもない。福沢に聞いた方がよほど詳しいほどだろう。
記憶がないというのはつくづく面倒だ。
「瀬戸の海街だな。割と複雑な事情があって、とりあえず妻とはそこで暮らしていた」
「それは人に言える事情かい?」
自分でも大雑把と感じた部分に、太宰がおかしそうに訊いてきた。
弓形になった眼は、織田作にはどこか冷静な光が宿っているように見えた気がしたが。
人に言える事情、か。
「そうだな。人には言えぬ事情というわけではない。ただ人に吹聴するような内容でも、ない」
「ふうん……それはまたお家の都合ってやつかな」
太宰がこうまで掘り下げて尋ねて来たのは意外だったが、肩をすくめてそれを流した。
そして、懐から懐中時計を取り出す。開けば、その時計の針は止まっていて、そして黒い髪が一房、蓋の内側に留めてあった。今は亡き人の遺髪だ。
それを指で撫でてから再び閉じて懐にしまう。
「はじめは横浜にいた、と思う。その後、瀬戸に……」
途端に、記憶の穴を自覚してしまい、眉間にしわを寄せて首を振る。誤魔化すように、口許に微苦笑を浮かべる、「すまない、このことは話したことはなかったな」
気遣わしげな視線が注がれていることに気づく。何か言いたげに口が開閉していた。
どうした、とその顔を覗き込もうとすると、避けられた、「太宰?」
「……いいよ、織田作。話せるときに話してくれたら、それで」
口早にそう言われ、それ以上は追及するのをやめた、「そうか」
首を傾げざるを得なかったが、自分のなかに何かを押しとどめた様子の太宰に、それを無理に聞き出す理由も見当たらない気がした。まあ――答えるべきことに、答えるべきか、と慎重に洞のように穴の空いた部分を避けながら口を開く。
「俺には、失っている記憶がある、というのはお前も気づいていると思うが……」
それは――何故だ? 思考が進む。急にいろいろなことが関連づいて、何か複数の……いや一つかもしれない、とある答えに行きつきそうになったとき、ちょうどそこにまた記憶の穴があった。ああ、辿り着けないのだ、肝心なところには。
身を乗り出してのぞけば、今以上に何かを持って行かれそうになる――そんな予感があった。それは不安になるような悪い予感ではない。ただ、そうしたならば何かを失うだろうという親切な忠告のようなものだ。
まるで何もわからない子どもが崖の下をのぞき込もうとする、その腕を、背後から引きめるようなもの。親切にも引き止めるその主の顔は背後なので見えない。
織田作のなかの何かがそうしているのだとしても、そう警告してくるものがどこから来ているのかその正体も分からない。ただ、害をなそうとしているのではないというのが分かるだけ。
空気を揺らす窃笑が聞こえた。
目の前で太宰がくすくすと笑い、顎を上げた。
「私が、気づいているって?」
「ああ。お前ならそうだろう」
お前は聡明だからな、と太宰とは反対に目を伏せると、自然と自分の唇に苦笑がのぼった。年下のこの友人は、頭の回転が速い。そう……識っている。
記憶の何もないところから目を反らすように一度強く瞼を閉じた。それから、ゆっくりと目を開け、太宰の顔を見ると、感情の読めない黒々とした双眸がこちらを向いていた。
「すまないな、俺の勝手な想像だ。ただ――
といっても、俺が言っても説得力ないかもしれないが、と激昂したその時のことを思い出しながら、同じように目の前にいる太宰を見た。
こちらを見つめる、黒々とした双眸は、夏梅のものと似ていた。『約束だよ』と言って大人びた微笑を浮かべた夏梅の姿が重なる。
「夏梅から聞いた。あの日のことは……胸倉を掴んで悪かったな」
「――いつの話をしているのさ。忘れたよ、それにあの後ちゃんと奢ってくれたじゃないか」
「約束だったからな」
「『かわりばんこ』だったっけ?」
「ああ。知らない内に、大きくなるものなんだな」
太宰はふふっと笑っていう。
すっかり父親だな、と。
「でも、子どもはまだ三歳だよ」
「違いない」
一通り、脇に逸れた話を終えると、太宰が笑みをおさめて、答えた。先ほどの返答だ。
「――そうだね。判るよ」
ああ、そうだな、そうか、やっぱり。そんな納得の感情が胸中に広がる。多少ならずとも鎌をかけた部分があったのだが、そうか、やはり――解るのか。
そんなところまで、理解してしまうこともないだろうに。解ってしまうのか。
もはやため息どころでは追いつかない気がした。
