夏の梅の子ども*   作:マイロ

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---追記(2017.6.25)

 中途半端だったので、こちらに最後付け足しました。




久しぶりだな。

 喉で息がつまった。いや、大丈夫だ。自分だってさっきは見えなかったではないか。少しすれば視力も戻るはずだ。その、はずだ。

 

「……そう、か。声は、聞こえるか?」

「………」

 

 夏梅は黙ったまま、見えない目で周りを伺おうと首を回していた。織田作もその視線を追って、室内を見回した。壁の両端に置かれた二つの寝台。壁に取り付けられた受像機(テレビ)が真っ暗な画面のまま一つ。そして車窓から見える、流れゆく風景。シャワー室と洗面台。鏡の下に突き出た白い棚があり、コップが二つあった。ひとつは使われたもののようで、逆さまにされている。そして上半身まではゆうに映せるだろう鏡を通り過ぎて、取り付け棚に仕舞われているタオルと、出入り口の引き戸になっている扉があった。視線は上がって、天井に提げられている、和紙を思わせる装飾に囲われた間接照明、とその周辺を彩る壁紙の唐草。その紺藍の模様が、夏梅が先ほど立っていた天井のところだけ黒々と煤に汚れていた。先ほどまで水を散布していた散水機は、仕事を終えたらしい。そして視線は下ろされ、夏梅の手元に戻る。右手は織田作の手によって覆われて隠されていた。

 こうして織田作には一つ一つ視認できたものを、夏梅は何も見つけられなかったのか、握っている欠けた方の手を動かして掴んできた。冷たい指三本の感触しかなく、思わず肌にぞわぞわと寒気が走った。

 

「おとう、さん?」

 

 覚束ない声だった。迷子になった幼子のような――いやそれはまさしく織田作自身の心境を反映したかのような、不安を伝えてくるものだった。

 思わず手に力を入れてしまいそうになった。すんでのところでそれを押さえると、一つ大きく深呼吸をした。不安と焦燥が伝染しないように、心を落ち着けて。

 今度は夏梅の右手に触れないよう、両腕で夏梅の躰を抱えてそっと寝台の上に横たわらせる。

 夏梅は、本当に大人しいものだった。神経が一時的に麻痺して、痛みを感じないのだろうか。それは異常な状態ではあるが、痛覚が正常に戻れば、それはそれで辛い時間となる。

 

「大丈夫だ、夏梅。俺が何とかする」

 

 足元に置いていた荷物を跨いで、壁際に備え付けの洗面台に行く。逆さまになっている方のコップは、そういえば転寝する前に、自分が使ったものだった。記憶にある限り、寝台の脇のチェストの上に置いていたはずだが。……夏梅が洗って片付けたのだろうか。僅かな引っ掛かりを覚えたが、今はそんなことよりも手当てが先だった。

 

 水を、使われていない方のコップに注いで、それを寝台の上に横になる夏梅の元へと戻る。首に手を遣り後頭部を支えると、なんとか夏梅に水を口にさせることができた。そして掛けてあったタオルを蛇口を捻って足した流水に浸す。火傷を負った右手全体を包むように巻きつけた。体温ですぐにぬるくなってしまうだろうが。

 目もやけどをおったらしいので、壁に嵌っている小さな冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターを取り出して、夏梅の背嚢(リュック)のなかから取り出した手巾(ハンカチ)を濡らした。冷たく濡れた手巾を乗せてやろうとしたのだが、夏梅の大きな瞳が未だ開きっぱなしであるのをみて、そっと目を閉じさせてからその瞼のうえに乗せてやった。

 

 夏梅は、生きている。ほっと安堵する気持ちも何処かにはあって、懺悔するように両手で顔を覆った。この手が、夏梅には届かなかったということを意識すると、殊さら右手が疎ましく思え、顔から右手を降ろすと膝のうえできつく握り込んだ。

 許されることではない。夏梅は、死ぬところだった。

 

 濡れたタオルを巻き付けた指の欠けた手は、表面がしっかりと焼け焦げていた。ここには与謝野はいない。夏梅は、指が欠損したままになってしまう。

 異能力者である夏梅には、他に手段はあるけれども。

 

「………――いいや、医者だ。医者を呼んでくる。夏梅はここで、じっとしていろ」

 

 聞こえていないとは知りつつも、声をかけずにはいられなかった。

 

 ひとまずの命の危機がさっとことを確認すると、なぜという疑問が次々と湧いてきた。この状況、この時、この場所……。誰が犯人で、どのような意図があってこれを? 爆弾という手段が用いられているのならば、この状況を犯人は確認できる場所にいるだろう。走る列車のなかで、まさか外部者が犯人というわけでもないだろう。この列車内に、犯人はいる。

 

 この時点で、既に誤っていたのだ。それは間もなく気づくことになることだが。

 

「医者を呼ぶのが先か、首謀者を捕まえるのが先か」

 

