父に里帰りという内容を聞いて、真っ先に思い浮かんだのが、それこそ呼吸音と同じように意識せずに聞いていた波の音のことだった。以前、江戸川の仕事に同行していた時に聞いた海の音は、なんだか耳慣れず、ちょっとした騒音のようだ――と思い返せばそう感じられもしてくる。
ひとりの人が事故で亡くなった事件だった。遺体の部位がばらばらに海で見つかった。
誰かが海で泳いで遊んでいる。また一方で、死んでしまった人の体が沈んでいたり浮かんでいたりする。あの海とその海はつながっている。誰かが楽しんでいる海は、誰かが死んでしまっている海なのだ。
『早朝に起きてるなんて、偉いねえ』
飴玉を宙に放ったのを、ちゃっかりその口に収める。
放られた飴玉が虹色のきらめきが、江戸川の口に消えていくのを見追っていた夏梅は、不意の言葉にぱちぱちと瞬いた。
『でも――起きるのを努力しているのは君だけじゃあないようだよ』
糸目が片方だけ開かれて、夏梅を正面から見すえた。逆光の太陽が目にまぶしく、夏梅は反対に目を細めてそれを受けた。
『君は***が眠っているところを見たことはない、だろう?』
江戸川は、見てもいないのに確信のある口調をしていた。
加えてそれがその通りだったものだから、夏梅は目をぱちくりさせたのだ。
注意力が散漫な傾向のある夏梅だからか、父は夏梅の両手がふさがらないようにと背負いの鞄を選んで荷物を詰めてくれた。夏梅は身軽である一方、父は片手がふさがれようとも、すぐに物を取り出せるようにと、手に旅行鞄を下げていた。中には、夏梅の補助食料やら常備薬やらが入っている。
あわただしく探偵社から出てきたものの、駅までのバスは五分ほど前に出てしまっていた。割とさくさく仕事をこなす父は、すでに時刻表を確認している。
「まだ少し時間があるらしいな…………ああ、うん……そうだな……いや、まあ大丈夫だろう……それで」
時刻表の方を向いていたが、途中からうわごとのような言葉をつぶやいている。突っ立っている父の袖を引いた。
「おとうさん……?」
いつもと違い、反応がない。
再び、今度は強めに袖を引く。
「すわって待とうよ。おとうさん、荷物もってるし、つかれるよ」
父は夏梅へと視線を落として、やっと首を動かした。喉に巻きつけている赤い縄のような三つ編みの髪が暑苦しそうに見えた。
父はこちらを見ていて、しかし少したってから夏梅のことに気づいたといった顔になった。
疲れているのかなあと夏梅は力なく笑った。
働き過ぎなのかもしれない。心配だ。
「……ああ、夏梅。どうした?」
「つかれるから、すわってまとうよ」
無表情といわれることが多いけれども、夏梅には父が笑ったと判る。
「今日はよく歩いたから、疲れたな」
父は持っていた手荷物を地面に落とした。そう重たげではない音を立てて、落下。
ふたりして落ちた旅行鞄を見下ろした。
「…………」
夏梅は胡乱な目で父を見上げた。
父は自分のあげかけた手のひらに気づいて、不思議そうに首をかしげていた。たぶん、夏梅の頭をなでようとしたのだろうと思う。でも、その手で旅行鞄を持っていたのを忘れていたのかも、と拙いながら『推理』してみる
そんなことって、よくあることなのか夏梅にはわからなかったけれども。
少し離れたところから特有のエンジンの音が聞こえた。
夏梅はやってくるバスを認めて、それを知らせようと父のほうを見た。そして開きかけの口を閉ざした。
父は、目元を暗くして、いつの間にか取り出していた懐中時計へじっと目を落としていた。赤い髪が目に入りそうになっているのに、頓着せずじっとうつむく。目が向けられている時計の蓋の内側の部分には、黒いつややかな髪が一房、とめられていた。その髪に触れながら、目はぼうっと手元の時計すら通り越して何かを探すように虚空をさまよっていた。
夏梅は父が、その懐中時計を肌身離さず持っていることを知っている。
『人間は現実のことをどのくらい考えているか知っているかい?』
夏梅は、脳裏によみがえる言葉を思い出しながら、そうっと用心深く父の肩に手を置いた、
「――おとうさん」
懐中時計を胸ポケットから取り出して、眺めていた父が顔を上げた。
「……どうした?」
待合のベンチに座っている父の瞳の中をのぞき込むと、そこには夏梅がいた。
夏梅の目にも、父が入っているのかもしれない。
父は、ここにいる。けれども、半分くらいはここにいない。
