夏梅が一旦、部屋へ荷物を取りに戻るのに付き添う。
しばらくどちらの捜索を進めるかを考え込んでいると、荷物を足元に置いて静かにしていた夏梅が客室の壁に凭れながら口を開いた。
「ほんとにおんなのこがいたの? ガスマスクの人も?」
絨毯を眺めながら、淡々と問うのに、一旦思考を中断して顔をあげた。
「――ああ。ガスマスクの不審者は隣の車両にいた。だから、見えなかったのだろう」
絨毯を眺めながら、細かく動いていた視線が顔をあげる。
隣、と。夏梅が近い方の車両を指さした。
「ガスマスクの人は、こっち?」
「いや、あちらだ」
先頭車両の方だ。指さす夏梅とは、真逆の方向を目線で示す。客室の区画を越え、ラウンジにつながる直線の通路をくぐると次の車両が見える。ラウンジの奥には後方車両の出入り口が見える。硝子張りで、その向こうにガスマスクの人物はいた。
「じゃあ、おんなのこもそっち?」
「……いや、おそらくこちらだ」
夏梅が見ていないというのなら、近い車両か部屋へ隠れたのだろう。
先頭車両の方へ指差す。少女が立っていたのはあの辺りだろうか。
「どっちにいくの?」
背後から攻撃されたのではひとたまりもない。相手からの殺意は皆無とは云い切れないとはいえ、凡そ低いと云えるだろう。夏梅がいるからと後回しにしていい案件でもない。おそらくこの一連の出来事に、何らかの形で関わっている。
「先に、不審人物がいた車両を確認する。行けるか」
「うん。……はい、これ」
ビスケットでも差し出すかのように、足元に置いていた荷物の中から軽く交換弾倉を渡され、そういえば発砲した分の弾の替えがまだだったことに気づく。
「ああ、ありがとう」
布に巻かれた、数本欠けている方の手で危うげに持ち上げられている弾倉を受け取る。怪我をしているというのに、未だに右手を使い続けるのは、利き手だからだろう。痛くはない、と云うのだから。
「その荷物は持って行く
「うん」
その背嚢には夏梅の補助食や着替えの衣服しか入れていなかったと思うのだが、弾倉の替えが出てきたことを考えると、中身を入れ替えたのだろう。
背嚢を右肩にかけて負い、云われるまま大人しくついてくる夏梅を確認すると、辺りを警戒しながら進む。
「だあれもいないね。梶井のお兄さんが『かしきりじょうたい』っていってたけど、しずかなのがそう?」
梶井と何の話をしたのか。
「貸し切り状態というのは、皆が利用している店や施設を、個人が許可を得て、その場の使用を独占することだ」
「どくせん」
「……そうだな、独り占めすることだ」
「ひとりじめ……」
夏梅は真顔をあげ、弁明するように口を開いた。
「ちゃんとぶらんこはかわりばんこしてるよ」
「そうか。偉いな」
夏梅はそれっきり黙って静かについてきた。
通路は一本の直線で、左側が窓であるので、右側さえ警戒していればいい。突然敵が飛び出してきても良いように、拳銃を構えながら慎重に歩を進めた。想定は敵のみで良いと考えていた。善良な乗客たちは皆、催眠ガスで眠ってしまっているはずだからだ。
何者にも出会わず、引き金を引くこともなく、無事に広いラウンジに着く。車両の壁の両
拳銃を片手に一挺構えて、辺りのほんの少しの気配にも神経を張りつめさせつつ、夏梅を背後に庇う。ラウンジの壁際に軽い足取りで近づく夏梅にゆっくりと後退しながら近づいて、抑えた声で問いかける。
「どうした」
「これ、何かかいてあるよ」
横目で肩口を見遣ると、そこには列車の見取り図があった。現在地であるラウンジには赤い星がある。そこにおかしなところはない。
ぱたり、と何かが落ちる音がして、すぐに目の前に目を戻して銃口を向ける。
そこには何もなかった。いや、違和感を感じて視線を滑らす。
何か、何か。
すると視界の端に何か線が降ってきた。
すぐ目の前だ。
ぱたり、とまた。
その線は、分厚い絨毯に落ちて染み込まれていった。
絨毯の色は、僅かに濃くなって円形状に染みが広がっていた。天井を見あげると――そこには血と細かな肉片がぶちまけられ、悪趣味な模様がつくられていた。その模様は、星のような形状に見えないこともない。なんてことのない日常と非日常的な光景の中に符合するものを見つけて、勝手に鳥肌が立つ。
天井に張り付いていた肉片の一部が、剥がれてぺたっと絨毯に落ちた。
呆然とした。殺意が低い?