「……事情があって、全てを打ち明けることはできない。情けないことだが、この件に関して俺自身、分からないことが多すぎる」
その言葉にも太宰は動じた様子はなかった。どこをどこまで解っているのだろう。
友人の頭のなかを推し量っていると、脇に、花談義を終えた夏梅がとことこと戻ってくる。故人にくべる花についての話はひと段落ついたらしい。いつものように、腕の袖を掴んでくると、その半身を隠す。……人に囲まれて育った割には、大きな物音や声にもびくつくし、人見知りの傾向がある夏梅を小脇に抱えながら、未だに自然な表情に見える年下の友人の顔を探るようにみた。
(何か、なんでもいい。何か尋ねでもしてきたなら、その内容から太宰が何を考えているのかを知る手掛かりになるんだが……)
太宰はいつもと何ら変わりなく飄々とした笑みを浮かべて、砂色のコートに手を突っ込んでいた。こちらの視線に気づいて笑みさえ深める始末。
頭が良すぎるのも考えものだな、と嘆息する。その太宰の視線が、少し下がったような気がして、それを追っていくと、腕に掴まって半身を隠す夏梅に辿り着いた。
太宰とは反対に何も考えていない我が子を見下ろす。何を考えているのか、口にする話題ですぐに分かる。
夏梅のようにとまでは言わないが、太宰も話してくれればいいものを。
このふたりを足して半分に割ったら………いや、やめよう。とんでもない人間ができあがりそうだ。と、そこではたと気づく。
夏梅は、自分と“彼女”との子だ。つまり、自分と“彼女”を足して半分に割ったのが、夏梅ということになるのだろうか。それを知る術は既に半分失われている。自分は自分のことすら解らない。そして、彼女についての記憶もまた多くはない。――自分のなかに、答えを求めてはならない。そこに何もないことが分かっているのなら、そこへ行ってはならない。自分のことは知って生けるだろう。しかし、彼女のことは、もう知ることすら叶わない。この破れかぶれの記憶を携え、今を生きてゆくのだ。
「……俺の記憶は穴だらけだ。俺は、俺がどういう人間なのかもはっきりとは分からない」
太宰は静かに耳を傾けていた。
なんとか、言葉にしようと思った。ゆっくりと慎重に、残っている部分の記憶を遡って口にしていく。
「最も深いところから目覚めた。そのはじまりは、知らない天井だった。そこは諭吉叔父……社長の屋敷だった」
「奥さんは社長の姪っ子さんだっけね。彼女もそこに?」
「さあ……どうだろうな。おそらく、妻もそこにいたのだと思うが」
ちょうど、記憶が欠けているところ。そこの情報を得ることはできそうにない。
人からの伝聞で知るしかないけれども、唯一知っていそうな福沢は口を閉ざしている。
自分のなかで推測しようとしても、残っている記憶といえばひたすら暗殺していた少年期くらいのことで、それだって年を重ねるごとに自然な忘却によって霞んでくる。どうあっても、日の下でまっとうに生きていたとは思えない。そんな自分はこうして拾い上げられた。
「織田作は、社長に救われたのかい?」
救われた、という太宰の言葉に、おぼろげな記憶を思い返しながら、苦い笑みを薄く刷いた。
「社長は俺とは何のかかわりもない人だった。身元の不祥な俺を置いてくれた、そういった意味で、社長に救われたというのは間違いない」
記憶が欠けている。それは、自分という存在を根底から揺るがす。
女々しいとは思うが、あの当時は常に落ち着かず精神が不安定だった。
何もない穴に何かがあると喚いて縋ってそれしかないと、記憶の洞穴を直視し続けた。それは狂人のようだっただろう。
「俺が今生きているのは、彼女のおかげだ。……それだけは解る」
彼女なしには、俺は生きていることはないだろう、と。
軽く聞こえるように口にしたけれども、内容が内容だけに、この頭のいい太宰にどのように聞こえたかは分からない。
「――ふうん。……興味深いね。瀬戸か」
興味を引かれ着いて来たそうにしているように見えた太宰を軽い調子で誘ってみた。予約した寝台列車にはあと三つ四つほど空きがあると聞いた。当日飛び入りでも良いようだったし、今日でなくともあの静かな瀬戸の海に行く機会はいつでもあるだろう。
太宰はすこし押し黙ったあとに首を振って断った、「いや、遠慮しとくよ」
なんだどうした、と首をかしげると、太宰はその場にいた夏梅に目を向けて、僅かに残っていた眉間のしわを解いて小さく笑み、
「行っておいでよ――親子水入らずでさ」