『目の前のことを考えているのは、53%といわれている。残りの47%は、今ではないことを考えている。未来や、過去のことをね』
夏梅は今、意識の半分よりすこし少ないくらいは、江戸川の言葉を思い出しているのだろう。
「ええと……」
今、父の目の前には夏梅がいる。
けれども、半分よりすこし少ないぐらいは、母のことを考えているのだろうか。それとも、欠けた記憶のことを考え込んでいるのだろうか。
それで。それは、夏梅のことが半分くらいは大事じゃないということを意味しているのだろうか。
「……バス、来たよ」
父が顔を上げると、二つの瞳はその色を明るくする。紺碧の海の様相のようだという感想を抱いた。夏梅のものとは違う。こうして見てみると、容姿としては父とはあまり似ていないのだ、夏梅は。……昔の父を知っているらしい太宰も、云っていた、『きみはお母さん似だね』と。
「ああ、そうだな。……行こうか」
手に荷物を持って立ち上がった父は、手を差し伸べてくる。その手を見て、夏梅は安心した。
「空いているようだな」
「うん……」
父の横顔を見上げて、そこから目をそらした。バスの窓から、白いマスクをしている少女と女性が座っているのが見えた。少女の口元がマスクに隠れているものの、見える目もとが、隣り合って座っている女性とそっくりだった。たれ気味の眉など写し取ったかのよう。彼女らはきっと母子だ。
世の中には似ていない親子だっているだろうに、どうしていま目に入るのがよく似ている母子なのだろう。
疎らなバス内では、降車地の案内の声が流れているほかは静かだった。騒がしいのが苦手な夏梅は気を緩めた。
夏梅の目の前には、薄紫色のプラスチックの衝立があった。それはバス内の照明を反射し、バス内に乗り合せている面々を見ることができた。
揺れるバスのなかで読書をしている若い女の人、杖をついた年配の人、マスクをつけた少女の隣に座る母親らしき中年くらいの女の人、色つき眼鏡をつけて長い緑色のマフラーを巻いた男の人、貧乏ゆすりをする黒いニット帽をかぶる無精ひげの男の人、そして父と夏梅と運転手の人だ。
マスクをつけた少女と母らしき人たちは、少しして小児科の病院前のバス停で降りていった。
代わりに、花を抱えた細身の男の人が乗り込んできた。
乗り込んで生きた細身の男の人は、目を伏せ気味にして夏梅の傍を通り過ぎた。男の人は、手に花を持っていた。花の強い匂いが夏梅の鼻先をくすぐる。なんだかくしゃみが出そうだった。
その時、バスが止まった。
駅に着いたのだ。
あわただしく周りの乗客たちが立ち上がるなか、夏梅は、衝立に映る父が軽く立ち上がり荷物を持つのを見て、それに倣った。それでもほかの乗客たちが全員降りて行ってから、出ようと思っていたので、のんびりと背嚢リュックを負って、立ち上がった。
「お先にどうぞ」
さっきの乗ったばかりの男の人だった。一駅でわざわざバスに乗ったかと少し不思議に思った。彼は、ぼろぼろの指先を揃えて、道を譲ってくれた。怪我でもしたのだろうか。真新しい傷と古い傷が混在していた。粉をふいたように青ざめた指先は乾燥している。
もしかしたら、病院に行った帰りなのかもしれない。
母子が小児科の前で降りて行ったバス停で、この男の人は乗り込んできたのだから。
「どうしました?」
首をひねる男の人に、慌てて答える。
「あ、ううん。ありがとうございます」
行かないのだろうか、と父へと目を向けると、父はなぜか険しい顔をしてこの親切な男の人のほうを見ていた、「おとう――」
「おいっ 早くしろ! こっちは急いでんだぞ」
後ろから、バスのなかで貧乏ゆすりしていた黒いニット帽の男の人が、怒鳴ってきたので、その大声に驚いた夏梅は慌てて父の袖を引いてバスを降りた。夏梅の力はとても弱かったけれども、父はすぐに動いた。
バスを降りると、どこか土の匂いのする風が吹いてきた。
「――あ、おとうさん、かばんちゃんとある?」
返事がないので不思議に思い、首を捻って父の顔を見あげた。ちょうど、正午だった。だから、高く上った太陽を直視してしまって、夏梅は一度ぎゅっと目を閉じた。
何かどこか懐かしい臭いを嗅いだ気がした。すぐ脇を誰かが通る。
目を開けると、バスから降りた乗客たちが立ち止まる夏梅たちの脇を通って駅のなかへと向かうところだった。
そこでふと、黒髪の男の人に目が留まる。手に抱えていたはずの花束がなくなっていた。
「もうこんな時間か、行こうか。夏梅」
父が駅の時計を見上げて、そう云う。
せかす父の言葉に従って、足を速めた。