 どちらがより安全に、迅速に事を運ぶことができるのか。

 夏梅が左手をさまよわせる。それを握って、脈をはかる。それは至って規則的で、動揺の欠片も見受けられない。

 信頼されている、と感じた。買いかぶり過ぎだろうか。そうかもしれない。

 

 単独犯ならいいが、複数人では困る。もし複数犯であれば、この狭い列車内で、一所に固まっているわけではないだろう。何らかの連絡手段を持って、逐一確認をとっているはず。であれば、此処を離れている間に、他の犯人が凶行に出ないとも限らない。傷つける相手には困らないだけの乗客がいるからだ。

 

 単独で、敵地に殴り込むのとはわけが違う。

 

「……久しぶりだな、一人でやるのは」

 

 探偵社では何時もタッグを組んで、依頼に当たっていた。

 現在は、夏梅もいるとはいえ、離脱せざるを得ない状況。そうでなくとも、自分が夏梅に危険にさらす選択を許容できるかと云われれば、自信は……ない。

 深々とため息を吐く。

 

 ままならないものだ。躰が二つに割けて、夏梅の傍に残る自分と、離れる自分とに分けることができたら善いのだが。

 

「…………」

 

 それはそれで、どちらが夏梅のところに残るか、揉めに揉めそうだ。自分という存在がひとりで良かった。まったく、それは本当だ。

 

(それに、そのような都合の異能力は持っていない)

 

 出来ることは限られている。しかし、この状況を打破するには、おそらく万の手がある。どれが最善なのか。こうして考えている時間は有限であり、これ以上消費するのは憚られる。

 今、やれることをやらなくてどうするというのか。考えてばかりでは、時間の浪費だ。襲撃される側というのは既に後手に回っているのだから、迅速に対応をしなくてはならない。

 

 と、そこで不自然な点に気づいた。爆散した音は、小さくはなかった。それにしては周囲が静か過ぎはしないか。室内の散水機は正常に機能した。こうした非常事態で、警報なり列車の人員なり、こちらへ向かってきてもおかしくはないだろうに。

 

「どうなっているのか、か……」

 

 ここを離れなくてはやはり、知り得ない情報だ。

 夏梅の無事な方の手をようやっと放し、寝台に横たわる夏梅の躰の上に戻した。

 

「いい子だ。……少しだけ待っていてくれ、夏梅」

 

 そして足元の転がっている荷物から、手になじんだ銃を組み立てて装備する。弾の替えも見直して、もう一度だけ目許に乗せた手巾をとり冷水で濡らして替えておいた。

 

 大人しくされるままになっている夏梅は、周囲の状況を耳や肌で感じるしかない。我が子の心の内を思いやっていると、唐突に、思い出した。それは少年期で、ちょっとした仕事のミスで視覚を閉ざされた時のことだ。織田作は椅子に括りつけられ、頭には袋を被せられていた。そして、その時――

 

 車内を揺らすような大きな音が聞こえた。同時に悲鳴が上がるのが聞こえた。隣の車両からだった。夏梅と同じ、あの黄色い物体が思い出された。

 

 浮かびかけていた古い感傷を引きずるような記憶を振り払い、今の自分の立場を確認する。

 

「少し、見てくる。すぐに戻る」

 

 声をかけるのは、自己満足だ。

 

 警戒を解かず、武器を構えて個室を出た。後ろ手で個室の扉を静かに閉め、耳を澄ませる。すすり泣くような声や悲鳴が聞こえるものの、他は至って静か、、だった。奇妙な違和感を覚える。

 痛みに呻くような声を聴き、咄嗟にそちらへ向かおうとして、足元が揺れる。今度は反対側の車両からも同じように音と悲鳴が上がった。思わずその場でたたらを踏んだ。

 

 時間差で、次々とあの黄色い物体が爆裂しているのだ、と気付く。

 

 迂闊に目が見えない夏梅をおいて離れるというのは危険だと判断した。

 そしてこれは列車全体が対象になっており、異能力者を狙っての襲撃ではないとも。

 一般人は次々に被害の対象になってしまう。

 けれども、対処のしようはあるはずだ。

 

 どうする、と考えた時――壁が織田作の躰に向かって突進して来た。壁にぶつかる前に何とか体勢を変えて、衝撃を最小限にする。すぐ脇の小窓からみえる景色は、一方向に流れる色でしかなくなっていた。寝台列車は、急加速を始めた。

 列車内のあちこちから物が落ち、人がぶつかる悲鳴が聞こえた。夏梅の悲鳴は聞こえない。

 それがよけいに悪い想像を掻きたてた。

 

 織田作は、勢いをつけて部屋に戻ろうとした。

 

 

 その足を一歩、後退させた。そして振り返る。

 足元に黄色い物体が転がり、それが爆発した。反身を晒して、直撃を避ける。爆風自体は大したことはない。それでも肺が圧迫され、咳き込んだ。

 