そう言って、包帯を巻いた腕をあげて控えめに手をあげる。
それは距離を置こうとしているように思えて、ぐっと眉を寄せる。
傍らの夏梅もまたそれが少し気がかりなようだったが、いつものように腕の袖を掴んでくると、背中に顔を隠してしまった。こうなると織田作には子の顔を見ることができないので、どう接したものかと困惑する。自分の子でなければ、もっと複雑に考えずに接することができたのかもしれない、となんとなく思う。
「時間じゃないのかい?」
太宰の声に、操られるように時計を見て慌てる。夏梅の名を呼んで、荷物を背負わせ、見知った面々と新しい顔に辞して(夏梅は手を振って)探偵社を出る。
麦わら帽子を両手で持った夏梅は、屋根のある電車のホームに一足先に降りるとくるりと振り返る。白い頬に、しっとりとした黒髪が筋をひく。その瞬間が、何かの記憶の箱に触れた気がした。それは決して戻らないと確信できているところだった。
瞬きをするのも忘れていると、目の前の我が子が見上げてくる。
「よるにねれる電車はじめてだね、おとうさん」
大切そうに両手で麦わら帽子を胸の前で持ちながら、夏梅は黒々とした瞳を細めている。
よく知っているな、と実質は三歳にしかならない子どもの頭をくしゃりと撫でて、苦笑をみられないようにする。
戻らないものに執着していると、目の前のものを取りこぼしてしまう。指にかかる、柔らかな髪を梳くようにして手を引き抜く。くしゃくしゃで、目にかかりそうになってしまった。夏梅は眉間にしわを寄せ、分かりやすいしかめ面になった。
「寝ながら星も見えるらしい。夜遅くまで起きていられたら、一緒に見られるな」
そう言うと、夏梅は顔を横に傾けて前髪を避けていた目を大きく見開いて、ぜったいおこしてよ、と真顔で言った。自分で起きていられる自信はないらしい。
自己分析は出来ているようだ、とくしゃくしゃになってしまった髪を一房ひとふさずつ直しながら、そうだなと頷いた。
目も開かないうちの記憶も(どの程度かは分からないものの)あるというのだから、下手をしたら所々記憶を失っている自分よりもずっと記憶に残っている情報が多いのかもしれない。それは、親として情けないような、哀しいことのような、気がした。
けれども、そんな感傷を抱いていることなど、子に知られてはならないだろう。
手に持っていた旅行鞄を地面に降ろして夏梅に向き直る。
あと三分ほどでくるはずの目的の電車は、夏梅の言う通り、夜間は寝台で横になることのできる列車だ。
寝台列車での移動を決めたのは、最近、我が子が電車から見える景色に興味を持っていることを知ったからだ。何に関心があるのかというのは、この夏梅に関しては解りやすい。食事のときに話題に上るのが、そのときの夏梅の密かな流行りであるようだ。
一泊二日かけて横浜から瀬戸までの道のりを行く。
なかなか決まった休みが取れないばかりだったので、こうして思い出作りが出来ればと思っていた。
しかし、異能力者の周囲は平穏ではいられないのだということを、すっかり平和ボケして忘れていたと、この後思い知るのだった。
その日は、そう。一点の曇りもない
はじめは赤と黒の絵ばかり描いていた我が子が、海に連れ出したあとは水色の画用紙に白いクレヨンで一つ横に線を引いて見せてきた。
空と海――同じ景色を見ていたのでそれがすぐに分かった。
あまりに簡素な絵に、幼いながらこの子の性が相当面倒くさがりなのではと思った瞬間だ。
そのとき、同時に安堵した。その白い線一本しかひかれていない水色の画用紙の性根さえ見透かせる無精さに。
今、我が子を抱え、不安だったあの頃のことを思い出す。
妻によく似た目鼻立ちの幼子が、無表情のまま白い画用紙を黒く塗りつぶし、赤いクレヨンをまるで花びらでも描くように叩きつけて、一枚の絵としていた。それは幼いながらあまりに凄惨な物を見てきた、経験してきたことによる心象だっただろう。
我が子が口を開いて再び言葉を紡ぐようになるまで、この子のなかに拭いきれない闇が巣食っているのではないかという不安は消えなかった。
――いや、今でも疑っている。
この涼しげな表情の下で、いったいどんな心を抱えているのだろう、と。
この年に似合わぬ、在ってはならない憂いはないかと。
今、敷かれた線路の上を走る列車のなかを、我が子を抱えて駆けながら、異能力者であることの宿命とその行く末について、考えずにはいられなかった。
ここの国木田は花言葉に精通するロマンチストです……