違う。これは、残虐で猟奇的な人物の仕業だ。
夏梅、と呼びかけようとした。
「おとうさん」
壁に張り付いていた夏梅が振り返る、「これ、なんだろう」
夏梅が指さす案内図には、黒いペンで棒人間が、客室らしき小部屋とラウンジの奥の談話室らしき大部屋に書き込まれていた。
「たくさん、人みたい。あと、ここから……」
織田作の目は、ついと夏梅が指さす場所に吸い寄せられる。
ここ、と示す夏梅の布に巻かれた数本の指は、自分たちに宛がわれた客室で、そこは何も描かれていない。しかし、部屋を出た廊下からこのラウンジまで、破線で経路が描き込まれていた。
そこをついとなぞって行き、そしてラウンジの先の出入り口のところで×印が書き込まれているところで夏梅の指は静止した。
布に包まれた夏梅の指がその印に触れるか触れないか、というところで手を肉の薄い胸に戻した。
「ここにくること、だれか知ってたのかな」
呟くような夏梅の声が厭に耳に響いた。
「あっちの電車に、なにかあるのかな」
棒人間が大量に描かれている一角を見透かすように、夏梅がラウンジの奥を見た。
隔てられた壁の先に、別の車両がある。そこにガスマスクの人物はいた。
「……夏梅、お前はここで待っていろ」
猟奇的な天井の惨状やらを目にした後で、この先に愉快な光景が広がっていると望みを持つほど楽観的ではない。
夏梅の肩を左手で抱えて、右手で拳銃を構えつつ、ラウンジの通路のところに促す。
ここからでは天井の凄惨な光景が目に入ってしまうのだが、一緒にこの先を行くのも、このまま一人で戻すのも心もとない。
少なくともここには人の気配はないのだ。人がいないということは、危害を加えられることもない。無人であるというのが、夏梅をここに置いておく選択に有利に傾いた。
宿泊部屋につながる通路の前に夏梅を待たせて、何かあればすぐに部屋へ逃げ込むように云いつけると、傍を離れて拳銃一挺を両手で持ち、体の横へ下ろす。小走りで、ラウンジの奥へと向かう。
ラウンジの奥は、ガスが充満している可能性が高い。
まず、ラウンジの出入り口を開き、隣の車両へとつながる扉のガラスを割ろうと拳銃を構えたところで、ふと引っ掛かる。
――催眠性のガスを仕掛けてきた人物が、致死性のガスまで持っているだろうか。
この車両で使われているガスの種類。
これはこの一連の出来事を把握するための鍵である気がした。
隔てられた先、ガスが充満する車両で、何が行われているのか?