 投げられた方を向くと、そこには緑のマフラーをし、色眼鏡をかけた男が――顔面をボロボロにして佇んでいた。青あざを作り、瞼は大きく腫れ、鼻や口からは血を流している。顔面破壊と言っても言い過ぎではないほど損傷を受けてはいたが、その顔に見覚えがあった。福沢から渡されていた要注意の異能力者のリストの中にあった。名前は、梶井基次郎。世間によく知られているといった点で、特異なポートマフィアとして知られている。

 

(たしか、異能力は……)

 

 考えていると、梶井はぐらりと前に倒れた。それは考えてみれば、不思議ではないほどの傷を受けているようだったので、驚くことでもなかったかもしれない。けれども、ボマーとして知名度があった梶井であったため、この一件の主犯であると疑いもしなかった。

 

 だから、半死半生の状態となっている梶井の躰が夏梅のように傾いだとき、思わず反応が遅れた。

 その反応の遅れを見過ごすほど、今回の件に関わる人物は易しくはなかった。

 

 

 梶井の傾いだ躰の後ろに、少女がいた。

 

 ゆっくりと上向く顔。口角が上がり、にっとわらう。

 黒黒とした、虚のような二つの双眸が、弓形になって織田作を見返してくる。

 

 もやがかかったように、意識が朦朧としてくる。銃を持ったままの手を壁につきながら、ずるずると腰を滑らす。頭のなかが、五月蝿かった。ただただ、うるさかった。

 

 

 けたたましく警鐘が鳴る。体に染みついた本能というべきものだ。憶えていないものも含めた経験から来る“勘”――それに今まで自分は何度も救われてきた。

 

 しかし、それを抑えるように何かが全身を覆った。同じく織田作の中から生じて来たものだ。

 

 耳鳴りが遠のいた。屈んでいた体勢から立ち上がる。通り過ぎた違和感は、跡形もなくなった。

 

 目の前のものがよく見えた。

 

 ポートマフィアの梶井基次郎。

 その後ろに立つ少女。

 

 そう、梶井の傾いだ体の後ろに、“少女”がいた。

 乗客と思しき少女は、牛乳瓶の底を思わせる分厚い眼鏡をかけていた。セーラー服姿のその少女は、眼鏡の奥で織田作を捉えると、その神経質そうな眉が下がり、まるで友人に向けるように、親しげな笑みを浮かべた。学校に通ったことはないが、こういった少女は必ず教室にひとりはいるものだと、彼女から聞いた。特徴も印象もそのままだ。

 

 殺気も、悪意も、感じない。少女自身に特別秀でた身体能力があるとも感じられない。それはごく普通の少女だった――いや、そんなことがあり得るのか。この状況で。

 

 思考を遮るように、今度はこの車両のどこかで爆発音が響く。

 

「――此処は危険だ。その男から離れ、」

 

 梶井から離れるよう少女に告げようと近づきかけて、その分厚い眼鏡に映る何者かに気がついた。光を反射しているその眼鏡は、灰白色のコートを着込み、首には濃色の襟巻をし、帽子を目深に被っている人物を映していた。“そこ”に、いた。

 ぎょっとして振り返る。生身の、その人物は車両の奥にいた。

 すぐに銃を取り出せるように手元だけで確認する。距離があり、仕留めるには早打ちの技術が問われるだろう。

 不審人物は、ゆっくりと手袋に覆われた指が何かを意図して指さして来る。その指は、着ぶくれている体と同じように、何枚も重ねられているのか奇妙に分厚い。不気味さが際立つ。

 

 その指は、織田作の心臓の位置を教えて来るかのようにまっすぐでぶれない。――勘だ。この人物は医学の知識あるいは生物学的知識を持っている、と直感した。それほど意図された動作だった。

 

 動機が激しい。

 ひたすら、嫌な予感がした。

 

 奇妙な、この上なく不気味なこの不明な人物の挙動から、織田作は目を外すことはできなかった。

 その人物が顎を上げる気配を見せた。

 容貌を見極めようと目を眇めた織田作はその露わになった顔に自分の失態を悟る。

 

 

 

 ――その顔は、黒いガスマスクに覆われていた。

 

 織田作は見えないはずのその顔がにこりと、優雅にわらったように錯覚した。

 いつの間にか絨毯ばかりが映る視界に朦朧として目だけを動かす。自分と同じように、床に転がる、梶井の、糸の切れた傀儡人形のような姿に、疑問と、疑問と、疑問とが次々に湧きあがって、それは意味を失くすように瞼の暗闇に消えていく――

 

『放さないで』

 

 霞んでいる、とも呼べない。何も見えない。瞼すら開いていないのかもしれない。しかし手はわずかに動いた。記憶と勘だ。そのふたつを頼りに、銃を打った。

 

 

 

 ――最も近い窓に。

 

 

 手応えはあった。硝子が割れる音を聞いた。そして、引き戸が開く音も聞いた。

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