すべての窓に遮光シートが下ろされているのか、ガスが充満しているからなのか、奥の車両は薄暗く、様子を窺うことすらできそうもない。
これをしたガスマスクの人物の意図は一体何なのか。
夥しい数の描かれた黒い棒人間が、思い浮かぶ。あれが、本当の人間を表しているのなら……。
判断に躊躇していると、不意を突かれるように呼び声がした。
おとうさん、と夏梅の声だ。振り返った。当たり前の光景があると思っていた。それは裏切られた。
どさりと荷物が絨毯に落ちる音がした。
赤い花びらが宙を舞う。それは織田作の頬に触れると、微かな音を立てて形を失くした。人肌の生暖かいものが頬を伝う。
目の前で夏梅が顔を俯けさせ、血痕を辺りに散らしながら横薙ぎに倒れていく。
咄嗟に壁と夏梅との間に体を滑り込ませて、受け止めた。
「なつめ!」
腕の中の我が子を見ると、左のこめかみの辺りがぱっくりと柘榴を割ったように皮膚が裂けていた。次から次へと血が零れ、あっという間に夏梅の
傷口を抑えつつ、夏梅をこのようにした相手を見極めようと視線を走らせたが、そこには誰もいなかった。気配さえない。しかし、不可視の攻撃を受ける自らの姿を“見た”織田作は、その場から夏梅を抱えて一歩退いた。そのまま歩みを留めず、後方へ駆けだした。はじめ避けた一撃から、間をおかず次々に攻撃が迫ってくる。
異能力者に違いない。その人物は見えないだけでこの場にいるのか、それともここにはおらず、遠距離での攻撃手段を持っているのか。
腕に抱えた夏梅のこめかみを抑えて、ちらりと車両の中に設置されている監視カメラの配置をざっと視認すると、一瞬だけ夏梅の体を浮かせて左腕だけで抱えると、右手でハーネスから抜き取った銃で、前方の二つのカメラ、そして振り返って後方にあったカメラ一つのすべてを打ちぬいた。
それは一瞬のことだった。命中した弾によってカメラのレンズが壊れる音がそれぞれほぼ同時に聞こえた。そこで、織田作は拳銃を握ったまま、表情を険しくした。
無防備に浮き上がった夏梅の頭を、銃を持ったままの右手で押さえると、そのまま体勢を低くした。カウンターのテーブルよりも低い姿勢になると、その頭上を何か鞭のようなものが通り過ぎてカウンターの上を荒らしていった。
カメラから覗いて、遠距離から攻撃して来ているわけではないようだ。
見えないだけなのか。それにしては気配を全く感じない。……殺気すら。
退路を探そうとしていると――ガタン、と車両が揺れる。
猛スピードのままカーブに差し掛かったらしい。
横薙ぎの倒れていったカウンターの上のものに倣うように、椅子やらコップなどが滑って行く。本来きちんと机上に備えられているようなものがあてどなく、上下も気にせず奔放に織田作も遠心力によって、空中を横切って行く。
身体が倒れ込みそうになるのを耐えようと低くした体勢で脚に力を入れる――と、ずるりと片脚が滑ってしまった。それが幸いしたか、紙一重で織田作の頭上を何も入っていないグラスが通り過ぎ、カウンターの脚にぶつかって砕けた。
このまま体勢が崩れるのでは拙い。慌てて手を突きだし床に触れると、そこもまたぬるりとした赤いものが広がっていた。予期した分厚い絨毯ではない感触に、僅かに怯む。
思い当たるのは、ひとつしかない。
腕の中の夏梅を見ると、その顔は紙のように白く、流れる血は目がいたくなるほど鮮やかな色をしていた。
血の温かさを夏梅の体温だと思っていたのかもしれない。その顔は流れ出た血よりもずっと温度が残っていないようだった。
「夏梅、なつめ。聞こえるか?」
蒼褪めた瞼がふるりと動くと、中の暗い色合いの瞳がぼんやりと織田作を見返してきた。
生きている。まだ、生きている。
夏梅の方とひざ裏に腕を回して、夏梅のこめかみを抑える。
「おいさ、しゃん、ゆ……るよ」
口の中の血を吐き出しながら告げて、ぱたりと目を閉じた夏梅に動転して手が緩む。すると瞬く間に、顔の半分は溢れ出る流血によって真っ赤に染まった。
同時に、徐々に無視できない変化が腕の重みに掛かってくる。
脚を留めた。目の前が色で塗りつぶされていく。
壁が目の前に迫り、足で蹴って勢いを殺す。顔をあげると、そこには物が散乱し、テーブルの端が砕け、椅子はひっくり返っている。無残な有り様だ。そこに何の影も、何の気配もない。だが、それで善かった。
少し先の未来を“見た”織田作は、見えない攻撃を避けた。
攻撃を避け続ける中で、見えないそれがどのような凶器なのかを知るには十分すぎる。
――頭部に叩き落とされたのは鉄棒の鈍器のような、硬く重いものだった。
――
頭部に振り下ろされた攻撃、脇に入った攻撃、肩に掠めた攻撃……動いていれば攻撃などそうそう当たるものではない。
子どもの父親は、ガスが蔓延する車両の前で方向転換する。腕に抱えた小さな頭を、庇いながら低姿勢で、もと来た道を逆に疾走する。
腕の中での変化が、何よりも正常な神経を削いだ。